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23.亀甲船

アメリカ海軍の帆走フリゲート艦「コンスティチューション」やナポレオン戦争頃のヨーロッパの代表的な帆走戦列艦である「74門艦」に触れてきたので、今回は、韓国で近年評価の高い「壬辰の倭乱(日本でいう慶長の役)」に登場する李舜臣の「亀甲船」を採り上げて見たいと思っている。

この「亀甲船」と呼ばれる東洋の軍船に関しては、可なり以前から興味を持っていた。しかしながら、「兵器」のテーマに採り上げるには、何処か躊躇する部分が多かったことも確かである。

何故かというとその実態が幾ら調べても見えてこない不透明な李氏朝鮮の軍船だったからである。朝鮮の歴代の武器や兵器に関しては、残っている資料が少なく不明瞭なケースが多い。

最近、韓国では「亀甲船」の復元が各地で盛んだと聞くが、代表的な復元船としては京城ソウルの戦争記念館にある船が有名らしい。当時の李朝の代表的な大型軍船「板屋船」をベースに開発された亀甲船は、甲板が亀の甲羅のような曲線の上、敵船からの移乗攻撃を阻止する為、甲板に刀錐を植えて厳しく防備していた。更に、火器射撃用の銃口やガス発射装置を兼ねた竜頭を備えた戦闘艦だったらしい。

しかし、長年、儒教の文治主義の思想下に国家運営をしてきた李氏朝鮮では、文官が重んじられた割に、武官は軽視され、その事績や使用した武器等の遺物も殆ど保存されない傾向が強かった。そのせいか、「亀甲船」に関係する当時の設計図や詳細な運用方法を含む記録や遺物は、全く残っていないと聞く。

けれども、近年、名提督李舜臣ブームに触発されて、現代韓国の学者達による必死の探求が行われているようだ。それにも関わらず、「亀甲船」の実態は曖昧模糊として明瞭になっていない。

それでは、まず、最初に「亀甲船」が登場した李朝でいう「壬辰の倭乱」、日本の表現では、「文禄・慶長の役」を概述するところからスタートしたい。


(文禄の役の開始)

豊臣秀吉の誇大妄想に起因する朝鮮出兵は、日本では、「文禄の役」、李朝では、「壬辰の倭乱」と呼ばれている。開戦劈頭戦国諸大名の軍勢を満載した日本水軍の各船は釜山を目指して進攻した。

当時、李氏朝鮮の水軍は、各地の「道」毎に分割して編成、配置されていて、日本に近い対馬寄りの地域で見ると慶尚道、全羅道、忠清道の三つになる。それぞれの道には、左水使と右水使の二人の水使が任命されていた。

日本軍に最初対応したのが慶尚道水使だったが、慶尚道右水使元均ウォン・ギュン指揮下の73艘の軍船は、日本水軍との本格的な戦闘に至る前に自壊四散して、元均の手元に残ったのはたった3艘になってしまったと記録にある。

麾下の軍船が3艘に激減した元均は、全羅道左水使李舜臣イ・スンシン同右水使李億祺イ・オッキに救援を求めている。数度の使臣の往復の後、李舜臣は、全羅道右水使李億祺と共同して三道の李朝水軍の合体を急ぎ、日本水軍への攻撃態勢準備を進めたのであった。その結果、全羅道の両水使の総力に、元均水使の残余の軍船その他が合流して、李朝水軍の軍船の総数は91艘となった。

当時、朝鮮水軍の主力船は、「板屋船」と呼ばれる大型な軍船であったが、長い平和のため老朽船が多かったといわれている。しかし、長年の倭寇対策を旨とした李朝水軍の各船は火砲を重点的に装備しており、輸送船兼近接戦闘を重視した日本水軍の安宅船や快速の関船に比較して、装備する火器では勝っていたのである。


(文禄元年の「玉浦海戦」から「閑山島海戦」まで)

全羅道左水使李舜臣、全羅道右水使李億祺、慶尚道右水使元均の李朝水軍の諸将が率いる火器で勝る91艘の李朝水軍は、「玉浦」で日本軍を最初に捕捉、攻撃を開始したのであった。

