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40.「日本の弓」の歴史

 前稿で、『世界の「弓矢」と「弓射騎兵」』について触れてみたが、余りにもテーマが広範囲だった為に中途半端な記述になってしまった気がしている。本稿では、その補足も兼ねて「日本の弓」の時代的な変化を中心に辿ってみたいと考えているので宜しくお願いします。

 出来れば、世界の弓と日本の弓矢が実戦で激突する様子を詳述したいのだが、誠に残念なことに列島に居住する日本民族にとって外敵と大規模な戦闘に巻き込まれた経験は僅かしか存在しない。

第一回は唐・新羅連合軍との船戦である「白村江の戦い」であり、第二回は鎌倉武士がモンゴルと高麗、旧南宋の連合軍と戦った「元寇」だった。そして、近代以前の最後になる第三回の戦いが豊臣秀吉が半島に出兵した「文禄・慶長役」にかないのである。

 白村江の戦いは船中心の海戦が主だったし、文禄・慶長役の日本軍の主役は火縄銃であり、銃射撃時の間隙補強する意味での補助兵器としての弓の活躍が大きかった印象なので、本稿では、第二回目の戦いである二度の「元寇」を中心に日本の弓と世界最強の元軍の弓を比較してみたいと考えている。

 それでは、元寇時の弓に入る前に「古代日本の弓矢」について、その特徴を勉強してみよう。


(「古代日本の弓矢」)

 縄文時代を過ぎて弥生時代を迎えた「日本の弓矢」は、世界の弓の中でも著しい特徴を帯びていることが「魏志倭人伝」に記載されている。

周辺諸民族の弓に比較して極端な長弓の上、握りの部分が一般的な世界の弓と異なり、弓の真ん中では無く下半分に位置している点に特徴があった。

この倭国独特の特徴は古墳からの出土品や正倉院弓からも同様の傾向がうかがえるという。


 同じ、一本の木を単純に弓として弦を張ると、樹木の特性上、下部は太く弾力性に富み、上部は細く反発力に劣る傾向を示す可能性が高いという。樹木本来の特徴を考慮すると上下対称構造の弓を製作するよりも上下非対称の木の特徴を生かした構造の日本の古代弓の方が自然な気がするが、如何なものだろうか!

 しかし、世界中の多くの民族は、その問題を克服して上下が比較的対象に近い弓の製作と実用化に成功している。

 一方、素材の持つ自然な特性を生かした弓の製作に拘った日本民族は、下部よりも上部の方が長い世界でも独特の配分比率の弓を実用化したのだった。

 加えて、弥生時代以降、戦闘での殺傷能力と武装した敵兵の鎧に対する箭の貫通力を重視した結果、矢の長さは順次長くなっていったと思われるが、その要求を日本の長弓は可能としている。

 世界の弓の中でも、この「和弓」独特の上下非対称の形状と世界最大級の長大さは現代まで続く日本の弓の大特徴となっている。


 やがて日本の古代弓は「丸木弓」から平安時代の後半に竹や木を複合させた日本独特の「複合弓」へと変化していくのだった。

 始め、木の外側に竹を貼った「伏竹弓」に始まり、内外両方に竹を貼った「三枚打弓」へと改良されて平安後期の武士階級の勃興期には多くの「強弓」を自慢する武者達の登場と活躍に繋がっていく。


 武士階級の勃興期に於ける最大の戦力は大鎧を着て馬にまたがった「弓射騎兵」であり、一族郎党が集団として行動する攻撃力と進退能力であった。今日、極めて少数ながら残っている当時の武士が着用した「大鎧」を見ても、その優雅さと騎射に徹した機能性に目を奪われる現代人も多いと思う。

 同じような中世暗黒時代のヨーロッパでは重武装の騎士が盾と槍を構えて激突した様相と比較すると日本の当時の武士団は騎馬民族の集団戦法に近い戦い方をしていた印象が個人的には強い。

