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19.古代の戦車

 前項では、ルネッサンス期のイタリアに於ける兵器の変遷と古代中国で発明された「火薬」と「火器」が、多様なヨーロッパ諸国に揉まれることによって、中国国内では達成出来なかった「火砲」の近代化を達成、「大航海時代」の到来と共に、ヨーロッパ式の火縄銃と大砲が世界制覇の重要な武器となって行く、ルネッサンス後期の様相に付いて少し触れてみた。

今回は、時代を大きく遡って、古代兵器の一つである「戦車」に関して、東西の例を比較してみたいと考えている。古代の戦車は、西ではオリエント諸国を中心に発達し、東アジアでは古代中国の殷や周の時代にピークの時代を迎える東西の青銅器時代を代表する兵器である。それまで、徒歩による兵士の集団しか経験しなかった各国にとって、馬の牽引する「戦車」と搭乗する兵士は驚異的な戦力であった。

古代戦車の起源は、調べてみたが、どうも良く解らない。諸書によると一般論として、紀元前2500年頃の「シュメール」のウル第三王朝のスタンダードに四輪の戦車が描かれているという。この画像のウルの戦車は四輪で、馬では無くロバの一種のオナガー四頭に牽引される車だったらしい。使用している車輪も複数の木材を円盤状に構成したスポークの無い原始的な物で、後年のオリエント諸国の戦車が持つ軽快な機動性は、まだ持っていなかった。

続いて、紀元前2000年頃、中央アジアの現在のロシア南部の「シンタシュタ・ペトロフカ文化」で画期的な戦車が登場している。機動性の高いスポーク型車輪を持つ二輪型戦車の発明である。この戦車は、数百年掛かって、ユーラシア大陸の東西に広まっているが、古代戦車チャリオットの原型だといわれている。

いずれにしても、紀元前1600年頃にはユーラシア大陸の東の古代中国に、紀元前1500年頃にはオリエントの広い地域に2輪型戦車の技術は伝搬している。

当時、オリエントも古代中国も兵器の材質の主流は、「青銅器」全盛の時代であった。一部にヒッタイトの鉄器はあったもののヒッタイト軍全体を満足させるほどの生産量は確保できず、鉄を使用した民族と呼ばれるヒッタイトにしても青銅製武器が主流の時代だったと考えられている。

戦車は始め、王侯や貴族の乗り物としてオリエント世界に登場したが、やがて、戦場での指揮官クラスの愛用するところとなった。戦場での兵器として戦車を使用した最初の民族が何処の民族か良く解っていないが、多分、ヒッタイトだと推定されている。


しかし、直ぐに近隣のエジプトやメソポタミアでも軍用としての機動性のある戦車の製作と使用を開始している。これらオリエントの諸国では、国毎にその国の国情に合った戦車の改良が進んだ可能性が高い。

草原や砂漠、瓦礫の続く大地などでの、耐久性と機動力を上げるための車輪の改良や軸受け構造の強化も含めて、戦車本体の軽量化も格段に進化していったと考えられる。加えて、牽引する馬と戦車本体の連結方法も大幅に改良されて次第に馬の負担も少なくなっていった。

その結果、オリエント諸国での戦車の機動性が大きく向上、古代の戦場の主役としての戦車の活躍が期待される事となる。

古代の戦車を考える時、最初に思い出すのが、学生時代の読んだオリエントでのエジプトとヒッタイトの「カデッシュの戦い」であり、東では古代中国で、殷と周が覇権を賭けて争った「牧野の戦い」である。

「カデッシュの戦い」では、青銅器時代後期のエジプトの二頭立ての軽量の戦車に乗った御者と射手2人のコンビが3人乗りのヒッタイトの戦車を相手に活躍したといわれている。

一方、古代中国の「牧野の戦い」では、殷の二頭立ての戦車に対して、周連合軍は四頭立ての新型戦車で戦ったと伝えられている。

それでは、最初に古代に於ける戦車の登場と発達過程の概要をオリエント世界中心にピックアップしてみよう。


(古代オリエントに於ける各国の戦車)

