5.脆弱だった戦艦大和の対空火器
小学5年から中学2年の頃、兵器、それも海軍の艦船に熱中していた。それも、愛好者が多かった戦艦よりも巡洋艦や駆逐艦が好きだったので、大和や武蔵は通り一遍の性能しか頭に入っていなかった。
しかし、当時から気になっていた点の一つが、日本戦艦の対空火器の装備状況だった。第二次世界大戦の実写フィルムの米海軍戦艦のボフォース40mmX4連装機関砲の対空戦闘を見るに付け、大和の対空火器のみすぼらしさが気になってしょうが無かった。古い学生時代の記憶を基に同時代に建造されたアメリカ海軍の戦艦の対空火器と比較して見たい。
戦艦大和は、1941年12月6日の就役と聞くので、同年で就役時期の近い米国戦艦を探すと5月15日就役のノースカロライナ級の二番艦ワシントンになる。そこで、単純に大和とワシントンの就役時の対空火器を比較してみよう。
当然の事ながら、大戦時の戦闘艦艇は、各国共に現場(戦場)の要求によって、何度も改装しているので、就役時と最終改装時の対空火器では異なるので、その点も後で比較・検討してみたい。
大 和 25mmX3連装X8基=24門、 13mmx連装X2基=4門
ワシントン 28mmX4連装X4基=16門、 12.7mmX単装X18基=18門
両艦の新造次の対空兵装を比較すると大きな差はないように感じる。強いていえば、ワシントンの50口径(12.7mm)単装機銃の設置数が多い程度であろうか? 逆に見れば、日米両国を含めて第二次世界大戦当初、参戦国全体に共通して、水上艦船に対する貧弱な攻撃力しか持たないと一般に考えられていた航空機による攻撃に対し、この程度の対空兵装で防げると各国共思考えていたと思われる。
さて、小口径の13mmと12.7mmの機銃は置くとして、大和の主力対空火器の96式25mm機銃の原型はフランスのホチキス製機銃のコピーだった。この機銃は従来型の対空火器に比較して信頼性が高かった反面、幾つかの問題点を内在していた。その第一は、25mmという弾丸の威力不足(後述するボフォース製の40mm対空機関砲弾に対して、25%の弾量)で、戦艦ワシントンの28mm機銃も同様の問題を含んでいた。
しかし、いざ開戦となって日米両国の戦艦が遭遇した太平洋での熾烈な対艦航空攻撃の実戦場では、20mmクラスの機銃の弾丸の威力不足はもちろんの事、同機銃で敵の急降下爆撃機を撃墜できる有効射高が1Kmから1.5Kmが限度だった。また、96式では1弾倉15発の弾丸量の少なさも命中率の低さの一因だったといわれている。
そこで、米国海軍は、ロンドン防空戦でも活躍した優秀なスエーデンのボフォース製の40mm対空機関砲に着目、英国海軍と共に大型艦艇の防空火器の主力として採用を決定している。
アメリカの巨大な工業力は陸海空に渡る広範囲なボフォース型40mm対空機関砲の実戦配備を可能とし、海軍の艦艇でも戦争途中から順次防空力改善を行っている。太平洋戦争末期の戦艦大和と戦艦ワシントンの最終的な対空兵装を手元のデータで比較してみたい。
大 和 25mmX3連装X52基=156門、 13mmx単装X6基=6門
ワシントン 40mmX4連装X15基=60門、 20mmX ? =83門
大和の25mm機銃と13mm機銃の装備数が当初の28門から航空機の脅威増大と共に160門以上と飛躍的に増えていることが解る。
その一方、ワシントンの場合、対空火器の装備数増大よりも配備されている機関砲の口径強化の方が顕著である。これは、戦前に想定されていた1,000m程度の対空戦闘高度が過去のものとなり、20mmや25mmの対空火器では対処出来ない艦対空戦闘での有効射高が次第に高くなっていったことを物語っている。
