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8.以外に古かった戦艦ビスマルクの装甲と対空設計

ナチスドイツ海軍の戦艦ビスマルクの優秀艦としての評価は戦後長い間高かった。戦艦大和が登場するまで、世界一の巨艦で有り、攻防力を兼ね備えた最新鋭の戦艦、あるいは、英国海軍の第一次大戦を代表する巨大巡洋戦艦フッドと新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズとの行き詰まる砲撃戦。その直後のビスマルクからの斉射弾命中によるフッドの轟沈と勝利等、話題に事欠かない戦艦であったが故の評価であろう。


最初に、時代を前回の第一次世界大戦のドイツ戦艦まで遡ってみよう。ドイツ帝国が第一次世界大戦に投入した新鋭戦艦、新鋭巡洋戦艦の数は多く、ユトランド海戦その他の海戦で優秀な性能を内外に示した。特に、同海戦での英国巡洋戦艦が遠距離砲戦時の防御能力に関して大欠陥を露呈したのに対し、ドイツ戦艦及び巡洋戦艦の装甲板配置は適切で、前述のように艦内に5,000トン以上の海水が浸入し、艦首が水没し掛ったザイドリッツでさえ、適切な 防御設計とダメージコントロールの優秀性によって、本国まで帰還して修理を完了することが出来たのである。

一方、英国艦隊は巡洋戦艦3隻を瞬く間に撃沈され劣勢は覆うべくもなかった。しかし、大海戦での英国巡洋戦艦3隻の撃沈程度では、大英帝国の海上支配能力はビクともしなかったのである。 

英国の経済(海上)封鎖によって、ドイツは主戦場の陸上の戦いの勝敗に関係なく、今でいう経済戦争によって帝国自体が崩壊を始めて、戦争そのものを失ってしまったのである。そして、敗戦国ドイツ海軍の大艦隊は、英国北部の軍港スカパフローに回航され、悲惨な自沈の道を選ぶしか、選択の余地の無い死地に至ったのであった。


敗戦後のドイツの再軍備には連合国から厳しい種々の条件が課せられた。海軍、特に戦艦の建造には航空機、戦車と共に最も過酷な条件の履行を求められた。

曰く、

「軍艦の最大排水量は1万トン以内とする」

この条件下で建造できる艦は、第一次世界大戦のレベルで考えると小型低速の海防戦艦か装甲巡洋艦程度しか考えられない厳しい条件であった。

この条件下で、再生ドイツ海軍が苦心の末、建造した艦が有名な『ポケット戦艦』3隻である。総トン数1万トン(実際は、1万2千トンであったが)の小型の艦体に戦艦並みの28cm砲、3連装2基を装備し、当時の戦艦の速力以上の26ノットの高速で走る小型艦を実現したのであった。

20cm砲以下の口径の大砲しか持たない各国の重巡洋艦に対しては、大口径の砲力で圧倒し、大口径砲で勝る敵戦艦には優速を利して離脱を図る、深慮遠謀、奇想天外な発想の艦であった。ポケット戦艦の登場は、ライバルであるフランス海軍やイタリヤ海軍を刺激し、ポケット戦艦対抗の高速戦艦の設計検討に踏み切る結果となった。


そこで、ナチス海軍が第二弾として建造し戦艦がシャルンホルストとグナイゼナウの2隻の高速戦艦である。艦名もフォークランド沖海戦の勇将フォン・シュペー提督が率いた2隻の装甲巡洋艦の艦名を奇しくも引き継いでいた。

この2隻は完成を急いだ為、ポケット戦艦と同じ小型の28cm砲3連装3基=9門になってしまったが、本来は38cm砲連装3基=6門を搭載予定だった。


シャルンホルスト級2隻に続いて計画されたのがビスマルク級2隻の戦艦であった。ナチス海軍としては、初めて十分な防御装甲を持ち、強大な攻撃力と高速の機動性を兼ね備えた無敵の戦艦として万全の設計の基に建造された。

さて、戦艦ビスマルクの設計は、第一次世界大戦当時の旧独帝国海軍最後の超ド級戦艦バイエルンの設計図面を基に設計、建造されたと聞いているので、比較のため、バイエルンとビスマルクの概要を次に示す。


