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32.『38式歩兵銃』とその周辺

『38年式歩兵銃』と聞くと今でも、

「あの旧式のボルトアボクション式の小銃か!」

とか、

「あんな銃で戦ったから米軍のM1半自動ライフルに敵わなかった」

とか、

「太平洋戦争の陸軍主力小銃は、口径7.7mmの「99式小銃」であり、38式で戦い抜いたのは誤解だ!」

とか、

あるいは、38式を擁護する

「小口径だったので、発射時の硝煙が見えにくく、命中精度からみても狙撃用としては優れた銃だった」

等々、色々のご意見を伺うことがある。

確かに、上述のように「99式歩兵銃」とは、38式小銃の6.5mm口径を列国並みの7.7mmに拡大し、全長を10cm短くしただけのほぼ同様の機能を持つ小銃であるので、以下、併記するケースが多いと思うがご了解頂きたい。


しかし、若干反論させて頂くと、第二次世界大戦に参加した各国の歩兵小銃の中で、『38式歩兵銃』がそれ程、程度の低い性能の小銃では無かった(理由後述)と考えている。

そして、それ以上に『38式歩兵銃』を取り巻く日本陸軍自体の思想や環境が、二つの点で他国に大きく遅れを取っていた状況を明らかにして、太平洋戦争中の『38式歩兵銃』及び、その後継である「99式歩兵銃」を取り巻く戦場の実態を勉強してみたいと思っている。


(第二次世界大戦で使用された各国の歩兵銃)

前稿で、第一次・第二次世界大戦を戦い抜いた歩兵の基幹兵器である「ボルトアクション式小銃」のルーツ的な存在のドイツ「マウザーGew88小銃」及び、その後継機種である「Gew98」、「Kar98k」を軸に勉強してきた。

即ち、第二次世界大戦参戦国の殆どが、「マウザーKar98k」と近似した機構を持つ「ボルトアクション式小銃」を歩兵師団の基幹小銃として使用して、長期間の戦争を闘い抜いているのだった。

それでは、参戦主要国の歩兵小銃の概要を下記にピックアップしてみよう。もちろん、どの国の小銃もボルトアクション式機構を採用して為、何処か似た外観形状となっていて、共通の時代的雰囲気を醸し出している。


 ドイツ  「マウザーKar98k」           7.92mm銃床内5発  全長108.75cm

 英 国 「ブリティッシュ・ライフルNo.4Mk1」 7.69mm箱弾倉10発  全長113cm

 ソ 連 「モシンナガンM1891」        7.62mm銃床内5発  全長121.25cm

 日 本 「99式歩兵銃」             7.7mm銃床内5発    全長112cm

  (参考) 「38式歩兵銃」            6.5mm銃床内5発    全長128cm)


このように、殆どの参戦国の主要小銃は、「ボルトアクション式」であり、銃弾の口径も7.62mm~7.92mmの間で各国間に大きな差異は無かった。また、『38式歩兵銃』は第二次世界大戦の時点では、後備師団レベルの支給品とされていた為、参考品として記載させて貰った。


強いて、差異があるのは装弾数で、英国の「ブリティッシュ・ライフルNo.4Mk1」 が10発と飛び抜けて多い装弾数を誇っていたが、各国の小銃とも、それぞれ安定した性能を持ち、長期間の使用に耐えうる基本性を持っていた。戦線の拡大と共に各国の小銃は最終的に膨大な生産数量に達している。

このように、『38式歩兵銃』とその後継の「99式小銃」はドイツや英国、ソ連の歩兵用小銃と比較して格段に劣る存在でも無かったのである。


ここまで主要参戦国の小銃を列記しながら、米国製の銃を挙げなかったのは、同国の「M1ライフル」のみが、主要参戦国の小銃の中で唯一、先進的なガス圧を利用した半自動ライフルだったからである。


米 国  「M1ガーランド半自動ライフル」   7.62mm銃床内8発   全長111cm


この米国のスプリングフィールド造兵廠で開発された半自動小銃は、世界中でも初めて全面的に採用された半自動ライフルであり、列強の歩兵銃の中でも抜きんでた性能を持つ優れた小銃であった。

