転
「先生」
ある朝、息を切らしたひなが部屋に駆け込んできた。泣き腫らした目をしている。
「なにかあったのか」
「……二〇八号室の……」
わっと泣き出す彼女。
断片的に語られるひなの話によると、となりの部屋の男の子が急死したらしい。私は驚いた。その子はよく私の話を聞きに来てくれていた子だ。手術が成功し、経過も良好と噂されていて、退院できるとしたら一番はその子だろうなと思っていた。
「どうして……どうして……」
ベッドにすがって泣き崩れる彼女を宥めながら、私は考えていた。
『ホロホロはぼくのところにもくるかなあ』あの子が私に最後にした質問だ。私は、ホロホロは悪い子のところにしかこないんだよ、と答えた。
あの子はいい子にしていた。親の言うことも医者の言うこともよく聞く、いい子だった。ホロホロは私のもとに先に来なければならなかったのに。
ホロホロは無慈悲だ。私は思った。
ホロホロが訪れるのはいつも唐突だ。きっかけなんてない。ましてや、人を選ぶことなど。
「どうして……」
繰り返されるその問いに、私は答えることができなかった。
それから数日ほど経ったある日。遠慮がちにドアがノックされる音が聞こえた。
「どうぞ」
そう応えると、ゆっくりドアが開かれひとりの女性が顔を覗かせた。見知らぬ顔だった。
「どちら様ですか」
来訪者は慌ただしくドアを閉めると、ぺこりと頭を下げた。
「あ、あの、わたくし、となりの部屋のものです」
「となり……?」
「二〇八号室です」
ああ、と私は納得した。
「今日から、息子がお世話になることになりました。どうぞよろしくおねがいします」
また、ぺこりと頭を下げる。
早いな、もう新しい患者が入ったのか。
なんでも、前の子と同い年くらいの男の子らしい。難しい病気らしく、ずっとこの病院が空くのを待っていたそうだ。
「この病気の権威の先生がいらっしゃるんです。ここじゃないともう治る見込みがない、と前の病院で言われて……」
私が思っている以上に、この病院は信頼を寄せられているようだ。母親は、この病院にいかに入りたかったかを熱心に語ると、最後にこう言った。
「あと一月遅かったらどうなっていたことか……息子は本当に幸福です!」
ひなが入室したのをきっかけに、母親は退出していった。
『息子は本当に幸福です』
最後の言葉が頭の中で反響していた。
同時に、私の話を聞いて嬉しそうに笑っていたあの男の子の顔が浮かぶ。
そしてその時、まだ見ぬ隣の男の子は病に苦しんでいたのだろう。あの母親も苦しんでいたのだろう。
私がこの病院に入れたのは偶然だ。たまたま、私の病気を研究したい医師がいて、たまたまその医師と私の主治医が知り合いで、たまたまベッドに空きができたのだ。
たまたま入り込んだ私のせいで、今、苦しんでいる人が、どこかにいる……?
「先生?」
はっ、と顔をあげる。ひなが心配そうに覗きこんでいた。
「どうしました?」
掌が湿っている。私は脂汗をかいていた。無数の文字が羅列するノートに目を落として、私は呟いた。
「私が死んだら、次の患者さんは幸福になれるのかな」
ガシャン
「な、なに……なにを言っているんですか」
落とした食器を拾おうともせず、ひなは恐怖の形相で私を見ていた。
私の中で、何かが形付くのがわかった。今までぼんやりとしていた、何かが。
「冗談だよ」
あはは、と笑って見せると、ひなはようやく割れた食器を拾いはじめる。
「変なこと言わないでください」
その声は震えていたが強い語調で、非難されているように感じた。
ごめんね、もう言わないよ、などと適当なことを言いつつ、私の頭はひとつのことで満たされていた。
書かなければ。
私の目の前から、周りの景色が消えた。
それから、私は頻繁に長い発作を繰り返すようになった。辛うじて息が続く日は一睡もせずに文字を書いていた。
しかし、私はそれらを破り捨てていた。違う、私が書きたいのはこれじゃない……。
這い寄る恐怖を形にし、それを認めたくなくて破棄する……そういう行動だったのだろうか。
私の姿は狂気に映ったのだろう、ひなや医師の目がだんだん険しくなっていくのを感じていた。だが、そんなことはどうでもよかった。
幾度かの発作を越えて、私は比較的落ち着いていた。この頃は毎晩、交代で誰かが側にいた。
今晩の担当はひなだった。彼女は、私に引きずられるように日に日にやつれていた。病人のような顔をして、彼女はぼんやり私を見ていた。
「……先生」
か細い声が聞こえた。構わずペンを進め続ける私の耳に、さらなる声が届く。
「先生……呼吸器、入りませんか……?」
私は無言で応えた。なにを今さら、わかりきった問いをするのか。他の看護師ならともかく、ひなに言われるとは。私は少し彼女に失望した。
「先生、先生が呼吸器に入りたがらないのはわかります。あれに一旦入れてしまうとわたしたちは出すのを拒むでしょう、けど」
何がわかっているというのか。私は無感情にそう思いながら書き続ける。
「手動は不確実なんです。今までは大丈夫でしたけど、これからどうなるかわからない……。自動なら、あと数ヵ月は大丈夫なんです。その間に、きっとうちの先生たちが……」
私は手を止めて、ノートを破いた。誰にも読めないよう細かくちぎってゴミ箱に捨てる。
ひなは、はらりと涙を流した。私が聞く耳を持たないのを悟ったのだろう。
鼻をすする音だけが部屋に響く。
そのまま、長い時間が流れた気がする。私が少し眠気に誘われたとき、声が聞こえた。
「先生、わたし……先生が好きなんです……。わたし、先生がいなくなるのは、嫌なんです……」
私はぎょっとしてひなを見た。彼女は俯いたまま、たどたどしく言葉を続ける。
「わたし、どこへいくのでも、先生と一緒に来れたら、て思います。なにを食べるでも、先生にも食べさせてあげたい、て思います。わたしは、先生と一緒に歩きたい……」
それは、少し前の私が聞いたら、素直に喜んでいただろう言葉だった。
「きっと、わたしが病気を治してみせます。だから、わたしに時間をください……」
だけど、今の私には。
「すまない。時間だけは……あげることはできないんだ」
彼女はそれを聞くと、涙を溢れさせた。溢れるままに溢れさせて、私を見つめて言った。
「…ごめんなさい……なら、せめて、そばに、いさせてください……」
私はそれには応えず、再びペンを走らせた。
もうすぐ脱落する歯車に、どうして噛み込もうとするのか。ひとつが交われば、その周りにも影響し、世界という機械は働きを阻害されるだろう。
残された歯車たちが、何事もなく動き続ける。私はそれを望んでいる……。