表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/41

21.「コンコードの戦い」と「USSコンスティチューション」

アメリカ国内の主要都市数カ所を歩き終った頃、始めてボストンに行き、市内に入った。街の第一印象は、古い教会等も多く、何処かイギリスの街を歩いているような懐かしさを随所に感じた。 

同じ港町でも西海岸の旧スペイン領だった明るいサンフランシスコの市街や中西部の内陸の都市シカゴ等とは異なる、今まで行ったアメリカの都市の中でも歴史を感じる数少ない町の一つだった。

市内やチャールズ川沿いのハーバード大、マサチューセッツ工科大を案内して貰った後に、友人の好意で、アメリカ独立戦争の発端となったボストン郊外の「レキシントンの村の広」や、「コンコード」にある「ノース・ブリッジ」を案内して貰った。

18世紀後半、当時のイギリス本国政府はフレンチ・インディアン戦争による財政難に苦しみ、ヴァージニア、ニューイングランド、マサチューセッツ、ニューヨーク、ペンシルベニアを初めとするアメリカの13植民地に理不尽な課税要求を重ねていた。この本国政府による増税と支配強化に反対するアメリカ植民地が希求する自由と権利との相反する軋轢が事件にまで拡大したのが、1773年12月に起きた有名な「ボストン紅茶事件」である。

この騒動は、紅茶への異常な本国政府の課税に抗議する意味で、実質英国政府の商社である「東インド会社」所有の紅茶の木箱をアメリカ植民地人が海に投じた事件であった。

余談だが、アメリカ植民地人は、この事件以後、それまで飲んでいたイギリス風の紅茶の習慣を拒否して、アメリカ独立運動に協力してくれたフランス風のコーヒーの習慣が根付いたとの俗説があるが、実態は不明だ。(笑い)

個人的には、フランスやイタリア風のコーヒーが好みだが、確かに、毎日、朝から大きなマグカップで、何杯も盛んに飲むアメリカ人に付き合って居ると、浅いローストの薄いアメリカンコーヒーの方が健康的な気がして来るから不思議である。


イギリス本国の手先? 東インド会社の船の紅茶をボストン市民が海に投げ入れてから1年4ヶ月経った1774年4月、ボストン駐在の英国軍司令官は、今後の事件発生を未然に予防するため、ボストン北西近郊のコンコードに集積されていたアメリカ民兵の弾薬を破壊あるいは収容すべく、700名からなる部隊のコンコードへの派遣を決定した。

しかし、英国軍コンコード派遣の噂は、瞬く間に植民地側に伝わり、植民地側の民兵を初めとするボストン近郊の多くの人々に緊張感をもたらしたのであった。当時、英国軍は、「紅茶事件」以来、ボストン市内は掌握していたもののボストン近郊の農村地帯を含む周辺地域を全く掌握していなかったのである。

この時代の英国軍の軍装は戦闘時に遠距離からでも目立つ真っ赤な軍服が特徴であった。確かに、赤い軍服は、戦場では遠距離からでも目立つ上、軍の所在と行動を鮮明に敵や味方に印象付ける効果が強かったが、同じ言語を話し、習慣も違わない英国系住民のマサチューセッツ植民地での赤服を着用した軍隊の集団行動は、結果論だがマイナスだった気がしている。


(「コンコードの戦い」、一日でアメリカの歴史的方向が変わった日)

 1775年4月19日、赤い制服のイギリス軍は、コンコードに向かうため途中のレキシントンの村の小さな広場に差し掛かっていた。そこでは、アメリカ民兵が80人ほど、警戒心と不安感を浮かべながら、英国兵の隊列を見ていたという。

最初のトラブルは、レキシントンの村の、その小さな広場での一発の銃声だった。真っ赤な制服で隊列を組んだ英兵と見物していたアメリカ民兵の間で突然聞こえた銃声の犯人は、今日に至るまで分かっていない。

