1
「さて、いっちょ行ってきますかね。申し訳ないが結城はちょっとここで待っててくれ」
そう言って私の上司である九十九凪雪課長は、私を目前に広がる大きな木製の扉の前で待つように指示した。
「…………」
表に出ていたらしい私の不満を悟って九十九課長は優しく微笑んだ。
「まぁそう不貞腐れるな。夏凪は最善を尽くした、そうだろう?」
「…………はい」
「大丈夫大丈夫」
「…………」
「部下が尽くした最善を無駄にしないためにも、上司に仕事をさせてくれ。……と、言っても今から晒す上司の姿に納得はいかないだろうけどな」
「…………」
「と、いうわけで行ってくるな」
そう言って颯爽と扉を開け、スーツをなびかせる姿は、まるでドラマのワンシーンを彷彿とさせ、検事長室と銘打った室内へ九十九課長は入っていく。
私はその様子を特に何も感じることなくその姿を見送った。
バタンと扉が閉まる音が聞こえ、中から再び扉が閉まる音が聞こえる。
その直後――
「まっことに申し訳ありませんでしたぁぁぁぁぁぁ!」
と、九十九課長の大きな声が廊下中に響き渡った。
その声が聞こえたのと同時に、私は扉の開閉の邪魔にならないように扉の前から壁の方に移動して、スカートの中身が見えないよう一応気を遣いながらしゃがみ込む。
すると扉が少しだけ外側に開いて、中から私と歳の近そうな女性が私の方を見てきた。
「あら、可愛い子。あなたが九十九さんのところに来たっていう新人さん?」
フフフ、と上品に口の前に手を出しながらこちらを微笑みながら見ている。
私は小さくしゃがんだまま、その女性を見て
「はぁ、そうですが……」
と無愛想に答えてやった。
その様子を見てか、女性はまたフフッと笑い、
「そこだと目立っちゃうからこっちの部屋で待たない?お茶出すわよ?」
「いえ、ここで待てと言われてますので……」
この女性の誘いを断る理由も私個人としては特に無い気がするが、上司が怒られているであろう中、その部下が隣の部屋で悠々とお茶を嗜むのもいかがなものかと感じたので一応断る。
確かに検事長室の前で私のような者がしゃがみこんでいては目立ってしまうかもしれないが、それは私の知ったところではない。
というかさっきからこの部屋の前など人っ子一人通らないのだから、別に問題なかろう、というのが私の感想だった。
女性とあっていた視線を再び地面へと向けると、
「あらあら……ふふっ、じゃあ逆に私がそちらに失礼しようかしら」
そう言って私の隣に並ぶようにしゃがみ込んできた、というより、その発言を聞いて、私がえっという顔をして視線を上げた時には既に隣にいた。
ふわりと香水の香りが漂い、私の微笑みかける。
「私はここで事務官をしている武井節子っていうの、よろしくね」
武井節子と名乗った女性は、少し茶色に染めた髪を肩あたりまで伸ばし、薄いピンク色のワイシャツに黒色のベスト、それに黒色のスカートに少し高めのヒールと、まさに仕事の出来るOLといったような出で立ちだった。
美人というよりは可愛いというタイプの女性だった。
節子、という名前が似つかわしくないと思うほどに。
「あなたのお名前は?」
武井……さんにそう促され、渋々答える。
「結城……夏凪です」
「あら、可愛い名前!漢字はどう書くのかしら?」
「ゆうきは結城秀康の結城に、なつなは夏に、あとは夕凪とかの凪で夏凪です」
「へぇ~、珍しい名前……なのかな?きっとご両親がすっごく考えてつけてくれたに違いないわね~」
「いや~そういうわけでもないかと……」
