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20.「長柄槍」の時代の北条氏の城と武具

この所、「イタリアルネッサンス期の兵器」や「古代の戦車」等、グローバルな視点で兵器を見てきた。その結果、未知の領域の兵器を調べる楽しさを満喫することが出来た心和む時間であった。

しかしながら、その反面、今日、実物を見る機会が少なかったり、本物に触れるチャンスが希少な兵器を調べることに大きな限界も感じた。その結果、本意では無いが、不十分な記述が続いてしまったと反省する点も少なくなかった。

その一例として、イタリアルネッサンス期の棹状武器を調べた際に、その種類の多さと鉄鋼材料をふんだんに使っている当時のヨーロッパの鉄鋼材料供給事情に疎い問題点を自覚して、急にヨーロッパの製鉄史をにわか勉強する彌縫びぼう策も必要になる苦い体験もしている。

調べてみるとルネッサンス期の棹状兵器の多彩さと華麗な甲冑普及の背景には、14世紀、日本と違って、ヨーロッパに於ける溶鉱炉の出現と大量の鋼材の供給が可能になった産業界の実情があったのである。

同時期の我国が、細々とした日本独特の砂鉄を原料とした箱形炉によるずくと鋼の小規模生産を行なっていた事情とは大きく異なり、溶鉱炉による大量生産と供給体制は、鉄の応用の拡大を可能にしたと思われる。

東の大国中国では、ヨーロッパに於ける溶鉱炉の出現に先立つ11世紀、北宋時代に高炉の燃料として既に木炭では無く石炭を使用していたし、南宋時代の1270年頃になると高炉の燃料は、石炭から、更に火力の強いコークス使用に大きく変わっている。

その結果、日本の鎌倉時代には、南宋の鋼鉄生産は大量生産、高品質の鋼鉄供給が可能な近世的な段階へと突入している。流れとして国防の第一線の禁軍を中心とする兵器や鎧などの軍事装備品に対しても日本に比較してふんだんに鉄を使用している。

一方、我国の鉄の生産事情は、古代さながらの小規模生産体制であり、兵器の生産も家内工業に毛の生えた程度の小規模生産地が多かったのである。

鉄鋼生産では最先端の技術とノウハウを持ち、鎌倉時代からコークスを使用している最先端の国、中国の近隣にありながら、全く、最新の技術導入も無いまま日本は、室町時代に至っているのであった。強いて言えば、室町時代初期の応永以降、箱形炉が徐々に大型化してずくと鋼の生産量が増えて戦国後期には新刀期に近い優れた鉄が一部の有力刀工に供給された程度であった点と、宋銭の流通により、室町時代後期には国内経済の初期流通システムが次第に整備されつつあった点、位であろうか。


今回は、前二回と大きく異なって、日本の戦国時代の「長柄槍」、それも戦国後期の関東北条氏周辺の槍に的を絞って学んでみたいと思っている。突然のグローバルなテーマの兵器から、日本の戦国時代の一地方の話題への転換は、読んでいる方にとって困惑以外の何者でも無いかも知れないが、たまには日本国内の散歩のつもりでお付き合い頂きたい。(笑い)


「長柄槍」は、織田信長を初めとする戦国末期の有力大名が、火縄銃と共に挙って整備に力を入れた当時の主力兵器だった。特に、史書の記述から推測すると東海、関東及び越後の有力戦国大名達、織田信長の他には、徳川家康、関東の北条氏、越後の上杉謙信等々が居るし、後年では、織豊系大名が挙って、足軽勢の前備えの主力武器として、種子島と共に採用している。

さて、そこで、何故、「北条氏の長柄槍」に絞ったかというと、日本全国規模の長柄槍の資料が手元に無かった点と、後述する北条氏の「改訂着到帳」から同氏の軍備の一環が理解できそうな気がしたからである。

それでは、最初に、日本の戦国時代の足軽達の主要武器の一つであった「長柄槍」に関して、始める前に、大雑把だが、ヨーロッパと中国の棹状武器に付いてお復習いしてみたい。


(ヨーロッパ、中国の棹状武器と日本の「長柄槍」)