その、たった、「一発の銃声が世界を変えた」と史書にある、その広場に実際に立って見ると、意外に小さく、「こんな場所で何故?」と、いう印象だった。

最初の一発目の銃弾が発射された後、散発的に双方から銃の発射が続き、次に、訓練された英国兵の射撃が開始された。

結果、マサチューセッツ人8名が死亡、10名が負傷する大惨事になってしまった。一方の英兵側は負傷1名と軽微だったと伝えられている。しかし、この突発的な銃撃戦とマサチューセッツ人に多くの死傷者が出た事件は、瞬く間に近隣の村々に英国兵の横暴として伝わった。


 噂を聞いて集まった「ミニットマン(アメリカ民兵)」と英兵の間で本格的な衝突が起きたのが、コンコードの「オールド・ノース・ブリッジの戦い」である。

レキシントンでの偶発的な事件発生後もコンコードに向かって前進した英国軍をレキシントンの事件を聞いて集まったアメリカ民兵が取り巻き始めたのが、「ノース・ブリッジ」である。

緩やかで平和な傾斜地の上から見える「ノース・ブリッジ」は、周囲に建物が殆ど見えず、橋自身も当時のままなのだろう、素朴で事件当時の雰囲気を今に残している木造橋のように感じた。 

「ノース・ブリッジ」の周囲は高低差が若干あるものの広々としており、樹木も適当にあって、マサチューセッツ植民地の人々が、故国を偲んで丹精を込めて造りだした風景だと感じさせる雰囲気を持っているように直感させる何かがあった。

その田園風景の中に、レキシントンで三個中隊の英国正規兵に仲間が殺された噂を聞いたアメリカ民兵、「ミニットマン」が集まりだし、自然発生的に戦闘が始まった。

ノース・ブリッジでの双方の銃撃戦開始時のアメリカ民兵の人数は、400~500名だったという説がある。しかし交戦後、ボストンへの英軍の撤退時には噂の拡散により、民兵の数は急速に増えて約4,000名に達したといわれている。それだけ、英国政府への13植民地住民の不満は鬱積していたと考えられる。


「ミニットマン」の単語に、アメリカ初期のミサイルの名称としか理解で出来ない私に、「ノー・ブリッジ」を歩きながら友人が次のように解説してくれた。

「正規軍の居ないアメリカ植民地で地域の治安維持その他に活躍したのは民兵だった。召集の連絡と同時に、民兵は狩猟服や農作業用の衣裳のままで、自宅の壁から銃と弾薬ケースを素早く取って直ちに準備完了、集合場所に向かったので、『ミニットマン』と、呼ばれた」

と、言う。

数分で民間人から民兵に早変わりできるアメリカ側の兵士の服装が、狩猟用の鹿革服や農作業用の服が多かったのに対して、「ノース・ブリッジの戦い」後、赤い制服で隊列を組み整然とボストンに向けて撤退を開始する英国軍に向かって、アメリカ民兵は樹木や建物の陰から照準と射撃を繰り返した為、赤服の英国兵は予想以上に多数の損害を出したといわれている。

この事件のアメリカ民兵の死者、行方不明者を含む損害が、100名弱だったのに対し、英国軍の死傷者、行方不明者は、300名近くに達すると伝えられている。

このように、アメリカ独立戦争の発端となった、「ボストン紅茶事件」に続く事件の概要を時系列で挙げると、


 ⇒ 『レキシントンでの一発の銃声』

   ⇒ マサチューセッツ人8名死亡、10名負傷

     ⇒ マサチューセッツ人多数、死傷の噂が瞬く間に伝搬

       ⇒アメリカ民兵多数がコンコードへ集合

         ⇒ 『ノース・ブリッジでの大規模な米英の衝突』

           ⇒ 撤退時の英軍の戦死、行方不明者の拡大


となって、英国司令官が事前には予想しなかった最悪の状況に急変したのだった。コンコードの「ノース・ブリッジの戦い」を発端とする13植民地と英本国との長い戦いは、1783年まで続くことになる。その間、フランスその他のヨーロッパ諸国の支援もあって、1776年7月4日には、有名な『アメリカ独立宣言』が発表されている。