しゃがみながら右頬に手をあてるその仕草は、正にほんわかという言葉が似合うと思った。
さらには、ふわりと武井さんからいい香りがして……先ほどまでいらいらしていたのが、武井さんのおかげで少しだけ和らいだ気がする。
「歳はいくつになるのかしら?」
「こ、今年で25です……」
「わっかぁぁぁぁい!そうすると一応まだ実習期間なのかな?」
「いえ、一応そういった過程は既に終わってるので……普通に勤務しています」
「そっかぁ~。んじゃ警察になって結構経つんだね」
「とは言ってもまだ3年ほどですけどね……」
そう答えて思わずため息をついてしまう。
腕を足に回して、膝に頬をついて目をつむる。
「……今回は一体どうしたの?どうせ九十九さんがこうして足を運ぶってことは事件絡みなんでしょうから、いずれ私の耳にも入るから良かったら話してくれないかしら?」
私のその様子を見兼ねたのか、武井さんがそう言ってきた。
しかも私如きを不快にさせないように気を遣ってくれているのが感じられ、逆に申し訳ない気持ちになる。
最初の言葉だけだったら私も話そうとは思わない、と思う。
後の言葉に促されるように私はここに至るまでの経緯を説明する。
きっかけは某署の管轄で発生した婦女連続暴行事件だった。
その名の通り、昼夜を問わずして若い女性が暴行や傷害事件の被害に合うという案件が発生した。
しかし、その目撃情報が曖昧で、中には狼男のように毛むくじゃらだったとか、挙句の果てには羽を生やして空を飛んで逃げていった、なんてものまであった。
その案件を耳にした九十九課長が、本来刑事部の一課、もしくは警察署の刑事課の仕事であるのだが、それとはまた別に本件の捜査に乗り出した。
一課の協力を得ながら独自で捜査を進め、驚くことに私達の方が早く容疑者を浮上させたのである。
そうして容疑者に捜査の手が及んだ。
容疑者の居住地を掴み、張り込み捜査をする。
しかし、ここで予想外だったのが、容疑者の浮上が早すぎたせいで、逮捕出来るほどの証拠がなかったのだ。
逮捕はできないが、このまま更なる被害者を生まないために放置する訳にもいかず、結局、一課は逮捕状をもらうための捜査に専念し、容疑者に対しての張り込みを私達で交代で行うことになった。
しかし、私達も他に業務があるわけで、その勤務を多忙を極めた。
というか、張り込みに女性を使うのはいかがなものかと思ったが、先輩たちも文句を言わずに頑張っている姿を見ていると、自分が文句を言えるわけがなかった。
状況が動いたのは私が二回目の張り込み当番の時だった。
張り込み――正確にはもはや尾行だったが、気付かれないように各々私服やスーツ、その時々に合った服装で尾行を行う。
その時の私はカジュアルな服装に大きなヘッドホンに模した無線機を使用して尾行をしていた。
容疑者は割とあてもなくふらふらすることが多く、あてもなく自宅を出ては小一時間ほど散歩して帰宅する……たまに遠出しても電車で町中まで出るも、特に何をするわけでもなくそのまま帰宅する。
そういった行動を見て、一課の幹部は、まるで獲物を探しているかのようだな……、と言っていたが、実際尾行についていてそんな感じは一切しなかった。
というか、正直ただの頭が少しおかしい人にしか見えなかった。
この見解には先輩たちも概ね同じようなことを感じていたらしかったが、ある一人の先輩だけ頑なに黒だと言っていた。
何を根拠にそう言っているかは分からなかったが、とりあえず一課の方がまとまりをみせるまでは継続する、そんなことが決まった日の夜だった。
