33.拳銃弾のシャワー『短機関銃(サブマシンガン)』
第一次世界大戦末期にドイツ帝国軍によって戦場に登場した拳銃弾を使用した極めて小型軽量の携帯兵器が、次の第二次世界大戦の最前線の戦闘形態を大きく変えてしまったのだった。
その画期的な兵器の名を『短機関銃』という。
それまでの歩兵の主要兵器である小銃と異なり、拳銃弾を使用した結果、射程距離は短く、銃身長も短い為、命中精度も劣るものの、小型機関銃ともいえるその圧倒的な速射性と制圧射撃は塹壕戦や市街戦、ジャングル戦での近接戦闘で驚異的な威力を発揮し、短機関銃無しでは戦線を維持出来ないほどの印象を各国に与えている。特に、ヨーロッパの東西両戦線での普及率は高く、小銃に変わる歩兵の基幹兵器の印象さえ感じる。
しかし、『短機関銃』を事前に十分準備して開戦に備えた国は、第一次世界大戦で短機関銃の開発に着手したドイツくらいで、多くの参戦国は準備不足の状態で戦争への突入したのだった。特に、連合軍の主要参戦国である米英軍は、「戦時急造型の短機関銃」配備で中盤以降の戦線を維持している。
短機関銃を含めた最前線の携帯火器の多様化に追随出来なかった唯一の大国が日本だった。その背景には、列強の中で最も工業化に遅れを取っていた国内事情と長い銃剣を着剣した歩兵の突撃に高い精神性を求めた結果だった。
第二次世界大戦後、各国は『短機関銃』を含めて「突撃銃」や「汎用マシンガン」等々の多様な歩兵用銃器の開発を行った結果、今日では、多種多様な小型銃器が世界各国の軍隊や警察、秘密組織に配備されている。
本稿では、それらの戦後の銃器開発の発端の一つを形成した第二次世界大戦に於ける各国の『短機関銃』開発に焦点を当てて、開発初期段階特有の各国の問題点と製造上の特徴に注意しながら勉強してみたいと思っている。
(最初の『短機関銃MP18』)
世界初の短機関銃「MP18」がドイツ帝国による開発品なので、スタートとして、MP18から始めたい。
MP18は第一次世界大戦中の1917年に設計がスタートして、大戦後半のドイツ軍の決戦兵器として1918年から配備された。
その背景には、西部戦線に於ける塹壕戦の膠着状態があった。延々と続く塹壕と鉄条網、敵の肉薄する歩兵の大部隊を掃射する両軍の機関銃によって、英仏連合軍とドイツ軍は開戦時には想像も付かなかった消耗戦を強いられることになったのである。
両軍からは、当時考えられるあらゆる新兵器である戦車、航空機、毒ガス等が投入されたが、戦局を左右するほどの決定的な効果は得られなかった。
そこで考えられた新兵器の一つが、『短機関銃』であった。小銃と異なり拳銃弾を使用することによって歩兵の携帯兵器でありながら、敵の塹壕陣地内を制圧できる連射性能を維持できる新兵器として考案されたのである。
基本的には、弾丸は9mmパラベラム拳銃弾を使用し、20発ボックスマガジンないし、32発スネイルマガジンを装備、毎分350~450発の発射速度を維持していた。
当に、小型の機関銃そのものであり、1918年のドイツ軍の春季攻勢に大量に投入された結果、連合軍の戦線を圧倒してパリに迫る成果を挙げたのだった。
しかし、ドイツ軍の兵力不足と米軍の参加による連合軍の戦力増強の結果、7月の連合軍の反攻以降、ドイツ軍は劣勢となり、ドイツ帝国の崩壊の結果、休戦協定の締結に至る。
敗戦により、全ての「MP18」は連合軍に没収され、ドイツにおける短機関銃の製造と配備は禁止されたのだった。
(戦間期における『短機関銃』)
この時期の短機関銃で第一に挙げる必要があるのが、アメリカの「トンプソン1919短機関銃」である。因みに同銃の使用弾薬は、45ACP拳銃弾であった。
軍用短機関銃として開発された同銃は、戦後民間に放出されて禁酒法時代のギャングが使用して一躍有名になった。
同銃は、1919年から生産が開始されて、累計170万丁以上の大量生産により第二次世界大戦に参戦した米軍を初めとする連合軍の短機関銃として有名になった。
