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41.『ファランクス』古代地中海世界の密集戦闘隊形

 このところ、世界の刀剣と弓矢についてその一部に触れてきたので、同様に古い歴史のある武器である「槍」と「盾」について学んでみたいと思っている。

 古代中国には有名な『矛盾』という熟語があるが、それ以上に古代の地中海世界の槍と盾で思い出すのが『ファランクス』という密集戦闘隊形である。

『ファランクス』と聞くと「古代ギリシャ」のファランクス、中でも都市国家テーバイの「エパミノンダス」のファランクスを思い出すから、少年時代の記憶とは不思議なものである。

何故、エパミノンダスを思い出すのかというとファランクスは単純な武器である槍と盾で堅固に武装した重装歩兵が方形の密集体系を組んで戦う戦法であり、武器その物よりも戦列を構成する戦士の強固な意志と指揮官の運用能力に大きく依存する古代自由主義世界の重要な戦闘方法だからである。

即ち、ファランクスを用いた戦闘戦術を最も鋭く洞察した一人がテーバイ軍の指揮官エパミノンダスだったと感じるからである。


その一方で、これまで勉強してきた弓射騎兵の散開攻撃隊形は多くのオリエント諸国でその後主流の戦闘方式となり、十字軍の時代でもイスラム教徒の主戦力は弓射騎兵であった。

 古代ギリシャを発祥とするファランクスだったが、この密集戦闘隊形は古代世界だけでなく、中世ヨーロッパの戦闘隊形に大きな影響を与えた陣形の一つだった。

即ち、ヨーロッパ中世の騎士達が槍を主戦力として戦っている背景にも、古代以来の地中海世界特有の「槍」の伝統が感じられるだけでなく、騎士団の槍に対抗できる歩兵の密集戦闘隊形の祖型がファランクスのように感じているからである。

 それでは若干寄り道になってしまうが、ユーラシア大陸西部地域に於ける「密集戦闘隊形」の登場から初めてみたい。


(「密集隊形」の始まり)

大楯と槍を持った歩兵密集隊形の始まりは、紀元前2,500年頃のメソポタミアだったといわれている。既に、この時代、身体の主要部分を覆うような大きな盾と攻撃用の槍を主要武器とした歩兵集団が存在していたのである。

その後、同種の部隊は中東各国で見られるようになっていったが、中東ではこの種の戦闘隊形は余り発達しなかった。

その背景には複合弓の改良による軽装弓兵の成長があった。即ち、中東の戦場の主役が槍兵から弓兵に移行した為だった。

軽武装の弓兵部隊が自在に活躍する戦場では密集隊形よりも、ある程度隙間のある散開した部隊配置の方が効果的だったと推測される。

その為、隣人の肩と肩が触れあうほどの極端な密集状態での槍と盾が混在する隊形はエジプトやオリエントでは大きく成長することはなかったのだった。


この時代、中東各国の兵士が所持した槍の長さは余り明確にはなっていないが、今に残っている古代の彫刻などから推定すると兵士の身長を若干超える程度だった。

盾の形状も各国毎にバラバラで、楕円形や円形の盾が混在していたし、専制主義国家が権力の殆どを専有していたオリエントやエジプトの軍隊装備は王家の近衛兵や中核部隊の装備は優秀だったのに対し、兵力の殆どを占める権力者の招集によって集められた雑多な民兵の装備は貧弱で堅固な密集戦闘隊形を組めるレベルではなかったのである。

装備としては大きな盾と短い槍が装備の殆どであり、身を守る鎧も高性能な剣も身に付けていない場合が殆どであった。

一方、地中海世界西側のエーゲ海周辺の古代ギリシャの領域では、各地で自由市民の共和制による「ポリス」と呼ばれる都市国家が成立していたのだった。


(古代ギリシャ重装歩兵の出現と「民主主義」)

古代ギリシャと聞くと真っ先に思い出すのが、「ホプロン」と呼ばれる大きな丸い盾と槍で武装した重装歩兵ホプリテスの姿とその重装歩兵が陣列を汲んだ方陣『ファランクス』である。