日中に自宅にいる容疑者を張り込んでいた先輩と交代し、夜間の張り込みに就く。
先輩と交代してから少し経ったころに、容疑者がまた外出し始めた。
正直、家でおとなしくしてろよ、この野郎、と思ったが、それでは仕事にならないので、尾行する。
自宅から少し歩いたところで、容疑者は驚くことにタクシーを止めて乗り始めたのだ。
今までにない行動に私は驚き、慌てて同じようにタクシーを止めて、
「ま、前のタクシーを追ってください!」
と、テレビドラマでしか聞いたことのなかった台詞を初めて言った。
タクシーの運転手が訝しげな顔をしているので警察手帳を提示すると納得した様子で、容疑者の乗ったタクシーを追いかけ始めた。
道中、タクシーの運転手が色々と質問してきたが全部無視した。
無視ししていると、段々とタクシー運転手の機嫌が悪くなってきたのでどうしようかと考え始めたところで、容疑者のタクシーが止まったのが見えたので、その少し先で止まってもらい、タクシーの運転手に
「お釣りはいらないから」
とこれまたドラマみたいなことだけ言い残して、五千円を置いて一方的にタクシーを降りた。
今頃になって気づいたが運賃足りていただろうか……と不安になった。
そうして何とか尾行を継続していると、ふらふらと容疑者が、赤いコートみたいな服を着た女の人の後ろをついていくようにして、路地裏へと入っていった。
直感的にヤバいと思い、咄嗟に駆け出して路地裏に入ると――
まさに容疑者の男が赤いコートを着た女性の腕を掴み、襲いかかろうとしていた瞬間だった。
「警察だ!やめなさいっ!」
何も考えず、反射的に大声で警戒する。
容疑者は私の存在に気付き、逃げるのかと思いきや、私の方に襲いかかってきた。
「えっ、ちょっ――」
私に考えさせる暇も与えずに、容疑者の拳が襲ってくる――
が、その拳を簡単にいなして容疑者の腹部に膝蹴りを食らわせる――反射的に。
「うぅっ!」
容疑者にとっては予想外の反撃だったのか、思った以上に綺麗な膝蹴りが決まり、そのままその場に倒れこんでしまった。
倒れこんでしまった容疑者を抑えこみ、無線機で急いで応援を呼ぶ。
そして、
「大丈夫ですか!……ってああ!」
被害者であろう女性の方を向くと――そこには誰もいなかった。
突然のことで驚いてそのまま逃げてしまったのか、私が声を掛けた方向には誰もおらず、路地の先に様々な人達の往来があるだけだった。
被害者がいなければ、これを事件として完全に立証することは難しい――そんなことが頭をよぎったが、既に容疑者から被疑者になったこの男は私の制圧下……。
どうするか一瞬悩んだ末に――
「午後7時24分!公務執行妨害で現行犯逮捕する!」
といった流れで、その男を逮捕することになった。
それが何故、九十九課長が謝る話になるのかというと、簡単に言えば、公務執行妨害で逮捕はしたもののその罪自体は到底立証できるものではなかったからだ。
逮捕は出来ても、その罪について、今回は私への公務執行妨害への罰を与えることができるかどうかは別、という法律の難しいところというかなんというか……。
さらに言えば、今回の件が起訴なり釈放なり、何らかの結果が出た後で、現在一課が調べている件で再度逮捕、となった時に、「公務執行妨害での逮捕は必要ないのではないか。不当な逮捕だ」と蒸し返され、少なからず論点にされる可能性があるのだ。
大分専門的な話も混ざったが、簡潔に言えば、周りからは「余計な仕事を増やしてくれたな、この野郎」と、この野郎というワードが私にブーメランな状態なのであった。