メソポタミアで、紀元前2500年頃に出現したシュメールの戦車は、現在残っている画像で見ると四頭立ての四輪の荷馬車のような車で、乗員は御者と戦闘員の二名からなり、主な武器は複数搭載していた投げやりと戦斧だったようだ。

当時、シュメールのような都市国家は、高価な戦車数十両を保有していて、王族や貴族が主に使用して、戦車隊を構成していたらしい。しかし、この戦車の車輪は、後世のチャリオットに比較して小さい上、スポーク構造も持っていなかった。

そして、この萌芽期の戦車の最大の問題点は、戦車を牽引する動物が、上述したように、馬ではなく温順で小形のロバの一種オナガーだった点にある。

しかし、これらの欠点も中央アジアやオリエント諸国の改良の努力により、徐々に素晴らしい戦車に近付いている。馬による牽引、大形でスポークを用いた車輪の採用、戦車全体の軽量化である。


メソポタミア文明と衝突した民族の一つにヒッタイトがある。ヒッタイトは青銅器時代の紀元前2000年という古い年代に既に、一部ではあるが鉄器を製造、使用していた点で歴史上有名な国家であった。

そのヒッタイトでも、早い時期から軽快な戦車が使用されていた。ヒッタイトの戦車も初めは、御者と弓の射手の2名からなる乗員で、残っている彫刻から見ると、車輪の構造も六本のスポークで構成されており、機動性に富んだ戦車の印象が強い。時代が経過して、ヒッタイトの新王国時代(紀元前15世紀~12世紀)になると、ヒッタイトの戦車は進化して実戦に耐えうるようになっていった。もしかしたら、世界の戦史上で本格的に戦車を実戦投入した民族がヒッタイトである可能性については既に触れた。

加えて、オリエントのチャリオットの歴史の中で、更に、重要なのがヒッタイトのライバルであるエジプトの戦車である。何故、エジプトの戦車が重要かというと、世界の古代戦車を研究する上で、古代エジプトの出土品に匹敵する大量の史料が他に存在しないからである。

有名なツタンカーメン王の陵墓から出土した豪華な戦車を初めとする古代の遺物から、古代エジプトの戦車の最大の特徴は、車体が超軽量で機動性を重視した構造になっていた点が理解できる。戦車の主要構造は木部と皮革から成り、車体の総重量は40kgに満たない軽さだった。その超軽量の二頭立て戦車とファラオの活躍を描いた絵や彫刻もエジプトには多く残っている。

機動性の増したエジプトの戦車で大きく変わったのは、戦士の武器がシュメールの戦車の投げやりから弓に替わっている点である。高速で移動する戦車から連続して射る矢の攻撃は、剣や槍を主な武器とする近接戦闘を主とする密集体系の歩兵部隊にとっては、極めて嫌な相手だった。

更に、王や重臣層の使用する弓は、エジプトの場合、一般の徒歩兵が使用する丸木弓ではなく、高価で強靱な合成弓が用いられた可能性が高い。弓の前面に動物の角を背面に動物の腱を接着して強度を高めた合成弓から射出される矢は、丸木弓の射程距離の2~3倍に及ぶ遠い距離を飛翔し、貫通力も大きかった。当然ながら、王を初めとする富裕層の戦車には、多くの箙が搭載されていて、長時間の連続攻撃が可能だったのである。

槍と丸木弓を多数装備した敵の歩兵部隊にとって、最も好ましくない相手がエジプト軍の戦車隊だったと想像される。確かに、エジプトの彫刻には、ファラオの戦車の馬蹄に蹂躙される他民族の兵士が描かれている場面が多い。

また、戦車とは直接関係は薄いが、古代エジプト以来の大がかりな神殿や宮殿建築によって養われた組織力や指揮系統のシステムは、外敵と戦う際のエジプト軍の組織運用に於ける大きな強みの一つとなったと想像される。


車体の改良により戦場での戦車の機動性が増した結果、オリエント諸国は挙って多数の戦車を保有する為に、国力を傾注している。逆な見方をすると、当時の戦車は非常に高価で、多数の戦車隊を育成するためには国家規模の資金投入を必要とする事業だった。

