29.小さな国の成功作「ブルーノZB26軽機関銃」(チェコスロヴァキア)
初期の機関銃が活躍した時代と聞くと多銃身の「ガトリング・ガンM1871」を思い出されるマニアの方も多いかも知れない。
しかし、国際的な大きな戦争で、「機関銃」が活躍したのは、「日露戦争」からであり、問題点の多かった機関銃が実戦を経て大改良されたのが、「第一次世界大戦」であった。
同大戦では、その後に大発展を遂げた近代兵器、航空機、戦車、潜水艦、航空母艦等が登場したり提案されたりしている。
機関銃もそんな近代兵器の一つで、第一次世界大戦を代表する陸戦の典型、「塹壕戦」の最重要兵器だった。延々と両陣営を隔てる塹壕と鉄条網を両軍ともに容易に突破出来なかった要因の一つが、当時の新兵器機関銃にあったといっても過言では無い。
性能的に同大戦時の各国の機関銃は重く、攻撃兵器としては余り優れた性能を持っているとは思えなかったが、防御戦では無類の効果を挙げたのである。
それでは、「日露戦争」と「第一次世界大戦」に於ける機関銃の登場と発達からスタートしてみたい。
(日露戦争と第一次大戦に於ける新兵器「機関銃」の登場と発達)
帝国陸軍が本格的に「機関銃」に関心を持ったのは日露戦争の準備段階からであったが、相手のロシア軍も要塞守備用に機関銃の重要性を認識して開戦に備えていたと思われる。
実際には、相手側のロシア軍が旅順要塞の守備用としてマキシム機関銃M1893を大いに活用して、日本の第三軍に大量の出血を強いた話は有名である。特に、マキシム機関銃の水冷式の特徴を生かしたベルト給弾による連続射撃によって、ロシア軍陣地からの長時間の連射が維持された結果、日本軍の決死の突撃は長期間に渡って大出血を強いられる惨状を呈した経過はご存じの方も多いと思う。乃木軍参謀達の「機関銃」という新兵器に対する無知が、この凄惨な状況を招いた点もあるが、それ以上に第3軍が苦労したのが、攻城用砲弾の不足だった。
一方、帝国陸軍は騎兵旅団を中心に野戦軍にフランス製のホッチキス機関銃を相当量装備して、奉天会戦に臨んでいる。同機関銃は空冷式のため間歇射撃に向いた保弾板方式を採用していた結果、ロシア軍が使用したマキシム機関銃ほど連続射撃に向かない点はあったが、重い水冷式と異なり、空冷の分、軽便で野戦に向く機能性に富んだ機関銃であった。
奉天会戦の機関銃装備数で日本軍の機関銃の数がロシア軍を上回っていたと推定される点も考慮すると、同戦線の戦闘を有利に展開できた一因が日本軍の所有するホッチキス機関銃にあった可能性は否定できない。
また、使用する銃弾にしても、当時陸軍が用いていた「30年式小銃」と同じ、6.5mm弾をフランス側に指定して製造しているので、後年起きているような、小銃弾と機銃の弾薬の互換性が無くて苦しむような戦場での齟齬は起きなかったと想像される。
さて、続いて起きた「第一次世界大戦の機関銃」の代表例を挙げるとすれば、「マキシム重機関銃」と「ホッチキス重機関銃」の二つであろうか。同大戦中、英国、ドイツ、ロシアの各国を初めとする多くの国々が採用した「マキシム重機関銃」は銃弾発射時の反動を利用した世界最初の全自動機関銃であった。水冷式のため、銃身の周囲を水の入った筒で覆っている印象的な姿をしているので、当時の写真を見てご記憶の方も多いと思う。
もう一方の「ホッチキス重機関銃」は銃弾発射時のガス圧を利用した小火器の元祖的な存在で空冷式の機関銃だった。
また、日露戦争の項で述べたように、空冷式の欠点である連射による銃身加熱を防止するために、供弾方式が独特の保弾板(24発)からの間歇供給であり、フランス陸軍を中心に使用された。
因みに、日本陸軍の機関銃は、日露戦争以来このホッチキス機関銃をベースに発達している。日本軍がベルト給弾方式を用いないで、長い間保弾板を用いていた背景は、最初に参考にしたフランス製のホッチキス機関銃が大きな影響を与えたと考えて良い。
途中から参戦した米国は当初、英国製の「マキシム機関銃」を使用したが、大戦後半から自国での機関銃の開発に着手している。
しかし、出遅れた米国だったが、天才的な銃開発者のジョン・ブローニングの存在もあって、独自の反動利用の機関銃の構造を完成させている。
大戦間の平和な期間を挟んで改良が続けられた機関銃は、第二次世界大戦では陸海、そして空に大活躍することになる。
第二次世界大戦期の機関銃で直ぐに思い付くのが、反動利用の空冷式ではドイツ軍のMG34機関銃やMG42機関銃、アメリカ軍のブローニングM1919A4機関銃やM2重機関銃当たりであろうか?