ここまで、歴史的な独立戦争の口火となった事件を略述してきたが、肝腎の「兵器」について、全く触れずに失礼をしてしまった。最も、軍隊も持たないアメリカ植民地が、最新鋭の兵器を常備していた訳では全く無いので、この項で、ご紹介したい兵器は、「ミニットマン」が自宅の壁から取って、緊急召集時に持参した彼等の猟銃についてである。その猟銃は、「ケンタッキーライフル」あるいは、「ペンシルベニアライフル」と呼ばれていた。


(「ケンタッキーライフル」)

「コンコードの戦い」を含め、アメリカ独立戦争で英国軍が使用したのが、「ブラウンベス」と呼ばれるフリントロック式の滑空銃である。この銃は、1700年~1815年頃に生産された銃で、「コンコードの戦い」のあった時代を含む1722年から1870年代まで、英国歩兵の主要武器であった。

口径が75口径(19.05mm)と大きい先込銃で、滑空銃身の為、装填が容易だった。もちろん、イギリス製のこの銃は、アメリカ植民地でも多数利用されていて、堅牢で信頼性も高かった。

しかしながら、アメリカ独立戦争に於けるアメリカを代表する銃を挙げるとすれば、「ケンタッキーライフル」あるいは、「ケンタッキーロングライフル」と呼ばれる狩猟用の銃身の長い銃である事に、異論は無いであろう。

ペンシルベニアのドイツ系移民によって1725年頃開発されたこのライフル銃は、50口径(12.7mm)とブラウンベスより口径が小さいが、その銃身内部に彫ったライフルと長銃身によって、驚異的な命中精度を誇っていた為、ケンタッキーを中心にアメリカ植民地人の間で広く愛用されていた。

滑空銃身のブラウンベスが通常射撃時に精度良く命中する射距離が50ヤード(約45m)程度と短かったのに対し、ケンタッキーロングライフルは、倍以上の120ヤード(約110m)の遠距離でも相当の命中精度を維持出来る優れた特徴があり、鹿などの狩猟用に最適の銃であった。


しかし、この優秀な13植民地独特のライフル銃にも欠点が無かった訳では無い。まだ、元込式が開発される前の先込式銃の時代だったため、ライフルを切った銃身への筒先から弾丸の装填には、予想以上の時間が必要だった。近年の実射テストでも、ケンタッキーロングライフルが1発発射する間に、ブラウンベスは、2~3発再装填して発射出来たという。

逆に見れば、遠距離での狙撃用に命中精度の高いケンタッキーロングライフルは向いており、装填時間が短くてすむブラウンベスは、戦場に於ける近接戦用の銃として好ましい性能を持っていたといえる。

正規の軍隊を持たないアメリカ民兵の服装は、先に述べたように種々雑多で、狩猟用の鹿革服や作業服が多かった。制服を持たない民兵の服装は、ケンタッキーロングライフルの遠距離射撃での命中精度の高さと共に、隠れて狙撃する使用目的に最適だった。

その特長を生かしてアメリカ民兵側も赤い制服の英国軍指揮官の狙撃に集中して予想以上の効果を発揮したと当時の記録にある。

結果として、英軍下級指揮官の戦死率の上昇は英国軍全体の戦意低下を招き、隠れる物の多い山野での戦闘に対する英国軍の消極性となって現われている。流れとして、初期段階で、英軍はボストン市街や要塞を除く周辺部の掌握に失敗したのだった。