現代人の目から見れば、戦車の充実よりも遙かに戦闘力があり機動性に富む騎兵を整備した方が、遙かに効率的だとの指摘があるかも知れない。

しかしながら、紀元前2世紀から1世紀に掛けて木製の鞍が発明されるまで、人間は、裸馬に乗るか、緩衝材に厚い布を後世の鞍の位置に置いて騎乗する、不安定な乗馬姿勢しか方法は無かったのである。馬を制御するための轡は比較的早い時期に登場したが、戦力として騎兵の活動を基盤から支える「鐙」の登場は、紀元後、相当に時間が経ってからであった。鐙の無い不安定な乗馬姿勢で、槍や弓を自在に操れる民族の数は極単に少なかったのである。

そういえば、ローマに行くと見られるカンピドリオ広場のマルクス・アウレリウス帝の青銅騎馬像(2世紀後半の作)も鐙の無い時代の像なので、帝の両足は馬腹の両脇に不安定に垂れ下がっていた。(笑い)


アッシリアでも戦車の改良は進み、紀元前9世紀頃には、三頭立ての戦車が登場している。御者の他に長柄武器の槍と弓の射手各1名が同乗して戦ったのである。(この点は古代中国の戦車上の戦士と同じような分担である)

戦車に搭乗する御者と戦闘員の数も次第に増え、2名から4名乗車の戦車も登場しているが、アッシリアの戦車隊の主力は、1名から2名乗車して戦う軽量級の戦車が主力で、アッシリア軍の戦車攻撃は、徒歩の弓兵と連携しての効率的な攻撃方法に特徴があったとされる。

アッシリアの戦車は、戦闘の重要な手段としても重視されたが、平時の王や上級貴族の移動手段や権威の象徴としても比重は高かった。

アッシリア軍に関して、戦車よりも重要なのが、軍事に於ける鉄の本格的な利用を行なった最初の国家である点である。鋭利な鉄を兵器としても活用したが、薄くても強靱な鉄を鎧や防具としても利用して他国の軍隊よりも将士に良好な防備を施している。

紀元前7世紀頃には、バビロンでも四頭立ての戦車に、4名が乗車する戦車が登場している。4名の役割分担は、御者1名、槍持ち1名、弓の射手1名に防御用の盾持ちが1名である。バビロンの場合、アッシリアのような歩兵と戦車の連携プレーを主とした戦術的な編成というよりも、近代の戦場に於ける重戦車のように、個々の戦車単独の戦力を高めて敵陣突破の効果をアップしている感じがするが如何であろうか。


アッシリアやエジプト以外の中東の周辺諸国も「戦車」先進国の大きな影響を受けている。時代は少し下がるが、海岸寄りの平野部に住居を構えていたペリシテ人も戦車の利用を始めている。ペリシテ人の戦車は、ヒッタイトの戦車を起源としているらしいが、構造の一部に鉄素材を使用して初期に登場した戦車よりも頑丈な構造だった。

時代が更に進んで、アケメネス朝ペルシャでは、車軸の外側に敵をなぎ倒す為の刃物を装着した「鎌戦車」まで登場している。昔、古代ローマでの戦車競技とキリストをテーマとした「ベン・ハー」という映画の戦車競走の一場面で、鎌戦車が登場する圧巻の疾走シーンがあったので、古い方でご記憶の人もあるかも知れない。

さて、ここら辺で、ユーラシア大陸の東側の中国の古代戦車を採り上げて見たい。

オリエント諸国が競って戦車の導入と改良に熱心だったのに対し、東アジアでは中国、それも中原の国々が戦車隊の整備に熱心だった以外、その他の国々で本格的に戦車を取り入れた国を私は知らない。

それでは、古代中国、それも中原での殷と周の攻防戦からスタートしてみたい。


(古代中国の青銅器時代)

古代中国の歴史に関しては、「夏王朝」を含めて、まだ不明な点も多いが、夏王朝に続く「殷王朝」の実態は近年次々と明らかになってきて、歴史ファンを楽しませている。

その殷の時代に既に戦車は王侯の乗り物として登場している。当時の戦車の構成は二頭立てで、箱形の車体を大きな直径の車輪二個で支えていた様子が、発掘によって出土した戦車から推測される。