先のイタリアルネッサンス期の棹状武器でも若干、触れたが、ヨーロッパの長柄武器は種類も豊富で、各国毎のバリエーションも多彩であり、ヨーロッパ文明の力強さと多様さを感じさせる迫力に満ちている。

中世からルネッサンス期の代表的なヨーロッパ諸国の棹状武器ポールアームを挙げるだけでも、その数は多い。日本では、「戦斧」等に訳される「ハルバード」、日本の薙刀に似た「グレイブ」、穂先の下部に斧頭が二個付いている「パルチザン」、日本の長柄槍に良く似た「パイク」、等々異なった形状のヨーロッパのポールアームは種類も多く形状も変化に富んでいる。その幾つかは、バチカンやヨーロッパ各国の王家や大統領府の儀礼時の映像から現在でも見ることが出来る。

ヨーロッパの棹状武器の特徴はというと日本の素槍と異なり、複合機能の武器が多い点であろうか! 代表的なヨーロッパの棹状武器パルチザンにしても、突く、叩き割る、引っ掛ける、の三つの機能を兼備しているし、単純な構造のクレイブにしても、斬る、突く、敵の武器を受ける機能を持っている。

しかし、複合機能を持つヨーロッパの棹状武器が大活躍したかと見るとそうでも無いような気がしている。ヨーロッパのルネッサンス期に大活躍したスイス傭兵の主要武器は、日本の長柄槍によく似た「パイク」で、その構造から突くと叩く以外の有効な機能は考え難い。しかし、このシンプルなパイクを自在に操ることによって、ローマ法王を初め、全ヨーロッパの王家の信頼をスイス傭兵隊は獲得したのであった。

それから、もう一つスイス傭兵の「パイク兵」の集団の描かれた絵を見ると古代ギリシャ以来のヨーロッパ伝統の「ファランクス」のルネッサンス版のような気がする密集隊形なのに対し、日本の絵巻や合戦屏風絵に見る足軽勢の配置は、最前列の横陣と第二列目の横陣列の間が結構広く空いていて、後年のヨーロッパの散兵配置の長所も若干採り入れたよう戦国時代独特の経験則に従った前備えである点に差を感じる。


東アジアの世界の中心、中国では、棹状兵器を「長兵器」または、「長兵」と呼ばれている。これは、剣や刀等を現わす「短兵器」に対する表現で、軍隊に於ける短距離兵器の王としての長兵器は中国の長い歴史の中で尊重されて来た。

古代中国では、げき、矛が長兵器の主流だったが、時代が下がって、北宋時代になるとヨーロッパや後の日本と同様槍が長兵器の主役となっている。中国の槍の特徴として、槍の穂先の下の所に、「えい」と呼ばれる糸の束や獣の毛を赤などの色に染めた房が付いている点である。確かに、中国の映画などを見ると槍には皆、纓が付いていて、如何にも中国の武器らしい印象を与えている。

中世の戦場で、何万という槍隊が槍を林立させた際には、きっと、纓によって、より一層勇壮に見えたであろうと考えると如何にも中国らしかったと想う。


槍以外では、三国志の英雄関羽が縦横無尽に振るう長柄武器「偃月刀えんげつとう」、俗にいう青竜刀が有名だが、関羽の活躍した三国時代には無い武器で、一説では、遙か後代の宋代に出現した武器といわれている。

また、偃月刀えんげつとうは、剛勇の士を除くと重量の関係で、余り実戦向きの武器ではなかったようで、現実の戦場では、偃月刀をシンプルにしたような眉尖刀びせんとうが多く用いられた可能性が高いとされている。

残念ながら、ヨーロッパや日本と異なり、戦場での「長兵」の配置を明確に理解できるような当時の資料が手元に無いので、推測の域を出ないのだが、王や貴族のエリート集団に率いられた軍隊のヨーロッパとも一族郎党を基幹とした日本の武士集団とも全く異なる軍事集団が中国伝統の軍隊だったと個人的には思っている。

