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4.ゲベールからスペンサーまで(幕末の小銃)

 前回、現代における軍用規格による標準化の一例として、アメリカ軍の『ブローニングM2重機関銃』を採り上げてみた。

 M2重機関銃に関しては、標準化の他にも、あらゆる使用局面での信頼性の高さや50口径弾の破壊力の凄さ、設計の天才ジョン・ブローニングの基礎設計の良さと改良者の努力によるクローズド・ボルト、ベルト給弾機構等の卓説性など語り残した課題は相当に多いと感じている。しかし、上記の諸点や実戦での賞賛すべき性能、戦果に関しては、多くの優れた記録や書物が残っているので、今回はそちらに譲りたいと考えている。


 そこで、本稿では時代を少し遡って日本の幕末動乱期の小銃について、当時の先進国であった欧米を中心とした国際情勢を含め、少々違った観点から勉強してみたいと考えた。

 その為、銃器の個々の機構や性能に関しては、少々間の抜けた物語になりそうだが、我慢してお聞き頂きたい。これらの専門的な分野に関しては、澤田平氏を始め著名な研究家が林立しておられるので、皆さんの該当する分野の名著をお読みになることをお勧めする。


 今回のテーマの時間軸を江戸後期の天保12年(1841)、高島秋帆による徳丸ヶ原での洋式調練の年から、明治維新の慶応3年(1867)までの30年弱の間に絞って、このテーマを考えてみた。

 理由は、秋帆の徳丸ヶ原のオランダ式調練によって、時代に敏感な武士階級の耳に、今まで聞いたことも無かった、『ゲベール銃』の名前が一気に広まったからである。老中水野忠邦以下、無数の参観者の一人に若き日の勝海舟の姿もあった。海舟のように、この時のオランダ式の大砲及び小銃射撃を見学、伝聞した心ある人々の中には、ヨーロッパの最新式の軍事技術や産業を学ぶ必要を痛感した先覚者が多かった。

 東アジアに於いては、その後、アヘン戦争における巨大国家清朝の大敗があり、我が国に於いても、嘉永6年(1853)黒船来航があった。ペリーの蒸気軍艦二隻を含む来航は、日本国民全てに現代では考えられない位の大ショックを与えたのである。その結果、幕府を始めとする日本の諸藩は関ヶ原以来、初めての軍制改革を開始せざるを得なくなって、特にヨーロッパの新式小銃の確保に奔走したのであった。



■欧米の小銃開発状況

 実は、徳丸ヶ原から黒船来航、そして、明治維新に至る30年に満たない期間は、ヨーロッパ、アメリカにおいて、長い伝統を持つ先込式フリントロック銃から、近代的な後装式の連発銃に転換が計られた小銃の大変革期であった。

 この過激な大開発競争時代に欧米各国では無数のアイデアが続出し、優れたアイデアの多くが新式小銃として次々と実用化されている。ここでは、自分自身が理解しやすいように4つの機能で大雑把に分類して、メモを作成してみた。当然ながら、専門的で詳細な検討を行った上での分け方では無いので、大目に見てご覧頂きたい。


1)先込式滑腔銃(代表的な銃:ゲベール)

和式の火縄銃に近い構造のつるつるの滑腔銃身で、フリントロック機構を持つ先込銃、性能的には発火方式以外、火縄銃と大差ない性能を持つ。

>ゲベール : 1777年オランダ制式化


2)先込式ライフル銃(代表的な銃:ミニエー、エンフィールド)

先込式ながら銃身にライフルリングを切り、椎の実形の鉛弾を使用することによって、射撃距離と命中精度が飛躍的に向上した。

>ミニエー : 1846年フランスで開発

>エンフィールド : ミニエー銃の英国版の改良型


3)後装式ライフル銃(代表的な銃:スナイドル、ドライゼ、シャスポー)

1)、2)の最大の欠点である先込式を改善した後装式ライフル銃。装填間隔が短くなり戦闘能力向上に大きく貢献した単発式小銃。 

>ドライゼ : 1841年開発、世界初のボルトアクション後装銃

>スナイドル : 1866年、英国制式化  

>シャスポー : 1866年フランス軍採用    


4)後装式連発銃(代表的な銃:スペンサー)

