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36.「サラセン刀」の広範囲な普及の背景

前稿で『地域によって様々な名称を持つ「サラセン刀」』の元となった『湾刀』について軽く触れたが、今回は、もう一歩進めて、何故イスラム世界で反りの深い『湾刀』が急速且つ広範囲に普及したのかを考えてみたいと思っている。

まず、最初に考えてみたいのがユーラシア大陸中央部から中近東の地域的特徴である。東西二つの刀剣文化の出発点となった地中海文明と中国文明を考えてみると、基本的には両文明共に「農耕文明」がベースとなった文化であり、それに加えて牧畜が大きな比重を占めた文明と考えてもそう大きな間違いではないような気がする。

その結果、以前述べたかも知れないが両文明圏の古代の軍隊の基本は密集した歩兵集団あるいは馬の引く戦車によって編制された軍団であった。

その点、ユーラシア大陸の中央部は草原と砂漠が混在していたし、特に中東では砂漠の面積が広かった。そうなると住民の生活基盤は農耕よりも牧畜が主となり、移動にも馬や駱駝を使用していた背景もあって、この地域の特徴として「騎馬民族」独特の剽悍な騎兵による他地域への侵略行為が往々にして起こったのである。

中国北部に蟠踞した「匈奴」による南の農耕地帯への侵攻もそうだったし、ヨーロッパに於けるフン族その他の民族大移動もそうだったが、騎馬民族の略奪ターゲットは豊穣な農耕地帯とそこで収穫される穀物であった。


(「騎馬民族」の武器を考える)

歩兵を主力とする農耕地帯の軍隊に対し、部族中心の騎馬民族や遊牧民族の兵の最大の特徴は移動速度の速さと定住民族には無い剽悍さだった。

一瞬にして遠距離から攻撃を掛け、農民がやっと収穫した穀物や貴重な財貨を強奪して家族の元に速やかに帰還する行動力こそ「騎馬民族」最大の長所であり、成果を生み出す原動力そのものであった。

歩兵と異なり、騎乗して行動することを基本とした「騎馬民族」の場合、自身を防御する簡単な鎧や盾の他に弓矢や刀、槍を装備することが出来たと想像される。その点、農耕地帯の歩兵は携帯する兵器によって「槍兵」や「弓兵」、「弩兵」、あるいは中国では盾を持つだけが役割の「盾手」等に機能別に分化しているのが普通だった。

しかし、その様な多面的な装備を個人で可能にする為には、軽量で扱いやすく機能性の高い武器が是非とも必要だったのである。

特に、西側諸国に遠征したモンゴル軍のように長距離の移動と果敢な攻撃力を維持するためには優秀で殺傷力の高い携帯兵器は、敵よりも優位な戦闘力を保つために欠くことの出来ない絶対条件だったのである。

その点、モンゴル軍やトルコ軍には小型軽量で速射性に優れ飛距離の長い弓矢があったし、優秀な『湾刀』が初期の段階から装備されていたと考えたい。

文献的な根拠に乏しいがモンゴル軍は相当初期の段階から反りが深く身幅の広い『湾刀』を使用して、敵との接近戦を有利に展開していたと想像したい。


そう考えると、軽量でありながら斬撃効果の高い『湾刀』は騎馬民族にとって遠距離兵器である「弓矢」に次ぐ重要な兵器だったと考えられる。

もちろん、「槍」の存在は初期段階の戦闘に於いて、湾刀以上に重要だったと考えられるが、混戦で弓も槍も失った場合、最後に身に付けている湾刀の重要性は大かったはずだ。

加えて、異民族間での平時や儀礼的な場での湾刀の重要性は日本の侍が差料の刀を精神的にも重要視していたのと同様だったと推測される。その様子は、今に残るモンゴル帝国やイスラム世界の謁見図や王の肖像画を見ても容易に理解出来る。