バイエルン   28,800トン   全長 180m  速力22ノット

          主砲 38cmx8門    副砲 15cmx16門


ビスマルク   45,950トン   全長 251m  速力30ノット

          主砲 38cmx8門    副砲 15cmx12門


確かに、排水量と速力に時代的に見て、一世代古い大きな違いがあるものの主砲や副砲の口径や装備数にそれ程大きな差は感じられない。

第一次世界大戦における独戦艦独特の装甲の配置やダメージコントロールの優秀性を考えるとバイエルンを参考にした海軍設計当局の判断も納得できる気がする。


強いて、問題点を上げるとすれば、第一次世界大戦の独戦艦は、艦体全体を防御する方式の全体防御思想の下に設計されていた。それに反して、1930年以降に建造された米英日の列強海軍の戦艦は艦中央の弾火薬庫等の脆弱部を集中して防御する集中防御システム設計によって建造されている。

更に細かい相違点を上げれば、ユトランド沖海戦以後の戦艦の舷側装甲板の設計の特徴である傾斜鋼板の採用が、ビスマルクでは無かったし、第一次大戦型戦艦になかったものの一つは、十分な航空攻撃に対する近接対空火器を含む航空機防御システムでは無かっただろうか?

この点、ビスマルクは前述した我が大和型戦艦に比較して遙かに劣る対空火器(但し、大和も就役時と大戦末期では対空火器装備状況が大きく異なった)しか装備していなかった。 ご参考にビスマルクの対空火器を上げると次の通り。


   10.5cm連装高角砲x8  37mm連装機関砲x8 

 20mm単装機銃x12


1940年8月にビスマルクが就役して9ヶ月、ナチス海軍はビスマルクと同型艦ティルピッツ、高速戦艦がシャルンホルストとグナイゼナウ、重巡洋艦プリンツ・オイゲンの5隻の艦隊によって北大西洋上の船団攻撃作戦を計画した。これら5隻はどの艦も単艦で優秀な艦船の上、5隻編成での戦隊打撃力に独海軍部は極めて大きな期待を持って計画を立案、実施しようとしていた。

しかし、幸運はビスマルクと指揮官のリュッチェンス提督に味方しなかった。同型艦ティルピッツは準備が間に合わず、グナイゼナウは英空軍の爆撃により損傷して修理が必要となり、頼みのシャルンホルストも機関の補修を要する状態になってしまっていた。

その結果、ビスマルクは重巡洋艦プリンツ・オイゲンと2隻だけの寂しい出撃となってしまったのである。


ビスマルク出撃の報に英国海軍は同海軍最大の巡洋戦艦フッドと新造戦艦、まだ出来立てホヤホヤのプリンス・オブ・ウェールズの2隻をデンマーク海峡に急派したのであった。

第一ラウンドのデンマーク海峡での遭遇戦では、幸運はビスマルクに味方した。内実は分明ではないが、英国のフッドは先頭艦のプリンツ・オイゲンをビスマルクと誤認(ドイツ海軍は重巡の艦形を戦艦ビスマルク級に似せて設計していたとの説が一部にある。確かにプリンツ・オイゲンの姿とビスマルクの艦形が実に良く似ている)して最初の攻撃目標を先頭のプリンツ・オイゲンとして砲撃を開始している。

その間、後続艦のビスマルクは余裕を持ってフッドへの照準を終え斉射を開始。5斉射目で夾叉、フッドは火薬庫が誘爆、一瞬にして轟沈している。

続いて、後続艦のプリンス・オブ・ウェールズとの砲戦に入ったビスマルクは、同艦に3発の命中弾を与えるもののビスマルク自身も3発被弾して、2000トンの浸水被害を出している。

しかし、デンマーク海峡での英独の海戦は、損傷を負ったプリンス・オブ・ウェールズ煙幕の陰に逃げ込んで遁走を図った為、ドイツ側の一方的な凱歌となった。


「フッド轟沈」

の報は英国海軍省だけで無く、首相チャーチルを含む英国の国民全員の心を震撼させた。しかし、冷静なアングロサクソンは、直ちに動員できる海軍力の全てを

「ビスマルク撃沈」

に向けて総動員したのであった。

中破損傷した戦艦プリンス・オブ・ウェールズはもちろんのことデンマーク海峡周辺にいた全ての艦船を投入してビスマルクの発見に務める一方、本国艦隊を始め遠く地中海が主任務のジブラルタルのH部隊までも呼び寄せてビスマルク大包囲網の構築を図ったのである。