武器としては、古代中国「殷」の時代も、古代オリエントと同様の青銅器の時代であった。既に剣や矛、矢尻などの青銅製の出土品によってもオリエント諸国と似た状態にあったと思われる。また、王権の大きさを示すような黄金で飾り付けたまさかり、黄鉞こうえつも存在している。

その他、古代中国独特の武器としては、「」がある。戈は先の尖った鎌状の青銅器の武器で、戦車上の敵戦士の身体に戈の先端を打ち込んで敵を倒したり、鎌のように敵の首や腕に引っかけて引き切る武器であった。「戈」の武器としての寿命は長く、殷に始まって、周、春秋戦国時代を経て、秦から漢へと使い続けられた長命な兵器である。陝西省や甘粛省、河南省の各地で大量の「戈」の出土品があり、数百年以上に渡る「戈」の時代毎の形状の変化と材質の変化を楽しむことが出来る。

しかし、写真で見る「殷」の「戈」は歴代の戈の中でも最も全長が短く、反りも浅く小振りな感じがする。多分、青銅器の価値が最も貴重な時代の武器だった為である点は、ハッキリと理解できる気がする。

殷の二頭立ての戦車の乗員が二人だったのか三人だったのかハッキリしないが、ご存知の方がいらっしゃればお教え頂きたい。後年の「周」の時代の戦車の乗員は三人で、御者と将と戦闘員(車右)からなっていた。但し、周の戦車は後述するように殷の戦車と違い四頭立てであり、三人の乗員の重量にも充分耐え得る牽引力を持っていた。


逆に古代中国で戦車が発達した背景には、戦車の使用に適する中原の地が最初の中華文明の発祥地であり、国同士の戦闘でも戦車の使用に適する平坦地が多く用いられた為と考えられる。その結果、王や諸侯の権威を示す尺度として、古代中国では、各国の保有する戦車の総数が基準とされる不文律が成立している。天子を現わす表現方法の一つとして、「万乗の君」との尊称があるが、戦車を一万台、戦場や儀式に動員できる力を保有する大君主という意味である。

また、殷の時代の特徴として、精密で完成度の高い祭器等の青銅器の数々を忘れる事は出来ない。古代中国の神獣を描いたと思われる「饕餮文とうてつもん」の彫刻された精緻な青銅器を見ていると、殷の呪術の世界に引き込まれそうな錯覚を覚えることがある。

これらの青銅器を製作できる優秀な鋳造技術は、兵器製造の面でも遺憾なく発揮されて、矛や剣、矢尻、先に挙げた戈等の優秀な武器の製造に遺憾なく発揮された気がする。何といっても青銅の鋳造技術は、鍛造と違い、型さえあれば完成度の高い武器を複数、短時間で大量に供給できる点にあったのである。


(古代中国の戦車戦)

冒頭の所で、殷(紀元前17世紀頃~紀元前1046年)と周(紀元前1046年~紀元前256年)の興亡を掛けた「牧野の戦い」について触れた。

湯王とうおう以来、長く続いた殷も奢侈と淫楽を好む紂王ちゅうおうの代に至ると無道の王家に対する諸侯の反発が大きくなっていった。その中でも西方の周侯父子は徳を修め、子の武王の代に紂王討伐の兵を挙げたのであった。

「牧野」の平原で対戦した殷軍の兵数は、「史記」によると70万人、攻める周の戦車は300乗、兵4万5千、周に味方した諸侯の戦車は4,000乗と伝えられている。殷軍の保有していた戦車の数については不明だが、周連合軍の戦車4,300乗よりも殷軍の戦車の総数は若干多かったのかも知れない。

オリエントの戦車と違い、古代中国の戦車はがっちりした箱形の車体で、軽快というよりは圧倒的に重厚感のある威圧するような印象の戦車であったことが、発掘された戦車や残されている画像から感じられる。