戦後、我が国の自衛隊の小銃としても採用されて、教育訓練で、同小銃と38式歩兵銃の比較射撃を経験した自衛隊員は、その連続射撃における性能の差に驚き、帝国陸軍の負けの実態を強く感じたと追憶していた。

しかし、くどいようだが世界的に見て米軍が採用した「M1ガーランド半自動ライフル」は、工業化と軍事規格化が最も進歩した米国だから出来た芸当で、他の参戦国である英国やドイツ、ソ連を初めとするヨーロッパ諸国でも直ぐには採用出来ない先進性を秘めていたのである。

悔しいことに、我が日本の場合、英国やドイツに肩を並べるべく努力したのが精一杯で、自動車を先端とする工業化に邁進する米国に比肩する工業生産力も互換性を重視した兵器の軍事規格も未整備な状態にあったのである。

それでは、次ぎに、何故、『38式歩兵銃』が低い評価を受けたのかその原因を探ってみたい。


(世界でも珍しい小口径「6.5mm弾」制定による大混乱)

明治38年に制定された「38式歩兵銃」は世界的に珍しい「小口径の銃弾6.5mm」を使用している特異な小銃であった。

しかし、陸軍による「小口径6.5mm弾」の制定は、日露戦争に備えるべく開発した「30年式歩兵銃」に遡る。この優れた小銃により日露戦争の勝利を獲得した帝国陸軍は、後継の「38式歩兵銃」の制定においても、従来通りの「小口径6.5mm弾」を採用したのだった。

当時一般的に小銃弾の口径は、7.62mm~8.0mmが普通で、一回り小さな6.5mm弾使用の大国は、イタリアと日本のみであり、この弊害は太平洋戦争終了時まで尾を引くことになる。

それでは、「6.5mm口径弾」制定による長期間に渡る大混乱と弊害について述べてみたい。


日露戦争の特徴の一つに、世界的な大戦争で「機関銃」が両軍によって初めて大量に使用された点にあった。

同戦争前の明治20年代後半、世界の中で最も評価の高かった機関銃は、フランス、オチキス社製の「ホチキス式機関砲Mle1897」、口径8mmといわれていた。同機関銃の発射速度は、450発/分で、銃弾は保弾板30発入りによって供給される独自の方式だった。

帝国陸軍は同社に口径を日本の30年式小銃と同じ6.5mmに変更した機関銃の製作を依頼、ホチキス製6.5mm口径の機関銃によって帝国陸軍は日露戦争を闘い抜いたのだった。

後に、帝国陸軍は同社からライセンスを買い取り、口径6.5mmの機関銃として国産化、後に、この機関銃が母体となって、日本初の機関銃「38式機関銃」が誕生している。

その後継機が、大正11年に制定の「11年式軽機関銃」で、使用する銃弾も従来と同じ「口径6.5mm弾」であった。


ここまでは大きな問題は無かったが、第一次大戦後、各国は接近戦の重要兵器として機関銃の改良と性能向上に努力した結果、次々と優秀な機関銃が登場してきたのだった。

そこで問題となるのが、列強各国の小銃弾が、日本とは違う大口径の7.62mm~7.92mm弾だった点である。当然のことに、各国とも小銃弾と機関銃弾の統一による供給体制の円滑化を意識して、機関銃弾も小銃弾と同じ7.62mm~7.92mm弾で設計されていたのだった。

そうなると、小銃はともかく、敵部隊との戦闘で双方から機関銃による制圧射撃を行った場合、6.5mm弾使用の帝国陸軍と口径が1mm以上大きい敵軍の機関銃では、射程距離、破壊力共に帝国陸軍は敵軍に大きく劣る実情を露呈してしまったのである。

そこで、陸軍では、小銃の大口径化と軽機関銃の大口径化を検討して、双方に従来の6.5mm口径弾よりも大型の7.7mm口径弾を使用する「99式小銃」と「99式軽機関銃」を制定、部隊に供給を開始したのだった。


