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26.戦い続けたⅢ号、Ⅳ号戦車(ドイツ)

前から一度、第二次世界大戦のドイツ「電撃戦」の花形である機甲師団の主力戦車について分析してみたいと思っていた。

このテーマを友人間の話題に出すと、多くの友人から毎度のことながら直ぐに、「Ⅴ号パンター中戦車」や「Ⅵ号ティーゲル重戦車」の名前が上がって来た。

確かに、第二次世界大戦期の各国の名戦車を列挙する時、ソ連軍の「T-34戦車」やアメリカ軍の「M4シャーマン戦車」と共に多くの人の脳裏に浮かぶのがドイツ軍の「Ⅴ号戦車パンター」と「Ⅵ号戦車ティーゲル」である点は論を待たない。

しかし、この両戦車をドイツ軍の代表的な戦車と位置付けてきた解釈には、学生時代から相当強い異論があった。

その理由は、ヒトラー総統の絶頂期であるソ連侵攻の「バルバロッサ作戦」初期段階までに、登場するドイツ機甲師団の戦車は、残っている多くの実写映像を丹念に見ても軽戦車のⅡ号戦車とⅢ号戦車あるいは初期型のⅣ号中戦車しか登場してこなかったからである。

「Ⅴ号パンター中戦車」や「Ⅵ号ティーゲル重戦車」が本格的に戦線に登場したのは、ドイツ軍がソ連軍に反撃されて押され気味になった1943年以降であり、特に有名な「クルスク戦車戦」では、ドイツ軍は量産化を急いだ余りに開発途上の機動性に欠ける「Ⅵ号ティーゲル重戦車」を戦場に投入した結果、整備不良もあって、実戦で効果的な戦果を上げることは出来なかったのである。

その後、「Ⅴ号パンター」と「Ⅵ号ティーゲル」両戦車の実戦に向けた改良と受領部隊に優秀な戦車兵を優先的に配置した成果もあって、連合軍側からもドイツ軍の最優秀戦車として高く評価されるようになって行ったのである。

しかし、戦争後半に於ける両戦車の個々の武勇伝は相当あるものの、飽くまでもその輝かしい戦歴は、戦車1両、あるいは小隊、中隊規模の個別戦闘に於ける奮闘が多かった。

第二次世界大戦前半にドイツ陸軍機甲師団が示したような機甲軍としての能力を存分に発揮するような場面は、戦争後半の東西両戦線では存在しなかった。特に、東西の両戦線共に、連合軍航空隊の優勢もあって完全に制空権を握られていたドイツ戦車隊が大活躍する余地は殆ど残されていなかったのである。

そう考えると第二次世界大戦の全期間を通じてドイツ陸軍の本当の主力戦車は、Ⅲ号戦車を改造した「Ⅲ号突撃砲」とドイツ降伏まで部分改良を続けた「Ⅳ号中戦車」だったと個人的には思っている。

そこで、本項では始めに、連合軍、特にソ連軍とアメリカ合衆国の戦車の生産数とドイツ軍の戦車の生産数の比較から入っていきたいと思っている。


(ドイツ軍戦車と連合軍戦車の生産数の比較)

最初に比較したい数字は、ドイツと主要連合国(英国+ソ連+アメリカ合衆国)の「戦車+突撃砲」の第二次世界大戦に於ける総生産数である。手元の資料が完全では無いので、若干、不確かだが次に挙げてみたい。


主要連合国の戦車+突撃砲の総生産数    約179,800両

ドイツ軍の戦車+突撃砲の総生産数       約37,500両


この数字を見ると、ドイツ軍は主要連合国の約21%(5分の1)しか、戦車+突撃砲を生産できなかったことになる。逆に見れば、東西から攻め寄せる約18万両の連合軍戦車に、僅か4万両にも満たない劣勢の機甲部隊で、良く6年にも渡って戦い抜いたと見るべきであろう。


次に、ドイツ、ソ連、アメリカ合衆国の3ヶ国の主力戦車の生産数を比較してみよう。ソ連軍は大戦の主力戦車としてT-34をアメリカ陸軍ではM4シャーマン戦車に集中して生産している。