さらに付け加えるなら、被疑者である男――名を鈴木弘康という男は、私の見事な膝蹴りのお陰で綺麗に肋骨を骨折する全治三週間の怪我を負った。
なんとか医者の方からは、コルセットを巻いていれば留置場にいるには差し支えない、と診断されて某署の留置場に勾留されているらしい。
この骨折をさせた件も、もちろん問題の一端を担っている。
そういった問題が積み重なり、現在に至っていた。
「なるほどねぇ~。まぁ確かに大雑把な話だけど、捜査するのは警察、その捜査の結果を法廷でぶつけあって戦うのが検察だものねぇ……それで九十九さんは今日もここに来たわけだ」
私が悪い、というのはもちろんわかってはいるが……では逆にどうしろというのか。
そんな気持ちが私の中でぐるぐる回って気持ち悪かったが、武井さんに話をしたおかげか自然と気持ちが落ち着いていた。
と、冷静になってみると、人が通らないとは言え、ふてくされてしゃがんでいるのが少し恥ずかしく思えてきたので立ち上がることにする。
一瞬隣に武井さんがいることを忘れて、急に立ち上がってしまった私を見て、武井さんが微笑む。
「ふふっ、少しは元気が出たみたいね」
「あ、えっと、失礼しました……」
「いいのよ、あなたみたいな美人な子が下ばかり俯いてちゃ絵にならないもの」
「いやいや、美人だなんてそんな――」
と、返したところでガチャ、と扉が開いて九十九課長が中から出てきた。
「お、武井さん。中に居ないと思ったら外でしたか」
「あら、九十九さん、もう終わりですか?もう少し夏凪ちゃんとお話していたかったのに」
九十九課長と武井さんがやりとりしていたが伝えるなら今しかないと思い――
「あ、あの、課長、その……すいませんでしたっ」
と、頭を謝罪した。
今回の件についてと……それと、ここにくるまでずっとふてくされてたことだったり、と、武井さんと話をして落ち着いたこともあって、一度きっちり謝ろうと――ふと思った。
こういうのは先延ばしにするとなかなか言えなくなるものだと知っているから……。
返事が無いので頭をこそっとあげて、九十九課長達をチラッと見やる。
九十九課長と目が合うと、九十九課長は武井さんと一緒に優しく微笑み、私も頭をあげる。
「もう結城と仲良くなったんですか?結城、あとで武井さんと何を話したか私にも教えろよ?」
「えっと……」
「残念でした、九十九さん。女の子の話は女の子同士の秘密なのです」
「あら、武井さんがそういうなら聞き出せないでしょうね、きっと。それにしても連れてきたかいがあったってもんですよ」
「こういう時の九十九さんは、こういう事なのかな……って思いましてね」
「さすが武井さん、半分正解ですね。あ、そういえば奏が武井さんによろしく伝えてくれっていってましたよ」
「かなちゃんが?それじゃ今度連絡してみるわ」
「そうしてやってください。あいつも喜ぶと思いますよ。それじゃ今日はこれくらいで失礼させて頂きます。今度あらためて、また結城も連れてお茶でも飲みに来ますよ」
「ふふふ、じゃあその時を楽しみにしてますね」
「あ、あと――」
「はい?」
「検事長が武井さんのこと探してましたよ」
「ちょっとそういうことは最初に言って!」
と、可愛らしく怒って、ピュ~ン、バンッという擬音が似合いそうな勢いで、武井さんは慌てて部屋へと戻っていった。
「課長、なかなか人が悪いですね……」
「いやいや、ふてくされてる時の結城ほどじゃないよ。それじゃ戻るか」
なんだと?
