9.弓矢と銃砲の戦い(サルフ)
皆さんは弓矢と銃砲の戦いと聞くと何を連想されるだろうか?
大航海時代のスペインを始めとする西欧諸国の侵略者達がヨーロッパで最新のマスケット銃や青銅製元込式の大砲を装備し、未開のアフリカ大陸や新大陸の人々の安住の地を犯して、金銀財宝を強奪する姿だろうか? 虐殺征服される民族の武器といえば、古代以来の原始的な刀槍と弓矢、南アメリカやオーストラリアに至っては、弓矢さえ持っていない平和で未開な人々だったのである。
中国で発明された火薬がヨーロッパに伝えられて、ヨーロッパ諸国間の国家闘争によって磨き抜かれて成長し、結果として、有力な攻城戦や防御用、野戦用の最新兵器として発達した。
大航海時代の当然の帰結としての白人国家の膨張政策による未開国への侵略は、多くの平和な国々にとって現在まで続く悲劇だった。500年間に渡る世界中からの掠奪によって、欧米諸国は今日の豊穣と繁栄を享受しているのである。
前回まで、第一次世界大戦から第二次世界大戦に至る日英独の海軍、それも主力艦の戦艦と巡洋戦艦について、若干勉強をしてみたが、今回は歴史を遡って、古代からの武器の原点の一つ『弓矢』と大航海時代に西洋が勃興した技術的要因の一つ、火薬による最新兵器、『銃砲』の戦いに関して、東アジアでの両兵器を用いた歴史転換期の三国が関わった戦争を見てみたいと思う。
時代は、明の万歴47(1619)年、朝鮮の光海君の11年、後金(後の清国の当時の国名、以下簡略化の為、清で統一して記述する)ヌルハチの天命4年である。因みに、我国の元和5年に当たり、将軍は二代徳川秀忠であった。
西のヨーロッパでは、英国のエリザベス1世が没して、フランスの太陽王ルイ14世の治世が始まる前の歴史上の大物役者の少ない時代で、英国王はジェームス1世、仏のブルボン家はルイ13世が統治していた頃の話である。
この頃には、巨砲を装備したヨーロッパ各国の大型帆走艦船による植民地獲得競争も進み、アフリカや新大陸アメリカの富の収奪が進み、世界中の金銀がヨーロッパに流入する仕組みが確立されていた。
兵器的には単独の巨人中華帝国での火器開発が徐々に進行していたのに対し、中規模の国家群の集合体であるヨーロッパでの火砲の開発競争は想像以上に激しいものがあった。
過去に中国から伝来した火薬を使用した祖型とは著しく異なる最新の火器開発が、青銅製鋳造砲として早くも15世紀末には出現している。更に、16世紀、17世紀と改良が進み、着脱式の弾薬筒を使用した初期の後装砲や大型の艦載青銅砲、新式の火縄を用いないフリントロックのマスケット銃等が続々と出現している。
火器の発達により、鎧の軽量化が進み、常備軍も生まれて、軍装の統一、制服化の流れも始まっている。陸戦の主戦力は、マスケット銃兵と槍兵、騎兵で、近代的軍隊の萌芽期とでも言えそうな段階に到達していた。
陸軍の変化に対して、海上の帆船をめぐる戦闘形態も大きく変わりつつあった。世界の海に進出する艦船の艦載砲も大型化が進み、より威力の大きな大型軍艦が建造されていったのである。
その結果、大型帆走軍艦の表示として、搭載砲門数が用いられ、搭載砲100門以上の当時としては超大型の軍艦も登場している。この時代の少し後の建造ではあるが、英国のソヴリン・オブ・シーズは砲甲板の長さ53m、備砲100門の豪華絢爛たる巨艦であった。
