2.唐の刀剣と正倉院
前回は、青銅器時代から清朝までの長い中国刀剣の流れを極めて荒っぽく辿ったが、今回は日本刀の成立に大きな影響を及ぼした唐時代までの中国の刀剣の発達に触れてみたい。
更に、当時の東アジアに於ける国際交流を証明する伝世品が今に伝わる正倉院の刀剣等に関して、日本刀完成前の我が国の直刀時代を私なりに勉強してみたいと考えている。
■初めに
青銅の剣では春秋時代の越王勾践の緻密な彫刻を施した剣が有名だが、青銅製刀剣の全盛期の春秋時代、既に南方の大国楚等では、鉄製の剣が現れている。長さはまだ短く、全長は古代ローマ帝国の軍団兵が使用したグラデイウスよりも短い40cm弱の短寸であった。しかし、数回の折り返し鍛錬がされていて、浸炭処理もされていたようで、武器としては、ある程度の切断能力と強度があったと考えられている。
戦国時代後期になると鉄製の長剣が楚、韓、燕等の国々で出現し、戦国七雄の一つ北の燕下都では、冶金技術が発達して鍛錬による高炭素の武器も製作され初め、更に強度を増すための焼き入れ加工も行われていた。
天下を統一した秦が従来型の青銅製武器を主に武装の軍隊で争覇戦に勝利したのに対し、敗れた楚、韓、燕の諸国が最新の鉄製武器製造技術を持っていた矛盾は、幾つかの先端技術だけでは総合力に勝る覇権国家に勝てない、現代でも通じる問題点を提示しているように感じる。
その他にも楚、韓、燕等の鉄製武器製造の先進国には問題点があった。例えば、燕の下都の鉄工房の技術力は高かったが、材料の供給能力も含めた生産能力は低く、燕の国軍における鉄製武器の装備率は相当に低かった。その為、一般の兵のほとんどは従来型の青銅製武器を装備して秦との戦い望んだと想像される。
一方の南方の雄者楚でも秦との決戦が近づいた戦国時代末期には、70cm以上の長い直刀が造られ始めているが、この国でも燕と同様に軍隊全体に十分な鉄製武器を供給することは、楚の滅亡時まで遂に達成出来なかった。
■中国の鉄製刀剣普及の時代
短命であった秦帝国の後を受けた劉邦の前漢の時代が、古代中国における青銅製武器と鉄製武器の世代交代の時代と考えられる。劉邦の時代に青銅製武器が主流だった漢帝国も西域で匈奴と対峙した武帝の頃には、鉄製武器の比率は向上し、前漢末期にはほぼ世代交代が終わり、戈や矛、剣、刀の主要武器が鉄製に切り替わっている。
鉄製の刀剣も短い短刀から1mと超える長い環首長刀まで各種の長さの物が出揃い、刀剣の鞘や柄の材料も木や竹で製作された物や、布、繊維で補強され柄、赤い漆で装飾された鞘なども出現し始めてくる。
漢はご存じのように紀元前後で前漢と後漢に分かれるが、前漢の鉄製武器の大発展期を経て、後漢になると色々な鉄の周辺技術が大きく向上している。
その一つが鉄鉱石を溶かす炉の改良で、水車を用いた小型の溶鉱炉が発明されている。鉄鉱石を原料とした安定な鉄素材の供給は、素材を折返し鍛錬したりする鍛冶の熟練度の向上と共に、鋭利で弾力性に優れた長刀の量産を可能にしている。
後漢の時代の剣の弾力性と曲がりに対する復元力は極めた高かったと現代中国人は胸を張って主張しているが、刀剣の弾力性や切断性を比較できるほどの健全な刀剣が漢代古墓から出土していると思えないし、もし、健全な刀剣の出土があったとしても、貴重な古代の文化財で、ものを斬ったり、曲げ試験を実施したり出来るとはとうてい考えられない。
漢代の環首長刀の形状の一例を挙げると元幅は約3cm、重ね約1cmで、断面は平造りで、長さは長いもので1mを超える長剣もあった。柄と刀身は一体構造の為、軍用としての強度は高く、破損に対する耐性もある程度あったと思われる。