一方の英国軍の装填の容易なブラウンベスと真っ赤な軍服は、密集隊形での近接射撃による圧倒的な戦力の誇示には最適だった。


ボストン訪問の後に、カリフォルニアで、アメリカの友人三人に、「ケンタッキーロングライフル」の話をすると、異口同音に、「あの長いライフルか!」とジェスチャーを交えながら、その命中精度の高さと手作り独特の持ち易さを教えてくれた。

彼等の話を聞きながら、「ケンタッキーライフル」は長銃身の割には扱いやすい銃だったとの記憶がアメリカ人の一部に、今でも残っているようだと思った。

彼等な示してくれた銃の長さは、約1.5mで相当長い印象だった。ボルトアクションの歩兵銃の中でも、長すぎるといわれた38式歩兵銃の長さ、約1.3mに比較しても、その上を行く長さの、当にロングライフルだった。

確かに、今残っている写真や、古いアメリカ映画に登場するケンタッキーライフルの映像を見ても、そんな印象だ。

「コンコードの戦い」から、200年以上経った現在でも、当時の開拓時代を物語る銃が、アメリカ独立の一翼を担った誇りをアメリカ人は忘れていないし、独立戦争を戦い抜いた「ケンタッキーライフル」は勝利の記念であり、長く記憶に残る記憶すべき名銃だったのである。

最も、会話した友人の内の一人は、ケンタッキー大学の出身者だったので、同銃について詳しかったのは当然と言えば当然である。(笑い)


(草創期のアメリカ海軍)

最初のボストン訪問で、アメリカ独立戦争の発端の地である「レキシントン」と「コンコード」を巡ることが出来て、とても嬉しかったし、充実した時間を過すことが出来た。

何と言っても、独立戦争の発端となった歴史的な二つの場所を歩くことができた感激は大きかった。何と言っても、1775年4月19日のたった1日の「レキシントンとコンコードの戦い」で、アメリカの歴史の流れは大きく変化し、今日の世界の覇権国家アメリカが誕生したのだった。

しかし、一回目のボストン訪問時に時間が無くて残念ながら行くことを果たせなかった大事な所が、実は、もう一つあったのである。それは、ボストンの港に停泊している帆走軍艦、「USSコンスティチューション」である。

「USSコンスティチューション」は、1797年就役の44門フリゲート艦で、有名なアメリカ独立宣言のあった1776年から数えて、僅か10数年後に建造が承認された初期のアメリカ海軍の軍艦6隻の内の1隻であった。

当時、独立したばかりの合衆国は、州の数も少なく、武装商船に毛の生えた程度の海軍力しか持って居なかった。

因みに、アメリカのフリゲート艦「コンスティチューション」が就役する少し前の1972年の英国海軍艦船の等級規定を見ると次の通りである。因みに、当時の各国海軍では、艦搭載の大砲の数によって等級を決めていた。


 第1等級  砲100門以上    戦列艦

 第2等級  砲90~98門    戦列艦 

 第3等級  砲64~80門    戦列艦

 第4等級  砲50~60門    フリゲート艦  

 第5等級   砲32門?     フリゲート艦     


新興国アメリカの海軍は、ヨーロッパ列強が戦列艦と呼ぶ第1級戦列艦である100門艦はもちろんの事、2等級戦列艦である90門艦、3等級戦列艦の代表的な艦種である74門艦でさえも1隻も保有していなかった。

アメリカの誇る「コンスティチューション」にしても、英国海軍の等級で言うと第5等級艦である偵察用の艦種フリゲート艦でしかなかったのである。

その為もあってか、就役出来たアメリカ艦の艦長に就任した士官は、自艦に詰めるだけ多くの大砲を搭載する傾向があった。詳細は後で述べるが、全長62.1m、幅13.3mの二層甲板の44門フリゲート艦である「コンスティチューション」にも、歴代艦長は相当無理して多くの大砲を搭載している。

一般的な英国の5等級フリゲート艦では、下層砲甲板に24ポンド砲か18ポンド砲を搭載し、上甲板にそれよりも口径の小さい長砲か32ポンドのカロネード砲を積み込む場合が多かった。

