6.第二次世界大戦で大活躍した旧式戦艦
独海軍の戦艦ビスマルク、日本海軍の戦艦大和を始め第二次世界大戦で活躍した新鋭戦艦は多数存在するが、しかし、同大戦中の連合軍側の最高殊勲戦艦を挙げるとすれば、英国の戦艦ウオ―スパイトであり、日本海軍の戦艦12隻の中では戦艦金剛が挙げられる。
英国の戦艦ウオ―スパイトは、第一次世界大戦型の旧式戦艦クイーン・エリザベス級の一艦であり、戦艦金剛はウオ―スパイトよりも更に建造年の古い第一次世界大戦前就役の巡洋戦艦金剛級の第一艦で、両艦共に第二次世界大戦開始時には既に艦齢30年以上の高齢の戦艦であった。
いうなれば、第一次世界大戦型の旧式戦艦が、最新鋭の戦艦群に混じった第二次世界大戦の戦いで、日英共に最も活躍したのである。
この第二次世界大戦で大活躍した日英2隻の旧式戦艦について、もう少し詳しく取り上げてみたい。最初にお断りしたように東西2隻の戦艦は、旧式艦のため両艦共に数度の大改装工事は行い、外観も諸性能も建造時とは大きく異なり、新造艦の如き外観と成っていたものの、その基本となるキール始めとする諸構造体は第一次世界大戦型の旧式艦のままであった。
それでは、英海軍の戦艦『ウオ―スパイト』と日本海軍の戦艦『金剛』に関して、両艦の就役年次と初期の基本性能の概要を上げてみよう。
ウオ―スパイト 1915年3月就役 38.1cm砲連装X4基=8門 速力24ノット
金 剛 1913年8月就役 35.6cm砲連装X4基=8門 速力27.5ノット
ウオ―スパイトは、第一次世界大戦が始まって二年目に就役したクイーン・エリザベス級高速戦艦(当時は24ノットでも高速であった)の2番艦であり、巡洋戦艦金剛の就役は更に古く第一次大戦前になる。
第一次世界大戦前の欧米列強は英国を筆頭とする大艦巨砲主義全盛の時代であった。英国と対抗する新興勢力の独海軍や米海軍はこぞって大口径の主砲を持ち強固な装甲に鎧われた巨大戦艦を次々と建造している時代だった。
開戦前、世界最大の戦艦群を建設していた英国が、だめ押しのように建造した高速戦艦群がエリザベス級戦艦であった。そして、エリザベス級戦艦5隻は、ぎりぎり、第一次世界大戦最大の戦艦群同士の海戦、『ユトランド海戦』に間に合い、エヴァン・トーマス少将指揮下の第五戦艦戦隊として参加している。もちろん、ウオ―スパイトもその中の1艦として奮闘している。
この第五戦艦戦隊は、その高速性によって、戦艦でありながら高速の巡洋戦艦戦隊と合同で作戦行動に参加、指揮官エヴァン・トーマスの知性と敢闘精神も幸いして、英国巡洋戦艦戦隊の劣勢を庇い、英国の勝利に大きく貢献している。
けれども、ウオ―スパイトは相対する独巡洋戦艦戦隊の攻撃により海戦途中で、15発の敵弾を受け、舵その他を損傷、エヴァン・トーマス少将の判断で、戦列を離れて母港へ修理の為、回航を命ぜられている。この事件は、長いウオ―スパイトの戦傷の歴史の始まりで、操舵装置の損傷は修理でも完全には復旧されず、その後長く問題点として退役時まで尾を引くことになった。
二つの大戦間の大規模な近代化改修により、大きく生まれ変わったウオ―スパイトの第二次世界大戦における最初の戦場は、北欧ノルウエ―のナルヴィックの幅の狭いオフォトフィヨルドだった。
独海軍はナルヴィック占領のため大型駆逐艦10隻を投入、第一次ナルヴィック海戦で英海軍の攻撃により2隻を失ったものの8隻の駆逐艦がフィヨルド内に潜んで、英海軍の攻撃に備えていた。
司令官ウイリアム・ホイット・ワース中将は旗艦をウオ―スパイトに移し、幅数キロの狭いフィヨルドに全長195.3mの同艦と駆逐艦9隻を率いてして進入、作戦を遂行した。その結果、残存の独駆逐艦隊8隻全てを撃沈、英海軍は独海軍に完勝している。
