31.第一次・第二次世界大戦を戦い抜いた基幹兵器:「ボルトアクション式小銃」
第一次・第二次の二つの世界大戦を戦い抜いた基幹兵器を一つピックアップするとすれば、それは各国の軍隊で使用された「ボルトアクション式小銃」になるような気がする。
少ない国でも数十万丁、大国では数百万丁単位の膨大な量が生産されていて、総力戦の進展と共に製造された総数は一つの型式の兵器の数としては古代以来の剣や槍、弓矢の数に次ぐ史上最大の生産数の近代兵器だった。
「ボルトアクション式軍用銃」は二つの世界大戦はもちろん、開発された1880年代後半以降、約60年以上に渡って製造され、世界中の戦場で使用されたが、それらの小銃開発の原点となった銃が、1888年にドイツ帝国で開発された「マウザーGew88小銃」だった。
今回は、Gew88小銃と、その後継の「Gew98」及び騎兵銃型の「Kar98k」を軸に、長期間世界中で実戦に用いられた、「ボルトアクション式軍用銃」に付いて勉強したいと思っている。
第一次世界大戦の歩兵部隊の記念写真や第二次世界大戦の戦闘シーンの動画を見ると各国共に歩兵の主要兵器として、「ボルトアクション式小銃」を持った兵士の映像を大量に見ることが出来る。
それくらい多くのボルトアクション式軍用銃がこの期間、各国で大量に製造支給されていたのである。両大戦を含めて、殆どの参戦国に於いて上述したように百万丁単位の銃を国家プロジェクトとして製造している点を取っても、両大戦の基幹兵器の一つとして位置付けられる小火器である点は明確であろう。
その位、当時の戦争を回顧する時、各国の国民にとって身近に感じる兵器が「ボルトアクション式軍用銃」なのである。
即ち、イギリス人は、「リー・エンフィールドMkⅢ小銃」を思い出すようだし、ドイツ人は、「マウザーKar98k小銃」を日本人は「38式歩兵銃」をロシア人は「モシンナガンM1891小銃」を思い浮かべるらしい。
二つの世界大戦を通して各国の兵士達は、ボルトアクション式小銃のレバー(槓杆)を引いて排莢し、レバーを戻して装填する動作を何兆回と繰り返して戦い抜いたのだった。
(「ボルトアクション式」小銃の誕生)
後装式小銃のアイデアは、前装式銃の使用上の不便さもあって相当古い時代から多くの人によって提案がなされてきたし、時代毎に多様な試作品が拳銃と共に造られたのだった。
しかし、1860年代の「金属薬莢」の発明までは、アイデア倒れに終った不完全な物が多かった。更に、1880年代の「無煙火薬」の発明によって、後装式小銃設計の基盤となる大きな問題点は解消されて、信頼性の高い後装式連発銃開発の準備が整ったと考えられる。
初期に登場した連発銃としては、アメリカの「ヘンリーライフル」や「ウインチェスターM1873」が有名だが、それらの銃は管状弾倉による給弾方式を採用していた。
一方、最初のボルトアクション式ライフルは、1836年、ヨハン・ニコラス・フォン・ドライゼによって開発された画期的な閉鎖機構を持つ後装銃だった。ドライゼのボルトアクションによる閉鎖機構は優秀で、プロシャ陸軍によって、1848年採用されているし、幕末の日本では紀州藩等が輸入したことで知られている。
ドライゼのボルトアクション式小銃は大変優れた銃だったが、紙製薬莢を使用していた点と長いニードルを用いていた関係で撃針が破損し易い欠陥があった。
その欠点を克服したのが1860年代に登場した金属薬莢使用のボルトアクション式小銃だった。
「ボルトアクション式小銃」の発射手順を大雑把に述べると、
1)レバー(槓杆)を上げて遊底を後ろに引くと薬室が解放され
2)実包を装填できる状態になり、装填
3)レバーを前に操作して実包を薬室に押し込む
4)レバーを下げて引き金を引くと撃針が雷管を打って発射される
5)発射後、レバーを引くと空薬莢が薬室から外に弾き飛ばされる
となる。
加えて、1880年代後半になると、箱型弾倉によって連発性を向上させた新型のボルトアクション式小銃がヨーロッパ各国で続々と開発されると既存の連発方式の小銃は軍用として次々と排除されて、ボルトアクション方式の機構を持つ小銃のみが軍用銃として残ったのだった。
(「抜群の信頼性」と急速な普及)
この堅牢で信頼性の高いボルトアクション式小銃が、瞬く間にヨーロッパの軍事大国で普及した影響を受けて、世界中の国々が標準的な軍装備品とし追随、定着していったのである