初戦での慶尚道水使の潰滅後、日本軍は慶尚道一帯を制圧、上陸軍の快進撃もあって日本水軍は敵水軍の新たな出現を予想していなかった可能性もあった折りの遭遇戦であり、「玉浦」に停泊していた藤堂高虎、堀内氏善が率いる日本水軍の50艘の軍船にとって、91艘の李朝水軍の攻撃は不意打ちに近い攻撃であった。突然の襲撃にろうばいした日本水軍は、瞬く間に15艘の船を撃破されている。

この時の李朝水軍の主力は大型船の板屋船20艘で、「亀甲船」に関しては、参加していなかった説が有力である

李朝側の板屋船の主力兵器は、搭載している天字砲や地字砲、玄字砲等の大砲で、大砲搭載に関して李氏朝鮮軍は、日本軍より一日の長があった。古くは、世宗時代、先君太宗指示による応永の対馬攻撃の際の軍船にも多数の火器が積載されて使用されたという。

これを見ても、李朝水軍の戦隊の主力は大型の板屋船であり、韓国人の誇る「亀甲船」では無いことは明瞭であろう。

「玉浦海戦に続く、「合浦」、「赤珍浦」での小規模戦闘でも李朝水軍は戦勝を重ねて、日本水軍の軍船数隻を焼失させている。

続いて発生した「泗川海戦」は、李朝側の記録にあって、日本側の記録に無い海戦なので、相当小規模な戦闘だったようだ。しかし、「亀甲船」初登場の海戦で、李朝水軍の板屋船や亀甲船に搭載した天字砲や地字砲、玄字砲を始めとする砲によって日本軍船は損害を受けて敗退したようだが、亀甲船の実際の活躍状況と日本船の損害の程度に関しては不明である。


 李朝水軍の反撃によって、損害を重ねた結果、これに対し、釜山の安定的な確保を重要と考える日本軍は、藤堂高虎、脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明を中心とする水軍を結集して、李舜臣を始めとする李朝水軍と対決することとなった。

釜山の防備を固めている間に脇坂安治の抜け駆けによって発生したのが「閑山島海戦」である。突出する脇坂軍を李朝水軍の諸将は、李舜臣の囮を設けて誘導、包囲攻撃する提案に同意、勝利している。加えて、この海戦で始めて、「亀甲船」3隻が参加、戦果を挙げたと伝えられている。李朝水軍の先頭を務めた防御性能の高い亀甲船は、先導艦としての性能を充分に示した可能性がある。

李朝側の合同水軍の勢力は、50艘以上に及んだと思われるが、脇坂水軍の勢力に関しては、記録が無いようだ。石高3万石、兵力約1,500人の同軍の戦船の数がそう多かったとは想像できない。しかし、李舜臣将軍の巧みな囮戦法の提案と李朝三将の連携作戦に戦国歴戦の勇将脇坂安治も苦杯を嘗めさせられた「閑山島海戦」であった。

ここに本格的に対戦した両軍だったが、火縄銃を主力兵器として、接舷斬り込みを得意とする日本軍に対し、大砲を装備した李朝水軍は、適度な距離を置いての遠距離戦と火矢攻撃による敵船の焼き討ちを好む傾向があった。

数度の対戦で李朝側水軍の特徴と自軍の弱点を自覚した日本軍諸将は、自軍の軍船にも大鉄砲を装備して対抗するようになる。加えて、陸上の城塞にも大砲や大鉄砲を増設して泊地の守備を強化、日本軍の強みである陸上部隊と海上戦力の連携を強化する作戦に方針を大きく転換するのだった。


(李朝連合水軍の「釜山浦」攻撃)

肥前名護屋と対馬、朝鮮半島の「釜山浦」を結ぶ補給線が半島の日本軍と日本本土を結ぶ最大の生命線であった。即ち、誰が見ても日本軍の保有する半島最大の根拠地「釜山浦」を占領し、日本水軍を潰滅出来れば、この李朝側でいう「壬辰の倭乱」も早期に終了する可能性は高かったのである。

7月になって、李舜臣を始めとする李朝水軍の諸将が指揮する李朝連合軍は「釜山浦」の日本軍潰滅を意図して進攻を開始した。この時、李舜臣が「亀甲船」の建造と整備に注力した結果、14艘の亀甲船が準備できたという説もあるが、どうだろうか?  実体は5隻程度が参加した可能性が高いように推測される。