それに対し、「コンスティチューション」の場合、下層甲板に24ポンド長砲を30門、上甲板に、32ポンドカロネード砲を20門搭載(時には24門搭載したとの説もある)した上に、4ポンドの艦首追撃砲を2門装備しているので、実質的な「コンスティチューション」の備砲数は、多い時で56門に達している。

ここで出て来たカロネード砲の詳細は、後で述べるが着目頂きたいのは、戦列艦並の32ポンドという口径である。(当時の主要戦列艦の下層甲板の備砲は、32ポンド長砲を装備する場合が多く、有名なネルソンの旗艦ヴィクトリーの場合もメインの砲甲板の備砲は32ポンド長砲、30門であった。

このような状況で、44門フリゲートとして就役した「USSコンスティチューション」だったが、実際には、52~56門に及ぶ多数の大砲を搭載して活躍したのである。

このように、待ち望んだボストンの次回訪問だったが、意外なくらい時間が掛かり、「コンコード」を歩いた年から数えて12年後にやっと実現している。


(「USSコンスティチューション」訪問)

待望の訪問当日は土砂降りの雨だった。ゆるい下り坂道を「コンスティチューション」が係留されている岸壁に向かって歩く途中にも、大粒の雨が傘に当たって大きな音を立てていた。

道の途中から、コンスティチューションよりも先に、第二次世界大戦型のフレッチャー級駆逐艦が見えてきた。帰国後に調べたところによると「DD793カッシン・ヤング」で、二次大戦の他、朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参加した歴戦の記念艦だった。

岸壁まで進むと長年見学を希求していた「コンスティチューション」の黒い船体と中間の白い帯状の塗装が右手に大きく迫ってきた。帆船だけに展帆していないものシップタイプの3本マストの偉容は、明らかで、実際の頭の中に有る寸法よりも高さのせいか大きな感じて迫ってきた。

入り口の海軍の下士官に招じ入れられるように艦内に入ると外の雨が嘘のような静寂な二百数十年前の空間が広がっていた。

整然と24ポンド長砲が両舷に並び、艦尾から艦首まで一望できた。陸軍の要塞に備え付けられた当時の24ポンド砲は何度か見てきたが、やはり、帆船フリゲートの砲甲板に固縛されて整然と並ぶカノン砲の砲列は、如何にも海軍らしい規律と現役艦の緊張を伝えていた。

上甲板に登ると、そこには、予想よりも小さく感じる砲身の短い30ポンドカロネード砲が砲車ではなくスライド式の固定砲架に並んで雨に濡れていた。カロネード砲の小ささと露天甲板のせいか、何故か、下の砲甲板よりも狭苦しさを感じなかった。その広い露天甲板を対英戦争当時の同艦のことを考えながら、ゆっくりと艦尾から艦首に向かって歩いた。

豪雨の中、マストを見上げると帆と索具は整然と固縛されており、未だに現役艦であることを我々訪問者に示していた。

余談だが、英国軍艦の名称の頭には、HMS(His Majesty’s Shipの略)を付ける慣例があるし、合衆国海軍の艦船には、USS(United States Shipの略)を付ける習慣がある。

現在、イギリスのポーツマスに保存されている有名なネルソン提督のヴィクトリー号は、「HMSヴィクトリー」と呼ばれている。

当然ながら、アメリカのコンスティチューションも、先にも述べたように、1797年に就役した歴戦の帆船ながら、未だにアメリカ海軍の現役の艦艇であり、世界中で最も古い就役艦の一つなので、「USS」の冠を付けて、「USSコンスティチューション」と呼称されている。


(アメリカに於ける帆走フリゲート艦の建造)

フランスのナポレオンと英国の戦争は、次第にヨーロッパ大陸と英国間の交易封鎖の様相を帯びてきた結果、中立国アメリカの船舶に対するフランス及びフランス領との交易を停止させる英国の強い意志となって、新興国アメリカの海運業に対する強烈な圧力となっていった。