けれども、米国の工業界と比較して工業化に遅れていた日本では量産規格の意識の低さもあって、十分な供給量を直ぐには確保出来なかったのである。

加えて、満州事変から続く戦線の拡大による大量動員と師団数の大膨張の影響もあって、直ちに対応出来るだけの小銃と軽機関銃を帝国陸軍は補充出来なかったのである。

最前線の部隊には鋭意、「7.7mm口径弾」使用の99式小銃や99式軽機関銃が優先的に支給されたものの、後備の一部の部隊には、従来の38式歩兵銃や96式軽機関銃が代用されて配備されていたのである。

その結果、従来の「6.5mm口径弾」と新しい「7.7mm口径弾」の両方を供給する必要が生じる結果となり、輸送システムの混乱もあって、必要な場所に必要な銃弾が来ないという信じがたい惨状を呈したのだった。

更に最悪だったのは、99式小銃の7.7mm実包と重機関銃である「92式」の7.7mm実包とでは、同じ口径ながら共用出来ないという、近代陸軍では想像できない問題点を引きずりながら、満州事変以降の戦闘に対応することとなったのである。

加えて、詳細は省くが、対空用の機関砲弾にしても、帝国陸軍と帝国海軍では、口径がバラバラだったし、同口径でも陸海軍で共用出来ない信じがたい混乱を生じていたのである。

それに対し、米軍の場合、小銃及び機関銃に使用する銃弾の口径は、基本的に30口径の「7.62mm弾」と50口径の「12.7mm弾」の二種類に全軍で統一を計って互換性と供給体制の円滑化を制定時から図っていたのである。

しかし、それ以上に大きな問題点が、「38式歩兵銃」の相対的な旧式化を印象付ける結果となっている。それは、第一次世界大戦及び戦間期に於ける各国の野戦兵器の開発に伴う戦闘技術の転換であった。


(各国に於ける「近接戦兵器」の多様化に対応出来なかった帝国陸軍)

第一次世界大戦のヨーロッパ戦線では、連合軍とドイツ軍双方共に塹壕戦用の新兵器の開発に努力している。その代表選手が「戦車」であり、「航空機」、「新型機関銃」であった。

その傾向は第一次世界大戦終了後の戦間期においても変わらず、参戦国の殆どが、小は士官用拳銃から、短機関銃、小型迫撃砲等々の開発に努力している。

即ち、「近接兵器」の多様化の傾向が顕著な段階で第二次世界大戦に突入したのだった。その点、日露戦争当時の勝利意識を引きずる帝国陸軍は、歩兵の持つ『38式歩兵銃』または「99式小銃」と士官の軍刀を中心とした装備で大戦に突入したのだった。特に、兵の精神性強化を意識した陸軍では、指揮官の持つ軍刀と兵の銃剣突撃を重視して敵軍に対する最前線の優位を確保しようとする傾向が顕著だった。


しかしながら、軍用拳銃一つとっても、独米ソでは、強力な軍用拳銃の開発と支給に留意していて、主なところでは、有名なドイツの「ルガーP.08」や「ワルサーP.38」、米国の「コルト45M1911」やソ連の「トカレフTT33」がある。

銃弾一つとっても、日本の「14年式拳銃」や「94式拳銃」の8mm弾よりも強力で、ドイツ軍の使用した「9mmルガー弾」は、今日でも、世界標準の拳銃用実包の一つに挙げられているし、トカレフやコルトの実包も強力であった。

それ以上に、各国が開発に国力を傾注したのが、「短機関銃」であった。この新兵器こそ第二次世界大戦で歩兵戦闘で必須の基本兵器としての役割を担うことになるのであった。

小銃よりも小型で連射性に富む短機関銃は、実包として拳銃弾を使用し、全自動速射性能をフルに発揮出来る携帯に便利な歩兵部隊必携の兵器であった。

ドイツ軍は早い時期に「ベルグマンMP35短機関銃」を装備したが、その後に開発された「MP40短機関銃」は100万丁も生産されるヒット作となって、ドイツ軍の進撃と防御戦での戦線維持に貢献している。