プリンス・オブ・ウェールズの同型艦のキング・ジョージ5世、40cm巨砲搭載艦ロドネー、空母ヴィクトリアス、更に遠くジブラルタルから駆けつけたH部隊の巡洋戦艦レナウン、空母アーク・ロイヤル、それに多方面からの巡洋艦部隊が参加した。


当初、ビスマルクの西大西洋出撃の目的は通商破壊戦であったが、プリンス・オブ・ウェールズからの反撃により、燃料タンクから一部の油が流出を始めた為、燃料残量の心配になったリュッチェンス提督は通商破壊戦への作戦計画の続行を諦め、フランスのブレスト軍港に進路を変更している。

また、理由は不明ながら、僚艦プリンツ・オイゲンを分離、単独で行動するよう指示している。この瞬間から、ビスマルクは僚艦のいない単艦単独行動の孤艦になったのである。


ビスマルク迎撃戦第二段階の最初の主役はH部隊の空母アーク・ロイヤルから発艦した布張り複葉の雷撃機ソードフィッシュであった。ソードフィッシュは最高時速224kmの旧式機で、太平洋戦線では使用不可能な性能の雷撃機だったが、空母を持たない独伊の艦隊相手にタラント空襲を始め対戦初期に大活躍していた。

そして、戦艦ビスマルクには防御装甲の他に前述したように、もう一つ大きな致命的な欠点が有った。それは、対空火器の不備であった。対空火器として、20mmと37mmの対空砲があったが、37mm砲は有名なボフォース40mm機関砲に比較して速射性に乏しい対空砲であり、近接対空砲として有効な砲は20mm砲しか無かった上、主砲や副砲と違って、出撃前に十分な対空訓練が兵員に実施されていなかった可能性が高いといわれている。

その結果、飛行機の護衛が無く、近接対空火器の弾幕の疎らなビスマルクは、ソードフィッシュの雷撃によって、戦艦の航行に最も大切な舵機に損傷を受けてしまったのであった。


舵機が故障したビスマルクは目的とするフランスでは無く、反対の北に向かった。そこには大英帝国海軍の総力を挙げた戦艦、空母、重巡洋艦群が待ち構えていた。

40cm巨砲搭載艦ロドネー、新鋭戦艦キング・ジョージ5世、プリンス・オブ・ウェールズ、空母アーク・ロイヤルそして、ヴィクトリアスである。

砲戦開始後40分で、ビスマルクの主砲、司令塔、測距儀等の上部構造物は悉く破壊され、ビスマルクに反撃の手段は殆ど残っていなかった。

特に、砲撃の後半ではビスマルクへの射撃距離は相当に近く、どの英艦の主砲も近距離射撃になっていたし、特にロドネーの40cm砲は水平射撃状態になっていた。

しかし、反撃の手段を失いながら、包囲した多数の英国戦艦と巡洋艦からの一方的な射撃によってもビスマルクは浮いていたのであった。この点がビスマルクの不沈性を英国海軍の多くの将兵に強く印象づけた要因だったと考えられる。

第一次世界大戦期から続く独海軍の伝統設計である、近距離砲戦での卓越した装甲面の設計能力と実戦での攻防両面での優秀艦を建造し続けた実績が、最後の時点でも維持されており、不沈性を保っていたのであった。


逆の視点で見れば、武蔵や大和が米海軍の航空攻撃によって受けたような水線下への執拗な魚雷攻撃や遠距離砲戦による高落差砲弾に近い急降下爆撃による攻撃をビスマルクは殆ど受けておらず、日本海軍の戦艦のように戦前には予想できなかった想定外の攻撃を受けずに、独の戦艦設計者にとって想定通りの幸せな状況(艦上の悲惨さと大きく矛盾する表現で申し訳無いが)だったかも知れない。

けれども、ビスマルクの最後は急速に近づいていた。


ビスマルクの沈没に関しては、以前から二つの説があった。一つ目は、戦艦、重巡洋艦からの滅多打ちの砲撃でもビスマルクの撃沈は不可能と悟った英海軍が巡洋艦の魚雷攻撃によってビスマルクを海底に葬ったとの説。

二つ目は、ビスマルクによる自沈説である。自艦の寿命を悟った独海軍自ら艦底を爆破、ビスマルクは艦首から垂直に沈んで行ったという独で支持されている説である。

もし、自沈説が正しいとすれば、第一次世界大戦からの長い伝統を基に、更に改良されたビスマルクの装甲配置と防御機能は、最後まで不沈性能を堅持していたと賞賛して良いのではないだろうか!


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