さて、一方の東洋の軍事情勢だが、中央アジアや中国の北部に連なるモンゴル、満州では、ジンギスカン以来の弓騎兵の時代が続いていた。比較的軽装甲の騎兵が、弓矢、槍、刀を装備し、隊列を組んで軽快に行動する軍隊を効率的に編成したヌルハチは満州全土の女真族とモンゴル族、一部の漢族を指揮下に掌握、三つの民族を統合して、大国明に挑戦したのであった。
(清軍の編成と弓矢)
ヌルハチは構築した清軍の編成は、「八旗」と呼ばれ、この戦い以降、明軍と明国民全部に恐れられ、特に、首都北京から北方、現在の遼寧省に居住する漢族の恐怖は増大する一方となる。
八旗の謂われは、各隊が掲げる四色二種類の旗による。その色は黃、白、紅、藍の四色で、それぞれの旗は正黃、正白等と呼ばれた。当初、この四色の旗のみだったが、領土の拡大による国民の増加と兵員の増加によって、各色の旗に縁取りを施した鑲黄旗、鑲白旗等が増え、全部で八旗の軍団編成が整っていった。
八旗は大モンゴル帝国以来の弓騎兵で、機動性に富んでおり、ヌルハチは八旗の兵を時には、八旗一括で、時には二旗または三旗と臨機応変に分割使用して、満州を統一している。
弓矢は、ユーラシア大陸を主に、各地で発達したが、東西の攻防の激しかった地域の発達は著しかった。特に、西のトルコと東のモンゴルの弓矢は優秀といわれ、両者共に小型で馬上の携帯に便利な形状ながら、遠射距離や貫通力に優れていた。ヌルハチの八旗兵が保有する弓矢もモンゴル系統を引く弓矢と考えられ、時代が新しい分、紫禁城その他の陳列品として、清朝中期以降の清軍の弓矢が展示されているので、参考になると思う。
馬上用短弓の最終改良型とでも表現すべき清軍の弓矢は、速射性能にも優れていた。
(明と朝鮮軍の銃砲装備)
話は遡って、壬辰倭乱の折の明、朝鮮、日本の各軍の兵器装備の特徴と各国の反応とその後の対策を概述してみたい。日本軍が種子島と長槍を主に編成されていたのに対し、朝鮮軍は旧来の弓矢を主とした装備で戦っている。一方の救援軍明軍は、満州での騎馬戦闘になれた兵と東アジア最大の大砲の装備率を誇って参戦した。
その結果、朝鮮軍に大変革が起きて、騒乱終了後、日本軍の種子島をコピーした鳥銃が朝鮮軍内部に急速に普及していった。その影響は、明国軍にも及び従来の明国製の銃を捨てて、一部で鳥銃を装備するようになっていた。また、各種大砲の装備を誇った明軍には、更に、ポルトガル等からヨーロッパ製最新砲の「フランキ砲」も購入して日本軍を苦しめたのであった。
明軍の大砲に苦しめられた日本軍だったが、参戦諸大名の大砲に関する感心は、予想外に低く、各藩の砲術家も台車に据えた大砲の研究には無関心で、手持ちで撃てる「大石火矢」の開発を行った程度で終始している。唯一、大砲に感心を示したのが、文禄慶長の役に不参加だった徳川家康で、海外から輸入の大砲も含め相当数の大筒を大坂冬の陣で有効活用、豊臣家の没落を早めている。
東アジア最大の大国、明の火器に関して、管見の範囲で申し訳無いが、略述してみたい。代表的な当時の明の大砲は次の通りだが、どの火器が、サルフの戦場で用いられたか、余りはっきりしない。ご参考程度と考えてお読み頂きたい。
・大将軍砲(鋳鉄製箍付きの大型砲)
・フランキ(原始的な後装砲で、大中小があり、明軍の主力となる備砲、
靖国神社遊就館や北京の首都博物館に参考展示品があると聞く)
・虎蹲砲(虎が蹲ったような形状から、そう呼ばれ長砲身で散弾100個を
装填して発射)
