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39.世界の「弓矢」と「弓射騎兵」

 世界に於ける初期の「弓矢」がどのようなものだったのか未だに全体像を理解できていない。その最大の理由は、世界各地の弓矢の起源が、余りにも古すぎる点と素材も含めた気候風土を含めた地理的影響もあって民族独特の弓や矢が出来上がっていったためである。

 使用する弓の素材もその地域特有の弾力性に富む材料が広範囲に利用されているため多彩であり、矢の素材も同様で日本で矢といえば矢竹製が当然のように感じるが、世界的に見ると木製が一般的である。

 更に、世界各地の戦闘で弓兵の存在が確立された一因には「複合弓」の登場であった。

単純な構造の「丸木弓」から、弓本体の木の他に角や動物の筋を複合した小型でありながら反発力の大きい強力な弓の出現により、射程距離も貫通力も格段に向上した結果、その民族の戦力は格段に強化されて大帝国を建設する一つの素因となったのである。


 用兵面と使用環境から観察すると弓兵はオリエントや古代中国では「戦車」に搭乗した有力な戦力として登場している。エジプトのファラオの戦車隊にしても、中国戦国時代の七雄の戦車にしても、優秀な弓兵の登場無しには戦場での活躍を理解することは不可能であろう。

 更に時代が経つと弓はユーラシア大陸の広範囲で大活躍した無数の騎馬民族の主要武器として大活躍している。

 あの史上初の大帝国を築いた大モンゴル軍団の活躍も彼等の主用戦力である「弓射騎兵」の活躍抜きでは記述することは不可能であろう。

 それでは、取り敢えず古代の弓矢からスタートしてみよう。


(古代の弓矢)

 古代史の世界から見ても地球全体で弓矢は相当古い時代から狩猟を目的として使用されている。やがて権力闘争の有力な手段として用いられるようになった弓矢は、人の殺傷に適するよう石の鏃も大型化していったし、形状の優れた青銅製の鏃も普及していくのだった。

 初期の弓が「丸木弓」と呼ばれるその土地で採れる弾力性に富んだ反発力のある材料を弓の形に加工した単純構造の弓だった点は上述した通りであるが、弓もより飛距離の出る材料と構造の改良が進んでいる。

イギリスの有名なロングボウ(長弓)の材料はイチイの木が主に用いられているし、日本でも古代の弓の材料はあずさまゆみはぜが用いられていた。地域によっては竹や丈夫な籐を弓の材料とする地域も多い。


使用された弓の長さも民族によって多彩で、扱いやすい1m以下の数10cmの短い物から長い物は2m弱の長寸の弓まで存在する。それに使用する矢の引き尺の差も民族によって大きく、一般的には左腕を一杯に伸ばして、弦を顎の位置まで引くケースが多いが、中には日本のように耳の後ろまで大きく引くケースも存在する。

弓の射法は四つくらい有るが、代表的な射法に「ヨーロッパタイプ」と「アジアタイプ」がある。ヨーロッパタイプは、人差し指と中指を主に2本から3本の指で弦と矢を挟んで引く方法で、現代のアーチェリーの引き方に代表される射法である。

もう一方のアジアタイプの引き方は、トルコから東アジアまで広範囲に見られる手法で「親指環」を使用して引く射法であり、日本の弓道もこの範疇に入る。

この二つの射法にはそれぞれ一長一短があって、明確には表現できないが命中精度ではヨーロッパタイプ、速射性ではアジアタイプに利があるように感じる。


(古代の「複合弓」)

 丸木弓に続いて出現したのが、より構造の複雑な「複合弓」で、ユーラシア大陸内陸部の乾燥地帯を中心に発達し、やがて周辺部に広く普及していくのだった。アッシリア、古代エジプト、中央アジア、北東アジア、古代中国の諸国である。

 その基本的な構造は、湾曲された木の内側に薄くそいだ動物の角を貼り、外側に動物の腱を貼って強度を大きく向上させたのだった。複合弓の出現により小型でも反発力の強い弓が出現した結果、弓の射程距離はそれまでの丸木弓の約100m程度に対し、約三倍程度にまで大きく向上したといわれている。


 しかし、複合弓の加工には高度な技術とそれにともなう費用の増加と時間を必要としたので、弓矢の世界が直ぐに丸木弓から複合弓に一変した訳ではなかった。例えば、古代エジプトでも主戦力である戦車兵の装備する弓は破壊力の高い複合弓だったのに対し、一般歩兵の装備する弓は長い間、製造の容易な丸木弓だったといわれているし、大軍を招集可能なペルシャ軍の場合でも部隊によって、丸木弓と複合弓が混成して装備されていたと考えられる。

 強力な弓兵隊の導入により古代中東の軍隊は弓隊と盾手の複合戦力として整備されていったと思われる。逆に考えると中東の大多数の弓兵隊兵士は防御力の不十分な不完全な鎧を身につけた兵か全く鎧を身につけていない防御力の低い軍隊だったと考えられる。その根拠は、ペロポンネソス戦争に於いて、あのギリシャの重装歩兵のファランクスとの接近戦で圧倒されているからである。


 前5~6世紀のスキタイの弓兵の絵姿をみると、小型の複合弓を持ち、腰に弓と矢筒を納める一体化した袋を下げている。このスタイルはアジアの広い地域で普及し、後世のモンゴル騎兵やトルコ騎兵のスタイルの原型となったと思われる。

 騎乗する兵士の持つ弓は日本を除くと出来るだけ小型軽量を重視する傾向があると共に通常の騎行時には鞍の脇の弓入れに弓も矢筒も一緒に格納出来る機能性を重視する傾向が一般的である。