また、古代中国では、後年、「三軍」と呼ばれる古代中国独特の軍隊編成や布陣手法が出来上っている。これは、上軍、中軍、下軍の三軍を軍編成の基本として、布陣の際も中央に中軍を配置し、その両翼に上下両軍を布陣させる横陣を基幹とする布陣方法や軍隊編成で、古代中国では長く用いられた戦法である。この軍隊の基本編成が古代中国で長く用いられた背景には「戦車」の存在が大きかったと考えたい。


殷の紂王は出来うる最大限度の動員を領域全土に掛けて、周連合軍を圧倒する70万の大軍を牧野に集め、充分な自信を持って周との戦闘に臨んでいる。

しかし、周の武王には自信を持って紂王と対峙できる大きな根拠が三つ有ったと伝えられている。その第一は、紂王の連年に渡る悪政と殷の東方遠征による殷軍の疲弊であった。その第二は、殷軍の戦車が二頭の馬に牽引されている機動力の低い戦闘車両であったのに対し、丘陵が多く、地形の複雑な西方の地を治めてきた周軍の戦車は、四頭立てで、抜群の機動力を持っていた。そして、最期が、武王が最も頼りにする知謀の軍略家「太公望呂尚」の存在にあった。

その結果、牧野の戦いの緒戦では、太公望の知謀と周軍300乗の戦車が活躍して、周軍の四頭立て戦車が紂王の大軍の二頭立て馬車を圧倒、勝敗は短時間で決した。

どうも、平原の地を長く治めてきた殷は、伝統の二頭立て戦車で戦場に臨み、西方を本拠地とした周は急な山坂にも対応できるような機動力のある新型の四頭立ての戦車だった所にも大きな勝敗の分かれ目があったように感じる。

それから、これは根拠が薄いが、中国の名馬や優駿の産地は古来、西方の地域に多く、東方の馬は小形で温和しい馬が多かったとも伝えられているので、その影響も若干、あったかも知れない。更に、余分なことを付け加えれば、太公望呂尚の出身は「羌族」といわれているので、馬の扱いには熟練した部族だった可能性が高い。

戦いに勝利した武王は、一族と応援してくれた諸侯を各地に封じ、周王朝を開いている。周王朝の時代、諸侯の持つ国力は、その邦が保有する戦車の台数によって勢力が判断されるほど戦車の時代だったのである。

次に、古代中国に於ける戦車の時代の戦いの一例として、「牧野の戦い」から約410余年後に行なわれた「城濮じょうぼくの戦い」の概要を見てみたい。


その前に、古代中国の軍編成の基本について、もう少し触れてみたい。

軍隊の基本単位の一つに「旅」がある。旅を構成する人数は500人である。5つの旅が集まった2,500人の軍を、5旅=「師」と呼ぶ。師が5つ集合した大軍を、5師=「軍」と呼び、1軍は12,500人の兵力を持ち、単独で諸侯間の小戦闘に介入できるほどの戦力と見なされた。周の時代の大きな諸侯は、1国で3軍、即ち37,500人もの大軍を動員できたらしいが、周の国家としての統制力が低下するに従って、諸侯の持つ3軍の総兵力は増大して行った可能性がある。

ここまで、お話しすれば多くの方が気付かれたと思うが、近代日本が西欧の軍隊制度を導入する場合、フランス語なり、ドイツ語、英語の略語を創りだす際に中国の古典を参照、引用して新しい熟語を創作している。

軍隊用語でも「師団」や「旅団」等の単語が古典を根拠に創られ、「参謀本部」等の新しい用語も経済分野や思想分野の単語と同様に幕末から明治初期の日本人によって創造された結果、同じ漢字文化圏の中韓両国も明治日本の新しい用語を用いて近代化の手段としたのであった。


周王朝が衰微した周王朝後半の時代を「春秋戦国時代」と呼ぶ。春秋時代は諸国間の対立抗争が激化、有力諸侯が次々と立って覇権を打ち立てている。

最初の覇者となったのが有名な斉の桓公だったが、桓公の没後、長江から北の中国南部の広い地域を領地とする「楚」の成王が力を増して北上、中原の中小の諸侯は次々と楚の大軍の前に屈服せざるを得なくなっていった。