兵の着ている鎧や兵器も多くの場合官給であり、無理矢理民衆から徴集した兵を戦場で散逸させない苦労が指揮官に何時も付きまとった可能性がある。


いずれにしても、ヨーロッパでも、中国でも時代が進むと戦場の一方の主役が槍になっていく点は変わりは無い。その点、日本でも鎌倉時代末期頃に登場したと思われる「槍」が、時代と共に武家社会に浸透して、戦国時代になると弓や火縄銃と共に戦場の主役となっていった。

槍が日本で登場した頃の柄の長さに関して現在の所不明だが、室町時代前半に描かれた絵巻物などの場面から推測すると江戸時代の侍の「持ち槍」同様の9尺(約2.7m)前後の長さの比較的短い柄だったと推測される。

しかし、技量の差の大きい武者同士の1対1の戦闘は別にして、足軽同士の槍での集団戦を考えると、腕力の許容範囲であれば、長い柄の集団の方が有利である点は論を待たないと思う。そう考えると、足軽勢の槍は、室町時代を通じて時代と共に長くなる傾向にあったのではないかと勝手に想像しているが、如何であろうか!


(日本に於ける「長柄槍」の登場)

鎌倉時代末期頃に遡れる時代の古い槍の残存数は余り多くは無いが、山城の「来系」在銘の槍を以前、拝見した記憶がある。しかし、拝見できたのは槍の身だけで、当時付いていたはずの柄に関しては現在の所、不明とのことだった。

室町時代に入ると槍の戦場での応用範囲は拡大し、弓と槍併用の時代が続いた。そして、戦国時代末期の鉄炮の伝来以降、新しい火縄銃と槍が大活躍する時代が始まったのである。

これは、同じ頃のヨーロッパ・ルネッサンス期の戦場と比較しても明らかで、ヨーロッパでも火縄式のマスケット銃隊と槍の密集隊形の比重が、時代の進捗と共に増している。次弾装填時の間の長槍による防護や横陣による槍隊の突撃時の効果をマスケット銃隊といえども必要としていたのである。

その結果、マスケット銃の元込式への改良が進むまで、スイス傭兵隊の長槍に代表されるような、長柄武器との戦場での併用は必要だったのである。


さて、本題の日本に於ける「長柄槍」の登場時期だが、歴史好きの多くの人にとって、極めて鮮烈な印象のシーンがあるはずである。

それは、太田牛一の「信長公記」記載の「信長と斎藤道三の対面場面」である。前年の父信秀の没後、信長は、「うつけ」と周囲から呼ばれて軽んじられていた。その情報を入手した義父で美濃の国守斎藤山城守道三が、信長の人品骨柄を判断するため、美濃・尾張の国境の富田の正徳寺で対面することを提案して、実施の運びとなった際の一場面である。

事前に信長勢の通る町外れの小家に潜んだ道三は近臣と共に、信長と信長勢の行列を覗き見すべく待ち構える前を信長勢が通るシーンの「信長公記」の描写である。

『三間〃半柄の朱槍500本ばかり、弓、鉄炮500挺もたせられ』

と、信長勢の物量の豊富さを描いた後、更に、両雄の会見後の描写で、

『美濃衆の槍はみじかく、こなたの槍は長く、引き立ち候て』

と、追い打ちを掛けるように、美濃衆の槍の短さを強調して描いている。

この時、まだ20才寸前の年齢の信長だったが、梟雄として恐れられた斎藤道三の心胆を怯えさせるだけの武備を備えていただけでは無く、他国よりも遙かに長い三間半、しかも鮮烈なイメージを相手に与える朱槍で柄を揃えての信長らしい強烈な演出であった。


この時の歴戦の斎藤道三方の美濃衆の槍の長さの記載は無いが、信長勢の槍に比べて相当短かったらしく、対面後、道三は将来的な信長の躍進を長柄槍の長短から予想して長嘆息している。

それでも、美濃勢の槍の長さは、二間や二間半はあったと思われるので、当時の一般的な戦国大名の足軽勢の長柄槍の長さは、既に、二間以上はあったと推測しても、そう大きな間違いでは無いような気がする。


(時代と大名家毎に違う「長柄槍」の長さ)

この時代の中で長柄槍がいつ頃登場したのか手元の史料では、ハッキリしないが、どうも、戦国時代もそう古い頃の登場ではなさそうである。しかし、例えば関東の北条家の場合、三代氏康の頃には出現していた気がしている。