英国は、その世界最大の海軍力に物を言わせて、アメリカの艦船を自由に臨検して、アメリカ市民を強制連行する行為を繰り返して、アメリカ国民の大きな反発を招いていた。

1812年、当時のマディソン大統領は英国の不法行為に抵抗すべく、遂に、英国政府に対して宣戦布告を行なった。対英戦争(1812年~1814年)の始まりである。しかし、当時の大英帝国海軍は、世界最大の帆走軍艦群を持ち、戦列艦だけでも数カ国の合同艦隊に対抗出来る250隻という圧倒的多数の巨艦群を保持していたし、所有する艦船の総数では1千隻を優に超える大海軍だった。

一方、アメリカ海軍を見ると主要な海戦で戦列を組めるような戦列艦と呼べる74門艦以上の大型艦船は一隻も無く、最も大きい軍艦でも、外見的には英国海軍の5等級フリゲート艦程度の44門フリゲート艦3隻、プレジデント、コンスティチューション、ユナイテッド・ステイツが、最大の戦力であった。但し、この3隻は、帆走能力も高く操艦しやすい上、砲戦力も同程度のフリゲートの中では強力であった。

主力と言っても小形の44門フリゲート艦3隻を除くと残りのアメリカ海軍の艦船の殆どは、コルベット、スループ、ブリッグ、スクーナー等の搭載砲10門~33門の小型艦ばかりだったのである。第二次世界大戦以降、大型空母を何隻も持ち、強力な空母打撃群を多数維持している今日のアメリカ海軍から思うと、信じ難い程の微弱で5千人程の小さな世帯の海軍だったのである。


(「USSコンスティチューション」の活躍)

開戦の初期段階の7月15日、コンスティチューションは、ニューヨーク沖で第3等級戦列艦である64門艦アフリカを旗艦とする有力な英国艦隊5隻と遭遇している。当然ながら、英国艦隊は、弱小の孤艦「コンスティチューション」を撃破、又は拿捕すべく全力を挙げて追跡を開始したのであった。

しかし、幸いな事に、両者が遭遇した海面は、帆船が最も厭がる無風状態に近い鏡のような凪で、両者共に帆船で最も自由行動が出来ない悲惨な状態に置かれていたのだった。

もし、帆走に十分な風があれば、最も小型艦でも32門艦で構成されていた英国艦隊は、コンスティチューションを容易に包囲して、瞬時に撃沈できたことは明白であった。

艦長アイザック・ハル指揮の下、コンスティチューションは、ボートを降ろして本艦を曳航したり、艦尾の砲を敵に向けて射撃して艦の推力の足しにしたり、僅かな風でも受け止めようと帆にバケツで水を掛けたり、同艦の乗員は知恵の限りを尽して、強敵の恐ろしい顎の下から二昼夜に渡り脱出に努力している。

幸運は追撃されてから三日目に訪れた。雨雲が到来してスコールと突風に見舞われた瞬間を最大限に利用して、コンスティチューションは5隻の敵艦隊から成る強敵から逃走、ボストン港に逃げ込むことが出来たのであった。


報復の機会は、翌月にやって来た。ボストンの東方海上で、コンスティチューションは、自艦よりもやや小さめの英国フリゲート艦1隻を発見したのだった。奇しくも、その英艦「ゲリエール」は、ニューヨーク沖で、コンスティチューションを追いかけた英国艦隊5隻の中の1隻であったのである。

36門搭載の6等級フリゲート艦ゲリエールは、ややコンスティチューションより小形であったが、デカーズ艦長は勇猛な船乗りで、恐れること無く、コンスティチューションとの1対1の対決へと合戦準備を下令、敵艦に向かって前進している。

