37.ヨーロッパ軍刀の完成形『サーベル』
ルネッサンス期を経て16世紀になるとヨーロッパのマスケット銃を含む火器は驚異的な進歩を遂げている。この火器の進歩は国際的に「大航海時代」に続くは西欧諸国の優位性を決定付ける決定的な推進力の一つとなったのである。
一方、ヨーロッパ世界の軍事情勢の変化を観察すると火器の驚異的な性能向上により、中世騎士が着用した重装備の甲冑の価値が極端なまでに低下した点がある。その結果、戦場では全く鎧を着ない軽装の銃兵や軽騎兵が登場しているし、武装していても簡易的な胸甲だけを着用した胸甲騎兵や火器を複数装備した竜騎兵が出現している。
当然ながら、重い大砲を操作する砲兵隊や輜重兵を含む多くの部隊は、むしろ重い装甲の廃棄に積極的だったと考えられる。
反対に手に持つ火器以外の武器はどうかと考えると、古代以来の槍や刀剣は健在で槍は槍騎兵や一部の歩兵部隊で生き残っていたし、手持ちの補助兵器としての各国の軍隊に於ける刀剣の役割はそれ以上だった。
マスケット銃隊の兵士にしても主力装備は当然ながらマスケット銃と腰の刀剣だったし、歩兵・騎兵・砲兵を含む多くの部隊の士官の腰には権威と指揮命令の効率化のための軍刀が吊されていたのである。
そして、近代化を迎えつつある当時のヨーロッパ各国の軍刀の形状は中世以来の騎士の両刃で真っ直ぐな剣の子孫だけかというと実はそうでもなかったのである。
その背景には、「十字軍」以来のヨーロッパ諸国の脅威となっているイスラム教徒の愛用する各種の「サラセン刀」の影響があったのである。
本稿では、ヨーロッパの軍刀形状の大転換期であるルネッサンス期以降の時代にスポットを当てて、大きかったイスラム圏の『湾刀』の影響を勉強してみたいと考えている。
(ヨーロッパの刀剣形状を一変させた『湾刀』の影響)
以前述べたように、8世紀に中央アジアのトルコ系民族によって使用され始めた『湾刀』は草原地帯の騎馬民族集団間で、その馬上での軽快な使用感と斬撃効率から急速に普及していったのである。
中でもモンゴル軍の騎馬隊に於ける湾刀の存在感は諸民族への影響を考えると非常に大きかったと思えるものがある。
反りの深い『湾刀』の擦れ違いざまの敵への攻撃力と軽武装の敵に対する優れた斬撃効果に着目したイスラム教徒の間で『湾刀』は瞬く間に普及して、中東各地域で多彩な変化を遂げた状況には前項で触れた。
さて本題のヨーロッパ諸国の近代的な軍隊に於ける『湾刀=サーベル』の普及であるが、手元の資料では何時の時代から、どの国によって普及の先端が切られたのか鮮明には解らなかった。
黎明期に於ける『サーベル』普及の先端となったと称する国は想像以上に多く、フランス王家やイギリス軍だとする主張もあるし、いやいや16世紀にスイス軍が用いたのが最初との説にも頷ける点も多い。
しかし、これは、『湾刀』の優れた性能と従来のヨーロッパタイプの突きに有利な真っ直ぐの諸刃の剣の問題点に気付いた西欧諸国の反省を物語っているようにも個人的には感じられる。
逆に見るとヨーロッパの近代的軍刀である『サーベル』は西欧諸国が総力を挙げて完成させた反りのある近代軍刀の『完成形』と解釈しても大きな間違いではないように感じるのである。
(『サーベル』の黎明期)
『サーベル』の起源に関しては多くの説があり、どれが正しいのか判断出来ないのが実情ですが、『湾刀』を主戦力としたイスラム圏の影響から推論するのが当を得ているような気がしている。
当時、強大な戦闘能力を持ち、宗教的にもヨーロッパ世界と相反する強国に「オスマントルコ」があった。中でもオスマントルコの中核部隊である「イェニチェリ軍団」の兵士は優秀なサラセン刀を装備してキリスト教諸国の軍隊と対峙していたのだった。
そして実際に、当時強大なオスマントルコ帝国の軍隊と直接対決して戦闘を交えたのは東欧諸国であり、中でも「ハンガリー王国」が多くの場合の対戦相手だったのである。
そう考えるとオスマントルコ帝国軍と戦闘を繰り返していたハンガリー等の東欧諸国が同帝国軍の『湾刀(サラセン刀)』の優秀性に着目して摸倣、自国軍の標準装備に湾刀を加えたとしても、何ら不思議ではなかったと考えられる。