 その反面、大陸と異なり、集団戦闘の結果よりも、古代以来の個人の武勇を尊ぶ国民性も大きく戦闘方式に影響しているように感じる。

 即ち、「平将門の乱」以降、武将個人の武勇である騎乗での弓射が重要視され、その評価は「前九年合戦」や「後三年合戦」によって定着した感がある。加えて、民衆の美意識も「平家物語」や「源平盛衰記」等の軍記物語に代表される弓矢の登場場面、例えば屋島での那須与一が扇の的を射落とす場面等を物語のハイライトとした日本人独特の美意識の祖型を感じる。

 しかし、実際の源平騒乱の戦闘を推測すると一対一の個人対決が主ではなく、一族の騎馬武者が一団となって敵陣に突入して、正確な弓射によって相手を圧倒することを目的とする上記のような戦闘方式だったと考えたい。


(元寇「弓射騎兵」同士の激突)

 鎌倉期に入り、日頃「犬追物」や「笠懸」で馬上の弓射を鍛錬していた鎌倉武士が遭遇した世界的「弓射騎兵」の集団が元寇時のモンゴル軍だった。

但し、二回に渡る日本侵攻軍の兵力の主力は高麗軍と旧南宋軍であり「弓射騎兵」主力の部隊とは絵詞からも感じられなかった。

高麗軍も南宋軍も海上輸送の関係から徒歩の兵が主力であった可能性が高い。

 第一回の「文永の役」では、モンゴル軍と高麗軍連合軍の博多侵入だったが、戦闘経過を見ると威力偵察レベルだった印象が強い。

 それに対して日本側の鎌倉武士団は一族や有力な郎党を中心として結束した騎射集団を組んだ突撃を敢行して、蒙古、高麗連合軍の集団戦法に対抗している。

 小集団による突撃中心の鎌倉武士の戦闘行為は蒙古連合軍の集団戦に慣れた未知の戦法に圧倒された結果、相互に勝敗はあったものの全体的には日本軍は博多の街を追い落とされて太宰府の水城まで押し込まれる苦しい状況だった。

 しかし、鎌倉武士団の戦闘対応能力も一応確認出来た蒙古連合軍は、副将劉復享りゅうふくこうの負傷もあって、夕刻乗船して朝鮮半島に撤退を決めている。


 第二回の戦いとなった「弘安の役」では、博多湾沿岸を中心とした「石築地」の構築もあって、連合軍の大部隊による上陸拒否に日本側は成功している。その結果、小集団によるゲリラ的騎射戦や敵船に船を横付けしての夜間の接弦攻撃に終始し、モンゴル軍の好む大規模な野戦は発生しなかった可能性が高い。

 日本独特の「長弓」と重くて長い箭は50m以内程度の近距離では、モンゴル軍や連合軍が用いた小型の弓が発射する軽量級の箭よりも、甚大な破壊力を敵に与えた可能性が高く、奇襲による近接戦では相当大きな損害を与えることが出来たと考える。

確かに、竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」を観ても遠距離での騎射戦というよりは、鎌倉武士の好む比較的短距離での馬上からの弓射戦だった点も、鎌倉武士達にとって幸運だった印象を受ける。


 逆に、もし、広い平原において大軍同士の大会戦が発生した場合、鎌倉武士の勝ち目は少なくなっていた可能性が高いと思う。反面、島国特有の地形変化に富んだ北九州での局地戦では、一族郎党が一団となった騎射集団の突撃は鎌倉武士が誇るだけの成果を上げた可能性が高かったと想像したい。

 当時、日本の武将達が着用していた「大鎧」は持盾に替わる「大袖」が左右に付属しており、元連合軍の戦袍よりも重装備な分、主人の身の安全を保つ効果が高かったと考えられる。その点、高麗軍やモンゴル軍の鎧の装甲は絵詞を見ると全身をまんべんなく覆っている物の軽微であり、大鎧の持つ圧倒的な装甲板「さね」の防御力に比較すると劣るように感じる。