デカーズ艦長を迎え撃つコンスティチューションの備砲は既に述べた通りだが、相手のゲリエールの備砲は、というと次の通りである。

砲甲板の主砲は、18ポンド長砲30門、上甲板に32ポンドカロネード砲18門、12ポンド長砲2門で、36門艦とは言いながら、当時の習慣通り、搭載量目一杯の合計50門の大砲を積んでいたので、同様に52門搭載のコンスティチューションとは、砲甲板の長砲の口径に大きな違いはあった物の搭載している大砲の数では、そう大きな違いは無かったのである。

両艦の戦力差の最大の相違点は、コンスティチューションの主砲が24ポンド砲であるのに対して、やや小形のゲリエールの備砲が18ポンド砲と一回り口径が小さかった点である。

この口径差は、命中率の低い遠距離砲戦では大きな相違点とはならなかったが、命中率が格段に向上する接近戦では大きな利点であった。但し、この時のコンスティチューションの上甲板搭載のカロネード砲は24門だったとの話もあるので、接近戦ではコンスティチューションが更に有利だった可能性は高かった。


英国水兵の高い練度と世界一の海軍力に自信を持っていたデカーズ艦長は両艦の距離が砲戦距離に入ると遠距離から砲撃を開始している。当時、英国の遠距離砲戦能力の高さは、水兵の練度と共に有名であり。英国の各艦の艦長も遠距離砲戦を好む傾向があったという。逆に、フランス軍艦の艦長は、接近戦と接舷移乗による敵艦制圧を好んだといわれている。

一方、アイザック・ハル艦長は、敵艦の発砲に対応すること無く、射程の短い大口径のカロネード砲の利点を最大に生かすべく、拳銃射撃距離の半分に接近するギリギリまで砲撃開始を自重、25ヤード(約23m)に最接近した瞬間に全砲の砲撃を開始したのだった。

その成果は、直ぐに現われて、帆走軍艦のアキレス腱である三本のマストの内、敵艦後部のミズンマストを打ち倒すことに成功している。その結果、ゲリエールが、自艦の操船能力を大きく損なった結果、戦闘艦にとって誠に好ましく無い事態を迎えてしまったのである。

因みに、敵艦のミズンマストを破壊したかも知れない大口径の32ポンドカロネード砲の射程距離は、400ヤード(約360m)といわれているのに対し、アイザック・ハル艦長は、我慢して25ヤードの最接近距離で確実に命中させるまで、砲撃を堪えた点は既に述べた。

けれども実際に、コンスティチューションの上甲板で見た32ポンドカロネード砲は、想像よりも小さく華奢で、口径だけが異様に大きく、口径の割に砲身の肉も薄い印象で、そのせいか、目の前のカロネード砲20門が、25ヤードの至近距離で咆哮した衝撃の大きさを想像しようとしても、コンスティチューション伝説と何処か噛み合わない印象だった。


両艦は、その後も力戦し、相互に斬り込み隊を敵艦に侵入させて拿捕を試みている。しかし、その間の砲撃でゲリエールは3本のマストを全て失ってしまい、操艦の自由を喪失、コンスティチューションに降伏するに至っている。

拿捕後、ボストンへの曳航を試みるもののゲリエールの損傷は大きく、回航員とゲリエール乗組員のコンスティチューション移乗後、同艦は抛棄され、沈没している。

対英戦争で陸戦が不振の中、アメリカ商船を度々虐めてきた英国海軍の1艦ゲリエールに対する戦闘勝利の朗報とその確たる証拠となるゲリエール乗組員約200名の連行は、ボストン市民を湧かせ、コンスティチューション勝利の情報は瞬く間に全米各地に伝わってアメリカ海軍への国民の信頼を高めたのだった。