長さは、北条家の場合、2間半(約4.5m)柄の長柄槍を用いていたようで、北条氏康や北条氏政と激突している越後の上杉謙信軍の長柄槍も同様に、2間半だったらしい。

しかし、謙信の家督を継いだ上杉景勝軍の槍は、織豊軍団と早い時期から交戦していた関係か、2間半から寸法が伸びて、3間柄(約5.4m)の長柄槍となっている。

一方、甲斐の武田軍と正面から激突を繰り返した徳川勢の長柄の長さは、3間柄と伝えられている。どうも、この長さは織田系の諸大名の足軽勢の長柄槍として一般的に使用された長さらしく、豊臣秀吉も3間柄の長柄槍を用いたという。

先に挙げた織田信長の長柄槍は独創の天才らしく、これまでの長柄槍と一線を画して異様に長い、3間と3間半の混用だったらしいのだが、度々の実戦で用いてみて、最も使い易く、効果のある3間柄に落ち着いた可能性がある。3間半の柄の長さは、約6.3mなので、常人が自在に操れる長さとは思えない。


実体験として、手に持って構えたことのある長柄槍の長さは、2間半(約4.5m)が最大だが、甲冑を着て大小を差し、叩き合いを長時間戦場で続けることを考えると、この長さでも現代人にとってはしんどい気がした。20分も上下に振るだけで常寸の刀の何倍もの疲れが襲ってくる。

また、地面に石突きを突いて斜め上に穂先を向ける騎馬隊の突撃を防止する体勢をとったとしても、2間半の長さで十分な気がしてくるから不思議であった。しかしながら、多分、激戦の戦場では、恐怖感から2間半の長さでは短く感じることだろうと想った。(笑い)

伊達好みの信長らしく、若い時代には信長公記にあるように、3間柄と3間半柄を混合して使用したかも知れないが、ある時期に、実用性の意味から考えて、3間半柄を止めて、3間柄に統一した可能性が高い。何故ならば、秀吉、家康を初めとする織豊系大名の用いた長柄槍の長さが、3間であった点の証明が出来ないと考えたい。

その点、北条氏や上杉氏が使用した2間半柄の長柄槍は実用と効率の双方から考えて、そう、無理の無い長さだったのかも知れない。

さて、豊臣秀吉の関東征伐では、豊臣系大名の3間柄の長柄の槍と北条家の2間半柄の槍が激突した訳だが、槍同士の戦いで、どちらに利があったのかハッキリしない。どちらかというと長柄槍よりも、火縄銃の装備率や総合的な戦力の差による勝敗だった気が、山中城攻略戦や鉢形城、八王子城での攻防戦から感じられる。


(長柄槍が大活躍した関東の戦場)

次に考えたいのが、軍勢の中の火縄銃と長柄槍の比率である。戦国時代最末期の西国勢の火縄銃の比率は相当に高く、当時のヨーロッパのマスケット銃の装備比率とも近似するといわれている。特に、筑後柳川の立花勢の火縄銃の比率は高く、関ヶ原の前哨戦の大津城の攻城戦では、立花勢の鉄砲隊の連射速度が余りにも早さに辟易して、守り手の京極勢が、立花勢側が攻め口の城壁の狭間を閉めさせた話さえある位である。多分、鉄砲先進地帯の西国勢である立花家では、既に、速射用の早合はやごうを鉄砲足軽に持たせていたようだ。

一方、関東で対峙した小田原の北条家と越後の上杉家の軍隊編成に於ける火縄銃の比率は西国諸大名とは大きく異なっている。

元亀元年(1572年)の改訂着到帳(小田原衆所領役帳)によると北条氏政麾下で武蔵国に284貫400文の所領を持つ宮城四郎兵衛泰業の動員兵力は自身を含めて36名、その内、2間半の長柄槍が17名、鉄炮が2名、弓が1名、馬上8騎であり、長柄槍が宮城隊の主戦力であることが解る。