吹かっけた私も悪いが、謝ったことを損した気分にさせる発言だった。
なにか言い返してやろうと考えたが、九十九課長はすたすたと歩き始めてしまい、急いで後を追いかける。コツコツと小気味の良い足音を立てながら歩く九十九課長の後ろを、少し距離をおいて着いて行く。
私の発言にさらっと返したうえに、私に反撃の余地を与えない余裕というのが見られ、私に少しばかりの敗北感を与える。
いや、別に勝負してたわけではないのだが……。
エレベーターに乗り、1階のボタンを押す。途中で止まることなく、1階まで辿り着き、出入口まであと少し――というところで、急に九十九課長が立ち止まった。
九十九課長の背中にぶつかりそうになってしまう――と、ただでさえ急に立ち止まった課長が今度は急に振り向いて、今度は私とぶつかりそうになる。
「うおっ、なんでこんなに近くに立ってるんだ」
「いや、課長が急に止まるからですよ。急にどうしたんですか」
「検事長室に忘れ物をしてきたみたいなんだが……。取りに行こうかどうかを悩んだ末、やっぱり取りに戻ることにした。結城、悪いがすぐに戻る。この間を使って、奏に今から戻るって連絡しててくれ」
と、一方的に言い残し、九十九課長は、今来た道を再び戻り始めた。
忘れ物なんて――そんな風には見えないが、案外おっちょこちょいな一面があるのかもしれない。
九十九凪雪。
警視庁刑事部特別組織犯罪対策第三課課長。
階級は警視正。
私と同じキャリアとしての採用を経て、現在の席に座り、異例の8年が経過しようとしている――らしい。
その名前は知る人ぞ知る、という良くも悪くも有名人ではあるらしい。
年齢は今年で40歳ということだが、その見た目からは歳相応という感じは全くなく、むしろ20代後半といっても通るのではないかと思う。
私の好みではないが、外見もそこそこ整っており、中にはファンクラブも存在するのではないか、とまで噂があるが、その真相は定かではない。
その将来を有望視されていながら、さらに上の階級への昇進は拒んでいるとかなんとか。
私がこの所属に来てもう少しで1ヶ月が経つが、なんとも掴みにくい――というか正確には『何を考えているのよくわからない、もしくは読み取れない』というのが正直な印象だった。
今回、検察庁に謝罪に来た件にしても、責任転嫁するような発言になるが、そもそも九十九課長がこの案件の捜査に乗り出そうとしなければ、こんなことにはならなかったのでは、とほんの少しだけ思う。
今となってはあとの祭り状態だけど。
そういえば、検事長に謝罪をした結果、今後にの方針について九十九課長に聞くのをすっかり忘れていたな、と思い出しながら携帯電話の電話帳を開き、目的の電話番号を検索する。
先ほどから会話に登場する「奏」という人物は、九十九課長の補佐官で、私の先輩でもある、警視庁刑事部特別組織犯罪対策第三課課長補佐の漣 奏警視のことである。
役職名からも分かる通り、私達の課のナンバー2だ。
頭脳明晰、容姿端麗、才色兼備、何故この人は警察をしているんだろう、と思うような人物だ。
……ある一点を除いては。
携帯電話に表示された、漣奏補佐のページにある電話番号をタッチして電話をかける。
プププ、と音が鳴った後に、コール音の代わりに訳の分からない独特の音楽が流れる……。
ずっと、うーにゃー、と歌っている……。
「我が名はハイペリオン・サーフェス・茜――」
「すいません、間違えました」
なんてこった。
どうやら間違った番号に掛けてしまったらしい。
私の上司に、ハイペリオンなんちゃらさんという人はいないし、そもそも存在しない。
気をとり直して再び奏補佐の電話番号に電話をかけ直そう――としたところで、逆に奏補佐から電話が掛かって来た。
「もしもし、結城です」
「もしもし、漣です。結城さん、せめて私の言葉を最後まで聞いてから電話を切って欲しかったわ」
「私の上司にも知り合いにもほうおういんなんちゃらさんは居ないので切ってしまいました……」
「結城さん、さっきのは……そう、合言葉と同じようなものよ、合言葉」
「はぁ……」