ガス圧利用の空冷式機関銃では、チェコスロヴァキア製の「ブルーノZB26軽機関銃」、英国軍のブレン.303軽機関銃Mk.1、ソ連のデグチャレフDP.M1928軽機関銃が代表的な印象がある。
それでは、何故、ヨーロッパの小国チェコスロヴァキア製の軽機関銃をここで採り上げたのか、その背景と同機関銃の性能について、調べてみたのでご紹介したい。
(チェコスロヴァキア製「軽機関銃」登場の背景)
第一次世界大戦後、オーストリアハンガリー帝国の一部だったチェコスロヴァキアは小国として独立の道を歩むことになった。
当時の同国の技術資産で最初に思い浮かぶのが素材の優秀な「スコダ鋼(シュコダ?)」の存在と精密金属加工技術である。同国が、このような重工業部門を保有していた背景には、チェコスロヴァキアが旧帝国の重工業部門を担っていた歴史があった。
また、日本の大正時代末期から昭和初期のこの時点では、同国のこの分野の技術レベルは当時の日本の技術よりも優れた点が多かったのではないかと個人的には思っている。
加えて優秀な銃器設計者ホレクによって、設計され、1926年にチェコ陸軍の制式軽機関銃として採用されたのが「ブルーノZB26軽機関銃」だった。同軽機をベースに輸出用のZB30軽機関銃が開発されているが、性能的に大きな違いはないため、ここではZB26で統一して話を進めたい。
ブルーノ軽機関銃は、長銃身のため命中精度も高く、速い発射速度を維持しながら、銃身交換も速やかに行える上、優秀な同国の精密機械加工技術に支えられて極めて故障の少ない国際的な軽機関銃として完成されている。
基本性能の優秀さと故障の少なさによって、同軽機はバルカン半島諸国やリトアニア、スペイン、中国を初めとする多くの国に輸出されて、国際的に高い評価を受けている。
同軽機の性能に惚れ込んだリトアニアや中国は後に国産化を図っているし、中でも英国は「ブルーノ軽機関銃」をベースにして、「ブレン軽機関銃」を開発して、第二次世界大戦の同国主力軽機として用いたことは有名な事実である。ブルーノとブレンの大きな違いは、ブルーノがドイツ系の口径7.92mmモーゼル弾を使用したのに対し、ブレンは英国伝統の7.7mm弾である点である。
アジアで「ブルーノZB26軽機関銃」を大量に輸入したのが中華民国だった。国土が広大で気候条件も様々な中国の風土でも故障知らずの同軽機は中国軍によって愛用され広範囲に使用されている。加えて、同国の兵器厰で大量に生産したコピー品は日本との戦争に大量に投入されて日本軍を大いに苦しめることになるのである。
それでは、中国戦線に於ける日中双方の軽機関銃に入る前に、日露戦争以後の日本陸軍の機関銃開発経過について簡単に触れてみたい。
(帝国陸軍の「機関銃開発」経過)
日露戦争で帝国陸軍がフランス製「ホッチキス機関銃」を大量に導入した経緯は前述した。その影響を強く受けた構造的な特徴が「ガス圧利用」の動作機構と「保弾板使用」の給弾システムであった。十分に加熱した銃身を冷却できる水冷式機関銃と違い当時の空冷式機関銃の冷却方式は不十分で連続射撃により、直ぐに銃身が赤熱して射撃が不可能になる欠点が有った。その点、ホッチキス機関銃の間歇射撃方式の保弾板使用は、当時としては合理的な判断だった。
しかし、その後の機関銃構造の改良と銃身を含む構造材の性能向上によって、先進諸国の空冷機関銃が連射可能になった結果、英、米、独の第二次世界大戦主要参戦国の殆どが連写性能に優れた「ベルト給弾方式」を採用している。
その点、連射に不向きな上、給弾の補助要員を必要とする手間の掛かる保弾板(30発前後)使用に終始したことは、弾薬の大量消費を恐れる小資源国日本の姿を象徴しているようで胸が痛い。
加えて、フランスから輸入したホッチキス重機関銃の銃弾の口径が日本の小銃に合わせた6.5mmである点は概述したが、主力機銃として列国の機銃に比較して小口径のため、破壊力に乏しいという批判が当初から存在していた。その批判を受ける形で、昭和7(1932)年に3年式重機を改良して口径を7.7mmに増大して配備したのが「92式重機関銃」だった。