優勢な楚に圧迫された中小の諸国は、長年の流浪の旅から帰国したばかりの晋の文公重耳ちょうじに扶けを求めている。文公は、楚軍と対峙すべく700両の戦車と7万人の大軍を率いて黄河を越えて南下、進攻している。

当時の諸国は戦車1両に付き、75人から150人の兵を付随させているので、晋軍の戦車1両に付き、100人の兵員は納得できる戦車と兵のバランスである。その他に同盟諸国からの援軍を含めた晋連合軍の総数は、8万から9万人の兵力だったと推測される。

対する、楚軍とその連合軍の総兵力は約11万と考えられている。しかし、楚の大軍を率いたのは成王では無く、令尹(楚の大臣)の子玉しぎょくであった。両者の大軍は戦車戦に最適な「城濮の平原」で対峙することとなる。

当時の諸侯の軍の編成方法の基本は上述したように、上軍、中軍、下軍の三軍構成が普通であり、当然ながら晋の軍勢も上軍を右翼、中軍が中央、下軍を左翼に戦車と兵を配置した「三軍」体勢で布陣している。対する楚の子玉の軍も中軍をセンターに、左軍を晋の上軍に、右軍を下軍に対峙させる形で配備を整えて開戦を待った。

開戦と共に楚の三軍は戦車を先頭に突撃を開始、晋の三軍は徐々に戦術的な後退によって、楚の子玉の諸軍の鋭鋒をいなして、楚の三軍の間に間隙が出来るのを待つ作戦をとっている。

楚の中軍を手堅く受け止めると同時に、晋軍の両翼は楚軍の左右両軍に反転攻勢を実施、敗走させている。

楚の子玉率いる中軍は力戦したものの、左右の両翼を失った結果、残っている中軍単独では戦闘継続も不可能となり、敗残兵を収容して撤退、後に自裁している。


この戦闘で、晋の下軍(左翼)は戦車の後ろに木の枝の束を引きずって、盛大に煙幕代わりの砂塵を立てて楚軍の目を幻惑して自軍の動きを眩ませたし、一方では、馬に虎の皮を被せる欺瞞工作で敵を混乱、威嚇する戦術をとるなど、晋の三軍は、戦車の機動性を十二分に活用して、「城濮の戦い」の勝利に大きく貢献している。

この戦いの勝利によって、晋の文公重耳は「春秋五覇」の一人として、歴史に名を成すことが出来たのであった。

しかし、中国での戦車の時代も春秋戦国時代の終了と共に衰退し、王侯の移動手段や将軍の指揮所としての機能は維持したものの兵器としての働きを騎馬隊に順次譲り、匈奴の襲来と共に秦も漢も騎馬隊重視の時代へと移行して行くのだった。

丁度、それは、青銅器時代が終って鉄器時代の始まりと殆ど同時期の出来事であった。


(古代オリエントの両雄による「カデッシュの戦い」)

古代オリエントでは、各地の大国の戦車が国情に応じた独自の改良と発展を遂げた状況は上述した。古代以来の大国エジプトでは、軽量な車体と機動性を重視した二人乗りの軽快な戦車を開発したし、ヒッタイトの戦車は、車体構造の一部として独自に鉄製の補強部品を用いて頑丈な戦車を製作している。その結果、ヒッタイトの戦車の乗員は三名となり、近接戦での戦闘能力はエジプト戦車を大きく上回ったと想像される一方、高速での戦車の展開や適度な距離を維持しての射戦、一撃離脱等の急襲時の機動力では、エジプト軍戦車がヒッタイト帝国の戦車隊を上回った可能性がある。

その古代オリエントの二つの強国が正面から激突したのが、パレスチナ(シリア)で行なわれた「カデッシュの戦い」である。パレスチナ地域の領有権を争って、エジプト第19王朝のラムセス2世とヒッタイトのムタワリ2世が動員した兵力と戦車の数は諸説あるが、次の一説を挙げてご参考としたい。