「ホブロン」の直径は約1mあり、戦士の上半身を十分に隠してくれる。この盾は木製ながら青銅で枠取りされて補強されていた。

円形の盾からはみ出しているのは、頭部と膝から下の部位だが、その部分は青銅の兜と大きな脛当てによって守られていた。戦士の着用していた鎧の多くは皮を何枚か貼り合わせて強化して造られていたが、最近の研究では予想以上に強固で十分に弓矢や槍の攻撃に耐えられる強度を保持していたと証明されている。

主力の武器である槍の長さは、古代オリエントの槍よりも長くなって、2.5mm位だったと推定される。

その結果、敵と接触する最前列の兵の前には、1本では無く、複数本の槍の穂先が敵に向かって指向する強固な陣形が形成されたのだった。

都市国家が競合し、自由市民による重装歩兵「ホブリタイ(ホプリテスの複数形)」が発達したギリシャで自由市民による強固な方形陣『ファランクス』が発達した背景を次に述べたい。


紀元前800年頃から古代ギリシャでは「ポリス(都市国家)」と呼ばれる大小200程の民主制の政治形態による組織が成立している。

原則的には土地所有者の自由農民と商工業市民によって構成され、城壁に囲まれたポリスに集住する集団であっ

しかし、不思議なことに都市国家間の抗争の激しかったがポリスだが、常備兵力は存在しなかったのである。

緊急時になるとポリスの自由市民は自弁で「ホプロン」と呼ばれる上述したギリシャ独特の大きな円形の盾を持ち、冑と胴すね当てを完備した鎧を身に着け、槍と剣で完全武装して集合したのである。

彼等自由市民の重装歩兵ポプリーテスが戦闘時に組んだ密集隊形が『ファランクス』であり、時代的には紀元前7世紀頃のことだったといわれている。


 このような重武装の市民兵による密集戦闘隊形出現の背景には、アテネを中心とした都市国家の発達と「ギリシャ民主主義デモクラシー」の成長を抜きにしては考えられない。

 世界的に観てもオリエント諸国で一般的だった専制君主制や封建主義の極端な階層社会では考えられない陣形であった。

高価な武器を自弁するだけでなく、両隣の友人と堅固な横陣を組んで、ひるむことなく槍先を揃えて敵陣に突入する行為の精神的な背景には、自由市民としてのプライドと驚異的な責任感を抜きにしては達成できない陣形だったのである。

 当然ながら、横列と縦列が矩形に密集したファランクスでは戦闘員同士の強固な信頼関係だけでなく、戦闘で欠損した戦友の空間を直ちに埋める責任感も重要だったのである。

戦列の維持には重装歩兵個人の役割の重要性の自覚と共に、当然のように日頃からの集団訓練が必要だった。

特に戦列を組んだ際に生じる無防備になる戦士の右半身の防御は信頼できる戦友の保持する盾に頼るしか、なかったのである。


 自由市民である成人男子は自前で高価な装備(槍と盾と鎧と剣)を準備し、戦場では隊列を組んだ同僚の兵士を裏切らない勇気を求められるのだった。

軟弱な一人の兵士の戦列離脱は散開した陣形の戦闘隊形と異なり、横陣全体の戦闘能力の低下と戦列の崩壊を意味していたのである。

 その点、古代ペルシャ軍や戦国時代の東アジアに於ける中国軍の場合を含めて中世のヨーロッパの軍隊でも、集団としての勇猛果敢さよりも特定の個人の勇気や戦闘能力に依存するケースが大きかったように感じる。

 数倍の大軍との決戦において個人の武勇を重視するか集団の強固な団結力を重視するか、その答えを明確に導いたのが自由都市国家ギリシャの『ファランクス』だったのである。

 それでは、ファランクスが戦場の主導権を握ったギリシャでの幾つかの有名な戦闘経過を以下にピックアップしてみよう。


(『ファランクス』とは)

 それでは、本題の『ファランクス』に入ろう。

槍を持った重装歩兵は横一列の編成が基本で、正面の敵側から見ると丸い大楯の垣根の連なる隙間から槍の穂先が突きだしている光景が見えることになる。盾からはみ出している頭部と脛の部位は兜と大きな脛当てによって防御されていた。