これは、B29の本土空襲に対して、陸軍の99式8cm高射砲その他の戦前型対空火器が、B29の進入高度1万mに対応できなかった事実にも似ている。
大雑把に日本海軍の96式25mmX3連装機銃と米英海軍の艦載ボフォース40mmX4連装対空機関砲を比較すると対艦攻撃時の急降下爆撃機において、米海軍のボフォース40mmX4連装対空機関砲に場合、飛行機が爆弾投下前に撃破する可能性があったのに対し、96式25mm3連装機銃では、爆弾投下後の低高度でしか撃墜できなかったといわれている。
その他に、日米海軍の対空戦闘の技術的な相違点を上げると20mm以上の大型機関砲操作において、日本海軍が人力による手動が主であったのに対し、米軍の艦上対空火器は自動制御で、且つ、対空火器の指揮・制御技術に格段のシステム上の差が認められる上、米軍が戦争中期から効果の高い、航空機に最接近した時点で自動的に爆発する近接(VT)信管を使用した等々の格差が随所に見られた。
以上、見てきたように、両大戦間の平時に世界各国の技術情報を収集して建造できた新造時(1941年)の戦艦大和の対空火器の総合性能は、世界各国の戦艦群の中で、そう見劣りする対空能力では無かった。
また、残念なことに太平洋戦争初期にシンガポール方面の英軍より捕獲入手した、ボフォース40mm対空機関砲の現物に関しても、陸海軍共にコピー生産に着手ものの、総合力の不足により、終戦までに試作程度の少数量の生産に留まり、有効な実戦配備は行われなかった。
その上、開戦と共に連合国からの最新情報が途絶し、同盟国の独からの技術情報入手も遠距離の為、困難を極めた。
更に、独自開発しようにも粗鋼生産量、製鋼技術、短波長電子機器の開発、独自のシステム開発の遅れ等、総合力の貧弱さにより、太平洋戦争4年の間に、軍事技術開発に関し米国に大きく引き離されてしまい新しい航空戦時代に対応できるだけの改良がされないまま沖縄特攻作戦に大和は赴いたと考えられる。
一方、シブヤン海で戦艦武蔵は爆撃による被弾数を除いて、両舷で20本(諸説あって詳細は不明)程度の魚雷を受け、力闘の末、沈没している。その結果を米海軍航空隊は充分に研究の上、大和攻撃の基本的な作戦方針を決定している。即ち、魚雷攻撃を大和の両舷ではなく、左舷の片舷に集中(大和の被雷した魚雷数も不明だが、左舷10本以上、右舷1本?が一般に想定されている)魚雷攻撃を行って片舷への傾斜を拡大させることにより、武蔵よりも少ない魚雷命中数で横転沈没している。
残念ながら、日本海軍の努力の結晶である25mmX3連装を主力とする戦艦大和の160門以上の対空火器は、米海軍の艦載機による攻撃を阻止できなかったのである。
このように、大戦時には、一部の兵器が平時の数十倍の速度で改良されている。もちろん、国家の存亡が係る超非常時であるだけに、その開発速度は発狂レベルに近い驚異的なものが各国共にあったと思う。
その中でも、第二次世界大戦における兵器開発で異様に早かった兵器が陸上の戦車開発であり、陸海空の飛行機開発、レーダーであり、原子爆弾開発であった。
陸海軍においてのレーダーの実用化に一歩遅れた日本海軍は、対空火器用の近接信管(VT)に関しても、その存在さえ終戦まで気が付かなかったようだ。両方の技術の基本には超短波帯の真空管技術が必要だったが、放送による共産思想を含む危険思想の普及を警戒した戦前の政府は、民間の短波帯真空管開発に否定的であった。
その結果、敵機の電波探知能力に劣り、高高度から攻撃する敵機の迎撃に不十分な対空火器しか搭載していない戦艦大和で最終決戦に臨まざるを得なかったのである。