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――3ヶ月前。
「副署長は今から来る……その本部の方をご存知なんですか?」
制服の上でも分かるくらい筋骨隆々な体を小さく縮こまらせながら警察署内のゴミ拾いに勤しむ副署長に聞いた。
「がっはっは、知っているも何も奴は昔の後輩だからなぁ」
「えっ?でも今から来る本部の方でお偉いさんということは……きっとキャリアなんですよね?」
「そうだぞ。まぁ色々あるからなぁ」
がっはっは、と笑いながら小さなホコリの塊を右手で摘んで、左手に持つビニール袋に入れていく。私も同じように目につくゴミを副署長の持つビニール袋に入れていく。その後ろでは小太りした署長が、あからさまに苛つきながら若手の警察官に細かく掃除の指示をしている。
約2時間程前の話。
事の始まりは警察署の2階、警務課にある副署長の卓上に掛かってきた一本の電話だった。
「おう、久しぶりだな、どうした急に。何、近くにいるのか?がっはっは、いいぞいいぞ、大したもてなしは出来ないが茶くらいは出す……ん?あぁ、あぁ、いるぞ、おう、大体2時間後だな、わかった、気を付けてな」
私がちょうど書類に判子をもらうために副署長のところへ訪れていたタイミングでのやりとりだった。電話を切ったあともニヤニヤとしてどことなく楽しそうな様子で
「決裁か、悪いがちょっと待っててくれ」
判子を待つ私にそう言って立ち上がると、隣にある署長室に入っていった。すると間もなくして、青ざめた表情の署長が加齢臭を漂わせながら署長室から出てきて
「いっ、急いで掃除をしろっ!今署内にいる者全員でだ!みんな、各課に連絡してくれ!」
そう警務課員に命じた。署長が出てきた後で副署長が署長室から入った時と同じようにニヤニヤしながら出てきて、自分の席に座ると、署長の様子をポカンと見ていた私に声を掛けた。
「結城、決裁だろ。悪いな、待たせて」
「あ、いえ、こちらこそお忙しいところすいませんでした」
「おっ、さっき報告のあった件だな。よく容疑者を断定したな、よくやった」
「いやいや私は何もしていませんよ、他の皆様のおかげです」
「そう謙遜するな。評判は聞いてるからな、引き続き捜査を頑張ってくれよ」
「はい、わかりました。ところで……」
「ん?」
「署長のあの様子と電話は何かご関係が?」
私がそう聞くと、副署長はまたニヤリとして
「よし、俺達も掃除をするとしよう。結城、その書類を刑事課に置いたら課長に一言言って俺の所に来い」
「は、はぁ」
副署長から命じられた通りに書類を刑事課に置きに行くと、既に残っていた刑事課員も室内の清掃に勤しんでいた。書類を課長に渡しに行くと、私も課内の清掃を頼まれたが副署長から呼ばれている旨を説明すると、怪訝そうな顔をしながらも了承してくれた。
そうして再び警務課の副署長のところに向かうと、警務課は電話番の一人と副署長を残して既にもぬけの殻になっていた。そこを訪れた私を副署長が見つけると
「おっ、来たな。んじゃ俺達は小さなゴミ拾いをしていこうか」
がっはっは、と笑いながらビニール袋を片手に警務課を後にした。
既に1階では青ざめた署長の指揮のもとで清掃が始まっており、交通課の窓口以外の警察官は清掃に勤しむという、一般的には見れない光景が広がっていた。
時刻は午後2時を過ぎて、偶然にも一般の来訪者も少なく、署長は一般人の目につかない程度に清掃の指示を出している。
その後ろで副署長と私は、箒や掃除機では取れなそうな隙間のゴミをちまちまと拾い始める。
「副署長、そろそろ私にも教えて下さい」
「ん?刑事課長から聞かなかったのか?」
「聞くも何もすぐに副署長のところに向かいましたので……」
「そうか。いや、署長はあんな感じだがな、そんな大それたことでもないんだけどな……本部からお偉いさんが来るんだよ。と言っても俺が呼んだようなもんだけどな、がはは」
そうしてやりとりは冒頭へと戻る。
副署長は、以前は部下だったという『本部のお偉いさん』の来訪に、喜々としてるように見えるが、後ろで清掃の指揮をとっている署長は心穏やかではない様子が見て取れた。
「副署長!……と、結城係長!ゴミ拾いなんか私がしますのでお二人はゆっくりしていてくださいよ!」
と、さすがに隅っこで縮こまる巨体に気付いた若い巡査が声を掛けてきた。どうやら副署長にすっぽり隠れていたらしい私には気付くのが遅れたらしい彼は、副署長の横にしゃがみゴミ拾いを始める。
「おっ、いいぞ、ここは俺たちがやるから。えー……と、佐伯はそうだな、こっちよりも相談室を箒がけしてくれ。あ、あと雑巾もな」
立ち上がって周囲の様子を確認した副署長は、相談室を指さして佐伯といった巡査に指示を出す。出された指示に素直に返事をし、嬉しそうな様子でこの場を去っていった。