・霹靂砲(一種の臼砲で、虎蹲砲と同様に散弾を装填して、対騎兵及び
歩兵に使用)
その他に、威遠砲等種々の火器があったようだ。これらの火砲は元代以降、種々の改良が進んで、城塞防御用の他、明では野戦用としても使用されていた。近接戦闘用の小火器として明軍は、短い銃身三本を束ねたような三眼銃を携行していたようだ。
「満州実録図絵」に描かれている明軍の陣地を見ると中小のフランキ砲、虎蹲砲を主として装備しているように見える。当然ながら、明軍としては、速射性に乏しい、フランキ砲や虎蹲砲の欠点を十分に認識しており、野戦での砲列の前には塹壕を掘って守備を強化しているし、砲列の周囲や前列の兵には、枝の付いたままの長い竹の先に槍の穂先を付けた障害用の長柄武器を配置して備えていた。
「壬辰倭乱」で古代からの『弓矢』を主力武器として戦い、日本軍の種子島銃に手痛い打撃を受けた朝鮮王朝は、明朝以上に日本式の種子島のコピーを(朝鮮王朝では鳥銃と読んだようだ)を多数装備していた。
日本軍の戦力を過小評価していた明軍の諸将も種子島の集団使用による攻撃、防御能力には驚嘆し、鳥銃の装備を進めている朝鮮軍の内部事情も知った上での朝鮮王朝への増援軍依頼であった。新鋭の各種大砲を保有する明軍であったが、朝鮮軍が多数装備する近接戦闘用鳥銃の威力を頼むところがあった故の増援依頼であろう。
その為もあってか、満州に入った朝鮮軍の鳥銃装備率は相当に高く、当時のヨーロッパや日本の軍隊の平均的な銃装備率15%~30%よりも、この戦役だけで考えると、若干、高かった可能性がある。加えるに、長柄の矛を近接防御用の主武器として混用する軍隊が、支援参加の朝鮮軍だった。しかし、満州族騎兵の練度と農民から徴募した兵の多い朝鮮軍の戦意の差も考慮すると兵器の差を含めた相対的な戦力差はどの程度だったかは、実戦の結果で判断するしか無いのが現実であろう。
(開戦前の三国の状況)
当時、清(後金)の根拠地は、現在の遼寧省撫順東方のヘトアラにあり、明軍は10万余の大軍を持って四方向から包囲殲滅する作戦であった。一方の後金軍の兵数ははっきりしないが、一万騎余から2万騎少しだったと思われる。いずれにしても、兵力的には、四分の一以下だったと考えられる。
要するに、一路平均約2万5千、四路10万余の明・朝鮮連合の大軍に対して、清軍は約四分の一以下の少ない兵力で対決せざるを得ない状況が戦闘開始前の実情であった。強いて言えば、清軍は明側一路の軍に対しては、運用に仕方によっては機動力で優位に立てる可能性のある、やや有利な兵員を持っていた可能性が高い。
もう一つ双方の兵器と兵数以外の相違点を上げると明、朝鮮軍には、先の壬辰倭乱以来の歴戦の戦争経験者が多く、決して平和ぼけした外見だけの軍隊では無かった。また、清朝側の兵員構成を見ると始祖ヌルハチによって磨き抜かれ、機動性に富んだ騎兵集団、『八旗兵』に編成されていたのであった。大枠では、歩兵主力の明朝連合軍と騎兵主力の清軍の戦いとご理解頂きたい。
また、朝鮮王朝の内情事情から考えると、決して参加したくて参加した戦場ではなかったのである。先の日本との戦いで救援を受け、国家滅亡の危機を救って貰った、「再造の恩」がある為に、不本意ながら参加した戦いとみても過言ではない。
支援の朝鮮軍総司令官である都元帥の姜弘立自身、都元帥への就任を三度も辞退した上での厭々の就任であった。