一方、先に友人の皆さんが注目したドイツ軍を代表するⅤ号パンター戦車とⅥ号ティーゲル戦車の生産数は両者を合計しても、約8,000両弱と驚くほど少ない。

この数字では余りにも少なすぎるので、ドイツ軍の場合だけⅢ号、Ⅳ号、Ⅴ号、Ⅵ号の4種類の戦車の総生産数を示すことにした。


ソ連陸軍のT-34戦車単体の生産数                   約58,000両

アメリカ陸軍のM4シャーマン戦車の生産数               約49,200両

ドイツ軍のⅢ号、Ⅳ号、Ⅴ号、Ⅵ号の戦車の総生産数         約22,000両


それでも、ドイツ軍戦車の総生産数は、米ソ両軍を代表する二つの戦車の生産合計数約107,000両の5分の1にしか過ぎない数字であり、Ⅴ号パンター戦車とⅥ号ティーゲル戦車の生産数に限定すれば、T-34+M4戦車の生産数の約7.4%に過ぎない心細い生産数であった。


大戦の後半戦、東西から押し寄せる米英ソ連合軍の大戦車軍団に対してドイツ軍は旧式になったⅢ号、Ⅳ号と新鋭のⅤ号、Ⅵ号の製造ラインの全てを動員して機甲師団への死に物狂いの供給体勢を維持したのだった。その内容は、旧式になったⅢ号軽戦車の砲塔を撤去して、固定式の大型砲を載せた「Ⅲ号突撃砲」への大改造と旧式化するⅣ号戦車の改造に次ぐ改造による兵器寿命の維持であった。

その結果、ドイツ軍機甲部隊用に供給された最大の対戦車兵器は「Ⅲ号突撃砲」であり、それに次ぐ最大生産数を達成した戦車は、「Ⅳ号戦車」であった。


ドイツ軍のⅢ号突撃砲の総生産数                     約10,500両

       Ⅳ号戦車の総生産数                       約8,300両


しかし、この両者の生産数にⅤ号パンター戦車とⅥ号ティーゲル戦車の合計生産数の約8,000両弱の数字を加算したとしても、約27,000両弱で、米ソの二つの主力戦車の生産数の25%にしかならない少なさである。


ドイツと主要連合国の兵器生産能力の格差は戦車だけではなかったのである。生産台数の格差は、航空機の総生産数に於いては、もっと著しい大差となっている。


ドイツ軍の航空機の総生産台数        約118,000機

主要連合国の航空機の総生産台数     約615,000機


ドイツ軍は航空機についても連合国の約19%しか生産できなかったのである。特に、ドイツ本国が連合軍の戦略爆撃の空襲下に晒された戦争後半には、両者の差は益々拡大する一方だった上、戦場上空の制空権もドイツ軍は失った結果、ドイツ機甲軍の優秀な「Ⅴ号パンター中戦車」や「Ⅵ号ティーゲル重戦車」と雖も、各個撃破の対象となっている。


(第二次大戦の開始から前半戦までのドイツ軍の主力戦車)

1939年9月のポーランド侵攻によって、ドイツ機甲軍の戦いは開始された。ドイツ軍の主力は約2,700両のⅠ号、Ⅱ号戦車で、新型のⅢ号、Ⅳ号戦車の参加数は、全体の約1割の300両程の少なさだった。

はっきりとはしないが、ポーランド戦の陸上戦闘の主役は、20mm機関砲搭載のⅡ号戦車と先に併合したチェコスロヴァキア製37mm砲搭載のLT-34、LT-38戦車だったと云っても良い状況で、ドイツ軍は6個の機甲師団と4個の軽機械化師団を中核に侵入を開始している。

一方、迎え撃つ側のポーランド軍は戦車旅団1個の劣勢で、所有している戦車も各国戦車の寄せ集め190両にしか過ぎなかった。

それよりも、ポーランドとの戦いで世界から最も注目を浴びたのが、「ドイツ軍の電撃作戦」だった。戦車の集中使用と航空機と一体化した破壊力を最大限に生かした斬新な戦法をドイツ軍は全世界に示したのだった。

この電撃戦を支えて目覚ましい活躍を示したのが、「Ⅱ号戦車とユンカースJu87急降下爆撃機シュツーカ」のコンビだった。急降下ブレーキとサイレンを装備したシュツーカは、実力以上の恐怖感をⅡ号戦車、チェコ製戦車と共にポーランド兵と市民に与えたのである。

