春日家の朝
「こんなの見たら孝ちゃんきっと無理するじゃんか。俺もう5年だし、だから、そんなん別に、いいんだ……」
最後の方は、聞こえない位の小さな声になっていった。
言ったそばから、後悔でいっぱいになっていく。
こんな事、言う必要なかったのに。
新しい職場になっただけでも忙しいって事位、子供の俺にだって想像できる。
孝一郎は気付いてないかもしれないけど、ここんとこずっと1人になると難しい顔して考え事してるんだ。
そんな大変な時に平日の授業参観なんて。
(孝ちゃん、ゆったら無理するに決まってる)
ほんの数秒の沈黙の後、孝一郎が口を開いた。
「バカ者。ガキンチョが気を揉むんじゃない」
大きな手で再び俺の頭を引き寄せたかと思うと、そのままゆっくりと包み込みこんだ。
俺はこの大きな手が、大好きだ。
と嬉しく思った瞬間、再び悪夢の激痛が走る。
「いで! いでで!」
この梅干しの刑は大嫌いだ!!
「ホントに痛ぇよ!」
「子供は子供らしく、今日の給食の事でも考えてろ」
「俺は結構オトナだ!」
孝一郎は喚く俺を鼻で笑いながら時計に視線を移し、7時を回っている事に気付くと、やっと俺の頭から手を離した。
まったく、どっちが子供なんだよ。
孝一郎は素早く新聞を畳み、飲み終えたカップを食洗機の中に入れた。
「ナオ悪い。片付け頼む」
そして『参観日のお知らせ』を鞄にしまい、スーツに袖を通す。
俺はパンをかじりながら、素早く支度する孝一郎の無駄のない動きを眺め、思った。
(孝ちゃんは、他のどこの誰よりもかっこいいんだ)
牛乳を飲み干して空になったグラス越しに、背の高い孝一郎の大きな背中を眺める。
見合い話を持ち掛けるケイコおばさんから必死に逃げていた孝一郎を思い出して、思わず笑いがもれた。
でも孝一郎は結婚しない。
俺とふたりの生活。
「じゃ、いってくる」
笑顔をむける孝一郎に俺はヒラヒラと手を振り、笑顔で見送った。
ドアが閉まり独りになった部屋の中で、急に大きく感じるテレビの音。
「やっぱ、俺かなぁ……」
その呟きは、テレビの音に掻き消された。