35.独自の発達を遂げた「イスラム世界の刀剣」
この所、近代から現代に掛けての「小火器の発達」について触れてきたので、そろそろ、時間軸を古い時代の武器に戻したい気がしている。
中でも以前から気になっているのがイスラム世界の刀剣と武装なのだが、西欧や日本・中国の武器と違って、日本語訳された文献や資料に乏しい実情もあって、個人的には現時点でも十分に理解出来ないでいる。
しかし、そう思っていると永久に触れられそうもないので、勉強不足を承知の上で、今回、出来るだけ整理して見たいと考えている。
それでは、表題の「イスラム世界の刀剣」に入る前に、古代から続く世界の刀剣の三つの大きな流れについて整理してみたい。
(ユーラシア大陸東西の二つの大きな流れ)
青銅器の時代から、世界各地で多くの形状の刀剣が造られたが、ユーラシア大陸の東西では、それぞれ二つの大きな流れとなって多くの遺物と共に刀剣史とも呼べる伝統が形成されている。
一つは、突くことを主として斬る事を従とした諸刃の「剣」であり、もう一つは、斬る時の利点を追求した片刃で真っ直ぐな「刀」の存在である。
この二つの刀剣形状は数千年に渡って東洋と西洋の刀剣の二大潮流となって武器の世界の歴史をリードして来たのだった。
この刀剣の二大形状の特徴を明瞭に示しているのが、古代中国で発生した漢字の「剣」と「刀」である。その点、最近の日本語では、両者を混同して使用する傾向もあるので、少々触れてみたい。
「剣」とは、諸刃で先端が尖っていて刺突と斬る行為を併用できる武器で、大雑把な外観形状は細長い二等辺三角形をしている。もう一方の、「刀」とは、真っ直ぐな形状の片側に刃が形成されており、反対側の棟の方は真っ直ぐな斬る事を主目的とした武器であった。
最初、鋳型を使用した成形加工によって造られた青銅製の刀剣は、諸刃の「剣」が主流だったようだが、戦国時代から秦に掛けての中国では、「刀」と「剣」の双方の武器が活躍していたのである。
やがて、鉄製の刀剣の登場と共に、秦に続く漢の時代になると、製作に時間と手間を要する「剣」は、主に王侯貴族や軍の上層部が使用する武器として残る一方、「刀」の方は、剣に比較して安価に量産できた関係で、軍用として下級兵士にも大量に支給されて広く普及していった。
日本の古墳時代の出土品では、「剣」と「刀」の双方が見られるが、遣唐使の時代の到来と共に「唐風」の「大刀」と呼ばれる片刃で真っ直ぐな直刀が主流となり、日本刀発生の源流の一つとなっている。
一方、西洋の刀剣はというと古代ギリシャの、「クシポス」という木の葉形の諸刃の剣当たりからスタートするのが順当かも知れない。
皆さんよくご存知のように、ギリシャの都市国家では、頑丈な盾と槍を主要武器とした「重装歩兵」を主戦力としていたが、近接戦の最終段階では、クシボスによる突きと斬合いが勝敗の帰趨を決定付ける重要な武器であった。
古代ギリシャの重装歩兵の系譜に連なる、古代ローマ帝国の軍団の兵士も同様に、盾や投げ槍の他に、右腰に下げた諸刃で短めの剣「グラディウス」を使用していた。
やがて、騎馬民族との戦闘の時代を迎えるとローマ軍団の剣も「スパタ」と呼ばれる60cm以上の長さの長剣に変化していくのである。
このように、古代地中海世界の刀剣の主流は、諸刃で先の尖った「剣」を主軸に変化発展していくのだった。
(「暗黒時代」から「ルネッサンス期」のヨーロッパの刀剣)
古代ローマ帝国の軍団兵士が愛用した諸刃の剣「スパタ」の姿は、その後の中世ヨーロッパの「剣」の基本形状として継承されていったと個人的には考えている。
もちろん、中世からルネッサンスに掛けてのヨーロッパの剣も、全く同一の形状だったわけではない。