加えて上記のように、Ⅲ号戦車、Ⅳ号戦車も少数ながら参加して戦線の一翼を担ったが数量的には、まだ不十分な供給状態だったのである。

奇襲に近いだまし討ちを受けたポーランド空軍の潰滅もあって、ポーランンド軍は活躍の場も無いままに、各戦線が崩壊、短時間の内に降伏、戦争はドイツ軍の勝利で終了した。


続いて起こった英仏との戦いで大活躍したドイツの主力戦車は相変わらずⅡ号戦車とチェコスロヴァキア製のLT-34とLT-38戦車だった。しかし、ポーランド侵攻時とは異なり、37mm46口径砲搭載のⅢ号戦車も活躍し始めたし、一部では支援戦車として短砲身ながら大口径の75mm砲を搭載したⅣ号戦車も陣地攻撃などに投入され始めたのがフランス戦線であった。

一方、相手側の英仏連合軍は装甲の厚い優秀な戦車を多数保有し、軽戦車を含めた戦車の総数でも優位に立っていた。しかし、英仏両軍の戦車は広い戦線に分散配置された結果、ドイツ軍の一点突破を基本とした「電撃戦術」の前に完敗したのである。

1940年5月、ベルギー、オランダ方面で攻勢に出たドイツ軍は、戦車の走行には不適とされたアルデンヌの森林地帯を走破して攻勢に出た。ポーランド戦と同様に、Ⅱ号を主力とする戦車とユンカースJu87急降下爆撃機のコンビによって、英仏の機甲師団は次々に殲滅させられている。

フランス軍にはドイツ軍のⅢ号戦車に充分対抗出来る、20t、47mm砲装備の「ソムア中型戦車」や37mm砲を搭載した「ルノーR35戦車」があったが、戦車を戦術単位として集中使用したドイツ軍の電撃作戦によって各戦線が崩壊すると共に各個撃破されてしまったのである。

その際、仏英の戦車撃破の有効な戦力として活躍したのが、前述のチェコ併合時に接収した38t、37mm砲装備のLT戦車と少数のドイツ軍の新鋭、20t、37mm46口径砲装備のⅢ号戦車だった。


(独ソ開戦とソ連軍新鋭「T-34」戦車の脅威)

「電撃戦」によってフランスを占領し、イギリス軍を英国本土に追い込んだドイツ軍機甲軍にとって1940末から1941年始めは、栄光と自信に溢れた年明けだった。

英国への上陸作戦を諦めたヒトラーは、1941年6月、突如、ソ連への侵攻を開始する。

「バルバロッサ作戦」の幕開けである。

この頃、ドイツ機甲師団の数はポーランド戦開始時の5倍強の21個師団に増加していた。


ポーランド、フランスと連勝を続けたドイツ機甲師団の各隊は、長砲身50mm砲搭載のⅢ号戦車、短砲身75mm砲装備のⅣ号戦車を主力戦車として東に向かって進軍、ソ連軍は各戦線で崩壊現象を起こして敗走を重ねていた。

そんな中で一部のソ連軍戦車が頑強に抵抗、一時的ではあったが、ドイツ軍の進撃を阻止している。それは、ソ連軍最新鋭の「KV-1重戦車」と「T-34中戦車」であった。

装甲板の厚いKV-1重戦車の防御性能はドイツ軍の脅威となったが、絶対数が少なかった関係もあって局地的な活躍が目立った程度で、戦局全体への影響は少なかった。それに反し、76mmの大口径砲を搭載し、機動性に優れた「T34/76戦車」の場合、独ソ開戦時に、既にソ連各地に約千両が配属されていた効果もあって、モスクワを中心とする主要都市の防衛戦で大きな役割を果たしたのだった。

「T34/76戦車」は、改良型の「T34/85戦車」も含めて第二次世界大戦に出現した最高傑作戦車と呼ばれている。当時、世界中の何処を探してもソビエト連邦以外保有していない、時代を一歩抜きんでた優秀戦車であった。

自分達の戦車と機甲軍が世界最高の戦車と軍隊だと自惚れていたドイツ軍に「T34/76戦車」は巨大な鉄槌を振り下ろしたのである。


この当時のドイツ軍最新鋭の「Ⅳ号F型戦車」よりも防御力、機動性、攻撃力の全ての面で、「T-34戦車」は優れていたのである。

車体の大きさは、それ程大差が無いものの車高は20cm以上も低く、装甲板はドイツ軍戦車が垂直の設計だったのに対し、T-34戦車の装甲は敵弾を弾く傾斜装甲でⅣ号戦車を遙かに超える耐弾性を保持していた。