この頃の大陸性や朝鮮半島製の剣や直刀が舶載されて、我が国の権力者に順次、普及していったと考えられる。また、朝鮮半島南部の加羅で生産された鉄の原料を購入して、我が国で加工した刀剣も時代と共に出てきたと考えられる。
■古代型刀剣の完成期:唐代
三国志の時代を経て、南北朝に少しずつ進化した古代中国からの様式を持つ刀剣は唐代に至って、一応の完成を見たと考えられる。
戦陣用の環首長刀は漢以降順次改良されていった。漢代の環首長刀の断面形状の二等辺三角形に近い平造りの形状から、切断力と刀身の強度を両立させた切刃造りも現れ、中には切刃部分の幅が広がった切断力を更に向上させた刀身も見られ始めている。
柄と刀身も漢代のような一体加工では無く別個の分離した形となり、茎も形成され、区や目釘穴も設けられている。また、環首の部分も独立して加工され、装飾性も大きく向上している。文化の爛熟した盛唐期は刀剣の外装も華やかになり、正倉院に伝来する刀装具にもその影響を大きく受けたものが伝存している。
当時、東アジア最大の帝国唐の刀剣は完成度も高く周辺の朝鮮半島や日本に強い影響を及ぼした。『唐大典』の中の「武庫令」には、表現は異なるが、儀仗用、護身用、横刀、斬馬刀の4種類の刀剣の記載がある。
横刀の表現も隋から始まり、唐では軍隊の八割が真っ直ぐな横刀を所持して戦った。当に環首直刀が大量に作られ、実戦に用いられた時代であった。一方、新しい形状の萌芽もこの時代から始まっている。西域諸部族が用いた湾刀も中唐から唐末になると直刀と共に混用され始めたのであった。
唐の隆盛と環首直刀の完成度の高さは、周辺諸国に強い影響を及ぼさずには、置かなかった。唐の環首直刀は貴族達の求める豪華な装飾性と一般兵士に支給する為の実戦的な強度の双方を兼ね備えていたのであった。
■正倉院の刀剣
それでは、古代刀剣の世界で、東南アジアに確固たる地位を占めつつあった唐の環首直刀はどの様にして我が国に伝わったのであろうか?
当然の事ながら直接、遣唐使等によって将来された刀、朝鮮半島を通じて間接に舶載されて、日本に伝えられた刀も有っただろう。輸入刀剣と共に大陸から優れた技術を持った刀鍛冶が移民してきた可能性もある。また、当時の日本の鍛冶によって模倣品が作成されてもいると考えられる。
唐時代の刀剣を研究する上で、一番好ましいのは、唐代の刀の中国国内での伝世品があれば、それと我が国の奈良時代の刀を比較研究することによって、唐の技術と当時の我が国の技術の格差を比べることが出来るのであるが、残念ながら我が国の正倉院や四天王寺以外でほとんど当時の姿のままの刀剣は東アジアでもヨーロッパでも今日、伝わっていない。
逆に見れば、奈良時代の正倉院に所蔵されて来た多くの文化財と同様に、刀剣類の場合にもその貴重さは信じ難い位重要なものがある。
即ち、この正倉院に伝わる奈良時代の刀剣類によって、唐と半島の高麗、そして、我が国の当時の刀剣技術水準を明確に推測出来るからである。
幸いな事に、正倉院の刀剣の保存状態は大変良く、戦後の研磨の結果、極めて健全な状態であることが確認されている。そして、明治以降の整備記録と本間薫山博士の調査、実際に研磨した小野光敬氏の体験記録が有るので、それを中心に引用させて貰いながら、大陸と我が国の刀剣の接点を探してみたいと思う。