その結果、地球上のあらゆる気候風土の中で無数の民族で使用されることとなったのだった。世界中に普及した最大の理由は、ボルトアクション機構の「抜群の信頼性」にあったと述べても過言では無いと思う。
当時、未開発の国や、欧米の植民地だった後進国も多く、基礎教育を全く受けていない兵士も多かったが、理解し易い操作性と泥濘や砂塵の中でも故障しない堅牢性は、各国の軍指導者や兵士が安心して使用できる基幹兵器となる素質を十分に持っていたのである。
始めに、「ボルトアクション式小銃」がヨーロッパ各国に登場し始めた1880年代後半の代表的な銃を幾つか挙げてご参考にしてみたい。
・仏:「ルベルM1886」、管状弾倉8発、口径8mm
・英:「リー・メトフォード」、1888年配備、箱型弾倉8発、口径8mm
・独:「マウザーGew88小銃」、1888年開発、箱型弾倉5発(クリップ装填)、口径7.92mm
・ノルウェー:「クラッグ・ヨルゲンセンM1889」、横から1発ずつ装填5発、口径8mm
これらの小銃は各々特徴があり、フランスの「ルベルM1886」は最初に無煙火薬を使用した軍用銃として記憶される小銃だったが、筒型弾倉を含めて総合性能としては今一歩の軍用銃といわれている。イギリスの「リー・メトフォード」の最大の特徴は、箱形弾倉に8発という多量の銃弾を収納している点で、この特徴は歴代の英国軍用銃に受け継がれていくことになる。
ノルウェーが1889年に採用した「クラッグ・ヨルゲンセン小銃」は箱形弾倉ながら、装填には横から1発ずつ弾籠する手順を踏む必要があった。
しかし、これらのボルトアクション式軍用銃には、幾つかの共通する特徴があった。その第一は、それまで主流だった軍用銃の口径11mmをやめて、小口径の8mm前後とした点である。この小口径化が可能になった大きな原因は、先に述べた金属薬莢と無煙火薬の普及に加えて、ボルトアクション機構の採用による薬室の閉鎖機構が大きく改善された結果だった。
それでは何故、本稿で採り上げたドイツの「マウザーGew88」が注目されたかというと、上記の各国の銃の特徴に加えて、実包装填の際の「ローディングクリップ(挿弾子)」の採用にあったのである。ローディングクリップの使用により装弾時間の大幅な短縮が可能となり、ドイツ陸軍は、英仏小銃との装弾数の差(両国共に8発、独は5発)に、大きく気を使う必要を感じなかったとおもわれる。確かに、戦場に於ける敏速な次発装填こそ銃の基本機能としてドイツ陸軍が重視した結果と考えられる。
加えて、それ以上に「マウザーGew88」を特徴付けたのが、先端の細く尖った尖頭弾の採用であった。それまで主に使用されていた半球状の弾頭を持つ銃弾に比較して、尖頭弾を使用したケースでは、射程距離が飛躍的に伸びただけでなく、命中精度も格段に向上したのだった。
敵弾が到達しない遠距離から正確に射撃できる軍用銃ほど、軍事指揮官にとって理想的な小銃はなかったといって良い。
(「マウザーGew88」の後継機種とその影響力)
1880年代後半から1900年初頭に掛けての約10年間は、ヨーロッパ列強各国での「ボルトアクション式軍用銃」の開発競争が最も激化した時代だったが、初期段階の1886年~1889年の開発状況は前述したので、1890年以降に開発されたボルトアクション式軍用銃の各国の代表的機種を幾つかピックアップしてみたい。
・伊:「カルカーノM1891」、箱型弾倉5発、口径6.5mm
・露:「モシンナガンM1891」、箱型弾倉5発、口径7.62mm
・英:「リー・エンフィールドM1895」、箱型弾倉10発、7.7mm
・独:「マウザーGew98」及び騎兵銃型の「Kar98k」、箱型弾倉5発、7.92mmm
・米:「スプリングフィールドM1903」、箱型弾倉5発、口径7.62mm
・日:「38式歩兵小銃」、1905年、箱型弾倉5発、口径6.5mm
この中には、先に挙げた「マウザーGew88」の改良型であるドイツの「マウザーGew98」と騎兵銃型の「Kar98k」が含まれている。マウザーGew98は、1898年~1935年の長期間、制式銃として使用される堅実なドイツ陸軍らしい小銃であった。