都内某区の一角を担うこの警察署は全署員が約350名と、都内においては大規模警察署と言える。その警察署のナンバー2の人間が、現在私と一緒に隅っこに縮こまりながらゴミ拾いをし、あまつさえ鼻歌まで歌い始めたその姿は威厳を感じさせる要素が全く無い――が、副署長は、この警察署の影の署長、実質的№1と言われている。
それが何故かと問われれば、№1である署長があの様子である、というだけで伝わるものが少しあるかもしれないが……それが無くてもきっと副署長は影の№1と言われるような人材なのだ。
特筆すべき状況把握能力と的確に出される指示。
警察組織の幹部として求められる能力がしっかり備わっていると周りからの評価も高い。
実際に私がこの警察署に赴任が決まった時、お世話になっていた教官からは『副署長から全てを盗んでこい。そうすれば君はきっと大成する』と言われた。それ程の人物なのである。隣でちまちまゴミを拾っているが……。
だが逆に言えば、この副署長という立場でありながら驕らないその姿がまた好感を呼ぶ。
下の仕事であろうと、必要があれば率先してこなす、が、だからといって組織的な立場を忘れることも無く、幹部として締めるところはきっちり締める。
さらに言えば、署員全員の名前を覚え、勤務状況なども気にかける。実際に先ほど私達に声を掛けてくれた佐伯という巡査はこの前警察学校を卒業してきたばかりの新人である。
そういった事情が積み重なり、実質的№1と揶揄される副署長が、会うことを楽しみにしているであろう本部のお偉いさんというのが余計に気になった。
「副署長……その、本部から来る方というのはどういう方なんですか?」
「ん~?そうだな……まぁ結城になら言ってもいいか」
「と、言いますと?」
「今から来る奴はな……九十九っていうやつで、今は何だったかな、本部のどっかで課長やってる奴なんだけどな」
「本部で課長ということは……警視正、ですよね?」
「そうだな。階級は俺より1つ上で、署長と同じになるな」
ということは、少なくとも署長は別に焦る必要が無いように思える。署長と同じ階級の者が来るとなれば、確かに最低限の清掃をするというのはマナーではあるが――今の署長の様子を見る限り、明らかに階級以上の何かを気にしているように見える。
その署長は相変わらずの加齢臭を漂わせながら、1階での指示を終えたのか、今度はエレベーターに乗り上へと上がっていった。階数表示が3で止まったため、どうやら3階で降りたらしい。
「署長は……同じ階級の方が来るのにどうしてあんなに焦っているんですかね」
「そこは色々あるんだろうよ、きっと」
その口ぶりは何かを知っているのか、もしくは署長に何かを吹き込んだのか……どっちにしろ、先ほどエレベーターに乗り込んだ署長の背中を見ていたが、その背中は焦りを通り越してどこか気疲れのような疲労感に包まれているような気がした。副署長はその様子を見てニヤニヤ笑っていた……。
「どれ、俺達も上がるか」
そう言って立ち上がり歩き始めた副署長は、エレベーターを通り過ぎ階段の方へ向かっていく。ずっとしゃがんでいたので足が少し痺れた。痺れた足に鞭打ち、副署長から少し遅れてついて行こうとすると、
「お、悪い悪い」
「す、すいません」
「ついでにちょっと待っててくれ」
私が足を痺れさせたのに気付き戻って来てくれた。と、思ったらそのまま1階の交通課の方へ向かっていった。窓口から交通課内を清掃していた中年の部長を手招きして、ポケットから出した財布からお金を取り出して部長へと渡した。部長は遠慮がちだったが、副署長の押しに負けたのか、最終的にはそのお金を受け取り、清掃に勤しむ課員達に何か言うと、課員達が一礼した。シーッと人差し指を口にやり交通課を後にして私の所に戻ってきた。
「結城は後でな」
「あ……ありがとうございます」
多分、署長の指示のせいでとばっちりを食らった署員を労うためにジュース代を渡したのだ。署長の前だと署長の立つ瀬が無くなるので、いなくなったのを見計らったというのもあるだろう。この気遣いや気前の良さも人気の1つかもしれない。
「副署長……その調子で各課にご馳走してたらお金なくなっちゃいますよ?」
「なぁに、それくらいもらってるからいいんだよ。それに下の人達が頑張ってるから俺も給料もらえてる訳だしな。足、もう大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
「じゃ、上に行くか」
副署長は、多分私を気遣いながらゆっくりと階段を登っていく。
副署長は健康のためにエレベーターを使わないようにしているということは有名な話で、警察署のエレベーターと階段には『健康促進!階段を使って運動不足解消!』という張り紙が副署長の意向で貼られている。
ゆっくりと階段を登ってくれるのはいいが、そしたらエレベーター使わせて、と内心思ったのは秘密だ。
