28.戦い抜いた「松型駆逐艦」(日本)
ここまで、旧式の機体ながら殊勲を挙げた英国の「ソードフィッシュ艦上攻撃機」や改造に次ぐ改造で緒戦から終戦まで戦い続けたドイツ陸軍の「Ⅲ号・Ⅳ号戦車」に述べてきた。本稿では、帝国海軍の戦時急造型駆逐艦である「松型駆逐艦」について、その一端に触れてみたと思っている。
平和時に各国の海軍技術士官が心血を注いで設計開発した最新鋭の軍艦が、実戦の場で適応性に欠ける性能の為、往々にして予想以上に苦戦を強いられるケースも多い。
第二次世界大戦に於ける各国の軍艦の場合でも共通しているのが、航空機に対する「対空戦能力」の不足だった。この開戦前に予想もしなかった欠陥に即応できたのは、背後に膨大な工業力を持っていたアメリカ合衆国位なもので、日英独共に前線の各艦の対空機銃の増設と対空射撃指揮装置の整備には相当苦労している。
今回は、そんな中、戦時中の資材不足の中で設計され、第一艦の「松」が太平洋戦争後半の昭和19年に就役した「松型駆逐艦」について勉強してみたいと思っている。同艦は駆逐艦として極めて遅い速力(27.8ノット)から、護衛駆逐艦や戦時急造の2等駆逐艦と揶揄される場合もあるが決して、その様な旧式艦では無かったのである。
それでは、まず、最初に帝国海軍の駆逐艦の持つ致命的な問題点から考えてみたい。
(帝国海軍「艦隊型駆逐艦」の問題点)
帝国海軍の駆逐艦は、特型駆逐艦と呼ばれた「吹雪型駆逐艦」を初めとして、「艦隊型駆逐艦」が主流で、遠距離魚雷戦を主とした攻撃最優先の重武装の強力艦揃いであった。
特に、帝国海軍を代表する「陽炎型駆逐艦」の場合、速力35ノット、12.7cm連装砲塔X3基=6門、魚雷発射管X8門、予備魚雷8基を有する有力艦で、艦隊型駆逐艦の代表例として良く引合いに出される。
しかし、帝国海軍の誇る艦隊型駆逐艦系列には攻撃力を優先する余り大きな欠点が隠されていたのである。
駆逐艦が高速で走るためには、大型の缶室(ボイラー室)と機械室(タービン+発電機)が必要であったが、攻撃兵器を多数搭載するためには機関部分を出来るだけ効率化して、機関面積を圧縮する必要があったのである。
特型から続く、陽炎型、夕雲型までの艦隊決戦型駆逐艦では、艦体の大きさと最高速度に従って艦首から順番に複数の第1から第4の缶室(ボイラー室)が並び、その後ろの前部機械室にタービン、後部機械室に発電機が一直線上に配置されていた。
この方式は艦体の小型化や製造面でのコストダウンには有効な構成だったが、その一方、缶室や機械室に敵弾が一発でも被弾すると両舷共にスクリューの回転が停止し、艦全体が航行不能になる極めて危険な設計だったのである。
皆さんよくご存知のように、どの国の駆逐艦も戦艦や巡洋艦と違い装甲板は主砲の砲盾等の極一部を除いて無装甲が原則だった。特に、艦体に装甲は無く、大型の機関砲弾にさえ穴だらけにされる脆弱な船だったのである。
太平洋戦争緒戦における艦隊型駆逐艦の大量喪失の一因が、実はこの点にあったと以前から思っている。航行能力を失って停止してしまった艦は、どんな最新鋭艦といえども、唯の標的にしか過ぎない悲しい存在でしか無かった。
その点、夕雲型駆逐艦に続く、「秋月型駆逐艦」や「島風型駆逐艦」では、若干の改善がみられた。機械室を前後に分割して、回転軸を左舷と右舷毎に分割、損傷による両軸の回転停止を避ける設計に改良している。けれども、機械室が隣接していたため、実戦では敵の一弾の命中により両方の機械室が損壊した結果、両舷停止の事態も発生している。
海外の軍艦では、被弾時の損傷によるスクリューの両舷停止を回避するために、左右の缶室と機械室を分離して設計する手法も採り入れられていたが、設計の複雑さと駆逐艦建造時の煩雑さを嫌った帝国海軍艦政本部は、中々踏み切れなかったようだ。
それでは、第二次世界大戦に参加した列国海軍の軍艦の機関設計の様子を見てみよう。