この銃は、海外で誤って「モーゼル銃」と呼称される場合もあるが、モーゼルは銃製造のメーカーの一つに過ぎない存在だった。
このように、ドイツの「マウザーGew88小銃」とその後継小銃である「Gew98」と「Kar98k」が提示したボルトアクションと箱形弾倉及び弾薬のクリップ装填の採用による連射性の向上、そして、先細の尖頭弾実包の使用は小銃の射程距離の飛躍的増大に大きく寄与した結果、多くの先進国では、「マウザーGew88」あるいは「Gew98」小銃を模倣あるいは、「Gew98」小銃の長所を大幅に取り入れた自国なりの制式銃の開発と量産化を急いだのだった。
表現を変えると「マウザーGew88」登場以前の仏:「ルベルM1886」、英:「リー・メトフォード」、ノルウェー:「クラッグ・ヨルゲンセンM1889」の各小銃が、何れも個性的な銃であったのに対し、「マウザーGew88」登場以後の1891年以降に制式化された各国の小銃は個性に乏しい作品が多くなったともいえる。
その様な各国のドイツ製軍用銃追随の流れが一段落したのが1900年代初頭で、制式銃として、その後半に登場したのが、新興国アメリカの「スプリングフィールドM1903」と帝国陸軍の「38式歩兵小銃」だった。「スプリングフィールドM1903」はアメリカ国内での評判は悪かったが、実戦での評価は悪くは無かったし、「38式歩兵小銃」も6.5mmという世界的に見て小口径という個性的な特徴があるものの当時として問題になるほどの小銃では無かったのである。
歩兵小銃としての各国の部分改良は、その後も続くが、ボルトアクション式機構と箱形弾倉、尖頭弾を用いる基本仕様は1900年代初頭に確立し、第二次世界大戦まで各国で維持されたと考えて良い。
それでは、続いて第二次世界大戦前の小銃開発に於ける戦中間の各国の主な対応に付いて挙げてみたい。
(各国の軍用小銃に於ける戦中間の対応)
最も大きな変化は銃の性能向上と第一次世界大戦の塹壕戦を経て、基本構造は替わらない物の銃身長が実戦で扱いやすい短い方向に修正され始めた点である。
第一次世界大戦開始頃の各国の歩兵銃の銃身長が730mm~780mm、最も長い「38式歩兵小銃」の場合、797mmだったのに対し、実戦の経験から銃の取り扱いに便利な銃身長600mm前後の所謂騎兵銃タイプが普及していったのである。その代表が、ドイツの「マウザーKar98k」であった。
同銃は非常に優れた小銃であり、多くの国でコピー生産された名銃で、ドイツ本国でも1935年に制式化されて以降、ドイツ国防軍の主力小銃として全ての戦線で活躍、第二次世界大戦終了まで広く使用されている。
そこで、少し時代を戻して、ドイツの「マウザーGew88」の登場によって、最も苦しんだ国と小銃は何かと考えてみたい。
それは、皆さんのご想像の通り、ドイツのランバル、フランスであり、「ルベルM1886」小銃だった。
フライドもあって、フランス陸軍は、改良しながら筒状弾倉の「ルベル小銃」を使用し続ける一方、箱形弾倉の「Mle90」小銃を1900年に制式化している。
しかし、Mle90の弾倉の装弾数は3発であり、今度は装弾数の少なさにフランス陸軍は苦しむことに為ったのである。この問題点が解消されたのは、1916年に採用された改良型のMleになってからであった。
その一方で、世界中に広大な植民地を持っていた当時のフランスでは、本国を含めた植民地各地には十分に新型銃が行き渡らず、筒型弾倉のルベル小銃の併用は第二次世界大戦終了まで継続されたという。その為、フランス軍の技術者は、筒型弾倉で使用可能な尖頭弾実包の開発と安全な信管の改良に努力して、ある程度対応に成功している。
フランス以上に苦しんだのが、6.5mmという世界中でも珍しい小口径の銃弾使用を選択した帝国陸軍であった。
第二次世界大戦後一時、西側各国の標準的な実包として6.5mm口径弾が注目を浴びたことを考慮すると決して無謀な選択だったともいえないが、第一次世界大戦で機関銃の重要性が注目されだした点を考慮すると賢明な選択ではなかったのである。
欧米各国がソ連も含めて、小銃と機関銃の使用実包の共通化を図った結果、7.62mm~8mmの強力な銃弾を使用出来たのに対し、イタリア軍と帝国陸軍は小銃用の口径に併せた威力の低い6.5mm弾の機関銃しか使用できなかったのである。その結果、日華事変その他で、中国軍の優秀な7.92mm口径の「ブルーノZB26軽機関銃」に劣勢を強いられることになるのだった。