そういえば、サーベルの一種に「ハンガリアンサーベル」と呼ばれる16世紀頃、スラブ系ハンガリー人が考案したとされる湾刀がある。
形状は身幅が広く、突き兼用の反りの浅いサーベルで、どちらかというとモンゴル軍の湾刀や後の中国の湾刀に近い形状をしたサーベルである。
外見的にはオスマントルコ軍の愛用した反りの極端に深く細身で軽快な形状の「キリジ」等とは一線を画した鈍重な実用刀姿のサーベルがこの「ハンガリアンサーベル」といって良い。
同サーベルはこのような形状からも、実戦第一のサーベルの一つである印象が強いが、面白いことにマジャール系のハンガリアンサーベル使用刀法の一つに日本刀の抜打ちに近い刀法があるらしい。
(ヨーロッパ全土ヘの『サーベル』の普及)
その後、『サーベル』は、東欧諸国からその影響を受けたフランス、イギリス、スイス、ドイツ等の各国の軍隊が採用した結果、急速にヨーロッパ全土に普及していったとされる説がある。
その結果、サーベル式湾刀はヨーロッパ各国で摸倣された流れで、その国特有の多彩な形状が生まれたと考えられる。
湾刀の特長を生かした反りの深いタイプは、軽騎兵や歩兵に好まれる一方、細身の直刀タイプは突撃を得意とする胸甲騎兵や重騎兵を中心に好まれて使用される等、斬撃を主要目的とするタイプと騎兵の突撃時に有効な刺突時の効果を重視したタイプに分かれて混用されていて、国家としての統一感は少なかったといわれている。
例えば、当時の英国では連隊が使用するサーベルの形状は連隊長の判断に任されていて、同一戦線の連隊でも異なる形状のサーベルが装備されていたらしい。もちろん、主用兵器である小銃は型式、口径共に規格化されていた。
ヨーロッパのサーベルが大きく進歩・改良されたのは「ナポレオン戦争」時代で、各国はサーベルの改良に着手し、斬撃と刺突両用の優秀な形状の刀身も登場している。
サーベルは皆さんご存知のように形状的に護拳が付属し片手遣いが基本の軍刀で、長さも70~120cmまで多様で、平均的には日本刀よりも長い80cm台が主流となっている。
しかし、南北戦争を経て軍事技術が大転換の時代を迎えると、騎兵による集団突撃よりも連発小銃による集中射撃が戦場での勝敗に大きく影響する時代となったのだった。
この時代、サーベルの形状もフランスなどの先進国を中心に洗練されたデザインが登場すると共にヨーロッパ各国は優れたサーベル・デザインの摸倣に努めた結果、世界的なサーベル形状の統一感のある完成期を迎えるのだった。
その影響は各国の海軍用刀剣形状にも大きく影響し、各国毎の特徴ある刀身デザインは急速に失われて、洗練された外装のサーベルが速やかに普及していくのだった。
この頃、遅れて登場したのが明治維新直後の「明治日本」だった。
明治新政府は陸海軍の西欧化と軍装を含めた近代化を強力に推進した結果、陸海軍及び警察官の所持する刀剣は「サーベル外装」と指定されている。
即ち、西南戦争や日清日露戦争に参加した政府軍や陸海軍将兵の軍刀は基本的に『サーベル外装』だったのである。
そのサーベル外装の中身には、フランス製やドイツ製の刀身も使用されたが、その刀身の多くは従来の日本刀が使用されている。
過日、日清戦争に従軍した旧大名家のサーベルの刀身を拝見する機会があったが、中身は鎌倉時代中期の一文字の名刀であった。また、別の機会に尉官クラスの軍刀を拝見した折には末関の実用刀が納められていたのだった。
このように、明治から大正期のサーベル軍刀の中身としては、古来の日本刀が多く使用されたようだし、日露の戦いでも長身のロシア兵のサーベルと日本刀を振るう陸軍士官が満州の戦場で対等の戦いをした逸話も幾つかお聞きした記憶がある。
確かに、日本刀の基本形状は、反りの浅い「半曲刀」形状に近く、日本刀独特の「鎺」の使用により容易にサーベル外装の中身として使用できる利点があったのである。
即ち、不思議なことに平安時代中期後半に登場して千年以上の歴史を持つ『日本刀』は、ヨーロッパ各国が洗練された軍刀形状を完成させた19世紀の『サーベル軍刀』に極めて近似した洗練された姿を古代から変わることなく日本民族に提供し続けてくれたのである。