地中海に戻ったウオ―スパイトは、今度は伊海軍の戦艦、重巡洋艦、駆逐艦を相手に数度の海戦を勝ち抜いて、戦艦に損傷を与え、重巡洋艦、駆逐艦数隻を撃沈している。その間、味方の同型艦バーラムが沈没、クイーン・エリザベス、ヴァリアントがアレクサンドリア港で敵の攻撃により大破着底してしまったのに対し、ウオ―スパイトは何度となく損傷を受けながらも、僚艦マレーヤと共に強運にも沈没を免れ、無事に地中海での戦いを終えている。
戦争後半では、有名なノルマンディー上陸作戦にも参加、上陸地点への艦砲射撃を行う。ヨーロッパでの戦いの後は、東洋に回航、敗戦近い日本への作戦に参加、戦争終結まで戦い抜いて戦後、解体されている。
艦名のウオ―スパイトとは、『戦争を軽蔑するもの』の意だが、彼女に長く司令官として座乗したアンドリュー・カニンガム中将が彼女に対して愛情を込めて呼んだ『オールドレディ』の呼び方の方が、英海軍では好まれていたらしい。
一方の金剛級巡洋戦艦の1番艦金剛は、明治初年以来、多数の戦艦を日本海軍が英国に発注した最後の戦艦となった。金剛には3隻の同型艦があり、残りの同型艦、比叡、榛名、霧島の3艦は、金剛の図面を基に日本国内の造船所で建造されている。
第一次世界大戦が始まると独の大艦隊と対峙する英海軍は金剛級巡洋戦艦4隻の英海軍への貸し出しを希望するが、日本海軍は丁重に謝絶したようだ。その位、金剛級4隻の27.5ノットの高速性と35.6cm砲連装X4基=8門の攻撃力は独のハイシーフリートと対決する英海軍にとって極めて魅力的な戦力だったのである。
金剛もウオ―スパイトと同様、二つの大戦間の大規模な二次に渡る近代化改修により、大きく生まれ変わった。速力も更に高速の30.3ノットに向上して真の高速戦艦に生まれ変わっている。この速力は、高速の空母機動部隊との随伴に欠かせない基本性能の一つで、単独行動の際も高速の重巡洋艦や駆逐艦との連携を可能にした大事な要素であった。
即ち、戦艦大和以下の残りの戦艦8隻は、機動部隊と連携できない低速の役に立たない戦艦にすぎなかった。米海軍の戦艦群でも30ノッ以上の高速戦艦の登場は、戦争末期に登場したアイオワ級戦艦を待たなければならなかった中で、金剛級4隻の高速戦艦は、太平洋に於ける日米両国の戦艦群の中でも特異な存在だった。
太平洋戦争開始時、金剛級4隻は三川軍一中将指揮下の第三戦隊に編成され、金剛はその高速性を生かしてシンガポール方面の攻略部隊に配属された。
更に、南雲機動部隊の1艦として、インド洋に進出、我が海軍の大敗北となったミッドウエ―海戦も機動部隊の1艦として苦い経験を味わっている。
その後のソロモン諸島の戦いでは、第三戦隊は栗田健男中将の指揮下、敵ヘンダーソン基地への艦砲射撃に僚艦榛名と共に参加、大きな成果を挙げている。しかし、残念なことにその後の海戦で、僚艦比叡と霧島は米国海軍の新型戦艦との砲撃戦で巡洋戦艦独特の装甲の脆弱性により沈没している。
僚艦を失いつつも金剛は、更に、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参加、同海戦では敵護衛空母、駆逐艦数隻を砲撃、その撃破に貢献しているが、海戦の大勢は日本側劣勢のまま推移している。この海戦で戦艦武蔵を失った日本艦隊は、残存の金剛、長門、大和の3戦艦が内地帰投を開始した。しかし、台湾海峡で金剛は米潜水艦シーライオンの雷撃を受け、魚雷2本が命中。当初、島崎艦長以下誰も魚雷2本で戦艦が沈没するとは考えなかったようだが、艦齢30数年を越え、改修に改修を重ねた旧式艦だった点と歴戦の疲れが船体各部に貯まっていた為か、徐々に浸水が拡大、潜水艦攻撃によって沈没した唯一の日本戦艦となってしまった。
金剛建造時、ヴィッカース社から引き渡された全図面は、海軍の横須賀工廠(2番艦比叡建造)のみならず、神戸川崎造船所(3番艦榛名建造)、三菱重工長崎造船所(4番艦霧島建造)の官民の日本各地の造船技術を大幅に向上させる力になった。その力は、やがて日本独自の戦艦長門、戦艦大和建造の基盤となり、戦後日本の造船大国への道を切り開いたのである。