時代や各国ごとの使用上の要求の変化に対応する形で身幅や長さが大きく変化しているが、突きを主流として斬合いも可能な「ヨーロッパの剣の基本形状」は大きく変わること無く維持されたのだった。
有名な「ヴァイキングソード」もそうだったし、中世初期のノルマン人が使用した身幅の広い「ブロードソード」もそうだった。
中世後半の14世紀中頃から16世紀中頃に掛けて騎士の剣の代表的な存在の「ロングソード」もこの範疇に入ると考えられる。その頃になるとヨーロッパの剣の長さは、85~95cmの長大な物に変化している。
ヨーロッパ中世を描いた絵画や映像で良く観る「騎士の諸刃の長剣」は、欧米の現代人にとっても、その時代を代表する武器だったと認識されているし、ヨーロッパの博物館の刀剣コレクションの一隅を占めていることも確かである。
しかし、火器の登場と共にヨーロッパの刀剣は、大きな変わり目の時代を迎える。大きく頑丈で強固な甲冑をも破壊できるロングソードに変わって、細身で軽く、刺突に有利な形状の「レイピア」の登場である。
17世紀から18世紀に於ける火器の発達と共に登場したレイピアは、頑丈で長大な騎士の剣を駆逐し、優美で軽い「スモールソード」の時代に移行する先駆けだったのである。
さて、ヨーロッパの刀剣の流れを長々と書いてしまったが、今回の本題の「イスラム世界の刀剣」に入ってみたい。
(独自の発達を遂げたイスラム世界の『湾刀』)
東アジア中心中国の刀剣もそうだったし、西欧の刀剣もスタートは歩兵同士の戦闘に主眼が置かれて発達した経緯が濃厚だった。
しかし、イスラム圏で発達した「刀剣の第三の形状」である『湾刀』は主要な使用者が騎馬民族であった点に特徴がある。
歩兵同士の激突とは大きく異なり、馬上同士での遭遇戦は、高速での擦れ違いざまの斬合いが殆どだったと想像される。相手を斬れないまでも、敵の鎧や身体の一部にこちらの刀が留まったり、抜けなくなっただけで、剣の使用者は肩を脱臼したり、腕を骨折する危険性が潜んでいるという。
特に、反りの無い「剣」や真っ直ぐな片刃の「刀」で、その危険性は倍増するという。その点、反りのある『湾刀』では、軽く手首を返すだけで、抜けやすくなるのだという。確かに、モンゴルでの騎乗者の擦れ違いざまの試斬映像を見ても、やはり、湾刀の効果なのか斬った後に軽々と対象物から離れている姿が印象的だった。
さて、反りのある『湾刀』がいつ頃、歴史上登場したのか手元の資料だけではハッキリとはしないが、少なくとも8世紀頃にはユーラシア大陸中央部のチュルク語系民族によって用いられたらしい。
『湾刀』は「曲刀」とも呼ばれ、刀身の反りの深さから順に、「曲刀」、「半曲刀」、「直刀」と簡易的に分類されているようだ。
因みに、日本刀は、反りが浅いので、「半曲刀」に分類されるようだ。
即ち、『湾刀』または、「曲刀」の場合、日本刀に較べて遙かに反りの深い刀を想像して頂くと、大きな間違いにならないと思う。
反りのある湾刀は、その馬上での有利な使用効果から、瞬く間にユーラシア大陸中央部の騎馬民族を中心に伝搬普及していったと考えられるが、中でも、「セルジューク朝」や「イルハン朝」等のチュルク・モンゴル系の遊牧民族には早い時期に広まっていったようだ。
『湾刀』と聞くと中世ペルシャの「シャムシール」は有名で、我が国でも、「半月刀」とか、「偃月刀」と呼ばれているケースを良く見かける。十字軍の時代、ヨーロッパ騎士達の真っ直ぐな剣と戦ったイスラム教徒の剣は、反りの深い湾刀の「シャムシール」だったといわれている。
その他、『湾刀』として思い付くだけでも、ムガール帝国の「タルワール」、トルコの「キリジ」、アラブの「サイフ」、アフガニスタンの「プルワー」等々、湾刀は中央アジアや中近東の騎馬民族を中心に広く普及して、インドの諸部族でも愛好されている。