「私がもし次にハイペリオン・サーフェス・茜というワードを出したら、あなたはそうね……ちょっと高めのテンションで愛と正義の!って叫んでちょうだい。それに合わせて私がラヴ・シャスティス!って叫ぶわ」
「……お断りします」
「…………」
頭脳明晰、容姿端麗、才色兼備な課長補佐は重大なほど二次元好きをこじらせていた。
重大というより、重症だった。
先日、私が朝イチで出勤したとき、奏補佐は何故か朝イチで赤色のメイド服を着ていた。入る部屋を間違ったのかと思い、一旦外に出て確認すると、そこには「特別組織犯罪対策第三課」と書いてあったので間違いなかった。自分はきっとまだ寝ぼけているんだ、と言い聞かせて扉を開けた先には、やっぱり赤いメイド服を着た奏補佐がいた。
「奏……補佐……ですよね?」
「あ~、結城さん、こんにちわ~、お茶で~、よろしかったですか~?」
「あ、いや、補佐……!お茶なら私が出しますので……!」
「いいですよ~ぅ。結城さんは座っててくださ~い」
その時、心の底から「誰か助けてくれ!」と思ったら、ちょうど良く出勤してきた別の先輩が
「おっ、補佐、今日は接待魔法少女紅暁のコスプレですね!」
と言うのを聞いて、奏補佐は満足気な顔をして部屋を出て行き、程なくして通常通りのスーツ姿で現れた。
そして開口一番、
「結城さん、お茶……いただけるかしら?」
と、言いのけた。
その後先輩から説明を受けて、奏補佐がしていた格好が、アニメキャラクターのコスプレであることがわかったのだが、アニメなどに全く興味の無い私からすれば、特段怒られたりしたわけじゃないのに、その朝はただただ地獄だった。
大体なんなんだ、接待魔法少女紅暁って。
真っ赤っ赤すぎるわ、名前が。
正直そんなことを思ったが、満足気に微笑んでいる奏補佐の姿を見ていると、口に出さなくてよかったと心底思った――そして
「補佐……ちなみにハイペリオン・茜・サーフェスというのは……」
「違うわ、ハイペリオン・サーフェス・茜よ。茜は宇宙人と地球人のハーフで、その身に宿した不思議な力で地球と宇宙の平和を守ろうと奮闘する20代後半の女性なの」
「20代後半なんですか!?斬新な設定ですね!」
「えぇ、しかもバツイチよ」
「そんなキャラどうなんですか……アニメとして」
「そうね、バツイチということもあって、その豊富な経験から語られ、かつ女性の心理を巧みに表現することで紡がれる言葉の1つ1つが視聴者の心を掴んでいると最近話題になっているわ」
「地球と宇宙の平和を守るお話ですよね!?」
「時は近未来、宇宙も地球もいつも悩まされるのは男女……異性間トラブル。そんな悩みをズバッと解決するのが、ハイペリオン・サーフェス・茜の仕事よ。登場するとき、『愛と正義のラヴ・シャスティス!バツイチアラサー茜のお通りだい!』って叫ぶのよ。これが今ネットで大流行中なの」
「なんかもう色々混ざってよくわかんないですね……愛と正義のラヴ・シャスティス!ってただ愛と正義しか言ってないじゃないですか……しかもバツイチアラサーって自分で言っちゃうんだ……」
「その包み隠さないところがまた人気の1つね……。それで何の用事かしら?」
変に盛り上がりを見せてしまい、奏補佐に話題を戻されてしまった。エレベーターの方を見るが、九十九課長はまだ戻っていない……が会話していた時間を考えればもう少しで戻るかもしれない。
「今しがた検察庁での用件を終えたので、これから一旦戻ろうと思います」
「あら、もう終わったの?結構早かったわね。……近くに九十九課長はいるのかしら?」
「いえ、検事長室に忘れ物をしたとかで今は近くには居ません。もう少しで戻ってくるかと思いますが……」
「そう、それなら課長と合流したら、私に連絡をくださいって伝えておいてくれるかしら」
「言伝があれば伝えますが……」
「いえ、いいのよ。仕事以外の話もあるから」
「そう、ですか」
「それではよろしくお願いします。それでは」
といって電話を切られた。