しかし、李朝水軍の諸将の奮戦にも拘わらず、日本軍の水陸連携の泊地防御策が適確に機能した結果、日本軍の補給線の要「釜山浦」への李舜臣を始めとする李朝水軍の攻撃は日本軍の軽微な損害で撃退されてしまった。しかし、それに対し、李朝水軍の受けた損害は大きく、三将は速やかに麾下の水軍を釜山から撤退させている。この時の李朝水軍の損害は想像以上に大きかったようで、これ以降、釜山への水軍単独の攻撃を李朝水軍のどの将軍も検討しようとはしなかった。

戦闘後の李朝朝廷への報告では、100余艘の敵船を破壊したと報告しているが、実情は日本軍に多少の損害を与えたものの藤堂高虎を中心とする九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明指揮の日本軍の海陸連携の防御陣地は強力で、海からの李朝連合水軍の猛攻を跳ね返し、釜山と日本との補給線を完全に守り抜いている。


後日、李舜臣も元均も上の指示に抗命する危険を冒しても、水軍単独での釜山攻撃に踏み切らなかったところをみると、李朝水軍の最初で最後の釜山攻撃は、日本軍の海陸連携した時の戦闘能力の高さを実感する一戦だった印象が強い。

もし、釜山浦の占領に李舜臣を始めとする李朝の諸将が成功すれば、日本の上陸軍は孤立して、補給を絶たれた上、朝鮮各地で個別に殲滅される可能性もあった重要な海戦であった。

しかし、高性能な種子島を大量に保有する日本側の堅守の前に、この海戦後も釜山は、日本軍の重要な補給地点として存在し続けた。その結果として、朝鮮半島と日本との間の制海権は、「永禄・慶長の役」の全期間を通して日本が終始掌握していたのであった。


(「漆川梁海戦」と三道水軍統制使元均の敗死)

前半戦にあたる「文禄の役」の終了後、李朝水軍は三道水軍統制使李舜臣指揮下に閑山島へ本営を進め、日本水軍への監視を強化していた。その李舜臣に中央よりに釜山浦日本軍攻撃の命令が下された。

しかし、前役での釜山浦攻撃時の日本軍の強固な防備体制による李朝水軍の大損害を痛感している李舜臣は水軍単独での釜山攻撃に消極的であった。

一方、当時、李氏朝鮮では、国の浮沈を掛けた日本との大戦争の真只中にありながら、東人派と西人派が抗争する「朋党政争」が熾烈を極めていたのである。

朋党争いの当然の結果として、反対派の讒言もあって抗命の罪で李舜臣下獄、新たに三道水軍統制使に就任したのは李舜臣のライバル元均であった。

元均も前回の釜山攻撃時の日本軍の抵抗と自国水軍の損害を眼の辺りにしており、水軍単独での釜山第二次攻撃には消極的であった。しかし、上層部の強圧に抵抗空しく、元均は日本軍の待ち構える釜山攻撃に踏み切ったのであった。

不運なことに、元均による釜山再攻撃寸前の天候の悪化により、李朝水軍の戦隊は「漆川梁」の狭い水道に待避することになってしまったのである。そのチャンスを海陸の日本軍は逃さず攻撃を開始、海からは、藤堂高虎、脇坂安治、来島通総の水軍が、陸では海戦から逃れた上陸者を島津義弘の陸上部隊が迎撃態勢を取った上で戦闘に入っている。

夜間の戦闘が主体だったこともあって、日本水軍の攻撃に李朝水軍の船は朝鮮が誇る「亀甲船」を含めて次々に破壊され、陸上に逃れた兵も薩摩兵によって包囲殲滅された。その結果、総大将の元均も行方不明となり、その後、再び歴史に登場することは無かった。

この海戦によって、早期に脱出した12艘の大型船を除いて、李朝水軍は亀甲船を含めて潰滅、この海戦以降、同船が歴史に登場することは無かったのである。

李朝中央と明国軍の圧力によって発生した「漆川梁海戦」は総大将の元均の戦死? を始め、李舜臣と前回の役で共に戦った有能な将官の多くを失う結果となったのである。それ以上に李朝水軍にとって深刻な打撃だったのは、訓練された水軍の兵の殆どと李舜臣が充実に努めた艦船の大多数をこの「漆川梁海戦」で一挙に失ってしまった点にあった。


(李舜臣の復帰と「鳴梁海戦」、最後の「露梁海戦」まで)