踊り場に差し掛かったところで、副署長は立ち止まり、私のことを見下ろすと、
「そういえばさっき九十九がどういう奴か聞いたな」
「は、はい……」
と、唐突に話し始めた。それをあらためて私に聞いてきた意味がわからないまま返事をする。副署長は今までとは違った微笑みで私を見据えながら言った。
「九十九はな……元部下で、後輩で、今は上司なわけだが……」
「はぁ……」
「俺がこの組織において信頼して、かつ尊敬している人間の一人だ」
副署長はそれを言い切ると、微笑みながら再び階段を登り始めた。
「副署長、それは……」
「まぁそれは一緒に仕事をすればわかるぞ、多分」
「た、多分……?」
「そう、多分、だ。簡単に言えば俺にとってそう思う人物が、必ずしも結城と同じとは限らない、ってだけだ」
「あぁ、なるほど……」
最後は少し屁理屈っぽくまとめられたような気がしたが……。
いずれにしろ、副署長にそこまで言わしめる人物が、今からこの署に現れる――。副署長の言葉を聞いてから少し緊張を帯びてきた。
というか今更なのだが、相手は警視正。ここの職場は署長があんな感じだし、副署長は人当たりがよく、そして良い意味で当たり障りがない。副署長のお陰で、署内はこれといった大きな人間関係の問題も見当たらないため、最低限の上下関係は守りつつ、比較的良好な職場環境が整っている。つまり緊張するほどの人物があまり居ないのである。まぁそうでなければきっと新人が副署長に容易く話しかけられるものではない……はずである、人にもよるだろうが。
2階には刑事課と警務課があるが、覗いてみるとすでに何人かが私達と同じようにゴミ拾いをしていて、なおかつ署長がいたので、3階へと上がることにした。
3階は留置場スペースになっているのだが……ここも人出が足りている様子だったの、さらに4階へと上がる。
4階は生活安全課と警備課がある。どうやらこの階はまだやることがたくさんありそうだったので、ゴミ拾いを中断し、二人で掃き掃除をすることにした。この様子だと署長が上がってきた時にどやされそうである。
ちなみに1階は地域課と交通課、会計課が設置されている。
「副署長はその……九十九課長、ですか。九十九課長とはどういった関係なのですか?」
他の署員がせっせと掃除をする中、掃き掃除をしながら副署長との雑談を続ける。
「あ~、一番最初に会ったのは俺が機動隊に居た時だな」
「機動隊というと……副署長は第四でしたよね?」
「そうだ。俺は柔道だったからな」
警視庁の機動隊は大雑把に10の部隊があり、その中でも第四というのは屈強な者達の集まりで、さらには武道に秀でた者達が集まる部隊である。さらに第四といえば、過去に活発であったデモ行進の規制などで活躍し、鬼の四機とまで言わしめた部隊だ。
「ということは、九十九課長は何か武道をやっていたんですか?」
「いやぁ……アイツはそれがなかなか特殊な経緯があってな……」
「と、言いますと?」
「アイツが最初に配属になったのが第七機動部隊だったんだ。第七は山岳救助部隊とかがあるところでな、自ら山を登るのはもちろん、ヘリから降下して救助したりとか……まぁそんな活動をする部隊なんだが、九十九はそこに体力があるということで引っ張られたんだ」
「へぇ……第七……」
「ただそれからな、当時の第四の隊長が、えらく九十九のこと気に入った……というか、その才能を見出したというか……まぁ結構強引に第四に異動させたんだ」
「え、1年経たずにですか?」
「そうだ。むしろ一週間くらいで異動してきたぞ。そんで第四にも限らないことなんだが、機動隊に異動するとまず最初に新隊員訓練というのが待ってる。その中でも第四の新隊員訓練は一番厳しくてな……大体1割は辞職者が出るんだ。まぁその辞職者というのも、各警察署に配属になってから……簡単に言えば不適合者みたいな奴らをふるいにかける意味合いがあってだな……あ~なんというか……」
「要は各署から送られてきた失敗作みたいな警察官を辞めさせる役割もあるということですね」
「そうだ、そういうことだ。まぁその厳しい部署の厳しい期間に来たもんだから、俺も含めて先輩たちも『可哀想な奴が来たもんだ』と思ったよ。ただそこからのアイツの動きっぷりというのがまた今でも思い出すと身震いがするんだが……」
「ほうほう……」
「結城は女性だから第四に行くことは無いだろうと思って話すが、その新隊員訓練と言うのはな、新隊員の全員の体力が尽きるまで続けるんだ、必ず。一人、また一人とバタバタ倒れていくのを水を掛けて叩き起こしてまた訓練……旧時代のやり方が今でも続いている。まぁ実際は裏では新隊員訓練期間だけ、お世話になっている医師に来てもらって、それこそ極端だが死なない程度に監督はするんだ。そうして普通は訓練を繰り返し、全員がリタイアしたらその日の訓練は終了する。そして日をあらためて同じような訓練を一ヶ月繰り返す」
「一ヶ月……」