そして、騎兵にとって有用な深い反りの『湾刀』を製作するだけの鍛刀技術や、その機能に耐えうる鋼材の供給力が当時のイスラム圏にあったことも確かである。

それでは最初に『湾刀』の生産を支えたイスラム圏の優秀な鉄鋼技術から覗いてみたい。


(『湾刀』を支えたイスラム圏の優秀な鉄鋼技術)

中近東のイスラム圏の優秀な刀剣材料として、日本から見ても第一に想起されるのが、「ダマスカス鋼」の存在である。

ダマスカス鋼は古代インドで開発された「ウーツ鋼」の別称とされ、木目状の模様が刀身の表面に現われることを特徴とする強度と切断力に優れた素材を刀剣に提供した点で有名な鋼である。

欧米の現代刀剣作家達も、数種類の鋼材を人為的に混ぜて複雑な肌模様の刀身を作成した「ダマスカス鋼の刀剣」や「ダマスカス鋼製のナイフ」と称して販売している人も多く、一般的な人気も相当高い。

ここで、何故、「ダマスカス鋼」の話を出したこというと、細くて反りの深い長い湾刀製作の前提条件として、優秀な鋼材の存在が刀身の軽量化の為に極めて重要だと思えるからである。ヨーロッパ騎士の愛好した重い長剣と異なり、細身で斬れ味に優れた「サラセン刀」の作成には、強靱で柔軟性に富み、且つ斬れ味を維持出来る素材の重要性は想像以上だったと思われる。

更に、馬上での激突を考えると衝撃発生時に耐えうるだけの強靱な鋼の存在が絶対条件であったと考えられる。

加えて、日本刀の場合もそうだったが、単純で均一な鋼材だけでは斬れ味と強靱性の双方を両立させる優秀な刀剣は完成できなかったと考えるべきであろう! 

鋼材以外にも粘りのある優秀な鉄材との複合的な鍛造技術があって初めて、ダマスカス製の優秀な刀剣が完成したと考えられる。


代表的なサラセン刀の一つ「シャムシール」を例にとると、長さは80~90cmと長く、反りは日本刀の倍以上と深い。その様な形状を破綻なく仕上げて、実用上での問題点も吸収するためには、優秀な鋼材の存在が必要不可欠だったのである。

その点、中近東からインドに掛けて、古代以来、優秀な鉄材の供給地や刀剣加工地が存在していた背景も大きかったと考えられる。

その結果、モンゴル帝国に続くイスラム帝国の拡大と共に、反りが深く、馬上での使用に適した長い『湾刀』は急速に普及し、ヨーロッパ世界からは、「サラセン刀」あるいは、「アラビアンソード」と呼ばれるようになったのである。


(「サラセン刀」の系譜)

地域によって様々な名称を持つ反りのある「サラセン刀」については前稿で幾つか触れたので本稿ではトルコ・モンゴル系を代表する「キリジ」からご紹介してみたい。

ユーラシア大陸全土で使用され広く普及した「キリジ」の特徴は湾刀である点と、その広い身幅にある。特に元身幅に比較して先身幅が広く斬撃効果を挙げられるような形状になっている上、先端が諸刃になっている関係で、身幅の広い割には刺突も可能な基本構造を備えていた。

中国の青竜刀もそうだが、こういった形状の場合、刀の前方に重量が掛かるので切断効果が大きく、強靱な手首の持ち主ならば第一撃が空振りになっても即座に第二撃に移れる利点があった。しかし、その反面、身幅を広くするほど刀身重量は増して軽快さや俊敏性を欠く可能性も否定できなかった。


そこで登場したのが如何にもサラセン刀らしいすらっとした形状の湾刀の代表選手、ペルシャの「シャムシール」である。

「シャムシール」はその形状からペルシャ語で「ライオンの尻尾」の意味らしいが、日本刀と大きく異なるのが「曲刀」とも呼ばれる程の反りの深さである。この反りの深さこそが、擦れ違いザマの恐るべき殺傷力を生じさせる特性の一つとなっている。