元均艦隊の壊滅的打撃に驚いた宣祖の朝廷は、再び、李舜臣を三道水軍統制使として登用、李朝水軍の再起を図っている。しかし、前統制使元均の失策により、李舜臣が精魂を込めて建造拡充に努めた李朝三道水軍の艦船の多くが失われた結果、李舜臣が復帰した際に使用可能な軍船は、13艘だったと伝えられる。最早、李朝水軍単独で大規模な海戦を実行する力は、残っていなかったのである。

漆川梁の敗戦から2ヶ月、日朝両水軍は、多島海の「鳴梁」において対決することになる。鳴梁は、その名の通り複雑な潮流が音を立てて渦巻く狭い海峡で、劣勢の李舜臣は、潮流の変化を知悉した鳴梁に残存の13艘の戦船を浮かべて日本軍を迎え撃ったのである。

狭隘な地形と轟く潮流に日本水軍も大型の安宅船での突入を控えて、中型の関船中心に突入部隊を編成、戦端を開いた。しかしながら、地形と潮流を知悉した李舜臣の指揮は冴え、日本水軍は予想以上の苦戦となり、諸将の中には、溺死寸前の危機に陥る者や負傷する者も出る始末で、来島通総に至っては、この海戦で戦死している。通総の討ち死には、李朝水軍との戦闘で戦死した唯一の日本の大名となった。その為か、韓国の映画やドラマでは、1万4千石の小大名来島通総を日本水軍の総大将の如く描いて、総大将を討ち取ったと表現しているケースが多い。


 しかし、局地戦の「鳴梁」では勝利したものの日本軍優位の大勢は変わらず、李舜臣も戦勝後、夜になると速やかに麾下の軍船を戦場から撤退させている。

李舜臣はこの海戦の3ヶ月後、李朝水軍と明国の水軍の連合戦隊を率いて日本水軍を殲滅すべく出撃している。この時、劣勢の軍船数を補うべく李舜臣は明水軍の司令官に驚くべき提案をして、受け入れて貰っている。

曰く、

「海戦での功績は全て中国水軍の貴方のものとして構わないので、その替り海戦での指揮権を全て私に与えて貰いたい」

と、

この歴戦の李舜臣の提案に明水軍の将軍も同意、連合水軍の指揮権を手に入れた李舜臣は勇躍、戦場に向かったのであった。

攻撃目標は、日本軍の一方の先鋒である順天城に籠もる小西行長の捕捉殲滅であった。この時期、行長は明軍や李朝との講和を進めており、明との休戦は決定し、次に李朝との講和締結後、日本への撤退を希望する和戦両様の中途半端な段階に置かれていた。

一方、順天城の小西行長軍を無事撤退させるべく、日本側は立花宗茂、島津義弘軍を派遣して、李朝と明の連合水軍と「露梁」で対決することになる。

しかしながら、連合水軍は最大の攻撃目標だった日本軍の大将小西行長の捕捉に失敗した上、救援の立花・高橋勢に手痛い反撃を喰らった上、最後尾の島津義弘勢の勇戦もあって、総司令官李舜臣は戦死、李朝水軍の将軍四名も次々と斃れた上、救援の明水軍の副将も戦死して、明水軍の大将一人がようよう逃れる大敗を喫している。

全体から見ると、この海戦は、日本軍撤退時の局地戦的な海戦だったようで、日本水軍の将は一人も参加していない。日本軍主力の立花勢、島津勢の船は水軍の軍船というよりは、輸送船だった可能性が高いが、但し、当時の船は、軍勢さえ乗っていれば直ちに軍船に近い機能を持つ可能性が高かったので、充分戦闘艦としての機能が発揮出来たと推測される。

当時、関東勢や東北勢に比較すると西国や九州の諸大名の鉄砲装備率は高く、名将李舜臣も島津義弘勢の鉄砲射撃によって戦死した可能性が高い。

しかし、名将李舜臣の戦死を価値あるものしたい李朝上下の衆望は、日本水軍200隻撃破、500艘逃走の大勝利として、「露梁海戦」を特筆している。


(亀甲船の実態を再考する)

