7.弱すぎた英国巡洋戦艦(第一次世界大戦ユトランド沖海戦)
金剛型の高速戦艦の比叡、霧島が米国の新型戦艦と交戦して、砲撃戦で沈没した件は前述したが、その根本的な要因について述べなかったので、今回は、金剛型が本来属している『第一次大戦型巡洋戦艦』に関連して考えてみたい。
一言で巡洋戦艦を表現すれば、
「弱い者にはとことん強く、強い者にはとことん弱い、弱い者いじめの代表のような軍艦」
「戦艦並みの主砲を持ち、巡洋艦並の軽装甲と高速力の軽快な軍艦」
あるいは、
「同等の艦種:巡洋戦艦同士ではまともに戦う事も出来ない虚弱な防御力の軍艦」
とでも書くしか無い海軍の情けない主力艦であった。
巡洋戦艦は、一人の天才的な海軍軍人によって考えられた艦種である。時代的は、英独の建艦競争華やかだった第一次世界大戦直前の年代に建造された軍艦であった。
当時の英国海軍本部第一部長の要職にあったフィッシャー提督は、従来型の戦艦二隻に対し、単艦で戦える驚異的高性能の新戦艦『ドレッドノート』を企画、短時間で建造したのであった。
HMSドレッドノート(敵う者無し)は、日露戦争の日本海海戦の成果と問題点を徹底的に研究した英国海軍によって、信じがたい短期間で建造された戦艦である。従来の戦艦を少し大きくした程度の艦体ながら、従来艦では考えられないような驚異的な性能(従来の約二倍の破壊力と高速性能)を誇っていた。その要点は、
1)単一巨砲搭載艦(従来の戦艦の主砲が30cm砲X4門なのに対し、倍以上の砲門数の30cm砲を搭載)
2)従来の装甲巡洋艦並の高速性(従来の戦艦が18ノットだったのに対し、20ノット以上の速力を保持していた)
新式戦艦ドレッドノートの登場によって、世界中に多数存在した各国の従来型戦艦は旧式艦のレッテルを貼られる結果となってしまったのである。『ドレッドノート』の名前は一躍世界中で有名になり、百年以上経った現在でも「ド迫力」とか、「ド級で旨い」とか、会話の中で表現される機会も多い「ド」の語源となった。
高名な戦艦ドレッドノートと同時に、フィッシャー提督によって新規に企画建造された、ペアーのような艦それが、巡洋戦艦であった。
そのコンセプトは、『高速は最大の防御なり』の建艦思想に立っており、戦艦と同等の攻撃力を維持しながら、戦艦よりも速い高速性(機動力)を維持する分、防御力に直結する装甲板の厚さは装甲巡洋艦並に薄い部分の多い、防御力に欠ける艦種であった。
フィッシャー提督の持論として、攻撃力と機動力に優れた分、防御力の不足部分は、機敏な機動力で十分補えるだろうとの自信の基に建造された。
この信念の基、ドレッドノートと同時に建造されたフィッシャーの戦術的野心作の巡洋戦艦はインヴィンシブル、インドミタブル、インフレキシブルの3隻であった。主力戦艦のドレッドノートが1隻しか建造されなかったのに対して、戦術的野心作の巡洋戦艦の建造数が3倍の隻数だったところにフィッシャー提督の将来的な海戦面での構想の大きさと危うさを個人的には感じる。
この後、フィッシャー提督の熱血指導の元、英国海軍は、次々と改良型の巡洋戦艦を建造している。2番目のインディファティガブル級3隻、3番目のライオン級3隻である。
それでは、巡洋戦艦が如何に弱者に強く、同等の艦種には弱かったかを歴史から実証してみたい。
第一次世界大戦劈頭、ドイツ海軍が海外に持つ艦隊で最大の戦力は中国山東省青島のドイツ東洋艦隊であった。同艦隊は日露戦争型の装甲巡洋艦2隻を中核として、軽巡洋艦数隻からなっていた。
本国のドイツ海軍司令部は、同艦隊の本国帰還を指示、フォン・シュペー提督率いる艦隊は本国帰還を果たすべく太平洋を横断、待ち構えていた英国艦隊とチリ沿岸のコロネル沖で遭遇、戦闘となったが、英国装甲巡洋艦2隻を撃沈、軽巡その他を追い散らして勝利を飾り、ドイツ艦隊は大西洋へと向かった。
英国艦隊惨敗の報に驚愕した英海軍省は急遽、最新鋭の巡洋戦艦インヴィンシブルとインディファティガブル2隻を中核とする強力な艦隊を派遣した。
英国の巡洋戦艦は主砲の大きさ、装甲の厚さ、艦の速力の何れをとってもドイツの装甲巡洋艦より大きく勝っていた。まるで、アマチアの学生相撲にプロの大相撲力士が参戦したような違いであった。更に、悪いことに長期間の航海によってドイツ艦隊は艦底の汚れの付着が大きい上、補給品の供給に苦しみ速力も本来持つ性能から大幅に低下していたのである。