そして、もう一つ日本の刀と異なるのが柄の形状である。柄は日本刀とは異なり、刀身の反りとは反対方向に反っており、更に刀身と持ち手の重量バランスを保つために柄の先端は丸くなっていて片手持ちの欠点を補っている。

その他にも「シャムシール」と同様に有名なのがアラブの「サイフ」やムガール帝国等のインド周辺諸国で見られる「タルワール」である。


ムガール帝国(1526~1857年)の初期段階の刀剣は、トルコのキリジ同様にモンゴル帝国の刀剣の強い影響を受けていた。刀の身幅は広く、特に先身幅はそれ以上広く、突きが可能な諸刃になっていた。しかし、帝国の後期になると洗練された形状の「タルワール」が登場している。「タルワール」には種々の形状があるが、平均的に反っているシャムシール同様の形状の他に柄や腰元は比較的真っ直ぐに近く先反りが強い独特の形状の物も存在した。

しかし、インドのタルワールも時代の進行と共にシャムシールの影響を受けて、刀身の形状がタルワールに近似した逆反りの柄の刀身も出現している。このことからも解るように優秀な武器の構造や機能は、ヨーロッパ諸国同士でそうだったようにイスラム諸国間で摸倣・改良されて進化している。

タルワールは一説には、英国の「サーベル」に強い影響を与えたという。刀身にはインド独特の「ウーツ鋼」を使用した関係で、美しい木目模様が現われ強靱な特性を保持していた関係でイギリス人を魅了したといわれている。


より良いものを採り入れようとする傾向はオスマントルコ帝国でも同様であった。従来主流だったトルコの刀剣も「キリジ」とは全く異なる逆反りの個性的な形状が登場している。

歩兵用の「ヤタガン」である。

ヤタガンは、これまでの深く湾曲したサラセン刀とは大きく異なり、反りは浅いながらも反対方向に反っており、有名なトルコ帝国の最強歩兵軍団「イェニチェリ」によって使用されている。

その斬れ味は切り払うというより手斧のように叩き割るような凄まじい斬れ味だったと表現されている。

ヤタガンはインドのシャムシール等の湾刀に比較して、扱いやすい寸法が多かったようだが、やがて真っ直ぐな刀身の鋒周辺だけ先反りが付いた日本の反りの浅い末古刀のような刀身も出現している。確かに、騎乗用の刀剣と違い、徒歩戦が主であるイェニチェリの場合、戦国時代の徒士戦で活躍したような先反りの付いた片刃の刀は使用しやすかったのであろう。

けれども、不思議なことに、この系譜は、トルコの敵国であるロシアのコサック騎兵の持つサーベルに継承されているのである。

そして、日露戦争の満州に於いて、日本刀をサーベル外装に仕込んだ日本騎兵とトルコ系のサーベルを翳したコサック騎兵が激突することになるのだった。


このように多彩に開花したイスラム諸国の『湾刀』は、やがて君主や国家の表象として刀身に繊細な彫刻を施された美品やダイヤモンドその他の宝石をちりばめた豪華絢爛な外装に包まれた高価な刀剣も出現している。

これらの刀剣の中には、国家間の贈呈用として重要視される存在になったり、戦場での偉大な戦功に酬いるために国民から進呈されるケースが増えていったのである。

中でも、ペルシャの宮廷で1600年頃造られた「シミター」は50カラットのルビーと11カラットのエメラルドを中心に1295個のダイヤモンドで装飾された逸品であった。後にオスマン帝国からロシアの「エカテリーナ女帝」に贈られて現存している。


これ程の名品では無い物のイスラム諸国から感謝を込めて欧米諸国の将軍や士官に贈られた「サラセン刀」の数は多い。

これらの片刃の湾刀の影響は大きく、従来型のヨーロッパの諸刃で真っ直ぐな剣の使用を大改革させる刀剣世界の『第三の潮流』となった可能性を否定できない。

次稿では、イスラム世界の『湾刀』が世界の刀剣に及ぼした影響の大きさを検証してみたいと考えている。


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