搭載砲の口径もⅣ号F型戦車の24口径の短砲身に対し、30.5口径の長砲身76mm砲を搭載、貫徹力に於いてドイツ戦車搭載砲よりも遙かに優れていた。加えて、履帯の幅がⅣ号F型戦車よりも20%以上も広く、湿地や泥濘の多いロシアの国情と劣悪な道路事情を考慮すると想像以上に優れた機動力を「T34/76戦車」は持っていたのである。

T34/76戦車を始めとするソ連軍の活躍によって、モスクワやレニングラードの戦いに、ソ連軍は勝利で出来たといっても良いと思う。その背景には、アメリカのレンドリース(物資援助)法により、ジープ、ハーフトラック、軽戦車、その他戦争機材の無尽蔵な支援を英米から受けることが出来た背景がソ連にはあったのである。

その結果、ソ連が安全なウラル山脈の東側に移転した新工場群の生産ラインの全てを単一の「T34/76戦車」生産に集中できた成果は大きい。

生産工程の単純化とソ連独特の必要最低限の機能合理化を徹底した結果、「T34戦車」は、第二次世界大戦中最大の戦車生産数を達成したのだった。


「T-34戦車」がドイツ軍に与えた衝撃は甚大だった。ヒトラーは直ちに「T-34戦車」に対抗する新型戦車「Ⅴ号パンター」と「T-34戦車」を撃破できる重戦車「Ⅵ号ティーゲル」の開発を指示、開発終了と共に生産ラインの全てを二つの新戦車の製造に振り向けるよう検討を急がせたのである。

しかし、戦場に於ける戦車不足を切実に感じていたドイツ軍「機甲兵総監グデーリアン」の強い要望もあって、従来型のⅢ号突撃砲とⅣ号戦車その他の製造を併行して継続することとなったのである。

その結果として、単純化した1機種の製造工程を維持出来たソ連とは大きく異なり、ドイツ本国の製造ラインは多種類の戦車及び突撃砲を併行して製造する難問題に直面したのだった。

従来の製造ラインに生産未経験の2型式新型戦車が加わった混乱は大きかった。更に、この二つの新戦車は、その複雑な構造と部品点数の多さもあって製造コストも高く、生産効率は中々向上しなかったのである。

加えて、本国からの補給線が伸びきっていたドイツ機甲軍団各部隊は燃料及び弾薬、食料の補給に苦しんでいた上に、ソ連や英米軍と違い、多種類の戦車、突撃砲に対する補修と維持に苦労することになったのだった。メンテナンス部品一つにしても混乱は大きかったという。


(「クルスク大戦車戦」と苦戦が続くドイツ機甲軍)

独ソ開戦以来一進一退を繰り返していた両軍がロシア戦線のソ連軍突出部「クルスク」で対決したのが、1943年7月である。

当時のドイツ機甲師団の戦車の大半は、相変わらず「Ⅳ号戦車」だった。ソ連軍との初戦で「T34/76戦車」の予想以上の高性能に驚いたドイツ軍が急遽開発した「Ⅴ号パンター戦車」や「Ⅵ号ティーガー戦車」の数はまだ少なく、このクルスクでの大戦車戦にドイツ軍が投入した約5,000両の戦車や突撃砲の大半は、従来型のⅣ号戦車とⅢ号突撃砲だったのである。

対するソ連軍も「T-34戦車」を主力とする約8,200両の戦車、自走砲を配置して迎撃体勢を取っている。

緒戦、ソ連軍は多重防御線によってドイツ軍戦車隊の度重なる猛撃を阻止、期待された新型戦車「Ⅴ号パンター戦車」や「Ⅵ号ティーガー戦車」も個別の勇戦はあったもののソ連軍の戦線を突破することは出来なかったのである。

この両軍による正面対決は全面的な物量戦となり、双方、30%に及ぶ膨大な損害を出すこととなってしまったのである。その結果、戦車生産能力の低いドイツ軍は、ロシア戦線で二度と機甲軍による攻勢を実施することは出来なくなってしまったといわれている。


しかし、各種試験を大幅に省き、開発期間を短縮して戦線に送られた「パンター戦車」は、「クルスク」でのデビュー戦で機械的な故障に悩まされたものの、順次改良が進むと共にソ連軍の「T34/76戦車」の恐るべきライバルとしての優秀性を発揮していくのだった。