当然、ライバルである英国も急遽、「ステンMk2短機関銃」を設計製造して戦場に投入しているが、故障が多く不評だったといわれている。

英国の同盟国アメリカで禁酒法時代に活躍したトンプソン短機関銃の後継機種、「トンプソンM1短機関銃」が大量に生産されて戦場に投入された。やがて、米軍は極めてシンプルな設計でプレス工程の多用化によって製造の簡略化を極端に推進した「M 3 短機関銃」、通称「グリース・ガン」を戦線に投入して近接戦闘時に威力を発揮している。一方のソ連も東部戦線で「PPSh1941短機関銃」や「PPS1943短機関銃」を広範囲に使用してドイツ軍を押し返している。

いずれにしても、歩兵での戦闘に、短機関銃は欠かせない重要な携帯武器の一つになったのである。特に市街戦では短機関銃の連射性の高さは、歩兵銃に勝る威力を発揮するケースも多かった。

その世界的な短機関銃流行の中で、日本海軍もドイツ製の「ベルグマン短機関銃」を輸入、海軍陸戦隊などで使用している。

日本軍が開発して唯一実戦投入された「100式短機関銃」は、このベルグマン短機関銃の強い影響を受けて開発されている。しかし、欧米諸国に比較して開発が出遅れた上、量産化も遅延して、帝国陸軍が生産した同銃の総数は、約一万丁といわれ、アメリカのM3の約62万丁やドイツのMP40の100万丁といわれる膨大な生産数に比較できる数字では無かったのである。


このように第二次世界大戦主要国の殆どの歩兵部隊では、従来のボルトアクション式軍用銃と機関銃に加えて、強力な軍用拳銃と速射性の高い短機関銃や迫撃砲、アメリカ軍の場合は、それに加えて、50口径(12.7mm)と大口径の「ブローニングM2重機関銃」を歩兵支援火器として有効活用していたのである。

即ち、歩兵の分隊、小隊規模の装備する携帯兵器も多様化が進み、敵との距離の伸縮に自在に対応出来る装備が各国共に充実していたのである。

その点、帝国陸軍の場合、歩兵部隊下級指揮官(小・中尉)の携帯する主要武器は軍刀と拳銃であったし、分隊及び小隊規模の兵士の大部分が持つ小銃は前述した99式小銃または、小口径6.5mmの38式歩兵銃であった。支援火器としては、99式軽機関銃と97式曲射支援砲であり、それに加えて、92式重機関銃あたりが主なところだった。

その結果、近接戦闘で最も効果的な武器である短機関銃の配備が決定的に不足していた上、半自動の「M1ライフル」を装備した米軍と太平洋戦線で日本軍と対決なければならなかったのである。


加えて、帝国陸海軍の対決姿勢は建軍当時から変わらず、終戦まで各種機銃弾や砲弾の統一も殆ど行われなかった上、製造を含めた全国的な規格統一の発想さえ日本人には乏しかったのである。

その結果、歩兵の基幹装備である歩兵小銃「38式」や「99式」の製造や運用において、軍用規格は最後まで整備されず、製造公差の重要性も無視し続けられたのであった。そして、銃の組み立てにおいても最終的には日本独特の「職人さんによる現物合わせ」によって、合格とされて各部隊に支給されたのである。

その弊害は大きく、実戦での破損により修理が必要となっても、米軍のように戦場での兵士による部品交換で射撃機能が直ぐに復活しない兵器が極めて多く出現したといわれている。

それ以上に悲惨だったのが、銃砲弾の口径の不統一と薬莢その他の規格の不備による互換性の欠如と物流の混乱であった。命を賭けた戦場で、同じ口径の銃弾が小銃には使えても機関銃には使用できない馬鹿な事態が多発したのだった。

その上、時々刻々変わる戦場の「多様化」に、最も追随出来なかったのが帝国陸軍であった。その実証例は上記に述べた「短機関銃」と「軍用拳銃」の対応をみても明らかである。

その結果を全て、「38式歩兵銃」の責任に帰す議論こそ、短絡的であり我々が反省すべきポイントではないだろうか!


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