「警察学校よりも間違いなくキツイぞ」
ニヤニヤしながら私の箒の元にちりとりを置くその副署長の屈強な肉体は、正にその機動隊の厳しさを体現しているようであった。当時を思い出しているのか、楽しそうに副署長は話を続ける。
「だがアイツは……そうだな間違いなく『異常』だった。この言葉がしっくりくるくらい、当時はアイツの姿に戦慄したよ。何度倒れようとすぐ立ち上がり、そして訓練に戻ってくる。誰がどう見ても疲労困憊なんだ。だが立ち上がる。諦めないとかそういうレベルじゃあなかった。一緒に軽く訓練している先輩も何人か根をあげるなか……バタバタと新隊員が復帰不可能になるなか……アイツは一人で訓練に立ち向かっていった。訓練の基本は第七で学んでいたとは言え、プレッシャーやら罵声の嵐が比じゃないし、俺が逆の立場なら間違いなくすぐ心が折れただろうと、当時は思ったよ」
副署長の心が折れるとは……全く想像がつかない。
「九十九が来た初日はな、もちろんすぐにダウンした。二日目は頑張って午後5時ころまで。三日目には午後6時、4日目は午後8時。そして4日目――いつも通り午前8時に訓練を開始し、お昼休憩を経て……午後5時には九十九一人になった。と言ってもな、むしろそれは上出来なんだ。九十九を最後に残した奴は、必死に必死について行って最後は気を失った。言葉にはしなかったが、それだけで皆心の中では『よくがんばった!よくやった!』と褒め称えていた。同じ訓練を通過してきたからこそ、逆にその苦しみも分かるからだ。だがさらにその逆を言えば、九十九も間もなく倒れるだろうと、全員が思っていた。二人だと頑張れていたことが、一人になると案外簡単に崩れることを皆分かっていたからだ。だがな……九十九は諦めなかった。正確には何回か倒れたが、だが立ち上がって戻ってきた。それを繰り返すうちに――午後10時になったんだ」
「10時っっ!?」
「そうだ。たしかに一日目より二日目、三日目、と着実に成長していたのはわかってはいた。そのたった独りで5時間以上訓練に耐える姿に、成長――いや、あそこまで行くと『進化』という言葉がしっくりくるような凄みを感じたね。その様子を見て、訓練に戻ろうとする新隊員も何人かいた。途中で止めようとした先輩もいた。だがアイツ自身訓練を辞めようとしなかった。というより、その異様な姿に皆間違いなく心奪われてたんだ。『こいつが一体どこまでやるのか見てみたい』と、そんな感じの……自分には絶対できないことだとわかってはいるが……そんな身勝手な思いがあったんだ。ただその様子を庁舎から見兼ねた医師と隊長がな、止めに入ったんだ。隊長の指示を受けた伝令の先輩が、訓練を指揮する隊長のもとに駆け寄ったらな
『自分は……まだ、やれますよ!隊長!先生!』
と、庁舎にいる隊長と医師に向かって叫んだんだよ。不敵に笑いながらな。隊のグラウンドに一人残されてなお心折れずにその言葉を叫んだときは見てるこっちが痺れたね。同時にすごいとも思ったが――自分にこうは出来ないとも、間違いなくそこに居合わせた何人かは思ったね。まぁ結局その訓練は隊長の決定が通って訓練は終了になったんだが、それからが問題でな……」
「問題?」
「あぁ、その決定に『自分、納得いきません!』とか鼻息荒げながら言い出して、隊長室に直談判しに走りだしたんだ。さすがに皆驚いて必死に止めてな。走りだしたのはいいが、すぐに先輩達に捕まってな。そしたら急にスイッチを切ったようにカクンと動かなくなったんだ。さすがに皆死んだんじゃないかと思ったら健やかな寝息が聞こえやがってよ。その場にいた奴らで皆大爆笑したよ」
「は~……ずいぶんと豪快な方ですねぇ。そんな方が今からここに来るんですねぇ」
「そうだ。聞いただけでちょっと楽しみにならないか?」
「いやぁ、その話を聞いて楽しくなるのは男性だけですよ、きっと」
「そうか?ちなみにこの話には軽く落ちがあってな。結局その次の日、九十九はもう十分な体力と気力があると新隊員も合わせて満場一致で認められて、訓練終了になったんだ。そしたら九十九はまたブーブー言い出してな。まぁこんどは直接隊長、なんてことはなく、訓練を担当している係長のところに行ったらしいんだが、隊長室に駆け込もうとしたことも既に周知の事実だったもんだから、幹部連中で初めに手を打って、『九十九隊員の訓練は実質的には終了しているが、訓練に参加したいと言った場合は、他の最後の一人が訓練終了した時点で、九十九隊員も終了とする』と決めたらしいんだな。要は足並みを揃えろ、というお触れを出したわけだ。そしたら九十九もそこそこ満足気に『わかりました!』といって訓練に混ざっていったんだよ。そしたら今度は九十九にアテられた周りの奴らまで根性見せやがって、その後最長で午後8時くらいまで訓練した日もあったなぁ……」
「それは何ともすごい話ですねぇ……私だったら訓練終了と聞いただけで喜ぶもんだと思っちゃいそうですが……」
