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 日に日に呼吸が浅くなっていくのを感じる。そのままだと頭がぼうとしてしまうから、私はもう手動呼吸器を手放せなくなってしまった。

 この手を動かすのを止めれば、私は旅立つのだろう。ホロホロが背後にいるのがわかる。生死の境界線がはっきり感じ取れる。

 私はとても落ち着いていた。ノートは白紙だったが、書くことは大体決まっている。私は安堵していた。もう少しで、ゆっくり眠れるのだ。


 そばにいさせてください、そう言ってくれたひなは、言葉通りずっとそばにいてくれた。さきほど、緊急召集がかかって出ていくまでは。

 程なくして、彼女は帰ってきた。生気のない顔をしている。なにか良くないことが起こったのだろう。

「どうしたんだ?」

 彼女は静かに椅子に座る。手元に目を落としていたので、私もそちらを見た。

 なにかを握りしめていた。見覚えのある色だった。三色の糸で編まれた、手作りの腕輪……。

 彼女は、笑った。久しぶりに見た笑顔だった。

「さっき、切れたんですよ。きっと、彼女の病気は治りますね」

 ついに、来たんだな、と思った。あの子にも、ホロホロが……。

「さっきの召集は、彼女……?」

「今、集中治療室にいます」

 私はほっとした。まだ亡くなったわけではないのか。しかし、ひなの様子から察するに、状況は絶望的なんだろう。

「切れたのか」

「はい」

 私は、紐を受け取った。結び目のそば、一番細いところがぷつりと千切れていた。自然に切れたのか、人為的に切れたのかは知らないが、とにかく切れたのだ。

 私はしばらくそれを眺めていた。

 そして、私がすべきことを悟った。

「ひな。先生を……呼んできてくれないか」


 ひなに連れられて、医師がやってきた。穏やかな顔立ちの、初老の医師だった。私のわがままを叶えつつ、ここまで生かしてくれた、とても腕の良い医師だ。

「先生、私のお願いを、聞いてくれますか」

 なんでしょう、と、優しい表情で覗きこんでくる医師に、私は告げた。

「私は、もうすぐ呼吸が止まるでしょう。先生たちはきっと適切に対処してくださり、私は自動呼吸器で生き長らえるでしょう」

 険しい表情に変わるふたりに構わず、私は続ける。

「しかし、私の意識は戻らないでしょう。なぜなら、そのとき私はすでにこの世を旅立っているのです」

 なにか言おうとする医師を制止する。彼は素直に黙してくれた。

「そうなったときは……あの子に、私の心臓をあげてくれませんか」

 ひ、と短い悲鳴が聞こえた。ひなだろう。対して医師は、落ち着いた声で言った。

「移植ということですか」

「はい。私の臓器は、肺以外健康です。私は小柄だし、心臓はおそらく彼女の体にも入るでしょう」

 移植という技術は、現在研究段階だった。入院したとき私自身も、肺移植というものを受ければ助かるかもしれない、と言われていたのでその存在を知っていた。

「移植は、成功例がない。それはご存じですね?」

「はい、ですが、うまくいきますよ」

 何故だか確信があったのでそう言った。医師は怪訝そうに眉をひそめた。

「もちろん、他に治療法があるなら、無理にとは言いません」

 医師は顎に手をやり、考え込むようなそぶりを見せた。その後、静かに言った。

「考えておきます。が、最終的に私の判断で対処させてもらいます」

「それで結構です。よろしくお願いします」

 私は、とても穏やかに笑っていたと思う。

 私は、満ち足りていた。


 待たせてすまなかった、ホロホロ。

 さあ、私のもとに、おいで……。


       


 その晩のことでした。いつものように、わたしは先生のお側で手動呼吸器を作動させていました。先生がゆっくり眠れるように。

 先生はとても穏やかな顔で眠られていたのですが、わたしはなにか胸騒ぎを覚えました。

 わずかな胸の上下、それで呼吸を確認していたのですが、それがありませんでした。先生、と呼んでも反応がありません。わたしは急いで医師を呼びました。

 先生は自動呼吸器に入れられ、辛うじて一命をとりとめることはできました。しかし、先生の意識は戻らなかったのです。

 呼吸が止まった時間が長すぎた、と医師は言いました。もう脳機能が戻ることはないだろう、と。

 先生が言った通りになったのです。


 三日経ったところで、医師が移植を決意しました。呼吸レベルが落ち、自動でも数日持たないと判断されたのと、移植先の女児も限界に近付いていたためでした。わたしは手術メンバーから外されたので、経過を見守ることしかできませんでした。


 手術は成功しました。心臓は女児に不思議とフィットし、彼女の中で鼓動を始めました。移植成功を聞き付けた他の医師が、こぞって先生の臓器を欲しがりました。腎臓、肝臓、膵臓、胃、皮膚など合計九つの部位が九人の患者に移植されました。手術はみんな成功しました。それは奇跡としか言いようがありませんでした。

 不思議なことに、先生の一部を受け取った十人の患者さんたちは、揃って四年間を健康に過ごされました。それは、先生が健康だったら得られていただろう寿命……四十年(当時の平均寿命は六十年でした)を仲良くわけあったようでした。


 わたしが先生と再びお会いできたのは、すべての手術が終わったあとでした。

 手術台に横たわる先生の中身は空っぽでした。まるで魔物にむさぼり食われたようなご遺体だなと思いました。先生は病院敷地内の墓地に埋葬されることになりました。患者さんたちの希望から、立派なお墓が建てられましたが、きっと先生は望んでおられないだろうなと思いました。


 遺品整理はわたしに任されました。先生には身内がおられなかったからです。先生のお部屋には何もありませんでしたから、やることはほとんどありません。数枚の衣服、手紙とメッセージカード、そして一冊のノートだけが遺されていました。

 ノートはほとんど切り取られており、先生の作品は残っていませんでした。ただ一ページを除いて。

 一ページには、短いお話が遺されていました。おそらく、先生が最期に書かれたお話です。


 わたしは、このお話を絵本にして、病院に寄贈しました。

 先生のような人生の終点に立たされた患者さんに、少しでも安らかな時間を与えられることを祈って。



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