一方、姜元帥に出発を命じた国王の光海君自身も壬辰倭乱では、多くの困難を味わった身であり、当時の東アジアの国際情勢も十分に理解していたと考えられる。朝鮮国王としては、明とも清とも戦わずに中立外交が出来れば、最も望ましいと光海君は考えていたと想像される。
今回は、明から清へ中華帝国の主催者が替わる東アジア激動期のスタートとなる1619年の戦いの話だった。最新火器で装備が充実していた明朝鮮連合軍、旧式兵器の弓矢装備の清軍だったが、兵器の新旧の違いも運用法と戦術によっては、最新兵器が戦術術上の優位を保持できない場合も希にはあるという結果だった。
戦艦ビスマルクの項で、布張り複葉の旧式雷撃機ソードフィッシュがビスマルク撃沈に大きな功績を上げたが内容を示したが、今回も清の太祖ヌルハチの柔軟な思考と自軍兵器の欠点と敵軍装備の長所を冷静に判断した結果の戦術選定が、太祖に勝利の果実をもたらす結果となった。
(サルフの戦い始まる)
総兵力で約四分の一以下と兵力で劣るヌルハチは、四路(以下、四路の北路等の名称は便宜的に付けた)から攻撃してくる明、朝鮮連合軍に対して、各個撃破の戦術をとった。それも、明軍に包囲攻撃される欠点を長所に変える「内線作戦」を立案して待ち構えていたのである。
内線作戦とは、敵包囲の中心に位置する味方の機動力を最大限に生かし、少数の味方で多数の敵勢を分断して、各個殲滅する手法で、ヌルハチの率いる八旗兵の持つ機動力は、この奇策を完成させる重要な要因であった。
次に、ヌルハチが熟慮した問題点は、明軍、朝鮮軍が保有する大量の最新火器、大砲と鳥銃対策であった。
フランキ砲は前に述べたように原始的な後装砲であり、虎蹲砲も前装砲のため、再装填に相当の時間を要した。ヌルハチが検討、実施した対処方法は、次の通りである。
八騎兵の機動力を最大限に生かした急襲攻撃を主としながらも、明るい太陽の下での正面戦闘を避け、宵闇迫る夕刻、あるいは夜の奇襲攻撃を多用した事。明軍の陣地の前に塹壕等の障害施設が存在するケースでは、騎馬による急襲を避けて、下馬の上、重武装の歩兵となって攻撃を開始し、突破口が開かれた瞬間、軽装弓騎兵を敵陣に突入させて、乱射、壊滅させる戦術を用いている。
更に、戦況を把握して、八騎兵の内、二騎の部隊を牽制に出し、残りの六騎の兵力で明軍を三方向から包囲攻撃して、殲滅を図るなど、臨機応変に作戦を相手によって変えて、勝利を確実なものとしている。
また、戦闘当日の天候も清軍に大きく味方した。戦闘時、強い風が清軍側から明軍側に吹いて、濛々たる土埃の壁が押し寄せて、視界を大きく遮って火器の射撃目標を失わせ、大砲の再装填を難しくして、連合軍の戦意を大きく低下させている。
最初に攻撃を受けたのは、山海関総兵官杜松の率いる西路3万2千の軍で、3月1日宵の薄明かりの中、攻撃が始まった。急襲と小雨の影響も大きく、明軍は短時間で壊滅、杜松は戦死している。
翌2日、北路の開原総兵官馬林率いる3万の兵が攻撃を受ける。明軍は陣前に三重の塹壕を掘って火器を発射して頑強に抵抗を試みたが、清軍はヌルハチの命令一下、下馬攻撃によって、前線を突破、明軍は壊乱、馬林は敗走している。
開戦4日目の3月4日、遼陽総兵官劉鋌と支援の朝鮮軍1万を含み2万の軍が、三方向から包囲攻撃されて、朝鮮軍の前軍5千は瞬く間に壊滅、中軍の都元帥はヌルハチからの降伏勧告に5千人を率いて降伏している。