李舜臣時代の亀甲船の検討に入る前に朝鮮半島に向かった日本水軍の軍船についての概略を述べてみたい。

この戦役で日本水軍が、どの様な軍船を使用したかは、おぼろげながら解っている。水軍の将九鬼嘉隆の建造した「日本丸」は全長百尺(約30m)、100挺櫓、180人乗りの大安宅であり、各水軍大名達も、同様の安宅船を海戦の主力として多数、建造して出兵している。

少し、古い話だが、天正6(1578)年の織田水軍と毛利水軍が戦った、「第二次木津川口の戦い」で、織田信長が用意させた鉄甲船は、幅7間(12.6m)、長さ12~13間(21.6~23.4m)で、大砲3門、大鉄砲を無数に装備していたと記録にあるので、「文禄・慶長の役」当時の日本水軍の大安宅船の性能が、これよりも低かったとは考えにくい。

日本水軍全体の戦力は、約8,700余人で、大型戦船は上述の日本丸のような「安宅船」を中心に構成されていた。絵図で見ると当時の安宅船は、大型船の上に城廓の櫓のような二層の建物を載せており、当時の水軍の将達は、海でも陸上のような建物から指揮する射撃戦を好んだようである。安宅船に次ぐ中型軍船は「関船」と呼ばれる快速性を重視した小回りの利く船で、これも相当な隻数を帯同していたと思われる。


本によると李朝の第三代王太宗の時代の1413年に、「亀甲船」の名前は太宗実録に登場するという。同年は日本の室町幕府四代将軍足利義持の頃で、日本の年号でいうと応永20年に当たる。そうなると「亀甲船」は李舜臣の発明では無く、「壬辰の倭乱」の約180余年前から存在したことになるが、太宗時代の亀甲船に関する詳細な記述は残念ながら存在しない。

時代は下がって、「壬申の倭乱」当時の李朝水軍の場合、大型船は、「板屋船」と呼ばれる平底の大型船であった。李朝水軍の板屋船が日本の軍船と大きく異なる点は、天字砲を始めとする各種の大砲を搭載していた点であろう。古くは、李朝第四代の世宗の時代の1418年、我国の応永26年に起きた「応永の外寇」で対馬に進攻した李朝水軍の船にも相当数の火器を搭載していたともいわれている。日本が火縄銃を重視したのに対し、李朝の水軍は特に、大砲や火矢を重視して戦いに備えている。「永禄の役」での宣祖への報告でも日本軍は火矢を使用しないと注記している位なので、彼等にとって火矢は重要な海戦兵器だったようだ。

大型の板屋船以外の日本の中型船、「関船」に相当する李朝水軍の船は、「挟板船」と呼ばれ、更に小型の「鮑作船」と共に配備されていた。

その結果、最初の李朝水軍の反撃時に主力である「板屋船」に搭載する李朝の進んだ火砲に苦しめられると直ぐに、日本軍は安宅船に大鉄砲や砲を搭載したり、陸上の陣地にも大砲や大鉄砲の配置を鋭意進めているところをみると戦国時代を戦い抜いた諸将の手堅い現実重視の姿勢が読み取れる気がする。


「亀甲船」が記載されている「壬辰の倭乱」当時の文書も、李舜臣の「乱中日記」を含めても、「李舜臣行録」や「李忠武公全書」程度で、その記載内容から亀甲船の実像に迫ることも難しそうである。また、亀甲船の実際の建造数も一説には5隻と少なく実戦での戦闘局面を支配したとは、とても思えない隻数である。

それに、近年の復元船を見ても、帆走能力は低く、櫂による航走が主体の沿海用近距離戦闘艦の印象が強い。

そうなると「文禄・慶長の役」での李朝水軍と日本水軍の主要な戦闘の主役は、李朝側が大型の「板屋船」であり、日本水軍側が「安宅船」であったと考えるのが自然な気がしてくる。当然、狭い海峡内や浅瀬の多い海域では、日本水軍も安宅より小型の「関船」を使用しているし、李朝水軍も「挟板船」を使用して戦ったものと想像される。

しかし、近代になって日本海軍関係者による李舜臣将軍への尊崇に端を発した李舜臣に対する韓国内での熱中と憧憬は益々過熱する傾向にある為、「「亀甲船」復元への熱意もエスカレートする傾向にある。

中には、亀甲船は三層構造の船で、第二層が漕ぎ手、第三層が火砲装備の軍船だったと主張する方面もあるようだし、屋根の部分にしっかりした鉄板の装甲を施した「世界最初の装甲艦」だったと信じている方も出ていると聞く。