宮城泰業は岩付城主北条氏房の重臣で、後に岩付城の中城(本丸)の番を務めているが、天正5(1577)年の岩付城の規定では、兵力1,580人に対し、鉄炮50丁、槍600本、弓40張、その他とあるので、やはり、北条勢では槍の比率が異常に高く、飛び道具合計の90と比較しても6倍以上となっている点からも、北条氏の主戦力が槍だった事は容易に納得できる。

一方、北条氏康の時代、北条家最大のライバルだった上杉家の武器毎の構成比率が解る資料が諸書に引用されているので、参考までに下記に挙げてみる。

上杉家の天正3年(1575年)の軍役帳によると、全軍の兵員、5,513人中、槍3,609、鉄炮316、弓5、とあるので、上杉家の兵力の中での槍の比率は、更に北条家よりも高く六割を超える高率となっている。


また、北条、上杉両家と対立・盟約を繰り返していた甲斐の武田家の槍の長さに関しては、手元に整理された良い資料が見つからなかった。

参考までに、後年、武田遺臣団が中核となって編成され、徳川氏に仕えた「八王子千人同心」の槍の話を挙げてみたい。

八王子千人同心の所持する槍の柄の長さは、一間半(約2.7m)であったと不確かだが聞いている。確かに、最初に組んだ足軽隊前列の槍衾やりぶすまが敵の騎馬隊に駆け崩されて壊乱、混戦状態になった時のことを考えると、織田家の三間半や豊臣家の三間柄の槍よりも千人同心の所持する一間半柄の槍の方が、好ましい気もしてくる。現実の戦場では、槍よりも短い柄の長巻の方が敵味方入り交じっての乱闘では、有利だったらしいので、千人同心の一間半柄の槍の長さも理解できない訳では無い。

いずれにしても、北条・上杉両家の鉄砲装備率は豊臣秀吉麾下の西国諸大名に比較すると想像以上に低く、両雄が激突した関東各地での戦闘の主役は長柄槍を含む槍だった点は間違いないと思われる。


そして、松山城や河越城、滝山城等の武蔵国の兵が持つ槍が何処から供給されていたのか明確に提示できるハッキリした文書は今の所、残っていないようだ。

関係のありそうな所では、狭山市柏原鍛冶に関する二通の新井家文書(永禄8年、天正7年)がある。文書の内容は、今まで滞納していた槍の穂先の納入を督促した文書で、柏原鍛冶は棟別銭免除の代わりとして槍の穂先を年間、20丁ないし、30丁の納入を求められていたようだ。

柏原鍛冶は室町時代初期の応永年間から槍を製作していたらしく、狭山市所在の「武州柏原住大水作」の7寸7分(約23.5cm)の平三角の槍が県内では良く知られている。

しかし、新井家文書で納入を求められている「槍の穂先」の寸法は、もっと短かったと推定される。一般的に、戦国期の数槍の穂先の長さは、4寸8分(約14.5cm)前後で、5寸(約15cm)以上の数槍の穂先は殆ど無かった可能性がある。これは、上述したように、小規模生産の鉄供給の関係から、極力、材料を節約して槍の製作を行なったと思われるので、殺傷能力がある最低限の長さ、4寸7~8分で製作されたと思われるからである。

柏原鍛冶以外、埼玉県内で槍の穂先等の専門鍛冶が存在した可能性はあるが、詳細は明らかになっていない。

松山城に最も近く、小田原からも河越・松山衆として一体に見られている河越城下の鍛冶にしても、天文、弘治頃に小田原城下より鍛冶平井某が弟子を引き連れて来住、作刀したと伝えられる程度で、明確な鍛冶銘を特定できる刀や槍の穂先の数は思った以上に乏しい。

河越最古の刀工としては、天正末年頃の「則重」が河越住の初期の刀工として考えられる。また、その作とおぼしい実刀が数点、現存しているものの残念ながら明確な戦国時代の年紀のある河越城下作の刀を経眼していない。機会があれば、是非、拝見したいものである。


(戦国時代の東西軍事文化の違い)