 幸いなことに二度の元寇の諸戦では、モンゴル軍や旧南宋軍の得意とする遠距離からの驟雨のような集団的射撃戦は起きなかったし、軽量で速射性に富む大陸の合成弓の威力を発揮する機会は少なかった。

 一方、鎌倉武士の所持す大弓から発射される重くて長い箭に重い鏃を装着した和弓の矢は近距離での命中精度と貫通力に優れていた可能性が高く、ゲリラ戦に近い小集団同士の激突では鎌倉武士に軍配が上がったと身びいきながら想像したい。


(「騎射戦」から「歩射戦」の時代)

 「前九年絵詞」や「後三年合戦絵巻」や鎌倉時代の「蒙古襲来絵詞」の戦闘場面を拝見していると当時「精兵」と呼ばれた武者達が馬上で力闘している姿を間近で見ているような感動を味わうことが出来る。

 しかし、少し時代が経過した南北朝時代以降の「太平記」時代から室町時代に属するその他の戦記絵巻を拝見すると、個人的な「騎射戦」では無く、いつの間にか時代は徒歩集団による「歩射」が主流となっているように感じる。

平安鎌倉期のように大将自ら強弓を引いて活躍するのでは無く、腹巻や胴丸姿の軽武装の下級武士の徒歩集団が弓を引く合戦シーンが一般的になっていくのである。

一例を挙げると北国に於ける「新田義貞」戦死の場面を思い起こして欲しい。馬上、味方の救援に駆けつけた義貞に対し足利方は大人数の歩兵集団による弓射による集中射撃によって、敵の総大将義貞を難なく討ち取っているのである。

もはやこの時代、個人の武勇よりも、以下に多量の下級兵士を含めた弓兵の総数が戦の勝敗を決する重要な因子に変化していたことを物語っているのだった。


その時代、大いに一世を風靡したのが徒弓かちゆみを代表する流儀の日置弾正政次に始まる「日置流」だった。従来の「騎射」に対し新しく勢力を拡大した「歩射」は戦場での実用性を重視する一方、「武射」とも呼ばれている。

歩射と共に戦場に於いて、「打ち物」と呼ばれる長巻や長刀の普及が急速に進み、やがて、「槍」が戦闘場面の主力武器として弓と共に登場してくるのだが、その使い手としての主役は騎馬武者ではなく、上記のような徒歩で軽武装の「足軽」と呼ばれる集団だった。

戦陣の最前列を構成する足軽集団における弓矢や槍を持つ兵数によって、戦場の勝敗が大きく左右される時代を迎えたのである。更に、もう少し時代が進んで、戦国後期になると新兵器種子島の登場と共に戦場の様相は大きく変わり、日本は世界中でも火縄銃装備の大兵団を持つ先進国へと成長するのであった。


しかし、火縄銃が大量に普及した関ヶ原の時代を向かえても日本の「弓矢」は戦場から無くなることはなかった。

弓は火縄銃射撃の間隙を補う存在や雨天での主力兵器として位置付けられて、鉄砲と共に最前線に交互に配備されるように変化している。関ヶ原が終わった後には、各大名の戦時装備の一部として世界中の動向に関係なく幕末の開国期まで温存されるのだった。

もちろん、西欧では、「火縄銃」に続いて火打ち石を用いた「フリントロック式」のマスケット銃が主流となり、やがて「後装式」のライフル銃が登場するのだった。

その間、戦国末期から江戸時代前期の「弓」に関連する二つの逸話をご紹介して、本稿のまとめとしたい。


(戦国末期の強弓達と「大島光義」)

 天下を取った徳川家で強弓の名のある家を思い起こすと、まず、内藤家が思い浮かぶ。「無双の弓手」と呼ばれた内藤清長や清長の子家長等の強弓の名手が多い。中でも、家長の従兄弟内藤正成の弓に関する武勲の逸話は多い。