参戦国の中でも、フランス海軍とアメリカ海軍では不沈性を重視して駆逐艦や巡洋艦を初めとして戦艦に至るまで、手間の掛かる機関の「シフト配置」を実施している。即ち、「ボイラー+タービン+発電機」を1セットにして、2セットを分離して搭載する方向で被弾時の全機関停止の危険性を低減する設計方針を貫いたのだった。その効果は、太平洋戦争の実戦の場で大きく貢献している。
しかし、シフト配置にすれば多少の被弾に対しても万全かというとそうでもなかった。マレー沖海戦で日本海軍の陸上攻撃機によって撃沈された英国の戦艦プリンス・オブ・ウェールズの機関もシフト配置だったが、集中航空攻撃に対する同配置の効果は少なかったといわれている。
開戦半年、ミッドウェー海戦の敗退と南方戦線の予想以上の拡大により、開戦前に想像していた艦隊決戦よりもガダルカナル方面やソロモン方面での上陸、補給、撤収等の輸送作戦の比率が増していったのであった。
その点、第一次世界大戦時に建造した旧式駆逐艦を大量にモスボックス化して温存していた米国は、直ちに高速輸送船として転用できたのに対し、帝国海軍は高速輸送船の不足を艦隊決戦型一等駆逐その他の戦闘艦の投入で急場を凌がざるを得ない苦しい状況に追い込まれていったのだった。
加えて、ガダルカナル撤収作戦以降、徐々に制空権をアメリカ海軍に奪われた結果、被弾に弱い缶室と機関室を備えた第一線駆逐艦の大量喪失が続く状態となったのである。
(戦時急造型駆逐艦の検討)
この段階で帝国海軍としても一隻でも多くの沈みにくい駆逐艦を生産する使命と短期間で建造する命題を両立すべく幾つかの設計案の検討に入っていた。
その結果、建造に着手したのが「一等駆逐艦丁型」と呼ばれる松型駆逐艦であった。特殊鋼をふんだんに使い優美な曲線の艦形の従来型の帝国海軍艦隊型駆逐艦と違い、材料も入手しやすい高張力鋼と普通鋼を使用し、設計も簡易な直線設計を多用した同艦は水線長100mに満たない小型の1,260トンで、搭載する機関もワンクラス下の「鴻鳥型水雷艇」の機関を使用している。その結果、速力は前述したように従来型駆逐艦の最高速力が35ノットなのに対して、28ノットに満たない27.8ノットの低速で妥協している。
兵装も従来型駆逐艦の約半分の12.7cm砲X3門、魚雷発射管X4門の装備で、とても、米海軍の主力駆逐艦であるフレッチャー級や、その後継駆逐艦である大型のサムナー級と渡り合える性能と装備では無かった。
しかし、その一方で機関配置を大きく改善し対空兵装、対潜攻撃能力の向上を図った優秀艦で、生存性に優れた実戦向きの駆逐艦であったのである。
特に秀でていたのが機関の「シフト配置」で、前部に右舷用の缶室と機械室をペアで設置、後部に左舷用の缶室と機械室を前部と分離して設けていた。この配置の場合、万一前部缶室が被弾しても後部の缶室と機械室が無事ならば、片舷推進ながら低速で母港まで自力で帰投出来たのである。更に、前部の缶室と後部の機械室の双方が損傷しても前部機械室と後部缶室の組み合わせにより最低限の推進力を確保して航行が可能な優れものであった。
それでは、太平洋戦争後半から戦場に投入された「松型駆逐艦」の2番艦「竹」の活躍を採り上げてみたい。
(「オルモック湾海戦」)
1944年10月に行われた連合艦隊最後の艦隊決戦、「レイテ沖海戦」の結果は、戦艦武蔵、扶桑、山城の3隻及び航空母艦瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田の4隻を含む多くの主要艦艇を失う壊滅的な惨敗であった。この海戦により帝国海軍は二度とアメリカ海軍と対決する戦力を完全に失ってしまったのである。
しかし、陸上では、フィリピンのレイテ島を守備する陸軍とアメリカ軍上陸部隊との決戦も同時期に始まっていて、レイテ島増援輸送作戦「多号作戦」に多くの松型駆逐艦が参加していた。艦名を挙げると竹、梅、桑、杉、桃等である。