兵士の身体の主要部分である胴の左半身は自身が持っている丸盾で防御すると同時に右半身の防御は右隣の戦友の盾によって守られている点は上述した通りである。即ち、自由市民同士の信頼と堅い連帯感だけが、この横陣が堅固に維持出来るか崩壊するかの『要』であった。


「ホブロン」と呼ばれる重装歩兵は主に富裕な自由市民によって構成され、正常な身体を持つ市民にとって終生の責務であり、この市民軍の戦時に構成した隊形が『ファランクス』だった。

自分達の都市国家の自由は自身が守るという強固な意志によって、編成された各都市国家のファランクスは、前面から見ると複数列の槍衾によって堅固に防御されており、ペルシャ軍などの散開した陣形に対しては驚異的な破壊力を発揮したのだった。

ギリシャのファランクスは、時代と共に大きく進化しているが、マラトンでペルシャ大軍を破ったアテネのファランクスは、4列縦隊の幅の広い横隊が中心だったと考えられている。


紀元前490年にアケメネス朝ペルシャの大軍を「マラトン」で迎え撃ったアテネ・プラテーエー連合軍は、半数以下の戦力にもかかわらず弓の射撃戦に持ち込もうとしたペルシャ軍に対し、ギリシャ軍は駆け足で接近して白兵戦を挑んだのだった。

両翼に重装歩兵の密集隊形を重点的に配置したギリシャ軍のファランクスが最終的にはペルシャ軍を圧倒、6千名以上の戦死者を出したペルシャ軍に対し、ギリシャ連合軍の戦死者は2百名に満たなかったと伝えられている。

しかし、マラトンでの敗戦にめげることなくアケメネス朝ペルシャのクセルクセス1世は10万の大軍を率いてギリシャ本土に再度、侵攻している。

そこに敢然と立ち向かったのがスパルタ王レオニダスを中心とするギリシャ連合軍のファランクスだった。ペルシャ軍に対するギリシャのファランクスの優位性は明かだったが、圧倒的多数のペルシャ軍に対して、次第に連合する都市国家の諸軍は撤退を開始する中、レオニダス率いるペルシャ軍は僅か数百人の兵で全滅するまで戦い抜いている。

この「テルモピユライの戦い」はスパルタ人の不屈の闘志と共に古代ギリシャの都市国家が持つファランクスの優秀性を如実に伝えている。


 けれども、スパルタ軍の勇戦により貴重な時間を得たアテネは続く「サラミスの海戦」に十分な準備が可能となり、海上決戦でペルシャ軍を撃滅させる大勝利を得ているし、次の陸戦である「プラタイアの戦い」でもギリシャ連合軍のファランクスの活躍が目立っている。

中でもスパルタの重装歩兵の大活躍により10倍近いペルシャの大軍を壊滅状態で敗走させる一方、敵将を討ち取る戦績を残している。

決戦時のギリシャ軍のファランクスの堅固さと効用は大きく、全兵力の3分の2の戦死者を出したペルシャ軍に対しギリシャ連合軍の戦死者は1千名ほどだったと歴史家プルタルコスは伝えている。

このように専制君主国家が編成したペルシャの大軍に対し、自由都市国家であるギリシャのポリスが生み出した重装歩兵軍団は常に勇戦し、圧倒的な勝利を度々手中にしているのだった。


(「ファランクス」戦術の大転換期)

 強大で無尽蔵の兵力を広大な領土から集められる大ペルシャ帝国の大軍団に度々勝利した都市国家ギリシャの「ファランクス」だったが、戦場での編成と配置は単純なものだった。アテネやスパルタを中心に有力な都市国家のファランクスを左右両翼に配置し、その隙間を各都市国家の兵力も練度も異なるファランクスで埋めるケースが多かったのである。

 敵であるペルシャ兵もスパルタ兵、中でも最精鋭の「神聖隊」との正面からの激突は好まなかったが、弱小都市国家のファランクスとの戦闘を忌避することは少なかったと伝えられている。