隋や唐からの伝来の高級品としては正倉院の「水龍剣」、「金銀平脱横刀」の他に四天王寺の「丙子椒林剣」がある。いずれの刀剣も完成度が高く、真っ直ぐな直刀形状以外、完成期の日本刀と遜色の無い出来映えと評価も高い。
上記、二つの刀剣を含めて、正倉院には、55口の刀剣が現存している。表現としては、唐大刀、唐様大刀、高麗様大刀が用いられている。単純に考えれば中国の唐朝製の大刀、唐製を模倣した国産の大刀、半島製の高麗製を模倣した大刀と解釈出来ない事も無い。あるいは、刀身その物では無く、外装の表現だったのかも知れない。
形状的には、平造り、切刃造り、切先両刃造りの三種があり、切刃の幅が棟の方に移動している物も存在する。製作過程では数回の折り返し鍛錬がなされており、地金の働きもある。刃紋も直刃や小乱に近い直刃もあって、焼刃としての基本は既に完成しつつある状態が感じられる。
ここで、正倉院の刀剣のどれが唐製でどれが国産かはっきりすれば皆さんの気持もスッキリされるのだろうが、残念ながら。完全に分類できていない現状である。けれども、当時の唐の刀剣製造の技術レベルは極めて高く、それを模倣した我が国の鍛冶の技量も低くなかったと想像される。但し、正倉院には刀剣以外にも矛や刀子が多数現存するが、奈良時代の鉄製の武器全体の個々の製作技量の差は意外に大きいことが明らかである。それは、当然のことで、戦国期の武器鍛冶でも最上位が刀鍛冶で、次の技量の者が槍鍛冶であり、その下が矢の根鍛冶だったと伝えられている。
個人的には、我が国の奈良時代の鍛冶は既に相当の処まで大陸性の刀剣を模倣して、唐製に近い刀剣を独自に製造できるレベルに達していたと考えたい。
ここで、最大の問題点になるのが、直刀の出発材料である。漢代の項で、既に初期的な溶鉱炉が製作され、鉄鉱石を原料とした炒鋼が量産されていた。当然の事ながら世界に先駆けて、溶鉱炉によって量産化され、古代としては優秀で、比較的均質な性能の炒鋼が武器や農具の原料として用いられていた。
日本が倭と呼ばれた時代、倭は朝鮮半島南端の加羅の鉄資源を求めていたと記録にある。当時の我が国の古墳からも大量の鉄鋌が出土していて、半島からの輸入品が日本国内に広く流通していた事実を証明している。
そして、時代が経過して、国内の鉄の技術も向上したであろう奈良時代の刀剣の原料が、国産が主だったか、相変わらず海外からの購入品の比重が大きかったか、の問題が生じてくる。あるいは、鉄の材料として国産と輸入の品の両方を使用していたかも知れない。
更に武器としての高度な性能が要求される刀は、国内で入手できる鉄の内でも上級品を使用した可能性があると考えるがどうだろうか?
国産の刀の全てがそうで無かったにしても、官営の工房では大陸産の鉄を使用した可能性は高い。そして、刀剣製造技術も日本独自の技術というよりは、大陸の技術を模倣して製作されたと考えるべきであろう。
従って、原材料として我が国独特の後世と同様の砂鉄を原料とした玉鋼では無く、鉄鉱石を出発材料とした原料によって製造された可能性が高い。
今回、正倉院の刀剣を勉強してみて、予想以上の完成度に驚いた。日本刀独特の湾刀形状を除くと作刀に関するほとんどの基礎技術がこの時代に出来ていたような気がする。
もし今後、最盛期の唐の完存の刀が中国で発見されれば別だが、現時点では、正倉院の刀剣を基準として当時の東アジア世界の刀剣のレベルを想像するしか無いだろう。
いずれにしても、正倉院に伝えられた刀剣類が示すように、唐代に完成された古代中国を中心とした東アジアの刀剣製作技術が我が国固有の日本刀を誕生させる大きな基盤となった事実は明確である。