正面装甲100mm、最高速度46km/時、75mm高初速砲を備えたパンターは、初期トラブルを克服した段階で、ソ連軍の「T34/76戦車」を凌駕する能力を発揮し出したのである。

しかし、パンターやティーゲル戦車が戦局を支えることが出来たのは、独ソ戦も後半になってからであり、クルスクの戦車戦を始め、ロシア戦線を維持したドイツ戦車の主力は、新しい75mm48口径の長砲身砲を搭載したⅣ号戦車と同じ砲を搭載したⅢ号G型突撃砲であった。

東部戦線中盤の戦いをドイツ陸軍の機甲部隊は、Ⅳ号G型戦車とⅢ号G型突撃砲を主力に少数ながら有力なⅤ号パンターやⅥ号ティーゲル戦車が加わって戦い抜いたといって見ても過言では無い。

その頃になると精鋭ドイツ機甲師団の第一大隊はパンター戦車によって編成され、第二大隊はⅣ号戦車、第三大隊(エリート師団だけ)がある場合は、Ⅲ号突撃砲等によって編成されるのが実情だった。更に、通常の機甲師団の場合、パンサーの充足率は低く、旧式のⅣ戦車やⅢ号突撃砲主体で編成せざるを得なかったといわれている。


(「Ⅲ号突撃砲」の登場)

話は少し戻るが、37mm砲を搭載した「Ⅲ号戦車」は、1939年頃には兵器としての限界に達しており、順次、Ⅳ号戦車に戦場の主役を譲っている。

その戦車として不要になったⅢ号戦車の車体の上に、旋回砲塔に搭載不可能な大型の75mm固定砲を搭載したのが、「Ⅲ号突撃砲」である。当時のⅢ号突撃砲の搭載砲は短砲身の24口径75mm砲で砲の旋回角度は左右25度であった。

当初、旋回砲塔を持たない突撃砲の配置先は戦車隊では無く、砲兵科であった。

始めは短砲身だったⅣ号戦車の搭載砲も順次、時間の経過と共に砲身が長くなり、ソ連軍T-34戦車との苦しい戦いが続いた1942年春には、42口径の長砲身砲に変わり、更に、同年秋には、貫通力を大幅に向上させた48口径砲に進化している。

この同じ48口径75mm砲を搭載した「Ⅲ号突撃砲G型」の場合、54発の砲弾を搭載し、600mの距離からT-34戦車を確実に撃破できたといわれている。

M4シャーマン戦車を含む連合軍の戦車に対しても、この長砲身砲は有効で、1,000m以上の距離から対応でき、特に、待ち伏せを含む防御戦闘では優秀な戦闘能力を示して、多くの連合軍戦車を仕留めている。


安価で防御戦向きの「Ⅲ号突撃砲」が戦場でも必要とされた結果、第二次世界大戦中にドイツ軍が生産した戦車、突撃砲の中で唯一、1万台以上の生産数を達成した成功作となっている。

特に、戦争の後半になるとドイツ機甲師団は主力戦車の不足をⅢ号突撃砲やⅣ号突撃砲で補う傾向が顕著になっていく。東部戦線と西部戦線の両面で守勢に回ることの多くなった1943年以降、旋回砲塔が無く、自在な機動戦には不向きながら、防御戦や待ち伏せ攻撃には向いている量産性の高いⅢ号突撃砲は各戦線で多用されている。

何といっても、高価な上に複雑な構造で整備が大変なパンターやティーゲル戦車に比べて、Ⅲ号突撃砲は製造単価が安く、造り慣れた旧型車体もあって、製造日数も少ない手離れの良い兵器だったのである。


中でも戦車長として有名な「ミヒャエル・ヴィットマン」は最初、ロシア戦線で「Ⅲ号突撃砲」に乗って実績を挙げ、後に部隊再編後、西部戦線で「Ⅵ号ティーガー戦車」に搭乗して大活躍している。

彼の生涯の敵戦車撃破数は138両、破壊した対戦車砲は132門で、ヒトラー総統から直接柏葉付き騎士鉄十字章を手渡されている。

彼を含めてⅢ号突撃砲に搭乗してT-34戦車やM4シャーマン戦車を撃破したドイツ軍の突撃砲乗員は多い。

連合軍戦車の最大撃破数は「Ⅲ号突撃砲」によって達成されたと考えられているところからも、連合戦車の本当の敵は、Ⅴ号パンター戦車やⅥ号ティーガー戦車では無く、旧式戦車を改造した「Ⅲ号突撃砲」だった可能性は高い。戦争後期のドイツ歩兵から最も信頼されていたのが、優秀でも絶対数の不足しているパンターやティーガー戦車では無く、「Ⅲ号突撃砲」だった点からも頷ける実績である。