さて、関東北条家と越後上杉家に於ける「長柄槍」の比重と軍勢内に於ける重要性を述べたが、東国以外の戦国大名の軍備に対する考え方を比較のため、挙げてみたい。

関東から最も遠隔地である薩摩の雄島津家の戦法で、「釣り野伏」や「捨てすてがまり」は近年、戦国ファンの間で良く知られている。

「吊り野伏」の戦法は、大敵と戦う時に島津家が良く用いた戦い方で、全軍を三つの集団に分け、緒戦は中央の軍のみで開戦、徐々に苦戦を装って後退、味方である左右両軍が埋伏している決戦場の位置まで下がった瞬間、敵を三面から包囲攻撃して潰滅させる戦法である。

代表的な事例としては、大友氏との決戦に勝利した「耳川の戦い」、佐賀の龍造寺隆信を敗死させた「沖田畷の戦い」、豊臣秀吉の九州先遣隊を潰滅させた「戸次川の戦い」がある。


「捨て奸」の戦法は、島津軍が戦場から撤退の折りに用いた決死の手法で、主力が逃げる間、踏みとどまった少数の味方全員がその場を去らず、討ち死にするまで戦う手法であった。

実例としては、関ヶ原の退き口の戦いが有名である。島津義弘に従って関ヶ原に出陣した島津勢は約二千と伝えられているが、関ヶ原の勝敗が決した後に島津義弘によって敢行された敵陣の中央突破と大坂ヘの後退時に実施された「捨て奸」によって、生きて義弘と共に本国に帰り着いた兵の数は僅か八十余人と伝わっている。この高率の戦死者数からだけでも薩摩の「捨て奸」の凄さが実感出来る気がする。


ここで、重要なのは、この強烈で他国では実施不可能な戦法を維持出来た島津氏の軍律に触れる必要がある。当時の島津家では、五人一組の連帯責任で戦っていたのである。

例え一人の敵に対しても五人が一体となって相手に掛かっていった。万が一、敵を討ち取らずに味方の中に死者が出た場合には、その敵を討ち取らない限り、生き残った四人全員が重罪に処されたという。その位厳しい軍律が戦国末期の島津家にはあったのである。

その軍律に厳しい島津家の五人一組の集団が主に緒戦で所持していた武器は鉄砲だったようだ。島津家の場合、中央の織豊系大名の足軽鉄砲隊とは異なり、一人前の武士に鉄砲の修練が求められていた結果、初戦では、まず、鉄砲で敵を倒し、次に、従者に鉄砲を渡して、各自が得意とする槍なり太刀を抜いて敵陣に突入して奮戦している。

「沖田畷の戦い」でも、島津家久は、

「敵一人を殺すことのできない者は、だれかれの容赦なく切腹させる」

と、言っている。

この状況からも島津軍の鉄砲重視は良く理解できる。しかも、足軽では無く、「侍鉄砲」を重視している戦場の流れを考えると北条氏の長柄槍重視の考え方よりは、一段進んだ合理的で近代的な戦法を島津家は戦国末期の段階で到達していたことが理解できる。


しかし、先に挙げた「戸次川の戦い」で、島津軍に緒戦で破れた豊臣秀吉の先遣隊の構成をみると四国勢が主で、土佐の長宗我部元親父子、阿波の十河存保に加えて、秀吉手飼いの仙石秀久だった。この戦は、仙石秀久の浅慮により惨敗しているが、主力だった四国勢の鉄砲装備率は仙石勢を除いて、秀吉直属の部隊よりも低かった可能性があると思われる。

先遣隊に圧勝した島津家だったが、翌年、秀吉の本軍が到着するとはかばかしい戦を行なうことも無く、降伏している。豊臣軍は、大軍だった点ももちろんながら、鉄炮装備率も島津家の上を行っていた可能性が高い。

関東の北条家に比べると種子島の装備率も練度も遙かに高く、しかも、勇猛で鳴る島津家を瞬く間に屈服させた豊臣家の軍勢と小田原北条氏は次に戦うことになってしまったのである。


「小田原合戦」における両軍の兵数には所説あるが、概ね、豊臣配下の総軍勢21万余、北条氏の総動員兵力10万程度と考えるのが、順当な所のようである。

北条氏は、主城である小田原城を初めとして、両国各地に散在する拠点の諸城、箱根の山中城、伊豆の韮山城、武蔵の八王子城、江戸城、鉢形城、忍城、上野の松井田城等々で籠城の事前準備を実施していた。

