起
目が覚めると、そこは、不思議の国だった。
赤い蝶が飛び交い、渦を巻いた草がそこらじゅうに生えている。
ぼくはぐにゃりぐにゃりと動く地面をよろよろと進んだ。
紫の星が張り付いた空を眺めながら歩いていると、一本の木に出会った。彼は、しくしく泣いていた。
どうして泣いているの、と訊ねたら、彼はこう答えた。
ホロホロがお日さまを食べてしまったんだ。ぼくは、どっちに向かって枝を伸ばしたらいいかわからない。
……
薄水色のカーテンがふわりと揺れる。注ぎ込んできた日の光が白い室内を満たす。私は走らせていたペンを休め、目を細めた。
窓に伸ばす私の手を、細い手が遮る。
「閉めますよ、先生」
「ありがとう」
太陽を背にして鮮やかに色づくカーテンの前に、若い看護師が立っていた。
彼女は、私の手元を見てくすりと笑った。
「また、お話を書いてらっしゃったのですか」
「……私には、これしか取り柄がないからね」
私もゆるく笑って返す。彼女は、少し困ったような顔をした。
「好きなのはわかりますけど、ご無理はなさらないようにね」
「うん、気を付けるよ」
朝早くから書いていたのがばれてしまったのだろうか。私はノートをゆっくり閉じた。今日はとても早くに目が覚めてしまったから、たくさんペンが進んでしまった。
「後で、聞かせてくださいね」
体温計を手渡しながら、彼女はそう言ってくれた。私は、完成したらね、と答えて受け取った。
彼女は私の担当の看護師、名前はひなと言った。私が入院した当初からずっと私を看てくれている。
先生、と言うのは、彼女が私に付けたあだ名だった。私が病気を患う前に、小学校の教師をしていたことからだった。医者の先生と紛らわしいからやめてくれ、と言ったのだが、いいじゃないですか、と呼び続け、今ではすっかり定着してしまった。
彼女は、てきぱきと簡単な検査を終えたあと、柔らかい笑顔を残して去っていった。
私は再びノートを開く。早く仕上げてしまわなければな、と思った。
……
目の前に、大きな怪物が寝そべっていた。ごろりと寝返りをうったその怪物の、恐ろしい顔を見てしまう。ぼくは竦み上がった。すると、その怪物はむくむくと膨れ上がった。
地面から声がした。
「恐れないで! ホロホロはきみの怖いと思う気持ちを食べてさらに大きくなってしまうよ」
声の主は怪物の足元に生えていた小さな花だった。ぼくは、押し潰されそうな花を守るために叫んだ。
「化け物め、ぼくはちっとも怖くないぞ!」
すると、不思議なことに、怪物の体は縮んだ気がした。ぼくは勇気の剣を握りしめてホロホロの足元に駆け出した……
ぼくはもう泣き虫の子供じゃなかった。剣を突き立てたホロホロの体から、光が溢れてきた。お日さまだ。光に満たされる世界。喜びと感謝の声が膨れ上がるなかで、ぼくは懐かしい声を聞いた。お母さんの声だ!