「俺もそう思うね。というか大半の人はそうだぞ。アイツがおかしいんだ」
副署長はガッハッハと笑いながら、ちりとりに集まったゴミをゴミ箱に捨て、二人で掃き掃除を終えた。話に集中していたからか、あっという間に感じられた。そろそろ署長が上がって来るかもしれない。
「生安課長~、他に掃除するところあるかい~?」
「あぁ~……こっちはあらかた大丈夫です~。ありがとうございました~」
「警備課長は~?」
「こっちも大丈夫ですね~」
「りょうか~い。よし、それじゃ5階の道場に行くか」
ということで二人で道場の清掃に向かった。警察署はほぼどこの警察署も、署内に道場を設置している。ただこの警察署は何故か5階に設置されており、その理由は道場で訓練の時に発せられる気声が署内や周辺に響いて、『自分たちは訓練をしているぞ』というのを内外に知らしめるため、と言われているが真偽は定かで無い。
5階の道場に到着すると、ここでも既に何人かの署員が清掃活動に勤しんでいた。交通課員や地域課員の姿が見えたので、どうやら1階の清掃は終了が近い、もしくは終わったらしい。
「副署長、先程はごちそうさまでした」
「「ごちそうさまでした~」」
道場に入った途端に交通課員、地域課員の面々からお礼の言葉が飛び交った。交通課にだけ渡したのかと思ったら、どうやら地域課の分も渡していたらしい。ともすれば会計課にも渡していそうだから、出費を計算すると割と良い数字になる。副署長は片手を上げてお礼に答えると、
「あ、生安と警備にやるの忘れてた。結城、少し独りで掃除しててくれ」
そう言って上がってきた階段を今度は下がり始めた。あの人ほんとに全署員分にジュースをおごる気だろうか……。確かに署の自販機は少し安くはなっているが、それでも全署員となると、本当に結構な額になる。
道場を見渡すと、既に役割分担して清掃をしている様子なので、1階の時同様小さなゴミ拾いに勤しむことにした。署員が老若男女入り混じり、清掃する様子はなかなかほのぼのさせるものがある。まぁ私が知らないだけで、もしかしたら誰と誰が仲悪いとかあるのかもしれない……署長が副署長のことを良く思っていないように。……なんてことを思ってはみたものの署長が副署長のことを良く思ってないことなど周知の事実だし、むしろ嫌われている副署長本人が、それを利用して署長をイジりさえするシーンすらある。そんなところで人間性の差って出るよなぁ……。
しゃがんでちまちまゴミ拾いをしていると、ずんずんと足音に合わせて道場が揺れた。柔道の投げや剣道の踏み込み、その他衝撃に耐えやすいそうにこの道場は比較的揺れやすく作ってあるらしいが、どうやら副署長の足踏みでも揺れるらしい。
「待たせたな。4階に行ったら署長が居たから2階まで降りる羽目になったわ、がはは」
「刑事課と警務課は終わった様子でしたか?」
「おう、署長のチェックも入ったみたいだからあとは4階とここだけだな。署長は留置場に行きたがらないから後で俺が行くか」
ちなみに副署長は、留置場に入っている人……すなわち被疑者連中からも人気があるらしい。もちろんそれは、被疑者に何か渡したりとかそういう意味じゃなく、この豪快さ故に、である。取り調べの時も副署長の話題になると大概の被疑者は副署長を『男らしい』とか『男気がある』とかそんな言葉で表す。そしてさらに言えば署長はとても嫌われている。どうやら署長の嫌われっぷりも内外問わず、らしい。
「そういえば先ほどでた九十九課長の話なんですが……」
「おぉ、なんだ?」
「いきなり違う部署から引っ張られるなんてことあるんですか?」
「一概に無いとは言い切れんな。九十九自身その対象になってることもある……が、滅多にはないだろうな、そりゃ。今でこそ俺もこの立場になって思うが、当時の隊長がどうやって九十九を第四に引っ張ってきたかは――分からなくもないが、相当に面倒臭かったろうな、間違いなく」
九十九課長はそんな無茶苦茶な人事に異議を唱えなかったのだろうか。異議とはいかないまでも不満くらいはもちろん抱きそうな気がするが……。それにさっきの話を聞いた限りだと、階級関係なく噛み付く様子をみるとなおさらである。
「……ってあれ?」
「ん?」
「九十九課長って本部のお偉いさんで……キャリアって言いましたよね?」
「おぉ、そうだぞ」
「そのキャリアの方が機動隊なんて行くんですか?」
「がっはっは、まぁそこも色々あってな……」
「ふ、副署長……」
私と副署長の会話に、先ほど1階でお金を受け取った交通課員が割って入ってきた。
「さ、先程のジュース代なのですが、うちの若いのが間もなくうちの若いのが持ってきますので……」
「お、そうか……結城、ここは人が足りてるみたいだし、お釣り受け取りついでに俺たちもジュースでも買って軽く休憩しよう」
「あ、わかりました」