例えば、今川方の城攻めの折りに、敵の馬上の勇士と対決した際は、第一矢を敵に軽く叩き落とされた瞬間、正成の第二矢が敵の胸板を貫いて勝ちを得ている。更に、安堵の一瞬に後続する敵に火縄銃に狙われた正成だったが、瞬く間にその敵兵を射倒す武勲を挙げている。

当時の弓の名手は、瞬時に複数の敵に矢を送る技量を備えていたことが理解されよう。

また、高天神城の攻城戦でも敵の武田方より弓による働きを賞賛されているし、調べたことはないが正成が徳川「十六神将」の一人に選ばれた条件に弓の名手である点が加味されていると思う。

弓以外にも「武功感状記」に、正成の律儀さを家康が褒めた話が載っているので、弓による武功の数々と共に、日頃の手堅い律儀さでも家康の信任を得ていた将だったことが解る。子孫は大身旗本として幕末まで続いた。

その他にも後北条氏には「八州無双の強弓」と称えられた横井越前守が存在したし、池田輝政の家臣伊庭総兵衛も弓の名手として名が聞こえている。西国でも毛利家を初めとする各大名家の家臣に弓で著名な武士も多かったが、そんな強弓を引く猛者達が居並ぶ中で、断然抜きん出た存在が「大島雲八光義」だった。


大島光義は永正5(1508)年生まれ伝えられているので、紛れもなく戦国時代盛期の出生である。また、没年は関ヶ原が終わった慶長9(1604)年、97歳とのことなので、戦国期には珍しい長命の武将だった。彼は一生涯「弓矢」の働きによって数々の武功を挙げて累進を重ね、最終的には徳川家康によって、美濃関一万八千石の大名として取り立てられている。

 しかし、その道は平坦ではなかった。幼年に父の討ち死によって一族に育てられた光義は幼少から弓矢の鍛錬に励んでいる。始めて敵を弓で倒したのが13歳との言い伝えなので、その胆力と弓矢の素質は天性のものがあったのだろう。

 美濃に生まれた光義は斉藤道三の重臣長井道利に仕えたのを始め、織田信長、丹羽長秀、豊臣秀吉、豊臣秀次、徳川家康に歴仕している。

信長、秀吉には弓足軽の大将として仕えていたようで、姉川合戦でも勇戦しているし、その後の越前侵攻にも従軍しているし、長篠の戦いにも参陣している様子である。

その後、秀次付きとなり、80歳を過ぎてから有名な八坂の塔の上層の小窓に10本の矢を射込んだ逸話を残している。八坂の塔とは東山の五重塔のことで、その小窓に秀次の命により10本の矢を射込んで、全て命中させるという驚異的な技を披露している。

 実戦でも、火縄銃を構える敵兵を射殺したり、樹木を盾に隠れる相手を樹木毎敵の首を射貫く強弓の働きを披露した等々の逸話に困らない名手であった。

関ヶ原の戦いでは93歳の高齢ながら東軍として参陣して戦後、大名に出世している。弓矢の働きで、ここまで累進した武将としては大島光義くらいな者かも知れない。


93歳の老人の活躍と聞くと思い出す人物がいる。これは弓矢の話ではないが、90歳を過ぎた年齢で壮年の子や孫を含む一族の主立った男達を主家の小弐氏とその家臣の馬場氏によって謀殺される悲劇に遭った龍造寺家兼という肥前の豪族がいた。

家兼は最晩年の高齢ながら、寺に預けられていた弱年のひ孫(後の龍造寺隆信)を伴って隣国に脱出、翌年、家兼は仇敵馬場氏を討って復仇と竜造寺氏の再興を見届けると次の年、安堵からか病没している。