 それでも複合弓の改良が進むとその射程距離は急速に増大し数100mに達しているし、中でもモンゴル弓とトルコ弓の射距離は大きく400mを越すケースも往々にしてあるという。一説には世界最大の射程を誇るトルコ弓の中には約600mの遠距離射撃が可能な弓も存在したらしい。

また、丸木弓でも有名なイギリスの「ロングボウ」の場合、名手が引くと最大500mに達する遠距離射撃が可能だったと伝えられているので、トルコ弓に負けない修練の射手もウェールズには存在していたのだろう。

百年戦争に於けるイギリス軍の弓兵隊の大活躍は明かだが、世界史的に見るとユーラシア大陸中央部での「弓射騎兵」の活躍の方がその存在価値はより大きかった。


(モンゴル軍「弓騎兵」大活躍の時代)

 漢の高祖を苦しめた匈奴以来、多くの北方騎馬民族が中国に侵攻し豊かな農業国である中華に自分達の民族国家を建設している。曰く、契丹族であり、女真族、モンゴル族、満州族である。帝国としては「金」と「元」、「清」が顕著で、中でも元と清の存在は大きく、現在の中国政府の政治指導部の中枢にも両帝国の最大領土を再現しようと熱望している人も多いらしい。

 これらの騎馬民族が最も得意とした戦法が「弓騎兵」による急襲と強奪行為であった。特にモンゴル族は数頭の乗り換え馬を伴い、信じられないほどの遠距離から富裕な農地を持つ農耕国家を襲撃して、その富を一瞬にして略奪・破壊する行為を得意として世界中から恐れられたのだった。

 モンゴル軍は乗り換え馬と共に30本単位で矢筒に納められた無数の矢や槍を携帯していた上、その矢も近距離用と遠距離射撃用の二種類が準備されていたという。数百メートル先の遠距離から驟雨のように降り注ぐ矢の雨はモンゴル軍の敵にとって厄介な存在だったろうし、近距離からの速射性に富む複合弓での攻撃は侮りがたい破壊力を保持していたのだった。

 モンゴル軍の弓射騎兵の特徴はそれだけではなかった。強固な敵陣を突破するための重装甲の騎兵と機動性に優れ遊撃に適した軽装甲騎兵の二種類の騎兵を編成して極めて有効に活用していたと伝えられている。

 加えて、早い時期にイスラム圏との接触によって入手した「投石器」もモンゴル軍は活用して野戦だけで無く、攻城戦でも有効に活用している。


 その結果、ジンギスカン自身の征西でホラズム帝国(西トルキスタン+イラン)を滅ぼしただけでなく、第二代ハンのオゴタイの指示によるジンギスカンの孫に当たるバトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征軍は無敵の強さを発揮するのだった。

 機動性を重視し軍律の厳しいモンゴル軍は各国との戦闘に恐ろしいほどの力を発揮している。ポーランド王国軍とドイツ諸侯の連合軍と「ワールシュッタット」で開戦したモンゴル軍は連合軍を壊滅させているし、ハンガリー王国との戦いでも快勝して、首都のペストを陥落させている。

 一方、イスラム圏に対してもフラグの率いる遠征軍は中心都市バグダートを後略して「アッバース朝」を滅ぼしている。

 このように、キリスト教圏、イスラム教圏を問わずモンゴル軍は無敵の強さを発揮して史上最大の大帝国を築いたのだった。


しかし、余りにも広い帝国の領土は一人の皇帝の支配下に統一出来る範囲を超えていたのだった。第5代皇帝であるフビライの時代、モンゴル帝国は五つに分裂して統治されることになるのだった。

それに加えて、余りにも広大な領土はモンゴル弓騎兵の得意とする草原や砂漠以外の複雑な地理的条件を含むようになってしまったのだった。最もモンゴル軍が不得意にしたのが広大な海洋の存在と巨大な河川による陸地が分断された地形だった。

ヨーロッパの騎士団や中国の歩兵を中心にした軍団との戦闘に圧倒的な強さを発揮したモンゴル軍だったが、河川の多いベトナムの陳朝への遠征や島国日本への侵攻、ジャワ島のシンガサリ朝等への海洋を隔てた船を用いた侵略行為には殆どの場合失敗している。

また、同じ弓騎兵を主戦力とするエジプトのマムルーク朝との戦闘でも「アイン・ジャルートの戦い」で、実戦での作戦面でのミスもあって敗れている。この勝利によって、イスラム教徒はモンゴル軍不敗の伝説を克服することが出来たのだった。


 この歴史的な流れは、どのような優れた兵器や戦術であっても、対戦相手がその技術や戦術を十分に習得した時点で、勝利は不透明になる状況を示している。

 やがて時代は火薬を用いた新型の火器の登場と共に大きく変わり始めるのだった。特にヨーロッパ諸国による急速なマスケット銃の改良は、その存在感を高めただけでなく、「大航海時代」開拓の為の重要な兵器としての存在感を高めるのだった。

  それは、近代史の前半に登場するナポレオン皇帝の場合も同様であり、大砲を縦横に駆使した野戦での天才的なナポレオン戦術も、ヨーロッパ諸国に広く知れ渡った時点で過去の存在となっていったのと同様である。

 ジンギスカン無敵の伝説は残ったものの「弓騎兵」の脅威は時代と共に忘れ去られていったのだった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 勉強になります 。 [気になる点] ⑴ モンゴル弓騎兵は、ヨーロッパの騎士団やイスラム教徒との衝突で、毒矢を使ったのでしょうか? 〉元寇で侵攻軍は、毒を塗った短い矢を日本で使ったのは、たし…
[一言] 確か、鎌倉時代の源氏系の武士は分類的には弓騎兵に分類されてなかったかな?騎馬運用の突撃しつつ、流鏑馬のような射撃術で騎乗射撃使っていたという感じで絵巻に会った記憶があると思うんだが
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