私には言えない用件がある、ということだろうか。少し気になったが、新参者の私には話せないようなことなのかもしれない。でも仕事以外の話と言っていたから……もしかしたら九十九課長の噂と何か関係があるのかも……。
と、悶々と考えていたら、エレベーターのドアが開き、中から九十九課長が降りてきて、小走りでこちらに向かってきた。
……しかもなんかニヤニヤしている。
「悪いな、待たせて」
「……課長、ニヤニヤしてどうしたんですか」
「ちょっと武井さんがな……あ、いや、この話は後にしよう。それで奏には連絡ついたか?」
「はい、先ほど通話を終えたところでしたが……なんでも直接課長にかけ直していただきたいということでした」
「ん?かけ直し?」
「はい」
「そうか……なんかあったかな」
九十九課長はスーツの内ポケットから携帯電話を取り出すと奏補佐に電話をし始めた。九十九課長は小走りで来たからかうっすらと汗ばんでいる。もしかして私を待たせまいと、急いで来てくれたのだろうか……。
そんな九十九課長から一歩距離を置く形で、少し汗ばみながらも、そのスマートな通話姿勢を見るが……この人本当に40歳なのだろうかと思うほど若く見える。冗談抜きで。
初めてこの課長に会った時も、とても10歳以上離れているとは信じられなかった。
ちなみに他の先輩から聞いた話だと、昼食を食べに課長と一緒に外に出たところ、驚くことにファッションモデルにならないかとスカウトされたことがあるらしい……。自分の年令を告げてやんわりと断ったらしい。すると、その話はあっという間に警視庁内に広がり、課長を広報用のポスターに採用しようかという話にまでなったらしいが、断固として拒否したと、いうオチまである。
そんなふうな回想を混じえながら九十九課長の電話姿を見ていたのだが、ここであることに気付いた。九十九課長は普段少しばかりの香水をつけているのだが……微かに、だが武井さんの香りがする。先ほどまで近くで話をしていたので覚えているが、うっすらと九十九課長から武井さんの香りがするのだ。試しに自分の香りを少し嗅いでいるが……武井さんの香りはしない。ということは少なくとも私よりも近い位置で九十九課長と武井さんはやりとりをしていたということになるが…………。
い、一体何をしてきたんだ、この課長。
一瞬ピンク色な想像をしてしまった。そう考えてしまうと、さっき、自分のために急いで来てくれたのだろうかと思ってしまった自分を消し去りたい。奏先輩との通話で男女がどうのこうのって話もしていたから余計にかもしれないが……本当に何やっていたんだ、この課長。
そんな余計なことにまでぐるぐると思考が回ってしまっていると――
「愛と正義の!」
と、唐突に九十九課長が叫んだ。続いて、携帯電話から一歩離れている私にも聞こえるくらいのボリュームで
『ラヴ・シャスティス!』
と、聞こえた。
あぁ、満足そうな奏補佐の表情が目に浮かぶ……。
というか、そのやりとりは階級とか関係ないんだ……。
「え、そうか?今のそんな良かったか?」
と、電話越しに九十九課長は照れているが、検察庁の出入口付近で突然叫んだので、当然周囲から視線が集まる。必然一緒にいる私にも視線が集まり、急に恥ずかしくなり、見ている人見ている人全員に向かってペコペコと頭を下げる。
その中で一人だけ、九十九課長の様子を見て、クスリと笑って立ち去っていく女性の姿が見えた。九十九課長の顔見知りだろうか――と思ったが当の本人は奏補佐との会話を続けている。
少し気になったが、その女性はすぐに姿を消してしまった。
「よし、じゃあそっちは引き続き頼む」
通話が終わったらしい九十九課長は、携帯電話を再びスーツの内ポケットにしまうと、私の方を見てきた。
「どうした、そんなに赤くなって」
「いや、課長のせいですよ」
「え、私が何かしたか?」
「直接的ではないですが……」
「?」
「私のことはいいですから!奏補佐からはなだったんですか?」
「あぁ、そうだそうだ。今とりあえず奏とも話したんだが……」
「えぇ」
課長が一歩分距離を詰めて、私の耳元で囁く――
「当分の私達の活動は、現場から逃げていった被害者探しとする」