その範囲は広大で、丁度、イスラム圏に重なる部分が多いため、「サラセン刀」とも呼ばれる場合がある。
(『湾刀』を支えたイスラム圏の優秀な鉄鋼技術)
中近東のイスラム圏の優秀な刀剣材料として、日本でも第一に想起されるのが、「ダマスカス鋼」である。
ダマスカス鋼は古代インドで開発された「ウーツ鋼」の別称とされ、木目状の模様が刀身の表面に現われることを特徴とする強度と切断力に優れた素材を刀剣に提供する点で有名な鋼である。
現代の欧米の刀剣作家でも、数種類の鋼材を人為的に混ぜて、複雑な肌模様の刀身を作成して、「ダマスカス鋼の刀剣」や「ナイフ」と称して販売している人も多いくらい一般人にも人気が高い。
ここで、何故、「ダマスカス鋼」の話を出したこというと、細くて反りの深い長い湾刀製作の前提条件として、優秀な鋼材の存在が極めて重要だと思えるからである。
更に、馬上での激突を考えると衝撃発生時に耐えうるだけの強靱な鋼の存在が絶対条件であったと考えられる。
加えて、日本刀の場合も、そうだったが、単純で均一な鋼材だけでは優秀な刀剣は完成できなかったと考えるべきであろう!
鋼材以外にも粘りのある優秀な鉄材との複合的な鍛造技術があって初めて、ダマスカス製の優秀な刀剣が完成したと考えられる。
「シャムシール」を例にとると、長さは80~90cmと長く、反りは日本刀の倍以上と深い。その様な形状を破綻なく仕上げて、実用上での問題点も吸収するためには、優秀な鋼材の存在が必要となる。
その点、中近東からインドに掛けて、古代以来、優秀な鉄材の供給地や刀剣加工地が存在していた背景も大きかったと考えられる。
その結果、イスラム帝国の拡大と共に、反りが深く、馬上での使用に適した長い『湾刀』は、急速に普及し、ヨーロッパ世界からは、「サラセン刀」あるいは、「アラビアンソード」と呼ばれるようになったのである。
(地域によって様々な名称を持つ「サラセン刀」)
『湾刀』の世界的な普及への端緒は、イスラム圏諸国とチュルク(トルコ)・モンゴル系騎馬民族との接触からだったと勝手に想像している。
遊牧民族は、移動を重視する民族性から、必要最低限の資材しか持たない傾向が強いし、接触先の優れた物を吸収して自分の物にする傾向も顕著だと考えられている。
その結果、チュルク(トルコ)・モンゴル系の遊牧民の『湾刀』に遭遇した中央アジアから中東に掛けての諸民族、特に、イスラム教諸国では、自国軍隊での『湾刀』の普及が急速に進んだのではないかと思っている。
そう考えないとイスラム各国内での似たような形状の湾刀が拡散的に広まった理由が説明できない気がするのである。ヨーロッパの歴史家達は、この地域の『湾刀』を「トルコ・モンゴル系サーベル」と呼んでいる。
アラブの「サイフ」、ペルシャの「シャムシール」、トルコの「キリジ」、インドの「タルワール」、アフガニスタン・パキスタンの「プルワー」等々、チュルク(トルコ)・モンゴル系の『湾刀』の影響は、極めて広範囲に及んでいる。
中でも、インドのムガール帝国の「タルワール」やオスマントルコの「マムルーク刀」の影響は大きく、イスラム各国の枠を超えて東欧諸国を経由して、ヨーロッパ諸国へと『湾刀』が普及していった背景となっている。
良く知られているように、ヨーロッパに普及した湾刀は、「サーベル」と呼ばれ、ヨーロッパ各国の陸軍の近代的騎兵隊の標準装備として広く一般化する一方、歩兵士官を含む各国士官や将官の表象として重要視され、普及していったのである。
このように、世界の刀剣史の中ではやや遅れて登場した『湾刀』だったが、現代でも「サーベル」は各国の閲兵式の儀仗指揮官等の所持する刀剣として公式の場で活躍しているのである。