(戦い続ける「Ⅳ号戦車」)

ドイツ軍初期の主力中戦車は、重量20tの「Ⅳ号戦車D型」だった。搭載している大砲はⅢ号戦車の37mm砲に比較して格段に大きな75mm砲だったが24口径短砲身砲に過ぎなかった。この短砲身砲は対歩兵戦闘用としては好ましかったが、装甲の厚い英軍戦車を撃破するには不十分な性能であった。

1941年6月に開始された「独ソ戦」では、ソ連軍の「T-34戦車」がドイツ軍機甲師団の各戦車を凌駕する活躍を見せ、「ドイツ軍無敵神話崩壊」が始まることになる。

捕獲したT-34戦車の性能を分析した結果、ドイツ軍は、攻防走のどの面を取っても自国の最新鋭戦車のⅣ号F型よりも高性能である点に衝撃を受けたのだった。

その結果、急遽1942年4月以降のF型の生産途中から、T-34戦車対策の長砲身43口径75mm砲搭載戦車を生産してロシア戦線に送っている。また、少数(Max35台)ではあるが、ロンメルのアフリカ軍団にも改良型は送られて米英軍戦車の脅威となっている。

この後もⅣ号戦車の追加改造が延々と続く。

D型の改良型であるG初期型に長砲身75mm砲を搭載したり、後に更に長砲身の48口径75mm砲に変更したりとⅣ号戦車への搭載砲の大型化や追加装甲の変更項目は枚挙に暇が無いくらいである。


Ⅳ号戦車の決定版とでもいうべき重量25tのⅣ号H型戦車は、1943年4月から生産が開始され、総計3,774両生産されたと記録されているが、これがⅣ号戦車としての最大生産数記録となる。これが一つの型式でのドイツ戦車の最も数の多い記録となるが、アメリカ軍のM4シャーマン戦車の戦時中の生産台数約49,000両やソ連軍のT-34/76初期型戦車の生産台数約35,000両に比較しても如何に少ない数字かは理解できると思う。

Ⅳ号戦車はドイツ軍が戦った初期を覗く殆どの戦線で活躍しているが、戦争中期からのソ連軍T-34戦車の登場以降、常に基本性能と戦場での戦車の台数に於いて劣勢に立たされる戦いを強いられる結果となっている。

この不利な条件を克服して最後までⅣ号戦車が健闘できた背景には、幾つかの要因が考えられる。まず、第一は、大型の砲塔に砲手、装填手、戦車長の3名が配置されたことにより、恐ろしいソ連軍のT-34戦車(2名用小型砲塔だった)に対して迅速な反撃が可能だった。車載無線機の点でもⅣ号戦車は優秀で中隊長戦車あるいは小隊長戦車にしか無線機を搭載していないソ連軍戦車と異なり、チーム全体で迅速な連係プレーによる敵戦車撃破が可能だった。

加えて、ドイツ本国の技術陣の弛まぬ改良によって、T-34戦車を凌駕出来ないまでも、戦い方によっては撃破出来る長砲身砲を搭載できた点もプラスになっている。

政治的な面では、戦争の後半に「ドイツ機甲軍総監」になったグデーリアンの存在が大きい。新型戦車パンサーやティーゲルに戦車生産の全力を傾注しようとする総統ヒトラーに逆らっても、生産の順調なⅢ号突撃砲やⅣ号戦車の製造の継続を維持させた功績は大きい。製造コストが異様に高く、製造工程も複雑な上、戦場での故障率も高いティーゲル戦車の生産を優先した場合、ドイツ機甲軍の崩壊は早まった可能性が高い。

しかし、Ⅳ号戦車への脅威はこれだけでは無かった。戦争後半になるとゲーリング空軍総司令官の大言壮語にも拘わらず、ロシア戦線でも西部戦線でもドイツ軍の制空権は連合軍に奪われていったのだった。

