神話と現実
かつて、昼と夜とは一つだった。太陽と月が互いを相照らし、人々は穏やかに暮らしていた。星の輝く、黄昏の時代だ。
ある時、一人の人間の心に黒い蛇が生まれた。黒い蛇は次々に数多の人の心に巣喰いはじめ、次第に人は争うようになった。太陽と月は袂を分かち、昼と夜が生まれた。
争いは続き、世界は血と涙の海に飲まれていった。そこに一羽の鳥が現れた。
その鳥は人の姿を成し、翼を持ったその人は自らを"天使"と称した。
天使は人々に祝福を与えた。人々はその祝福により、偉大な塔を築き上げた。天使の施しにより、長き争いはようやく終わりを見た。
「……かいつまんで、読めるところだけ訳した」
シュラウルがふうと息をつき、グラスの酒をちびりと舐めた。ページは翼を持った人が人々に手を伸ばしているところで止まっている。これが話に上がった天使なのだろう。
「そんで、続きはどうなったんすか? まだ半分いってないすよね」
「こっからはさっぱり、わかんねー」
「結局天使はこの絵の翼の奴って事しか分からなかったな。そうだシュラウル、お前調べればいいじゃないか。好きだろ、本の山漁るの」
シグがシュラウルをつつく。いつの間にかシグの手元には酒のボトルがあった。少し酔っているようだ。
「げ。やだよ、面倒くさい」
「続きが気になるじゃねえか、お前しか出来ねえんだよ」
「えー。やだなあ。……金髪くん。これ貸すのやだよね」
「え、いや、僕は構わないです」
「だってよ、決まりだな」
「えー、めっちゃいやだ」
そういいつつもシュラウルは、古びた本を手に取り、くるくると眺めている。どうやら少し乗り気になったようだ。
「じゃあ、今いる天使ってこのお話に出てくるのと同じ人なのかな? 」
「いや、どうなんすかね。少なくとも天使長のクライスは翼なんてなかったっすけどね。」
「あの人か……」
レイは王の乗る車の後ろに控えていた青年の姿を思い出した。一見普通の人間と変わらないように見えたが……。
「ま、今いる天使が本物にしろ偽物にしろ、あいつらが祝福を与えて、"みんな"を"幸せ"にしたってのは事実でしょうよ」
後ろから声がした。いつの間にかサキが帰ってきていた。変に力のこもった声は、精一杯の皮肉のつもりだろうか。相変わらず、顔や声に出やすい人だ。
「あ、おかえり」
「次はレイの番よ。私は先に休んでるわ、明日は行くところがあるから」
「う、うん」
そう言ってサキはバーの奥の部屋に消えてしまった。ヴァンがそっとレイに耳打ちする。
「姉さんは天使嫌いなんすよ。国民に祝福をって謳ってるのに、ラタリアは見て見ぬ振りしてるから」
「そうなのか……そうだよね」
確かに、このラタリアの惨状は酷いものがある。国としてなんとかしようとは思わないのだろうか?疑念がグルグルと頭を巡る。
「ま、人間は見せしめが居たり自分より下が居るって分かる方が、何かとやりやすいんだろうさ」
レイの納得のいかない顔を見て、シグが言った。自分の事を言われた訳でもないのに、レイは食ってかかる。
「そんなの……そんなのおかしいですよ! 同じ人なんですよ? 人間に、上も下もないでしょう! 」
「だが現に格差は生まれている。金も、学も、力もない奴がここには沢山いる。差は偏見を生んで、偏見は更に差を生む」
「なんでそうなっちゃうんですか! アクシディアの人達がちょっとずつ助けてあげればいいじゃないですか! 」
「ちょ、レイくん落ち着いて…… 」
レイはいつの間にか立ち上がっていた。その剣幕たるや、戦場での修羅場をくぐり抜けて来たヴァンがうろたえる程であった。ステラが漏れ出し、カタカタと音を立ててグラスが揺れ、棚のボトルが落ちて砕けた。形の定まらない、未熟なステラだ。シュラウルは相変わらず、読めないとぼけた表情をしていた。
「だって、だってさ! 僕の村ではみんな仲良しだったんだ! 格差とか差別とか、こんなの良くないですよ! 」
「良い悪いは立場で変わる。盗みや殺しを働く奴が自分達と隔離される、それってアクシディアの奴にとっては良い事じゃねえか? 」
「でも……! それでもみんな仲が良い方が、絶対……! 」
「……優しいんだな」
フッと笑ったシグは立ち上がり、コートを羽織った。懐から葉巻を取り出し、指に挟んだまま踵を返す。
「おじちゃんはそろそろお仕事の時間だ。ま、お前の考えは嫌いじゃねえよ」
そう言ってシグは後ろ手を振り、長い階段に消えていった。レイはそれを、黙って見送るだけだった。
「レイ、あいつ……」
扉を隔てサキにもまた、この声は届いた。
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「や、やあ。改めてよろしく」
レイは、バーの奥にある別室のうちの一つに居た。大きなソファが、テーブルを挟んで二つ置いてある。入口の扉には不思議な飾りが付いていて、それにネロが触れるとガチャリと鍵が掛かった。
そして今、レイは情報屋ネロと向かい合っている。ウェーブのかかった髪から覗く目は、なかなか視線を合わせようとしない。
「えと、探し物だったっけ」
「うん、そうなんだ……」
レイは、今までに起こったことを話した。激情を爆発させた後という事もあり、要領を得ない部分も多々あったはずだが、そこは情報屋、どもりながらも的確な質問でレイから情報を引き出していった。
「なるほど、君のお守りをバンダナの男が拾ってくれたかもしれないと。それでその男達は王国出身かもしれないと聞いたから、ここまで来た。だ、だよね」
「うん、何か知らない? バンダナの人達の事」
ネロはくりっとした目をさらに泳がせて、手元の水を飲み込んだ。
「……確かに、バンダナを巻いた一団はこの王国内に存在する」
「本当⁉︎ じゃあ、場所は……」
「三日、三日欲しい。それまでに場所を特定するから。それに……いや、ほら、君はここに慣れていない。誰かが同行しないと……すぐには」
「分かった! ありがとう、とても大切なものなんだ。よろしくお願いします! 」
レイは深々と頭を下げた。
「それと……ネロは、差別とかって、どう思う? 」
「え……どうって……」
「……ううん、ごめん、なんでもない。おやすみなさい」
ネロは鍵を開けレイを出した。
「ふぅ……差別かぁ……」
ネロは眉間のシワを揉み、ため息をついた。もう一杯、コップの水を飲み込む。
「さておき、サキちゃんも相当面倒事に首を突っ込むけれど……彼もまた面倒な事になった」
ぐるりとソファから転げ落ち、部屋の奥にある机の棚をガタガタと漁る。
「バンダナでオレンジときたら彼らだろう……」
三つ目の棚を漁って、ようやくネロの手が止まった。手には一冊の名簿が握られている。
「夕暮商団、積荷の輸送業者か…。表向きは……」
ペラペラと名簿をめくり、書き殴られたメモとプロフィールらしきものを目で追うネロ。泳いでいた目は、今はしっかりと据わっていた。
「大した事ないはずだけど、あの噂だけが気になる……。も、もし彼に、何かあったら……」
机の上に名簿を放り、ネロは回転椅子に深く腰掛けた。
「調べておかなきゃ……」
そう言ってネロは、手をかざす。かざしたその手で顔を一撫ですると、彼の輪郭は陽炎のように揺らぎ、そして消えた。