帝国陸軍が、6.5mm口径の11年式軽機関銃や96式軽機関銃から、世界標準的な7.7mm弾を使用する99式軽機関銃に変更できたのは、1930年代後期になってからであり、一部では終戦まで、6.5mm口径弾使用の96式軽機関銃が使用されたのだった。
このように、使用銃弾の選択を誤ると、その弊害はとんでもなく拡大する良い例であろう。
しかし、全く新しい思想の小銃も登場している。その代表選手が1936年に制式化されたアメリカの「M1ガーランド」であった。
同銃は、従来無かった「セミオートマチック」の小銃で、射撃速度と命中性能のバランスが第二次大戦中登場した銃の中で最も優れた小銃であった。
ドイツ、ソ連を始め半自動小銃の開発を進めていた国もなくは無かったが、膨大な量が必要になる歩兵小銃として供給量を維持出来る工業力はアメリカ合衆国以外には存在しなかったのである。
逆に東部戦線で後に多用されることになる近接戦闘用の「サブマシンガン」の開発が各国で進められているが、ここでは触れないこととする。
(小火器の多様化:第二次大戦)
第二次世界大戦開戦時、参戦各国共に陸軍の通常師団の歩兵銃は、従来通りの旧態依然たる「ボルトアクション式軍用銃」装備だったのである。
英国の「スプリングフィールドM1903」、ドイツの「マウザーKar98k」、ソ連軍の「モシンナガンM1891」、そして「38式歩兵銃」と各国共に聞き覚えのある伝統的な小銃装備で大戦をスタートしている。
しかし、大戦後期になるとアメリカ軍のセミオートマチック小銃「M1ガーランド」の登場もあって、戦場での近接戦闘の様相が大きく変化する。
特に、ソ連とドイツが戦車による正面対決を繰り返した東部戦線では、9mmパラベラム拳銃弾を箱型弾倉に多数装填したドイツの「MP40」短機関銃やソ連軍の「PPSh-41」短機関銃が近接戦闘用の重要兵器として登場している。
この傾向はイギリス軍やアメリカ軍でも同様で、英国の「ステンMk.Ⅱ」や米国の「M3A1グリースガン」や「トンプソンM1928」短機関銃が従来型の小銃と共に混用されて、戦闘効率を高めている。
また、第二次世界大戦中に実用化された小火器で最も衝撃を与えた銃に、上記の「M1ガーランド」と共に独ソの「アサルトライフル(突撃銃)」がある。
「M1ガーランド」はいうまでもなくセミオートマィック式小銃の元祖的な存在で、戦後各国はこの銃の性能を基本として小銃開発をおこなうことになる画期的な小銃だった。
戦後、自衛隊で38式小銃とM1ガーランドの撃ち比べをしたことのある友人に話を聞くと、射撃速度、演習場での命中性能共に、比較できないほどの格差を感じたという。
一方のアサルトライフル(突撃銃)の開発は、ドイツ軍とソ連軍によって進められた。突撃銃とは、簡単に表現すると軽機関銃の小銃版のような銃で、従来の小銃弾よりも反動の少ない実包使用により、全自動射撃を可能にした自動小銃のことである。
このように、大戦後半には小火器の多様化が進み、「セミオートマチックライフル」や「アサルトライフル(突撃銃)」等の従来では難しかった新品種の小火器が戦場に登場した影響を受けて、戦後の各国の小火器開発は、「アサルトライフル(突撃銃)」を中心に進むことになる。
1880年代後半以降に始まった「ボルトアクション式軍用銃」の時代は第二次世界大戦の終了と共に先進国の軍隊を中心に終焉の時を迎えたのだった。
その空隙を埋めるように、共産圏を中心に普及したのが、戦後ソ連で開発された突撃銃「カラシニコフAK47」の存在だった。どんな過酷な条件下でも円滑に作動する驚異的な能力は、西側先進国の工業製品には無い絶大な魅力を保持し、イスラム圏や低開発国の多い共産圏で普及して驚異的な威力を発揮したのだった。
約60年以上に渡って軍用小銃の主役だった「ボルトアクション式小銃」は、その後、狩猟用ライフルや軍用の狙撃銃にその名残を留めているものの、第一線の小火器の座を「アサルトライフル」に譲ったのである。
(参考資料)
1.世界銃砲史(下) 岩堂憲人 (株)国書刊行会 1995年
2.比べてわかる第二次大戦兵器図鑑
マイケル・E・ハスキュー 宮永忠将訳 学研 2014年