これなども、光化門の通りにある李舜臣将軍の銅像の長大な剣と同様で、誇大妄想を膨らました結果の妄想の産物のような気がしている。


一方、今回の主役の李朝水軍の「亀甲船」については、当時の記録に明確な船体の記述や戦闘能力に関する記載が少ないようだ。儒教を重んじる李朝では、身体を使った肉体労働に類することは忌む傾向にあった。特に、その傾向は李朝政治の最高指導者である文官に著しい印象を受ける。その結果かどうかは不明だが、亀甲船の幅や長さに関しても手元の資料では見つからなかった。加えて、復元船の写真やデータを幾つか見たが、その根拠とするところが今一つ、ハッキリしない模型が多かった気がしている。

それに、「亀甲船」が韓国の現代人が吹聴するほどの世界的な時代を超えた性能の名軍艦であるならば、李朝水軍の主力艦である「板屋船」の建造を全て中止して、「亀甲船」一本に造船用資材を投入して増産を図りそうなものだが、その様な経過を示す歴史的な記述も存在しないようであるところをみると、実戦で亀甲船が決定的な戦果を挙げたとはとても思えない。

西洋の中世のガレー船と大航海時代の帆船軍艦を比較してみても、内海の地中海ではともかく、波の荒い外洋でのガレー船の活躍場所は少なかった。防御重視で開放空間の少ない櫂漕が主体の亀甲船の場合、釜山周辺以外の朝鮮半島南岸の多島海の複雑な海域では、多少活躍のチャンスがあった可能性を否定できないが、日本軍が陸海共同で防御を固めた「釜山浦」の攻略戦では、逆に、大きな損害を受けて撤退した李朝艦隊の一部でしか無かった気がするが、如何であろうか!


死後時間が経過すると共に、李舜臣の名声は大きくなり、特に、明治以降、日本海軍の将官達が李舜臣の功績を称揚すると共に李朝や後の韓国でも李舜臣将軍の評価は年々上昇している。李舜臣に対する高評価と共に、「亀甲船」の注目度も増して、亀甲船に対する研究も盛んになっていったが、上記の様に明確なところは、何一つ明らかになっていない点が、誠に残念な気がしている。「亀甲船」の実像は現在の所、模糊としているが、李舜臣将軍の「壬申の倭乱」における忠誠と功績が近年脚光を浴びると共に、「亀甲船」は、その実績以上に拡大解釈されて、韓国人の想像を搔き立てているようだ。前述のように、「世界最初の装甲艦」で三層構造の大型艦等々と表現する韓国国内の一部の識者も出る状況となっている。

しかしながら、大活躍したと証明できる明確な歴史書の記述も存在しないようだし、現実に、亀甲船が戦線に投入された釜山への攻撃時の使用でも、日韓双方に「亀甲船」活躍の記述は無い。 うがった見方をすれば、「亀甲船」自体、朝鮮南部の多島海の浅瀬の多い海域での近距離戦闘艇としての活躍を李舜臣は想定して建造したのかも知れない。何故かというと、李舜臣の最初の役職「全羅道左水使」の担当海域が当にその様な海流の複雑な多島海だったのである。

いずれにしても、「壬辰の倭乱」の大勢を決定付けるような働きは、5隻という建造数の少なさからも無かったと考えたい。

本当に戦争全体に影響を及ぼすほどの機能を持った先進的な装甲艦であれば、李朝水軍では、李舜臣の没後も同船の建造を継続したと考える。しかしながら、宣祖を始め李舜臣の幼なじみであり、有力な支援者である当時を理解するための最も重要な記録書「懲毖録しんぴろく」を書いた柳成龍にしても、その様な動きは全く感じられない点からも「亀甲船」の性能と戦果を拡大解釈すべきでは無いと考える。

一方、李舜臣への高評価への反動のように、指揮下の李朝水軍を潰滅させてしまった元均三道水軍統制使に対しては酷評の嵐に見舞われた感があるが、近年、見直しの機運が出てきたようだ。それに、二人が仕えた宣祖によって、両人共に、戦後、「宣武一等公臣」に叙せられているので、元均も以て瞑すべきであろう。

加えて、李舜臣には、「忠武公」が追贈されている。


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