秀吉軍を迎え撃つ北条氏の城の特徴として、堀の中を全部掘らずに、細い畝を四角に残して掘る「畝堀」や「障子堀」と呼ばれる手法が有名である。特に、最前線の箱根の峠を守る山中城の外郭線や本丸、二の丸には、「畝堀」を多用して厳重な防備体勢を整えていた状況は、今日、発掘で検出されて整備保存された同城で容易に実見できる。もちろん、小田原本城でも「障子堀」は、発掘されていると聞く。加えて、城の出入り口を守る「馬出」にも北条氏独特の工夫を凝らした構造があった。

しかし、この東国の戦いで無双の強さを発揮した「障子堀」や「馬出」の長所も、自軍と同様の兵器装備率だった上杉氏や武田氏に対しては効果があったのかも知れないが、秀吉の出現以降、急速に鉄砲を初めとする兵器の装備率を向上させた豊臣氏麾下の西国の諸軍勢には、殆ど、大きな効果を挙げる機会は無かったのである。

天険の要害と巧妙な「障子堀」その他で厳重に防備を重ねた守備兵力約四千人の山中城に豊臣勢は七万余の圧倒的な大軍で強襲、僅か半日で城を落城させている。

北条家としては、山中城で豊臣勢を取り敢えず、十日か一ヶ月支えて、遠征軍の消耗を促し、次に小田原城での持久戦に持ち込むつもりだった基本戦略が、僅か半日で潰える大誤算の開戦劈頭の出来事であった。

自軍への長柄槍の供給にも苦労している北条家と無尽蔵に近い鉄砲や火薬の生産地域を自国の領内に持つ豊臣政権の大きな違いが、ここに明らかな差となってしまった戦いであった。


(まとめ)

こうして、同じ時代のヨーロッパと大坂を中心とした豊臣政権の日本、そして、関東独立国の北条家の三者を比較してみると、その違いの大きさに一驚するものがある。

中国には及ばない物の14世紀には溶鉱炉が既に作動して、大量の安価な鉄鋼材料を利用できたヨーロッパ、鉄の生産では昔からの砂鉄を原材料とした「たたら」によるずくと鋼の少量生産に依存していた日本。

日本の政治経済都市である京及び大坂、堺を政権下に掌握していた上、当時世界最大の銀鉱山石見銀山を初め幾つかの金山も経営して繁栄を極めた豊臣政権。

そして、残念ながら、豊臣政権と自身の小田原政権の大きな格差を敗戦まで自覚するところの少なかった北条氏政を考えると今も昔も、日本人の外交感覚の薄さに慄然とするものがある。

外交官として優秀な弟の韮山城主北条氏規や近臣の板部岡江雪が上方へ行った際の正確な報告も多かったはずだが、独裁的な君主の常で、自分の都合の良い、好ましい情報だけを聞き取った結果、何の抜本的な豊臣対応戦略を立案できぬまま、敗戦による自刃の時を迎えてしまった気がする。

これが、ヨーロッパの弱小国であれば、自国の経済力と軍備の微力さを外交手段によって補うべく、必死の外交努力と大国に侮られないだけの兵器整備に邁進して、最終的な自国の存続に努めたと思われてならない。


戦国時代が終る頃、日本の諸大名の野戦における前衛の中核は、最初に述べたように、足軽勢の火縄銃集団と前備の長柄槍集団から構成されるのが一般的になっている。鉄砲隊の間歇射撃時や雨天での火縄銃の問題点を補完する意味での弓組は残った物の、この二つの足軽集団が実質的な大名家の緒戦を決する武装集団だった点は間違いないと考えられる。

しかし、戦国時代に大活躍した「長柄槍」も平和な時代の到来と共に、行列の飾りとしての機能しか残らず、多くは、城の武器櫓の納められて朽ちていく運命だった。

江戸時代、各大名家の行列の権威を示す第一の表象は槍であり、どの大名家も自家の槍の鞘に遠くからでも識別できるような特異な意匠を凝らして演出に努めている。その様子が、武鑑を開いてみると一目瞭然であり、武鑑を開く楽しみの一つでもある。


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