後装連発式のライフル銃で、近代的軍隊の求める連続発射機能を備えた小銃。

>スペンサー : 1860年、アメリカで開発  


 以上に分けたように機能、構造的に4つの段階で順次改善されている。構造や機能に対する研究開発によって、性能や操作上、何が改善されたかを考えてみるとおおよそ次の3つになる。


A)射撃準備時間の短縮

日本国内で従来、使用されていた火縄方式マッチロックから、ゲベール銃のフリントロック方式へ変化した事により、発射薬点火への操作性が改善された。更に、雷管を用いた管打式の登場によって、操作性は大幅に簡略化されて向上、射撃準備時間の短縮に成功している。


B)最大射程の延長と命中精度の向上

ミニエー銃の登場によって、先込式ながら、銃身にライフル(線条)を切り、発射時にライフルに密着する椎の実弾の使用によって、最大射程、有効射程共に従来のゲベール銃の約3倍近くになったと言われている。更に、命中精度が大幅に改善され、ゲベール銃の最大射程の外からの遠距離射撃でもミニエー銃の場合、相当の命中精度を得られるようになった。いわゆる集弾率の高いアウトレンジ射撃が可能になったのである。


C)射撃間隔の短縮と伏射姿勢からの射撃

ミニエーやエンフィールド等のライフル銃の登場によって射撃距離と命中精度は革命的に改善されたが、先込式の為、銃弾の装填動作は従来と大きく改善されなかった。

そこで登場したのがスナイドル等の後装銃で、伏せ打ち姿勢等の自由姿勢での装填や連射時の射撃間隔の短縮に大きく貢献した。


 その他、これらの機構上の新開発や改良、操作性の向上を支えた物に、従来別々だった弾丸、発射薬、点火薬の一体化に向けての薬包の弛みない改善があった。

 初期のゲベール銃では火縄銃と同じように球形の弾丸と発射薬を別個に用意して装填する必要があったが、ミニエー、エンフィールド、シャスポーと銃器の開発が進むに連れて、それと併行して、弾丸と火薬を一体化させて、紙で包んだ実包が一般化されて、射撃効率を更に改善している。 

 けれども、紙で包んだ実包は雨や湿気に弱く、特に、東洋の高温多湿で雨の多い環境下では決定的な問題点となった。しかし、新式の第三世代銃とでも言うべきスナイドル銃になると近代的な実包に近い、一体型の金属薬莢の供給が始まり、雨天や夜間の射撃時にも円滑な連続射撃が可能になっている。



■欧米を中心とした国際情勢

 戊辰戦争勃発少し前の欧米列強の小銃装備状況は、2)の先込式ミニエータイプのライフル銃が主体だった。フランス軍のミニエー、イギリス軍のエンフィールド、アメリカのスプリングフィールドが代表的な銃として挙げられる。更に、ヨーロッパ各国は、1)の旧式の先込銃ゲベールやヤーゲルを大量に保有していて、その処分に苦慮している。

 その一方、各国共、次世代向けに独自の新式銃開発に着手して次々と成果を上げていた。最初に採り上げたいのが、1841年、プロシアで開発された世界最初のボルトアクション式後装銃、ドライゼである。ドライゼ銃によって開拓されたボルトアクション機構は、この後、第一次世界大戦、第二次世界大戦の各国の歩兵銃の基本構造としてとして、長く生き続けたのであった。


 プロシアのライバルのフランスは、フランス版の後装銃、シャスポーを完成させて、1866年、制式化している。この最新式の銃はフランス政府と親交の深かった徳川幕府にナポレオン3世から、2000挺、贈られている。即ち、極東の後進国日本ではあったが、少なくとも銃器の最新情報と相当数の現物は、幸運な事に鳥羽伏見の戦い以前に入手できていたのであった。


 当時の世界最大の大帝国英国は、保有する大量の2)先込式のエンフィールド銃を生かしつつ、後装式の新型銃に切り替えていく虫の良い考えに没頭していた。各種アイデアを公募した結果、英国は後装式新型銃スナイドルを1866年に制式化している。