新造艦とはいえパラオ、フィリピン方面での輸送作戦に従事した艦が多く、松型駆逐艦2番艦の「竹」も機動部隊艦載機の襲撃により多くの戦死者と負傷者を出した上、作戦中に損傷したジャイロコンパスが復旧しないままで、同作戦の第7次作戦を下令されている。
山下中佐指揮の桑と宇那木少佐が艦長の「竹」の2隻は輸送船3隻を護衛して、マニラを出航、オルモック湾へ物資輸送する作戦だったが、実戦では通常起こりえない事故や損失が往々にして発生する場合が多い。この時もオルモックへの航海中、竹では事故により誤って4本しか無い貴重な魚雷の1本を投棄してしまったのである。その結果、駆逐艦最大の武器である魚雷が僅か3本で戦場に向かうことになったのだった。
一方、同時期にアメリカ軍もオルモック湾襲撃を計画、第120駆逐隊の最新鋭大型駆逐艦3隻を向かわせていたのである。3隻の艦名はアレン・M・サムナー、モール、クーパーである。「アレン・M・サムナー」は同級のネームシップで、米海軍最新鋭の2,200トンの大型駆逐艦であり、3隻とも同型艦であった。「サムナー級駆逐艦」は速力35ノット、12.7cm砲連装X3基=6門、5連装魚雷発射管X2基=10門の重兵装を持ち1隻で松型駆逐艦2隻分の戦力を装備する大型艦だった。
12月2日夜、輸送船3隻が揚陸を行っている間、桑は湾の南方を竹は南西方向を哨戒中だった。最初に敵艦3隻を視認した桑は、直ちに発光信号で竹に敵艦接近を知らせると同時に砲・魚雷戦に入っている。米艦隊は横陣で湾に侵入、桑1隻に3隻の主砲を集中、桑は交戦9分で沈没している。
敵艦出現の報に竹も直ちに魚雷戦準備に入り、2度目のチャンスを捉えて発射するが、機動弁の故障で1本は発射出来ず、2本の発射となってしまった。幸運にも、その内の1本が最後尾の敵艦クーパーに命中、クーパーは轟沈している。後に、もう1本の魚雷を発射しているが、こちらの方の成果は無かった。
その間、敵艦3隻と竹は主砲で交戦、敵のサムナーとモールに損害を与えるもののモールの砲弾が竹の前部機械室に命中、損傷を受けた結果、左舷エンジンが停止、右舷のみの推進となった。
ここで、「シフト配置」が如実に生きた訳である。機械室と缶室が一体構造の従来艦であれば、全部のスクリューの回転が停止、有力な敵大型駆逐艦2隻の標的として撃沈される運命しか残っていなかったのである。
更に、幸いなことに、敵のサムナー、モールの2艦は、クーパーの沈没を敵潜水艦からの魚雷攻撃と判断して、直ちにオルモック湾から退避行動を開始したため、竹は撃沈を免れている。
一時は最大傾斜30度に傾いた竹だったが、無事揚陸の終った3隻の輸送船を護衛して翌日午後、マニラに帰投、翌年1月2日には修理のため呉海軍工廠に無事生還して、終戦時も残存する武運に恵まれている。
「オルモック湾海戦」での米駆逐艦と桑、竹の交戦は、帝国海軍の水上艦艇による最後の水上艦同士の戦いとなった。
このように、一部で陰口を叩かれながらも、「松型駆逐艦」は戦争後半の駆逐艦不足を補って力戦している。低速、小型の批判を受けながらも、松型の特徴は機関配置だけでは無かった。
対空兵装として小型の艦体の割には、対空機銃として、25mm3連装X4基=12門、25mm単装機銃X8基から12基を建造時に装備していたのだった。
けれども、実戦の場では、それでも不足して、戦争末期には25mm単装機銃を艦によっては25基から27基に増設して敵機動部隊艦載機と戦っている。
更に、現場の指揮官からは、本格的射撃指揮装置が搭載されていない松型に秋月級に搭載している高性能な「94式高射装置」は無理にしても、「4式高射装置」の搭載を望む部隊サイドの声は高かったようだし、現場としては、出来ればもう少し速力の増大を望む希望も大きかったようだ。
外見的には小型で低速な上、武装も非力に見える「松型駆逐艦」であったが、同型艦32隻は、実戦向きの機関設計と対空、対潜能力(爆雷36個搭載)によって極めて実用的な駆逐艦であり、実戦の場でも「2番艦竹」のようにその隠れた実力を発揮出来る艦であった。