 そのギリシャの古来の戦闘方式を一変させたのがテーバイ(都市国家の一つ)の有能な指揮官「エパミノンダス」だった。

 当時、ギリシャの覇権はスパルタを盟主とするペロポンネソス同盟が握っていたが台頭するテーバイを懲らしめるためにスパルタが同盟軍をテーバイ郊外のレウクトラに派遣したのだった。

 兵数的にはテーバイ側7千名弱に対し、スパルタ側同盟軍は1万名を超え有利な立場にあったが、最強のスパルタ市民による重装歩兵の数は700名と少なく戦列を維持するための絶対数に欠けていたのだった。

 その弱点を喝破した指揮官エパミノンダスは当時常識だった右翼に最有力のファランクスを配置する戦列構成をやめて、逆に自軍の左翼に最強のテーバイ軍の神聖隊を中心に大量の兵力を集中させる奇策に出たのだった。

 敵のスパルタ軍の戦列12列に対し、自軍の左翼に50列の重厚な戦列を構築して決戦に入っただけでなく、当然劣勢となる自軍の中央部と右翼の陣列を敵との交戦が少しでも遅くなるよう、左翼の先頭に対し、右翼が斜め後方になるような「斜線陣(梯形陣ともいう)」配置としたのだった。

 開戦初期段階ではスパルタ軍の優勢が続いたが、最終的にはテーバイ軍左翼の50列の重厚な陣形が効果を発揮して、無敵のスパルタ軍が敗走、テーバイ連合軍の勝利が確定している。

 このエパミノンダスの「斜線陣」はその後のファランクスを用いた戦闘隊形に大きな影響を及ぼしている。

最も大きな影響を受けた一人にマケドニアのピリッポス2世が居る。彼はテーバイの人質時代にテーバイ軍のファランクスを学んだだけでなく、ギリシャ軍の槍より長い4mを超える「サリッサ」と呼ばれる長槍を採用して、方形陣戦力の強化を図っている。当然、長い槍の使用は両手使いとなったが、ピリッポスは盾の小型化と組み立て式の槍の採用によって行軍時の負担も解消の上実戦化に成功している。

有効な軍制改革を勧めたピリッポスだったが、暗殺により急死、ペルシャ征服の夢は息子のアレキサンダー大王に託すことになったのだった。

アレキサンダーは父の残したマケドニア式のファランクスに加えて、大王独自の運用方法を加えて騎兵と軽装歩兵の部隊をフル活用して、ペルシャ帝国の大軍との決戦に連勝している。

実戦でのサリッサを持つ無敵のマケドニア式ファランクスの存在は大きく、対峙したペルシャの大軍は自軍の陣形に破綻を生じる場合が多かったのである。その隙間に騎兵と軽装歩兵を適時投入してペルシャ軍の壊乱を促進した結果、戦術的にはマケドニア軍は勝利を手中にすることが出来たと考えられる。

古代ギリシャのファランクスの改良によってアレキサンダー大王の空前の大帝国が戦術的には出現できたと考えても良いと思う。


 紀元前500年に始まり、同449年に終わった大帝国アケメネス朝ペルシャと古代ギリシャの各ポリス(都市国家)の連合軍の戦いは、常に圧倒的なペルシャ軍の投入兵力に対し、都市国家という形態上、少数の自由民で構成された重装歩兵ポプリテスによる密集隊形の『ファランクス』で戦わざるを得なかった。

 しかし、満々たる自信で征討に臨んだダレイオス1世やクセルクセス1世の野望を数では遙かに劣る古代ギリシャの自由人の密集隊形の方形陣が打ち砕いたのである。

単純な「槍」と「盾」を装備した横列の強固な重装歩兵の密集隊形に過ぎない『ファランクス』だったが、自由民としてのプライドと戦列を組んだ同僚に対する相互信頼が信じがた大きな戦果を現出したのだった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 不躾ながら誤字の報告をさせていただきます 前段 【主力の武器である槍の長さは、古代オリエントの槍よりも長くなって、2.5mm位だったと推定される。】 2.5mmは余りにも短すぎます
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