残る遼東総兵官李如柏は撤退に掛るも敗走、総兵官は自殺。この間、僅か6日間、明軍と朝鮮軍の戦死者は4万6千名を越えて、負傷者を含めると10万余の明朝連合軍は壊滅といって良い、清軍の快勝であった。
それでは、何故、東アジア最新の大砲、鳥銃を大量に装備した明と朝鮮連合軍が、弓矢と刀槍しか持たない清軍に脆くも敗れ去ったか、考えてみたい。
第一は、当時の火器は再装填に時間が掛ったことである。鳥銃ともかく虎蹲砲などは先込め式の上、火薬の後から小銃弾100発を装填しなければならず、一発目の散弾射撃は極めて有効な可能性を秘めてはいたが、眼前に近接急襲する八騎兵に対する恐怖で秩序だった発砲、再装填を維持出来なかった恐れも実戦ではあり、もしかしたら、その点が明軍、最大の敗因だかも知れない。
更に、ヌルハチは、陣前に戦車や楯を厳重に並べて防御している敵陣に対しては、下馬させ、重甲を着た刀槍の歩兵を前列に、軽装甲の弓騎兵を配置して攻撃する、臨機応変の対応をして敵陣を突破している。
良く訓練され統御された満州兵を手足の如く使うことによって、旧式の弓矢と刀槍を装備した騎兵で、最新の重火器装備の明軍を壊滅させる結果となった。
明軍側の欠点を上げると総司令官楊鎬は後方の瀋陽を動かず、個々の四路の将に全てを任してしまい通信手段の乏しい当時、指揮系統が破綻していた。それを更に加速したのが、四路の各将の中の悪さで、個々の将帥を見ると名将と呼ばれる総兵も多かったが、ヌルハチの各個撃破の作戦に屈してしまった。
戦線を突破され、フランキや虎蹲砲の砲列が転倒、散乱する中を弓矢や刀を振りかざして勇躍突入する八旗の兵達の姿を残された絵から見ると、兵器の新旧よりも、相互の兵器の差異を十分に勘案して戦術を立案したヌルハチの凄味と指揮能力の卓抜さを強く感じる。
また、外交的には、戦意が低い応援朝鮮軍に対しては、前軍を破った後、出来るだけ戦闘を避け、降伏勧告を行い都元帥姜弘立以下の降伏を受け入れ、都元帥以下の幹部十数人は抑留したものの厚遇し、5千人以上の兵員は母国への帰還を許して、今後の朝鮮との外交交渉の道を残す、賢明な策をとっている。
以上、『サルフの戦い』の概要を述べたが、実は、上記の記述には、種本がある。ヌルハチの子ホンタイジ(清の太宗)時代に造られた「太祖実録戦図」を基にして、後年の乾隆46(1781)年に完成した「満州実録図絵」8巻8冊があり、日本でも、刀水書房から「満州実録」の書名で、1992年に出版されているので、清朝研究者の方でご覧になった記憶のある方もいらっしゃると思います。
この図絵は、サルフの戦いを勝利者清朝の側から描いた絵図であるが、四路での戦闘が生き生きと描かれ、文章を読むよりも絵や写真で感じる方が得意な小生にとって、過去に起きた東アジアでの歴史的戦闘を彷彿とさせる貴重な資料の一つである。また、注記も三つの言語、満州文、漢文、蒙古文で記載されていることも、清朝期の文化の流れを感じさせて興味深い。
サルフの戦いの7年後(1226年)、明の名将袁崇煥が守る寧遠城をヌルハチが八旗兵を率いて包囲攻撃している。袁崇煥はヌルハチの攻撃に備えて、ポルトガルから最新の紅夷砲を多数購入して城壁に配置、清国軍に猛射、撃退しただけでなく、その中の一弾によってヌルハチも負傷、数日後、その傷が元でヌルハチは没したといわれている。
誰しも、いざといった際には最も得意とする技で勝負を決したいと考えるのが人情だが、大得意の技で大失敗をする例も枚挙に暇が無い例証の一つとなろう。