この短機関銃は、如何にもアメリカ製の銃らしい耐久性の良さと信頼性に優れており、何度も改良型が出されているが、代表的な生産モデルとして、「M1928」がある。弾倉は箱型弾倉(20発、30発)とドラム弾倉(50発、100発)の二種類があり、発射速度(600~1200発/分)が早過ぎて実戦では評価が分かれる傾向があったが、戦場での信頼性は高く、戦後も朝鮮戦争などで使用されている。
また、製造工程が複雑で手間が掛かった為、他の連合国の短機関銃に較べて量産性が低く、戦争後半には戦時省力生産モデル「トンプソンM1短機関銃」に道を譲っている。
連合国による敗戦国ドイツに於ける短機関銃の製造と装備の禁止は、逆に見ると、短機関銃の有用性の証明とも考えられる。
小型の拳銃弾を使用し、小銃と同じ木製銃床を備えたMP18は、シンプルなブローバック作動方式を採用、射撃はフルオート射撃専用とし、命中精度よりは近距離での敵戦力制圧に重点を置いた画期的な携帯兵器だったのである。
ドイツ国防軍も連合軍からMP18装備を禁止されながらも、戦後の早い時期から秘密裏に製造と供給を開始、実戦部隊での短機関銃装備の充実を計っている。
その背景には「スペイン内戦」での短機関銃の威力に着目したドイツ軍内部での動きもあって、下士官全員への短機関銃配備の徹底があったのである。その効果は顕著で、開戦劈頭の「電撃戦」成功の一因となっている。
MP18は日本海軍によって国内に輸入されて主として帝国海軍陸戦隊の装備品として配備されている。実戦での使用例としては、上海事変等で中国軍制圧に貢献したのだった。また、後述する国産の100式短機関銃開発に際して、大きな影響を与えた短機関銃とされている。
(戦時急造型『短機関銃』)
実際、第二次世界大戦が勃発すると、ドイツを除くどの参戦国も十分な短機関銃を装備して戦争に突入できた国は無かったといっても良い、酷い状態で戦争は始まっている。中でも、大量の陸軍装備をダンケルクの撤退で失った英国陸軍は、短機関銃に関しても絶望的な状態からスタートすることになったのだった。
しかし、連合国の中でもソ連は、戦間期にドイツと友好関係を維持していた関係もあって、短機関銃の重要性に気付いていた節がある。ソ連の短機関銃開発は1934年から始められ、1938年には一応の完成をみていたが、ソ連軍は、量産性を含めた更なる改良を命じている。
この成果が、後に、ソ連軍が主力となって戦った東部戦線での優勢に、「T34戦車」と共に大きく貢献するのだった。
一方、『短機関銃』の本家ともいうべきドイツ軍は短機関銃の原型ともいえる「ベルグマンMP18」をベースに改良を重ねて、多くの新形式の短機関銃を生み出している。
中でもドイツを代表する短機関銃に「MP38/40」がある。MP38は何故か「シュマイザー」と呼ばれているが、シュマイザー博士はこの銃の開発に拘わっていないし、開発メーカーはエルマ社だった。
中でも、「MP40」は、MP38の簡易型で、折りたたみ式銃床を採用し、製造工程でもプレス加工の大幅採用とプラスチック部品の導入により、コストダウンと量産性の向上を図った傑作短機関銃である。
その信頼性は高く、実戦では、戦闘後捕獲したドイツ軍の同銃を米英軍が使用する例が最前線部隊では良く見られたという。それが可能だったのも、英軍のステンMk2短機関銃と銃弾が共通の「9mmパラベラム弾」である点も挙げられると思う。
同短機関銃は推定100万丁以上生産されて、ドイツ軍以外でも枢軸国軍で広く使用されている。
ドイツ軍のMP40の製造と配備開始が1938年からだったのに対し、英軍のステンMk2短機関銃の製造開始は1941年から、同じくソ連軍のPPSh41も1941年から、アメリカ軍のM3短機関銃の製造開始に至っては1942年からと連合軍各国の量産型短機関銃装備は大きく出遅れている。