家兼の遺言によって還俗した隆信は鍋島清房や直茂の扶けもあって、後に「五州二島の太守」と呼ばれるまでに勢力を拡大したのだった。

このように武士の寿命の著しく短かった戦国時代でも、90歳を過ぎた高齢にもかかわらず、人目を驚かす常人以上の働きをした勇者は何人も存在したのである。

それから、もう一つ、戦国時代後期から江戸時代に掛けての弓の逸話に触れてみたい。


(「三十三間堂の堂射」)

それは、「通し矢」または「堂射どうしゃ」と呼ばれて日本中で大人気になった弓の競技で、伝説では相当古くから行われていたようだが、明らかなのは天正頃から流行し始めて次第に大流行となっていった。

場所は有名な蓮華王院(三十三間堂)本堂で、その西側の軒下の狭い空間を南から北に向けて矢を射通す規定で、その射通した矢数の総数を競い合っている。

上下を床と軒下に限定された狭い空間、距離約121mの長さを射通す必要がある独特の競技方法が人気を呼んで、江戸時代前期になると通過した矢数を競って日本一の名声を得ようと多くの挑戦者が名乗りを上げている。

色々な伝説があるようだが、ハッキリした記録として残っている最初は慶長11年に日置流竹林派の浅野平兵衛が、100本中51本を射通して天下一の名声を博したのが最初らしい。

その後、一昼夜で射通す矢数を競う内容に替わったらしく、実施に大変な費用が生ずる為、小藩では行うことが出来ず大藩同士の競争が激化していった。そして、最終的には紀州徳川家と尾張徳川家の一騎打ちの様相を呈している。

最高記録としては、寛文9(1669)年に尾州の星野勘左衛門が打ち立てた10,542射中、通し矢8,000本と貞享3(1686)年に紀州の和佐大八郎が記録した13,053射中、通し矢8,133本が名誉の最高記録として残っている。尾州の星野勘左衛門は終了まで十分の時間を残して8千本丁度で終了しているし、紀州の和佐大八郎は若年ながら総矢数は多かったものの8千を100本以上超える好成績を達成して史上最高の矢数を達成する名誉を紀州にもたらしている。

しかし、両名の記念すべき通し矢の記録達成以降、有力な射手の出現もなく、費用的にも余りの高額に通し矢は江戸時代中期以降衰退してしまっている。


三十三間堂の通し矢は、射手の技量も重要だが、一昼夜射続ける体力も重要で、あの狭い縁先の上下を限定された狭い空間に矢を連射することが最も難しいという。名人になると連射する矢が、常に2本から3本廊下の上に存在する驚異的な状態を作り出すのだという。

そういえば、戦国時代には敵と程よい射距離(約15間前後か?)を保った射手は、一本目を射ると同時に矢番えして、敵が切り込んでくる前に第二矢を送り込んで槍や火縄銃の相手を討ち取ることが出来た事実は既に述べたとおりである。


 最後に余分な話になるかも知れないが、和弓の弓勢に関する逸話をご紹介して終わりにしたい。日本刀による「冑割」の成功例は良く聞くことが多いが、和弓による「冑射貫き」の成功例は殆ど聞いた記憶が無いのでご紹介してみたい。

 時は昭和16年、日光東照宮に於いて日置流竹林派の吉田能安先生が成功されたと『弓の道 正法流入門』に記載されている。

 八間余の距離から数度挑戦されて、漸く最後の一矢となる五矢目で成功された経緯が述べられており、三十二間筋冑であろうか見事に貫通した矢とご自身が映った写真と共に連射の経過と成功に至る感慨を述べられていて感動的である。

 当に至近距離に於ける和弓の貫通力と射手の精神力が結合した結果、恐ろしいまでの威力を発揮した瞬間だった。


(参考文献)

1)『弓の道 正法流入門』  吉田ルイ監修 紫鳳会編集 BSBジャパン 2005年


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― 新着の感想 ―
[一言] こういうのがあると創作活動にとってもありがたい。 参考にしています
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