「副署長、それだったら私が買いにいきますよ!」
と、何人かの若い署員が申し出たのだが、それらをやんわり断って、こんどは一気の5階から1階へと下がることとなった。5階から4階に下がる途中で、署長とすれ違った。どうやら1階分くらいは真面目に階段を使うらしいが、すれ違った時に相変わらずの加齢臭が鼻に突き刺さった。すれ違ってから少しして副署長はタイミング良かったな、とような微笑みをこちらに向けた。
1階に降りるついでに3階の留置場に寄って、ここでも留置場の勤務員にジュース代としてお金を渡す。副署長は、ついでに中の様子を確認しに行ってくると言って、場内に入って行ったので、私は留置場の受付で待つことにしたのだが、ほんのり署長の臭いがしたので嫌な気分になり一足先に1階に降りることにした。その旨を副署長に伝えてもらうよう、受付の女性警察官に告げ、私は1階へと降りた。
1階に着くと、皆で掃除したかいがあって、なかなか綺麗になっていた。その綺麗になった様子を見ると先ほどの嫌な臭いも忘れられて自然と上機嫌になる。本当に不思議なものでこういった皆でやり遂げたことで出来る綺麗さというか、美しさというのはささやかではあるが心を綺麗にしてくれるものがあるような気がする。
するとウィィン、と自動ドアが音を立てて開くと、この綺麗になった1階フロアとは正反対の様相の男が現れた。その男はスーツを着てはいるものの、全身、特に足部分に砂埃をつけ、さらには汗だくになりながら――さらには子供を背負って警察署に入ってきたのだった。さらにその子供の手には子猫が収まっている。
何とも掴みにくいその男の様子を見て、ちょうど交通課の受付に座っていた女性警察官が応対のために男に近づいていく。何も無いに越したことは無いが事件の可能性も一応考え、一緒に事情聴取しようと私も近付いたところ、男は背中から子供を下ろすや否や、
「え、っと。この子は迷子ね。近くの商店街でお母さんとはぐれちゃったらしいらしいんだけど、一旦保護してあげて。そんで多分地域課に連絡すれば商店街で放送流してもらえるから、すぐにお母さんが来ると思います。で、こっちの子猫は、木から降りられなくなっていたので拾ってきちゃいました。なので会計課に連絡してもらっていいかな。職務上拾得でもいいけど必要なら名前書きますっても伝えておいて――」
と。矢継ぎ早に事情説明を始めた。要点は得ている説明だったが、事情聴取をするつもりで臨んだため、突然の回答、というか説明に頭がついていかなかった。
すると再び自動ドアが音を立てて開き、今度は綺麗になった1階フロアですら及びつかないようなスーツ姿の美女が現れた……と思うと、男の一歩後ろの辺りで立ち止まり、美しい所作でしゃがむと、男にそっと耳打ちした。
「課長、説明は適切なのですが、この場合自分の職名を話してからの方がわかりやすいのかと」
その様子は若干の色気が漂うが、男はその色気に見向きもせず
「お、確かにそうだな。ごめんね、お嬢さん」
「あ、いえ、こちらこそ……」
と、最初に駆け寄った交通課の女性警察官に爽やかに微笑んだ。その薄汚れた姿からは想像もできない爽やかさである。そして女性警察官もまんざらでもないない表情になっているのがまた不思議だった。
「あ、君もごめんね」
そう言ってこちらを振り向いてくるのと同時に、これもまた薄汚れた姿からは想像もつかないような、何とも言えない良い香りがふわりと漂った。瞬間、頬が熱を持つのを感じ――女性警察官のまんざらでもない様子に半分納得した。……が忘れてはならないのは、この者がまだ何者か分かっていないということであるのだが――
「おっ、九十九じゃないか、なんだそんな汚れて」
「これはお久しぶりです、宝生副署長。突然申し訳ありませんでした」
1階に降りてきた副署長の言葉によって、この薄汚いスーツの男が、この警察署に来る予定だったお偉いさん――警視庁刑事部特別組織犯罪対策第三課課長、九十九凪雪と判明した。状況についていけない私達をほっぽり出し、二人のお偉いさんは雑談に興じているところを、先ほど九十九課長に耳打ちした女性がこちらに話しかけてきた。
「突然申し訳ありませんでした。私はこちらの九十九課長の補佐をしている漣奏と言います。よろしくおねがいします」
ドキッとした。本部の課長補佐ということは――警視じゃないか!この人個人でも十分な「お偉いさん」に相当するじゃないかと私は思ったが、同席していた交通課の女性警察官は課長補佐と言われてもピンと着ていない様子であった。そんな階級であることを良いか悪いか全く感じさせないその態度のせいもあるが……。
「課長がそちらの副署長と話し込んでいますので私が代わりに説明させて頂きます。私と課長は諸捜査のためこの街のショッピングモールを訪れていました。そしてその途中でこの署に寄る運びになったのですが、さらにその道中にある神社の所にこの少年が独りで居たところを九十九課長は話しかけたところ、迷子であることが判明しました。ここまでよろしいでしょうか?」