それ以上に問題だったのが帝国陸軍の小銃と軽機関銃、重機関銃の銃弾が不統一だった点である。先進国各国の銃弾の口径は、その国独自に選定されているが、使用する小銃や機関銃で異なることは無いのが通常だった。弾薬不足に直面することが多い混乱した戦場に於いて、銃弾の互換性は最低限必要な重要事項だったのである。
アメリカは7.62mm、ドイツは7.92mm、英国は7.69mmに統一されていた。しかし、日本の38式小銃は6.5mm口径、11年式軽機関銃は6.5mmながら、38式小銃とは互換性の無い弾薬を使用していたし、92式重機関銃は口径の大きい7.7mm弾使用で、小銃とも軽機関銃とも弾薬を共用できない複雑怪奇な補給体系を持っていたのである。
そんな、小銃を含む弾薬の口径不統一の中、勃発したのが、「盧溝橋事件(1937年7月)」に続く「シナ事変」であり、同事変は、そのまま日中戦争、太平洋戦争へと続く、長い戦争の時代へのプロローグに過ぎなかったのである。
(中国戦線の「軽機関銃」対決)
兵器の真の実力は平和な時代には解らないが、実戦では一瞬で、その実力が明らかになってしまう事例の一つに8年2ヶ月(1937年7月~1945年9月)も続いた日中戦争における軽機関銃対決があった。
戦争初期段階での帝国陸軍の主力軽機関銃は大正11(1922)年制定の口径6.5mmの「11年式軽機関銃」であり、中国国民党の主要軽機関銃は、ヨーロッパ・チェコスロヴァキア製の「ブルーノZB26軽機関銃(ほぼ同型の輸出用ZB30軽機関銃を含む)」だった。
この機関銃対決に、当時、世界五大国と呼ばれて意気盛んだった帝国陸軍は完敗している。
当初、「シナ事変」と呼ばれた日中の軍事衝突は終始、日本陸軍優勢で進行している。しかし、最前線での中国軍の保有する「ブルーノZB26軽機関銃」に、日本陸軍の分隊支援火器である「11年式軽機関銃」は、全ての点で完敗したのだった。
悔しいかな中国軍の保有するブルーノZB26軽機関銃は、陸軍の軽機の代表選手11年式軽機関銃と比較して、性能面全てで優越する驚異的な機関銃だったのである。
特に、広大な中国の風土の違いによる11年式独特の給弾機構の不具合は多かったといわれている。それに引換、ZB26軽機は、過酷な戦場でも無故障で機能し続けた為、同軽機によって多くの日本軍兵士や下士官、第一線に立つ下級将校が戦死している。
それでは、11年式軽機とZB26軽機の主な相違点を比較してみよう。
(チェコスロヴァキア製機関銃と日本製機関銃の対決)
第一に、11年式の口径6.5mm弾に対し、遠距離射撃でも破壊力の大きい7.92mmモーゼル弾の存在は大きかった。
更に、箱形弾倉による容易な給弾と早い発射速度(550発/分)、素早い銃身交換。そして何よりも故障が極端に少ない上、命中精度が抜群であった。
一方、大正11年制定の日本最初の軽機関銃はホッチキス機関銃の系列を引くガス圧作動方式の軽機で、ホッパー型の独特の給弾装置を持ったユニークな銃ではあったが、大陸の砂塵や泥濘の多い戦場では故障しやすく、破壊力も6.5mm弾のため、今一つの軽機であった。
ハッキリ言って、11年式は軽機としては完全な失敗作であり、特に、内地の演習では隠されていた欠陥が、大陸の風土と実戦での酷使によって、露呈してしまったのである。
同様なことが、日本軍の重機関銃中隊に於ける名機関銃と称えられた「92式重機関銃」にしても、中国戦線で11式軽機ほどでは無いが問題を指摘されている。
中国軍がチェコ製のZB26軽機関銃をコピーして国内生産した複製品の同軽機でも設計段階での優秀さから、実戦で相応の働きをしたのに対し、日本軍の92式重機は、各部品の許容誤差が小さく、製造段階で極めて高精度な加工技術を必要とした結果、量産性に乏しい機関銃だったと後年、指摘されている。
どうも、帝国陸軍の技術将校を含む幹部には、工業品の規格化や標準化による量産性の向上等の概念が完全に欠如していたとしか思えない大欠点があったし、思想的に、重要な中隊支援重機関銃の部品加工精度の公差が極めて厳しいことこそ、優秀な兵器を前線に提供できるという、間違った考えに支配されていたのである。