生産数から見ると英軍のステンMk2短機関銃が戦後も含めて推定200万丁、同じくソ連軍のPPSh41が二次大戦終了までに100万丁あまり、アメリカ軍のM3短機関銃が改良型も含めて62万丁あまりが製造されている。
最も遅いM3短機関銃の実戦投入は1944年6月のノルマンディー上陸作戦からになったが、信頼性の高さから連合軍兵士達に戦後も含めて愛用されている。
(第二次世界大戦後半)
戦争前半では、ドイツ軍の優れた短機関銃装備率に苦労した連合軍だったが、戦争後半ではソ連軍を中心に短機関銃の大量生産、大量配備が軌道に乗り、装備率でドイツ軍を圧倒している。そして、それ以上に圧倒的だったのが、戦車、銃弾を含む米英軍とソ連軍の円滑な補給能力であった。その背景にはアメリカの工業力の優位性とソ連軍による最優先兵器ヘの集中生産があったのである。
それでは、第二次世界大戦に参戦した各国の短機関銃の大雑把な性能比較を若干偏見が混じるかも知れないが行ってみたい。
ドイツ軍の「MP38/40」は100万丁以上も造られた傑作の短機関銃でドイツ軍のみならず多くの枢軸国軍がドイツから供給を受けて使用している。また、同銃は構造の単純化を計る為、フルオートのみに限定した性能とし、単発での使用は検討されなかった。しかし、連射時の発射速度は、毎分500発と抑制された結果、安定した命中精度を維持出来たといわれている。
その結果、「MP38/40」は世界各国の『短機関銃』設計に大きな影響を与えた名銃と呼ばれることとなるが、短機関銃の持つ基本性能の殆どを保持している銃とみて良いだろう。
ソ連軍の「PPSh41」の大きな特徴である71発入りのドラム弾倉を付けて戦場を奔るソ連軍兵士の映像は印象的だった。
激戦での戦場で発生する必然的な作業である弾倉交換は兵士の大きな負担だが、ドラム弾倉の71発の装弾数はきっと兵士からの信頼感に繋がって居たと考えられる。しかし、大量の弾丸の装填は、それ以上に大変だったので、戦争末期には扱いやすい箱型弾倉(35発)が多く使用している。
それから、これはソ連製短機関銃の特徴というよりは、材料面での選択制の問題だが、ナチスドイツを含む西側各国の短機関銃の銃床が、次々と金属製に変わり、中には、折りたたみ式になっていく中で、ソ連製の短機関銃は、戦後に開発された「カラシニコフAK47」を含めて、木製銃床に拘っている。多分これは、シベリアを含む豊かな森林と国内に於ける優秀な木工加工者の存在によるものだと推測される。
同銃は、戦後の生産数を含めると500万丁以上が生産されており、ドイツ兵からは、バラライカと呼ばれて恐れられた。
急遽設計されて製造に着手された英国の「ステンMk2短機関銃」ほど、戦時急造型の実態を現わす短機関銃は無いような気がしている。町工場で製造可能な単純構造とし、性能もドイツ軍のMP38同様に、反動利用の連発のみに限定した短機関銃である。
特徴としては、敵軍であるドイツ軍と同じ9mmパラベラム弾で設計された結果、ドイツ軍のMP38その他と共通の弾薬が使用可能な銃であった。
設計の簡易化と生産性を重視した結果、米英ソ連三ヶ国の短機関銃の中では、最も信頼性に乏しい故障の多い短機関銃とみられている。
戦時急造型の短機関銃といえばアメリカ軍の「M3短機関銃」を忘れる事は出来ない。トンプソン「M1928」の存在で初期の短機関銃生産を同銃に託したアメリカだったが、如何にもアメリカらしい大量生産を計った短機関銃が「M3」であった。
英国のステンMk2短機関銃と同様に、反動利用の連射に限定した性能とプレスと溶接を多用した製造工程の簡略化によって、軍用拳銃の4分の1のコストで製造されたという超安価な軍用銃であった。
その割には、前線での信頼性は高く、その外観から付いた「グリースガン」の愛称と共に戦後も朝鮮戦争からベトナム戦争まで使用されている。
(第二次世界大戦の『短機関銃』を総括すると)
新しく起きる大きな戦争では、それまでの戦場での常識を覆した方が勝利する可能性が歴史的に高かったし、兵器に関しては特にその傾向が顕著であるケースが多い。