「は、はい……」
「では続けますね。少年については両親とショッピングモールを訪れていたらしいですが、ショッピングモール内に侵入していたその猫を追いかけるうちに外に出て、その神社に行き着いたとのことです。追いかけた猫とは察する通り、この少年が抱えている子猫なのですが、この子猫が少年から逃げるように神社の杉の木に登ったところ、どうやら降りれなくなった様子だったので九十九課長が救出し――そして今に至ります。何かご質問はあるでしょうか」
先ほどの九十九課長の結論から入る説明の後に聞くと、さらにわかりやすい説明だった。
「あとこちらを参考にしてください。この子からの聴取事項です」
と言って、一枚のメモ用紙を差し出してきたので、それを受け取る。そこにはこの少年の名前と生年月日、自宅の連絡先や両親の名前などが書かれていた。さらには発見時刻等々の……迷子の手続きに必要な事項が全て揃っている。しかもすごい綺麗な字だった。
「歩きながらの聴取でしたので……何か足りない点はありますか?地域業務から離れて長いので、私も九十九課長に言われるがままメモしただけですので、足りない点があれば仰てください」
そう言って優しく微笑む漣課長補佐の姿は、文句なしの完璧美女だった。一緒に説明を聞いていた女性警察官なんか説明を聞いていたかどうか怪しいくらい完全にうっとりしている。
「結城、あとこっち任せるぞ。俺は九十九課長を署長の所に案内してくるわ」
早々に雑談に興じていた副署長が私にそう指示を出してエレベーターの方に向かっていった。さすがに客人にまで階段の使用は勧めないらしい。漣課長補佐はこちらに一礼してからその二人の後を追うが、その姿もまた綺麗なものだった。
「さて、それじゃ……あなた、ここでこの子の面倒見ながら待機しててくれる?私があと事務処理とかしちゃうから」
「あ、わかりました。それでは何か手伝えることがあればお声がけください」
そこから私は各手続きに動き出した。会計課に連絡して子猫を拾得手続きしてもらい、地域課の人の力も借りて迷子の手続きを進めつつ、ショッピングモールに連絡をとってみる。ショッピングモールに連絡をしてみたところ、ちょうど両親から迷子の届け出があったということだったが、どちらもショッピングモール内を探しにそこから離れて、さらには連絡もつかないとの事だった。どうやら両親の方は相当に混乱しているらしい。警察署の迎えに来てもらおうかと考えたが、その様子だと迎えに来るまでに事故でも起こしそうな気がした。それで結果的に警察の仕事が増えるのも本末転倒な気もしたので、ショッピングモールがそんなに遠くないこともあり、私がショッピングモールまで少年を送り届けることにした。
電話でショッピングモールに連絡し、両親にはそこから動かないようにしてもらう。少年と女性警察官の待つ所に行くと、ちょうど会計課の女性職員が少年から子猫を預かろうとしているところだったが、子猫を離すのを嫌がっていた。
「今お母さんたちと連絡がついてね、お母さんたち、僕が居なくなったからすごい心配してるんだって。きっとこの子猫も両親が心配してると思うんだ。だからこっちのお姉さんたちが、この子の両親を探してみるから離してあげてくれないかな?」
少年の前で私がそう説明すると、若干泣きそうな目になりながらもコクコクと頷き、子猫を女性職員へと預けてくれた。よしよし、と頭を撫でると少年は少し恥ずかしそうに俯き、私達も笑顔になる。そこでふと自動販売機が視界に入ったので、副署長が部下にしていたように、少年にも缶ジュースを買ってあげることにした。少年と手をつないで自動販売機のところまで行き、好きなジュースを選ばせる。
「ありがとう、ございます……」
恥ずかしそうに俯きながらもしっかりとお礼を言う姿に若干の母性をくすぐられながら、この少年を送り届けるため、書類を片手に署を出発した。清掃の時のように、女性警察官が送ることに名を上げてくれたがやんわりと断った。
二人で手を繋ぎながらショッピングモールに向けて歩き始めてから少し経った時、九十九課長がこの少年を見つけたという神社に到着した。私はその神社の存在を知らなかったのだが、どうやら結構大きな神社らしく、入口の大きな鳥居には「咲杜神社」と読みにくい字体で書かれている。鳥居のから左右に杉の木が悠然と立ち並んでいる。すると突然、
「あ!あそこあそこ!」
と言って、少年が私から手を離し、杉の木の並びに沿って走りだした。
少年の後を追うと、少年は一本の杉の木の前に立ち止まる。見上げるとその杉の木は、他の杉の木よりも少し背が高く、目測で大体10メートルくらいかと感じられた。
「あそこのてっぺんに猫がいたのを、さっきのおじちゃんが助けてくれたんだよ!」
…………?