 なぜ、虫の良い考えが成立したのか? それは、極めて巧妙なアイデアだった。3)の後装式スナイドル銃と同様の性能を、2)のエンフィールドの銃身後部を切断して部品を追加改造することによって、3)の新型スナイドル銃と同等の性能を得たのであった。

 この最新情報は、薩摩藩と親しいイギリス政府から薩摩藩に伝達されていたし、実際の商談は英国人グラバーによって、長崎で仲介されて、薩長向けに現品の輸送手配がされている。

ここに、ヨーロッパ列強3ヶ国の新型後送装銃が出揃ったのである。イギリスのスナイドル、フランスのシャスポー、プロシアのドライゼである。


 一方、新大陸アメリカでも着々と新式銃の開発は進んでいた。幕末の日本で少数では有るが大活躍する4)の後装式連発銃スペンサーや機関銃の祖型の一つであるガトリング・ガンである。けれども、最新型の銃器開発以上の大事件がアメリカでは発生していた。南北戦争(1861~1865年)の勃発である。

 両軍とも大量の動員を掛けて軍隊の拡充に努めたが、アメリカ国内の銃の製造能力では、軍隊の要求を満たすことが出来なかった。特に、工業生産力で劣る南軍では銃器の自給率は極めて低かったのである。その為、言語も同じイギリスを中心として、ヨーロッパ各国から大量の武器が新大陸に流れ込んでいった。

 イギリスで生産された、2)の先込式エンフィールド銃の総生産集は150万挺といわれているが、その内の六割の約90万挺がアメリカに輸入され、南北両軍で使用されたのであった。しかしながら長期に渡った南北戦争の終了によって、アメリカ政府は南軍から没収したエンフィールド銃その他の不必要な火器を大量に抱え込んで、処分に苦慮していたのであった。


 以上が、日本国内が戊辰戦争に突入する寸前の小銃に関連する国際情勢である。もう一度、欧米諸国の各国の事情と日本国内の薩長側、幕府側との関係の要点だけを整理すると下記のようになる。


・最も旧式の1)のゲベール銃クラスは、ただ同然でも良いから欧米諸国は売り払いたかった。

・2)の不要なエンフィールド銃を大量に持つアメリカは大口の購入先を探していた。

・3)の新型後装式銃は、スナイドル=薩長、シャスポー=幕府、のルートで情報を保有。

・4)の最新式小銃は先覚的諸藩のみ情報を把握して購入を模索していた。



■戊申戦争時の国内諸藩の動向

 その結果、極東の小国日本の動乱、戊申戦争は、欧米諸国の旧式銃器、余剰銃器の供給先として世界中の注目を集めることになった。欧米では相手にされない余った銃器が、慶応元年の相場でミニエー銃が18両、エンフィールド銃が40両、旧式のゲベール銃でさえ5両で売れたのである。

 当に、死の商人にとって笑いが止まらない美味しい市場であった。彼等は、銃器、弾薬の商売だけで儲けたのでは無かった、幕末当時の日本と海外との金銀の交換比率の違い(国内では金銀の交換比率は1:4の比率であったが、海外では1:10であった)で、更に倍美味しい商売をしたのであった。幕末の日本としては豪華な長崎のグラバー邸の建物を見るとそんな歴史を、ふと思い出してしまう。


 この新旧取り混ぜての世界中からの銃器の売り込みに対して、諸藩指導者の見識レベルが大きく作用した。火縄銃とそう変わらない性能の1)の1670年、フランスで開発された旧態依然たるゲベール銃を安価で購入して主力装備とした諸藩もあれば、最新鋭の4)のスペンサー銃を装備した先見の明のある藩もあった。その結果、戊辰戦争は戦国時代以来の火縄銃から旧式のゲベール銃、普及型のミニエー、スプリングフィールド、エンフィールド銃、新型のスナイドル、ドライゼ、シャスポー銃、加えるに最新型のスペンサー銃まで、1)から4)までの諸銃が混在する戦場になったのである。


 鳥羽伏見の戦いの段階では、佐幕派の会津藩はミニエー銃を薩長両藩はミニエー銃の英国バージョンのエンフィールド銃を主として戦っている。双方の小銃共に2)の先込式ライフル銃なので銃器の性能的には大差が無かったと考えて良い。