……
「気がつくと、お母さんの顔が目の前にあった。お母さんは泣きながらぼくに抱きついてきた。ぼくは手術のあと、ずっと意識が戻らなかったらしい。ぼくはこの日から、嘘のように元気になった。ぼくはお母さんに夢の話をした。お母さんは、ホロホロと一緒に病気もやっつけちゃったのね、と笑った」
私は、ノートをゆっくり閉じた。そして食い入るように見つめてくる子供達に向けて言った。
「これで終わりだよ。聞いてくれてありがとう」
拍手が巻き起こる。私を囲む十人の子供達は、みんな笑顔だった。それに付き添う保護者や、看護師たちもみんな。
「男の子は退院したの?」
「うん、そうだよ」
「不思議の国にはもう行けないの?」
「不思議の国は平和になったから、もう勇者は必要ないんだよ」
「えーつまんないー!」
「男の子は外の世界でたくさん遊ぶから、いいんだよ」
「そっかー」
お話の後の質問攻めは恒例行事だった。私はこの時間が一番好きだった。みんなちゃんと聞いてくれてたんだな、と感動する。
「みんな、先生はお薬の時間だから、そろそろ部屋に戻りましょうね」
私のベッドにすがり付く子供達を、看護師が制止する。えー、と不満の声を上げるが、子供達は大人しく従う。
先生、また来るね。また明日ね。と、ぱらぱらと帰路につく彼らに、私は手を振って応えた。
静かになった室内には、私と、ひなだけが残された。
「今日のお話も素敵でした」
ベッドのシーツを直しながら、ひなが笑いかけてくる。
「先生のお話は、いつもホロホロが悪者なんですね」
「そうだね」
あはは、と照れ笑いを向けた。
確かに、この病院に来てから書いた話は、ほとんどがホロホロを題材にしていた。別に、こだわりがあるわけではない。単に、扱いやすいのだ。
ホロホロは、神話上の生物だ。二つの顔と四本の足を持ち、鋭い眼光を放つクラゲのような魔物として伝えられているが、姿は描き手により様々だ。死やその他負の事象を司る神として、ある人には恐れられ、ごく一部の人には崇められている、そんな存在だ。
「先生のホロホロは、病気を象徴しているんですか?」
思わぬ質問に、えっ、と声が漏れる。
「勇気を振り絞って、病気を退治するお話なんですよね。強い意思があれば元気になれる、退院できる……あの子達もきっと勇気付けられたと思います」
「そうだと嬉しいね」
私はまた照れ笑いで返した。確かにそういうつもりで書いてはいるが、それを指摘されると少し恥ずかしい。
彼女は、私の話をよく理解してくれた。私が伝えたいと思った部分を上手に汲み取ってくれた。そんな読者がいると創作意欲を刺激される。私は彼女に読んでもらうために、ますます創作に没頭した。
病院の子供達にお話ししてくれませんか、と提案してくれたのも彼女だった。もともと教え子に、自作の紙芝居を見せてやっていたので抵抗はなかった。娯楽の少ない病院内ではたちまち私の話は人気になり、私の部屋には毎日のように子供達が群がるようになった。
突然息苦しくなって、私は胸を押さえる。
「だ、大丈夫ですか?!」
浅い息を繰り返し、私は徐々に呼吸を整える。手動呼吸器を手にした彼女を制止した。
「大丈夫、もう、治まったよ……」
「すみません、無理をさせてしまって……」
無理、というのは、子供達への読み聞かせのことだろう。私はゆるくかぶりを振る。
「私が好きでやっているんだ、頼むから、やめろなんて言わないでくれよ?」
彼女は悲しそうな顔でいくつか薬を差し出してきた。私はそれを受け取り、順番に飲み下す。
「それを飲んだら、今日はゆっくりお休みください」
私は無言で頷いた。効果がないと知っていても、薬というのは心を落ち着けてくれる。
「また発作が現れたら、すぐに呼んでくださいね」
枕元に緊急ブザーのスイッチを置いて、彼女は部屋を後にした。だれもいなくなった室内で、私は静かに目を閉じる。
私は重い肺病だった。肺を動かす筋肉が徐々に硬化していく奇病だ。やがて自発呼吸ができなくなり、死に至る。原因は不明。治療法も不明。
この病気を患った者の末路を私は知っていた。「自動呼吸器」と呼ばれる棺桶のような鉄の箱、それに頭だけ出して入れられるのだ。そして、そのまま力尽きるまで生かされる。
子供達は知らないと思うが、私は知っていた。この病院が原因不明の奇病ばかり扱う終身病院だということを。
そんな子供達に、病気に打ち勝つ話など、残酷かもしれないと思うこともあるが。私とて、現実を受け止められるわけではない。希望を捨てたわけではないのだ。
実のところ私の話は、子供たちのためではなく、私のために書いているのだろう。いつか、病気は治るのだと。もとの生活が、お日さまが戻ってくるのだと。