九十九課長があそこの天辺まで登った?聞き間違いではなかろうか。
そう思って少年に聞き直す。
「うん!すごかったよ!ぴょんぴょんって!漫画みたいだった!」
笑顔でそう語る少年に嘘を語っている様子は無い。もとより嘘なんか付く必要はないのだが……。再度杉の木の天辺を見やると同時に軽く身震いした。この場合は悪寒というべきなのだろうか。
『成長――いや、あそこまで行くと『進化』という言葉がしっくりくる』
副署長が言葉が頭をよぎる――。
副署長の話から、九十九課長がただならぬ人物であることは想像はしていたが……少年のこの話も含めるとどこか、そう、普通では無いような気がした。ただならぬ、という言葉では収まりがつかない程の奇異さとでも言うのだろうか。――なんだろう、なんか変な感じがする。嫌な予感とまではいかないまでも不思議と変な予感がする。
グルグルと回る思考を遮るように、ふと鼻に雨の匂いが感じられた。杉の木から少し視点をずらすと遠くで雨雲のような黒い雲が見えた。
「……?」
先程から無言で上を見上げている私の姿を見て少年が訝しげな顔をするのが見えた。
「ごめんね。なんか雨が降りそうだからちょっと急ごうか」
そう言って少年の温かい手を握りしめてショッピングモールへと向かった。そこから間もなくしてショッピングモールのサービスカウンターに行くと、少年の両親が血相を変えながら飛びついて来た。少年ごと私も抱きしめ、ひたすら「ありがとうございます、ありがとうございます」と感謝の弁を述べられた。
父親に、少年を確かに受け取りましたというサインを書類に貰い、家族はサービスカウンターを後にした。最後に今回の件を対応してくれたサービスカウンターの女性に名刺を1枚渡して、「何かあればまたよろしくお願いします」と言って、私もショッピングモールを後にした。
そこから雨が降り始める前に、と署まで小走りで帰る。そんなに時間もかからずに署に戻ると、一息つく間もなく、先ほど一緒に対応した交通課の女性警察官から声を掛けられ署長室に呼び出された。
小走りとはいえ少し疲れたし、副署長も一緒じゃなかったのでエレベーターで2階に上がる。署長室は警務課の奥にあるのだが、警務課に到着すると、何故かその部屋の主である署長が警務課で突っ立ていた。
「あぁ、来た来た。何やってるんだもう。迷子なんか地域に任せとけばいいんだよ。ほら、早く入った入った」
警務課に入るや否や、署長にそうせっつかれて署長室に入れられると、バタンと署長室入口のドアを閉められた。背後に署長の姿は無く、どうやら署長は入ってこない様子だった。
署長室内に目をやると、そこには高級そうなソファに副署長と漣課長補佐と――九十九課長が座っていた。副署長がニヤニヤしているあたり、嫌な予感しかしない。
「お、来たな、結城。おつかれさまだったな、まぁ座れ」
「いえ、九十九課長と漣補佐の初期対応が完璧でしたのでおかげさまですぐに終わらせることができました」
「いや~、ほんと申し訳なかったね。自己紹介もしないし、事案は持ってくるしで」
「いえいえ……」
「で、本題なんだが……」
私と課長のやりとりを遮り、副署長がソファにどっかりと座り直し、私の方を向く。
「――お前、来年度から九十九課長のところに異動になったから、よろしく」
「……え?」
そう言った副署長の表情は笑いをこらえているようにしか見えず。
漣課長補佐は何のリアクションも取らずにお茶をすすり。
九十九課長は、悪巧みをする子供のような微笑みを浮かべていた。