戦後に開発されたソ連軍の「AK-47ライフル」もそうだが、その無故障に近い性能は、アフガニスタンの鍛冶屋レベルでも製作可能な部品公差と設計の優秀性にあったのである。
その結果、日本軍の前線が必要とする機関銃の定数を十分に満足できる生産数を終戦まで陸軍兵器厰は達成出来なかった。
もちろん、軽機関銃の性能が兵員の生死に直結するシナ派遣軍の前線部隊では、「ブルーノZB26軽機関銃」を捕獲すると「チェッコ式機関銃」と称して、そのまま第一線の軽機関銃として常用する部隊が増える一方だった。
最初は渋った軍上部も、背に腹は替えられず、準制式軽機関銃として使用するのを認めている。ZB26軽機に使用する7.92mmモーゼル弾は日本軍には無かったが、ZB26軽機関銃を製造していた中国軍の太沽兵器厰を占領した際に大量に捕獲できたし、後には、国内の兵器厰でも製造、供給を開始している。
(混迷した日本の機関銃製造と供給)
帝国陸軍を代表する明治38年制定の「38式小銃」に使用した6.5mm口径弾から、国際的な7.7mmへの使用銃弾の変更に帝国陸軍は予想以上に長い時間を必要としている。
7.7mm弾使用の「99式小銃」が制定されたのは、昭和14(1939)年だった。当然ながら、7.7mm弾使用の軽機関銃の制定も同年の「99式軽機関銃」が最初になる。
重機関銃の場合、小銃や軽機関銃に先行して、昭和7(1932)年制定の前述の「92式重機関銃」からだったが、大正3年制定の「3年式重機関銃」では、まだ、6.5mm口径弾を使用していた。
92式重機になって初めて7.92mmモーゼル弾に対抗出来る7.7mm弾使用による支援火器としての性能に目処が立った感があったという。
その様な訳で、軽機関銃として日本陸軍の前線部隊が十分に満足できる火器を手に入れたのは、上記の「99式軽機関銃」になってからだった。同軽機は5万丁以上製造され、太平洋戦争の主力軽機関銃として使用されている。
皮肉な表現をすると、自己批判が過ぎるかも知れないが、「ブルーノZB26軽機関銃」との中国戦線での遭遇が無ければ、帝国陸軍は太平洋戦争で信頼性の高い「99式軽機関銃」を手にすることが出来なかったかも知れない。(笑い)
こうして見ると、やはり兵器は実戦を経た後の改良型こそが、真の兵器になりうるのかと考えざるを得ない。
軽機関銃の銃身一つにしても、アメリカやヨーロッパの先進国の製造レベルを戦後、相当の時間が経過しても超えられなかったと、製鋼の技術分野の友人から聞いたことがある。
第一次世界大戦終了後、「世界の五大国」として、自信に溢れていた日本だったが、軽機関銃一つにしてもヨーロッパの小国チェコスロヴァキアにも及ばない製造技術レベルだったのである。
増して、銃の口径や弾薬にしてもヨーロッパ内での共通性を重視して臨機応変に対応したチェコスロヴァキアを見習う必要があった気がする。
話は変わるが、満州事変の起きた1937年時点での帝国陸軍の通常の歩兵師団総数は17個だったと記録にある。それが、太平洋戦争の開戦時には、51個、1943年には、70個、敗戦の年の1945年には、驚異的な164個にまで急増している。
当然ながら、全ての師団に通常支給する99式小銃と99式軽機関銃、1式重機関銃を完全に支給充当することは不可能だった。その結果、旧式の38式小銃を初め、11年式軽機関銃や3年式重機関銃を配備せざるを得ない状況に陥っている。
その結果、戦局が逼迫する中、部隊毎に異なる口径、形状の銃弾の供給に陸軍兵器厰の担当部局と輸送部隊は混迷を深めていったと思われる。
平時からの全軍の使用兵器の標準化、工業規格の制定を怠った結果であった。
日本の工業各社が、アメリカの軍用規格「MIL規格」並の標準化を軌道に乗せたのは諸説あるが、個人的には戦後30年以上経った、昭和50年代になってからだと思っている。
(参考資料)
1.機関銃・機関砲 岩堂憲人 サンケイ出版 S57年