「先生、教え子さんからお花が届きましたよ」
ひなが小さなバスケットを手にしてやってきた。
私の入院は一年に及んでいたが、未だにこうやって外部から贈り物が届く。私は孤児で独り身だったから、大抵は教え子か同僚からなのだが。
「ここに飾っておきますね」
殺風景な私の部屋に彩りが生まれる。ひなが一枚のカードを持ってくる。
「直接渡したい、と残念がっていましたよ」
「そっか」
私は一言応えてカードを受け取った。
カードには丁寧な文字で、せんせい、はやくげんきになってね、と書かれていた。
ここは特殊な病院だから、家族以外の見舞いは断られている。寂しくもあったが、私はそのほうがいいと思っている。すっかりやつれてしまった私の姿は見せたくない。
「私もはやく会いたいよ、と伝えておいてくれるか」
「わかりました」
ひなは嬉しそうに応えた。
ひなが姿を消してから、私はため息をついた。窓際に置かれた花をみやる。私の気分を盛り立てようと、懸命に咲いているように見えた。
私はカードを引き出しに仕舞った。引き出しには今まで来たカードや手紙で溢れていた。私はそれらを読み返すことはなかったが、捨てることもできなかった。
「返事を、書かないとね……」
私はそうひとりごちてペンを手に取った。
きれいなお花をありがとう。みんなは元気ですか、授業でわからないところはありませんか……。
私は無表情でペンを進めた。
プレゼントも手紙も、嬉しくないわけではない。
ただ、なにか申し訳ないのだ。
私はもう、社会から切り離された人間だ。二度と会うことはできない、なにもしてあげることはできない。そんな私に関わることに、何の意味があるのだろう。
私なんかのために、切り取られた花を憐れに思う。花たちは生から切り離された半死体だ。朽ちていくのが決定付けられている。私と一緒だな、と思った。
書き上がった手紙を封筒に入れる。この無機質な手紙でも、送り主が満足してくれればそれでいい。摘まれた花たちも少しは報われるだろう。
午後になって、また子供たちがやってきた。
新しいお話はなかったから、昔書いた話から、人気が高かったものを選んで読んだ。いつも通り、悪いホロホロを平凡な少年が退治する話だ。子供たちは初めて聞いた時と同じように喜んで聞いてくれた。
話が終わって、子供たちは遊びはじめた。おしゃべりだったり、絵を描きあったり、私のベッドに登ってきたり、様々なのだが、そんな中、ひとりの女の子が言った。
「せんせー、かわいいお花! どうしたの?」
その声で、ほかの子供たちも花に視線を向ける。ほんとだ、かわいい、きれい、と騒ぎ始める。
みんな、キラキラした瞳に花を映していた。私はくすりと笑って言った。
「きれいだろう。みんなにあげようと思っていたんだ」
えっ、と驚きの声から、期待の声に変わる。
「もらっていいの?」
「うん。好きなのを持っていって」
わあい、と歓声が沸き起こる。バスケットはみるみるうちに色が抜き取られ、最後にはバスケットまで姿を消した。
「こぉら! みんな、騒いじゃだめでしょ!」
ひなが病室に駆け込んできたのをきっかけに、子供たちは叫びながら方々に散っていった。 花瓶に挿すために部屋に戻るのだろう。
「全くもう……」
ため息をついて見送ったひなは、にこにこする私に気が付いた。そして、その原因に気付く。
「また、あげちゃったんですか」
「うん。私のところにあるよりいいだろう?」
私の部屋はまた、なにもない部屋に戻っていた。ひなは寂しげに辺りを見回して、呟いた。
「せっかく、生徒さんがくださったのに……」
「うん、だからね、お礼の手紙を書いたんだ。出しておいてくれるかい?」
ひなは呆れたように私を見ると、無言で手紙を受け取った。いつものことだったから、もう説得は諦めているんだろう。
「ありがとう」
そう言うと、彼女は困ったように笑った。私は彼女を困らせてばかりだ。本当に申し訳ない。
その夜、激しい発作が現れた。今までで一番長く苦しい発作だった。私は無我夢中で手動呼吸器を作動させていたから、逆に過呼吸を引き起こしてしまった。あわてて駆けつけたひなに呼吸器を取り上げられ、なんとか落ち着いた。
「先生、そろそろ、自動呼吸器に……」
そんな声が聞こえた。私はひなの腕をつかんで、首を横に振った。必死で振った。
「先生……でも……」
お願いだ。あれにいれないでくれ。私は目で訴えた。
あの棺桶に生きながら入った患者は、かなりの確率でそのまま亡くなっていた。
長い間、機械的に呼吸をさせられ、なにもできずに生きる。
物語を書けないで生き続ける私に、なんの価値があるというのか。私には、死ぬことよりその方が恐ろしく感じた。