ゲリエールのデカーズ艦長は、帰国後、軍法会議に掛けられている。当時の英国の艦長は自艦の喪失に大きな責任を負うべきだと考えられており、当然の処置と考えられている。軍法会議で、デカーズは、ゲリエールが元々フランス海軍からの拿捕艦であり、艦齢も長く老朽していた為、損傷が拡大したと主張して認められた。また、38門艦のゲリエールが、44門フリゲートのコンスティチューションに闘いを挑んだ件も適法と判断されてデカーズ艦長は無罪となった。当時、勝てないほど等級差の大きい敵に挑むことは違法とされていたのである。その点、この2隻の闘いは、適法の範囲内と英国海軍では判断したのだった。

この年の12月、コンスティチューションは再び、英海軍の38門フリゲート艦ジャバと3時間に及ぶ激しい砲撃戦を行ない、完全に同艦を破壊、勝利している。


コンスティチューションは多くの逸話に事欠かない艦だが、最も有名な逸話を述べて、終わりにしたい。

世界を制覇した英国海軍の大帆船群は、英国産の樫の樹で作られるのが普通だった。ボストン海軍工廠で造られたコンスティチューションは、アメリカ産の「ライブ・オーク材」で造られ、船体の最も厚い部位は7インチ(178mm)の厚さだった。伝統の英国産オークでは無く、アメリカ産の木材で建造されたコンスティチューションを、英国水兵は、どうも、少し小馬鹿にしていた節がある。

しかし、ゲリエールとの戦闘時、コンスティチューションの舷側の厚いライブ・オーク材がゲリエールの砲弾を跳ね返すのを見た砲手の一人は、

「この艦の舷側は鉄で出来ているぞ!」

と、叫んだと伝えられている。この伝説から、コンスティチューションは、別名、『オールド・アイアンサイド』と愛称されて、長くアメリカ国民の注目を集める幸運艦となったのである。


引き続き、対英戦争の最終段階でも、コンスティチューションは大活躍している。ボストンを脱出した同艦は、大西洋を横断して、マデイラ島沖で、英海軍の小型フリゲート22門艦サイアネと20門艦スループの2隻に遭遇。両艦に猛撃を加えた末、両艦共、捕獲に成功している。

その他にも、コンスティチューションは1803年、アメリカ地中海艦隊旗艦、1809年には、北大西洋艦隊旗艦を務め、現在も現役の世界最古の就役艦である点は既に述べた。

対英戦争でのアメリカ海軍は非常な劣勢下の弱小海軍としては、最期まで良く戦ったが、アメリカの海運業界と海軍が受けた損害も、また、膨大な物があった。しかし、戦争が終了した時、アメリカ海軍は、開始時よりも確実に大きく成長していたのである。


(まとめ)

今回は、アメリカ独立戦争当時、東部諸州で愛用されていた「ケンタッキーロングライフル」と対英戦争時期のアメリカ市民に最も記憶されている44門フリゲート艦「USSコンスティチューション」について、個人的な友人関係も含めて記憶を辿ってみた。

先に、ケンタッキーロングライフルの項で紹介したアメリカ人の友人の一人は、元アメリカ海軍の技術将校で、日本駐在(横須賀)の経験もあって、彼とは、ネルソン時代の英海軍や第一次世界大戦時の各国の戦艦群に関しても突っ込んだ会話を楽しんだ記憶があり、今でも懐かしい思い出となっている。

る。今回、本稿を書くに当たって、その折に話をした「74門艦」やドレッドノート型戦艦全盛期の各国の開発競争と日英米三ヶ国の戦艦の特徴等々を「ジェーン年鑑」を見ながら議論したのも良い思い出となっている。

「コンスティチューション」の項を書くに当たって、多くの資料のお世話になったが、中でも、造船士官としてのご経歴もある堀元美氏の「帆船時代のアメリカ」には、大変お世話になった。同氏の「造船士官の回想」も出版直後に愛読させて頂き、艦船の技術面から見た日本帝国海軍を考えさせられた記憶がある。

今回、対英戦争当時の帆船時代のアメリカ海軍に関して、再度、勉強するに当たって多くのご教示を同氏の著書から頂いた。

厚く御礼申し上げたい。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