特に、ソ連軍の持つ、襲撃機「イリューシンIl―2」は侮れない相手だった。戦車戦闘を第一に設計される戦車の装甲は、前面装甲や砲塔前部の装甲が最も厚く、次いで側面装甲が比較的厚く設計されている。しかし、各国の戦車共に砲塔上部やエンジン部の装甲は薄く、上空からの航空機の急降下攻撃には極めて在弱であった。

中でも機体下部をバスタブ型の装甲板でU字型に囲みドイツ軍の対空射撃に耐える強化構造のソ連軍の地上攻撃機「イリューシンIl-2」及びその後継機の「Il-10」の活躍は目覚ましく、その搭載する23mm機関砲やロケット砲は、ドイツ戦車隊の脅威であった。中には、ソ連軍のアレクサンドル・イェイモフ大尉のように一人でドイツ軍戦車126両、航空機85機、大砲193門を破壊(成果は未確認)したとする強者も現われている。


(戦い抜いた「Ⅲ号突撃砲」と「Ⅳ号戦車」)

しかし、1944年6月、連合軍のノルマンディー上陸作戦によってドイツ軍は東西二つの戦線で戦う困難な事態を迎えることになってしまったのである。

連合軍をノルマンディーで迎え撃った機甲師団所属戦車の半数近くが改良されたⅤ号パンター戦車だったが、制空権を連合軍に支配された戦場でのパンターには充分に活躍出来る余地は殆ど残されてはいなかった。

更に、ドイツ本国の工業地帯に対する連合軍の戦略爆撃によって、頼りの「Ⅴ号パンター戦車」や「Ⅵ号ティーゲル戦車」の生産は、はかばかしい数量を達成出来ず、戦場の主力戦車の半分以上は依然として、Ⅳ号戦車とⅢ号突撃砲であった。

一方、東側の敵ソ連は、この時期、T34/76の改良型である大口径85mm砲を搭載した新鋭の「T34/85」を前線に投入している。同戦車は車体前面と砲塔前面の装甲が厚くなり、搭載砲も一回り長砲身大型の85mm51.5口径砲になって貫通威力を増して攻撃力を強めていた。


西部戦線では、アメリカ工業生産の典型のような大量の「M4シャーマン中戦車」が大量に投入され始めたのである。M4シャーマンは、戦車単体の性能では、ドイツ軍の「パンター」や「ティーゲル」戦車に大きく劣っていた。

しかし、その操作性を含む機動性は高く、戦場での信頼性も後方からの無制限とも感じられる米軍の補給能力も相まってドイツ軍の各戦車を圧倒している。

加えて、M4シャーマン戦車の劣る攻撃力を補ったのが英国内でM4シャーマン戦車を改造して強力な17ポンド砲を搭載可能にした「M4シャーマン・ファイアフライ戦車」だった。

ノルマンディー上陸以降、連合軍は、「パンター」や「ティーゲル」戦車を撃破可能な「M4シャーマン・ファイアフライ戦車」と通常型の「M4シャーマン戦車」を混合した部隊編成でM4の欠点をカバーして戦っている。(1小隊または1中隊に1台のM4シャーマン・ファイアフライ戦車を配備)

Ⅳ号戦車やⅢ号突撃砲にとって、英国製17ポンド砲搭載の「M4シャーマン・ファイアフライ戦車」は、実にやっかいな敵だったが、更に、戦争末期には米軍の最新鋭戦車、新型90mm砲搭載の「M26パーシング」が西部戦線に登場して、時代は確実に次の時代へと移り始めていた。


東西両戦線で続く激戦によって、1944年以降、ドイツ軍の機甲部隊の損耗は大きく、戦車の定足数を維持出来た機甲師団は殆ど無い状況に至っている。そんな中で、ドイツ機甲部隊が最後の掛けに出たのが「バルジの戦い」であった。ドイツ軍はこの作戦に2,000両以上の戦車を準備しているが、この時用意したドイツ軍の主力戦車は、「Ⅳ号戦車」とⅤ号パンター、Ⅵ号ティーゲルだった。

しかし、ドイツ軍最後の反撃も戦闘の後半、天候の回復と共に連合軍の航空攻撃が再開されてからは、制空権を失っているドイツ軍戦車は次々と破壊されていった。

連合軍のこの反撃により、ドイツ軍は虎の子の戦車約500両近くを失い、組織的な機甲戦を実施する能力を永久に喪失してしまったのである。

1945年4月、ヒトラー総統の死と共に、「Ⅲ号突撃砲」と「Ⅳ号戦車」の長い戦いは終った。


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