アルゼンチン沖のフォークランド諸島で待ち構えていた英国巡洋戦艦の魔の口に飛び込むような形で、ドイツ東洋艦隊は交戦状態に入り、自艦の砲戦距離に入ることも出来ずに遠距離から英国巡洋戦艦に一方的に撃たれて装甲巡洋艦2隻は沈没、ドイツ艦隊は壊滅した。
当に、英国巡洋戦艦を急派した英国海軍省の思惑が的中した瞬間であったし、フィッシャー提督の巡洋戦艦戦術構想が見事な成果を挙げた瞬間だった。
しかし、英国巡洋戦艦のフォークランド沖海戦の栄光は長続きしなかった。
間もなく、本国での英国艦隊とドイツ艦隊がユトランド沖で本格的艦隊決戦に向けてにらみ合う状況に至ったのである。両艦隊共に主力の戦艦戦隊の前衛として巡洋戦艦戦隊を配置していた。
その結果、英国とドイツの巡洋戦艦戦隊同士の砲撃戦が、ユトランド沖海戦のスタートと成ったのである。
ユトランド沖海戦の内容に触れる前に、英独双方の巡洋戦艦の相違について、簡単に述べよう。分かり易くするために海戦に参加した両国の巡洋戦艦2隻の概要を上げる。
クイーン・メリー(英) 26,270トン 34.3cm砲X8門 速力27ノット 1913年就役
ザイドリッツ(独) 24,610トン 28cm砲X12門 速力26.5ノット 1913年就役
排水量に若干の差異があるが、2つの巡洋戦艦の最大の違いは主砲の口径の大差であろうか!
英海軍は新しい艦を建造する度に主砲口径の増大を図っているのに対し、独艦は同時期建造の戦艦、巡戦では、常に英海軍より一回り小さな口径の主砲装備となっている。それ以外の排水量や速力にそう大きな相違点は存在しない。
上記の記載以外の事項で、最大の相違点は、防御装甲の違いであった。独艦は伝統的に搭載している主砲と同等の敵の砲撃に対し、耐え得るような重防御設計になっていたのに対し、英艦は、搭載主砲と同等の口径を装備する敵からの砲撃に対しては、耐えられない薄い装甲しか装備していなかった。特に、水線甲帯はともかく遠距離からの高落差の砲弾防御に必要な水平装甲板や砲塔廻りの装甲は極めて薄かった。その根底には、『高速は最大の防御なり』の確固たる建艦思想があったからと想像される。
ユトランド海戦は午後、それも夕方に近い時間に英独の巡洋戦艦戦隊同士の砲撃戦によって開始された。交戦開始後、間もなくの16時05分、英巡戦インディファティガブルは、独巡戦フォン・デル・タンからの第2斉射の3発が命中、轟沈してしまった。その20分後の16時25分には、英国巡洋戦艦クイーン・メリーは独巡洋戦艦ザイドリッツ及びデルフリンガーからの斉射弾が命中して、轟沈している。轟沈とは敵弾が命中して3分以内に沈没する状態をいう。
更に、それから約1時間後の18時33分、独巡戦隊はフォークランド沖海戦の敵討ちを果たした。英巡戦インヴィンシブルと砲戦中のデルフリンガーの砲弾が砲塔に命中、火薬に誘爆、轟沈させている。この3隻の英巡戦轟沈の原因は、砲塔あるいは砲塔近くに落下した砲弾による火薬の誘爆が主な原因と推測されている。英巡戦の砲塔と砲塔周辺の装甲には致命的な欠陥が内在していたのであった。
英独、巡戦同士の海戦で、英国はインディファティガブル、クイーン・メリー、インヴィンシブルの3隻を失ったのに対し、防御装甲の充実した独側はリュッツオウ1隻の喪失で済んだのであった。
ここに、英国海軍省が唱えた、『高速は最大の防御なり』の建艦思想が、全く軍事的に意味をなさない空理空論である事実が全世界に知れてしまったのである。
逆に、自軍よりも大口径の英巡戦の砲撃に対して、独巡戦の装甲と防御機能はその役目を十分に果たした。独巡洋戦艦ザイドリッツは英側の38cm砲弾を含む21発の巨弾と魚雷1発を受けて満身創痍となり、艦内への浸水が約5,300トン近くに達しながらも、海面を這うように航行して母港に帰り着いている。ザイドリッツ始めとする独の巡洋戦艦戦隊の諸艦は建艦技術とダメージコントロールの優秀性を世界に示したのである。
この時点に於ける独海軍の主用戦闘艦の防御設計は世界一と見ても過言ではないと考えるが如何であろうか!