その様な観点から『短機関銃』を観察してみると、有効射程距離がそれまでの戦場の主役だった小銃に較べて、数10mと短く、場合によっては拳銃と同様の至近距離でも操作可能でありながら、軽量小型で携帯に便利なその制圧射撃の集弾力は軽機関銃の小型版に近い存在だった。
開戦劈頭のドイツ軍による電撃戦で一括運用された戦車や急降下爆撃機と同様に、『短機関銃』の有用性に気付いた結果、連合軍各国も慌てて自国陸軍への配備を急いだのだった。
対空火器や対戦車砲もそうだったが、大戦前に各国が準備していたそれぞれの兵器は急速に劣化してしまい、戦間期に開発された兵器では戦闘を維持出来なくなっていった。
その空隙を自国の工業力によって十分に埋めることが出来た国が、最後の勝利者になったわけである。
『短機関銃』の場合も、当にその通りで、米国の「M3」や英国の「ステンMk2」、ソ連の「PPSh1941」等である。短機関銃の開発では先行していたナチスドイツだったが、戦争の後半には、常に兵員不足に悩まされる状態に陥った上、執拗な本土爆撃に伴う工業生産力の急激な低下による航空機や戦車の生産数の減少もあって、相対的な戦力は戦争末期には開戦時からは信じられないくらい低下していたのである。
更に、工業生産力と原材料不足に見舞われていた日本では、「100式短機関銃」の開発に着手していたものの実戦部隊に十分配備出来るだけの生産数に達することはなかったのである。
もし、十分な量産体制が編制できたとしても、8mm拳銃弾を含む6.5mm小口径弾から7.7mmまでの各種の小火器の銃弾を効率よく広範囲な太平洋戦線に供給出来るロジスティックが構築出来たか疑問である。
(『短機関銃』時代の終焉)
第二次世界大戦に参戦した各国は歩兵用小火器の銃弾に関して、第一次世界大戦以来の小銃弾と拳銃弾の二種類の銃弾で戦ったと考えても、それ程大きな間違いではないと考えている
その点、戦後の小火器の形状と性能を大きく変換させた根本原因の一つに小火器に使用する銃弾の大きな変化があった。
即ち、第二次世界大戦が終わり短機関銃時代に終焉をもたらしたのは、従来のライフル弾と拳銃弾の中間に位置する新しい銃弾の登場だった。今では普通になっている、6.5mm口径弾や5.56mmの小口径弾である。小型軽量の割に高初速のこれらの銃弾を使用した新型の銃が『突撃銃』である。
短機関銃と違い、単発とフルオート射撃の切り替えが可能であり、従来のライフルと異なり、反動の小さい中間弾薬を使用することにより、高精度の全自動射撃を可能にしている。
突撃銃の原型と見なされる初期の代表的な銃としては、ナチスドイツが開発したアサルトライフル「StG44」が挙げられる。
この銃の実包は、従来のドイツ軍と同じ7.92mm口径ながら、装薬を少なくした射程距離で妥協した短くて軽量の7.92X33mm弾を使用している。1発当たりの銃弾の小型軽量化によって、携行弾数の増加と従来の小銃射撃と短機関銃の連続射撃を両立出来る新しい銃が『突撃銃』であった。
現代の軍隊で使用されている多くの銃は、突撃銃的な特徴を持っており、戦後、最も多く使われた軍用銃と呼ばれている「AK47」にしても、これらの特徴を有する有力な銃である。
しかし、戦後、全ての『短機関銃』が消えたかというと、そうでも無かった。例えば、ドイツ、ヘッケラー&コッホ社のMP5やMP7、ベルギーのFN社のP90、米国のイングラムM11がある。同銃は余りに小型な為、短機関銃では無く、「マシンピストル」に分類されることもあると聞いているが、9X17mm弾を使用した結果、連射速度が異様に早い毎分1,200発に達している。
同銃の射撃音を傍で聞いていると「ザァー」と、まるで草を連続して薙ぐような音に聞こえて、従来の短機関銃射撃音とは異質の音に聞こえるのだった。
短機関銃は、その携帯性の良さと高性能の連射性から、現代では、軍用よりも警察任務や秘密任務に最適とされて、各国で広範囲に使用されている。