 しかし、未だに槍や刀に相当の比重を置いた佐幕諸藩と薩英戦争と下関戦争で近代的銃砲の一斉射撃の恐怖を十分に味わっている薩長では、銃器の運用技術と新式小銃に対する信頼感が大きく異なっていた。銃器運用面での一日の長と西郷等の軍指揮官の優れた銃隊指揮によって、鳥羽伏見の戦いは薩長の勝利となった。


 しかし、官軍の江戸進軍段階から小銃の東西両軍の間に格差が出来始める。原因は二つあった。一つ目は、国内最新鋭の銃砲を装備している肥前佐賀藩が官軍に参加したのである。佐賀藩の大砲はイギリス軍が装備している世界でも最新鋭のアームストロング砲であり、小銃も第四世代とでも表現できる最新4)の後装連発式のスペンサー銃であった。

 二つ目の原因は薩摩藩の発注したイギリス製の後装式スナイドル銃が日本に到着し始め、順次、主力部隊からエンフィールド銃との交換が始まった為である。これは、薩摩藩を後援している英国の力も預かっている感じがするが、会津藩を始めとする東軍の使用する銃が相変わらず第二世代の前装式ライフル銃のミニエーあるいはエンフィールド銃だったのに対して、戊辰戦争の勝敗を決する奥羽での戦いを決定的に有利にした条件の一つであった。


 言うなれば戦っている最中の後半戦直前に、官軍側は戦場での機能性に富んだ後送式ライフル銃所持の軍隊にモデルチェンジしたのであった。

 もちろん、幕府側にも第三世代というべきフランス製のシャスポー銃2千挺がナポレオン3世から送られていた。しかし、徳川慶喜の謹慎とシャスポー銃の薬包の供給能力から十分に活用されないまま終わっている。


 もう一度整理すると勤王、佐幕両陣営共に戊辰戦争前半戦の戦いは、第三世代のミニエー銃やエンフィールド銃で銃器的には対等の立場で戦った。

 しかし、戊辰戦争の後半戦は、官軍側が第三世代の改造型スナイドル銃で戦ったのに対し、会津藩その他の東北諸藩は第二世代のままの遅れたミニエー銃やエンフィールド銃で戦う事に成ったのである。もちろん、東軍も最新鋭の兵器を持っていなかった訳ではない。長岡藩のように最新鋭のガトリング・ガン2挺を保有して戦陣に望んだ藩も有ったが、少数の新鋭兵器が戦争全体の勝敗の方向を変えるまでに至らなかったのである。



■明治陸軍の小銃

 イギリスが1866年に制式化したスナイドル銃は、イギリス自身も1890年まで使用したが、日本陸軍も西南戦争の主力小銃としてスナイドル銃を使用した。西南戦争では、その他にプロシア製のドライゼ銃やアメリカ製のスペンサー銃その他が併用されている。

 その後、新型銃開発の要望が起こって、フランスのシャスポー系列の後装銃グラース銃をベースにボルトアクション型の村田式単発銃が開発される。この十三年式村田銃で、日本陸軍は日清戦争を戦うことになる。相手の清国軍は一部で村田銃よりも優秀な連発式小銃を装備していたが、各種銃器の混合使用により、部隊毎の使用銃器の差異による混乱や銃弾の補給に苦しんだといわれている。

 何か、太平洋戦争での日本陸海軍の機関銃の規格不統一による混乱と同じ状況を時代を遡って見ているような気がする。


 日清戦争後、単発式の村田銃の改善の要望が強く求められて、有坂式連発銃の開発が進められた。その成果は三十年式小銃として、まとまり、日本陸軍は連発式の三十年式小銃で日露戦争を戦い抜き、戦勝を勝ち取ることが出来た。しかし、5連発の弾倉を持つ優秀な三十年式小銃も小口径の6.5mm弾を使用したため、後継の三八式小銃を含めて、世界各国陸軍の標準的な7.6mm口径の小銃との破壊力や貫通力との差に苦しむことになったのであった。





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