エジプト軍は、4個軍団(アメン、ラー、プタハ、セト)と若手の精鋭部隊である「ネアリン」が参加、兵員数約1万6千人、戦車2千両であった。対するヒッタイト軍は、約2万人の兵力と戦車3千両で対抗、主に優勢な戦車戦力を用いてムワタリ2世は作戦を考えていたと推定される。(両軍の戦車数と兵数の中には、ヒッタイト軍の戦車3,500両、人員3万人以上との一説もある)

当時、エジプトでは戦車10両で小隊、5個小隊で中隊、数個中隊で大隊が編成され、戦車を援護する随伴歩兵も配置されていた。ヒッタイト側の戦車隊編成は不明だが、オリエント諸国では一般にエジプト軍と同様の戦車隊編成を行なっているので、ヒッタイトの戦車隊も似たような編成方法をとっていたと考えられる。対峙した戦場でのヒッタイト軍の行動から推測すると、不確かながら戦争国家ヒッタイトは、戦車隊単独での戦闘も、戦車と歩兵部隊の複合戦闘も可能な段階にあったようだ。


カデッシュの占領を目指したラムセス2世は、ヒッタイト側の欺瞞策に陥って、近くにヒッタイト軍が存在しないと錯覚、アメン軍団を率いて先頭を進んだ。ヒッタイト側は最初にアメン軍団に後続するラー軍団の側面を戦車2,500両で攻撃、瞬く間に同軍団を壊乱させている。

続いて、ヒッタイト軍は、野営地のアメン軍団とラムセスを攻撃、エジプト軍は潰滅の危機に陥った。

その時、エジプト特有の軽快で機動性溢れる戦車に搭乗して勇躍戦闘を開始したのがラムセス2世自身であった。

身長180cmを超える長身(当時のエジプト人男子の身長は160cmから170cmだったといわれている)のラムセス2世の決死の突撃と力闘によって、エジプト軍は最大の危機を脱している。加えて、幸運なことに、その瞬間、エジプト軍の有力な青年隊ネアリン部隊が到着、ヒッタイト軍を攻撃して敵軍を敗走に追い込んでいる。

ヒッタイトのムワタリ王は更に、1,000両の戦車隊を追加投入して、エジプト軍への圧迫を強めたが、ネアリン部隊に続いてエジプト軍の新手プタハ軍団も戦場に到着、エジプト軍が優勢となり、ヒッタイト側戦車部隊は大きな損害を出して撤退している。

前半の戦いで、ヒッタイトのムワタリ王は、優勢な戦車隊を適時投入して戦場をリードしてきたが、どうした訳かこの劣勢にも関わらず、自軍の歩兵部隊の投入を最期まで行なわず戦闘を終了している。

戦闘としては、両雄の痛み分けに終った「カデッシュの戦い」ではあったが、ラー軍団の潰滅やアメン軍団の苦戦による痛手は大きく、エジプト軍の傷の方が大きかったと考えられる。戦闘後、ラムセス2世は戦場から軍を率いて撤退、数年間の交渉を経て、両国はお互いの実力を認めて和平協定を締結している。

面白いのは、両王共に帰国すると大勝利を内外に宣伝している点で、ラムセス2世の建設した大勝利の記念碑は、今日でもエジプト各地に残っていて観光客を楽しませている。


エジプト軍の使用した戦車の実態は、ツタンカーメン王の陵墓出土品その他の多くの発掘資料によって、木と皮で構成されたチャリオットの中でも超軽量級の防御性を全く無視した機動性重視の2人乗り戦車だった事が解っている。また、近年のエジプト古代戦車の復元実験によっても想像以上に軽快な一撃離脱戦法に最適な性能を持っていた点が解明されている。

それに反して、ヒッタイトの戦車に関する資料が手元に全く無い状態なので、両軍の戦車の差異やヒッタイト戦車の特徴に付いての思考が停止している状況であり、申し訳無いと思っている。

一方、東方の中国「城濮の戦い」で使用された戦車に関しては、その前後の時代の発掘品や戦車の図等から、完全では無いが充分、想像できる。特に、秦の始皇帝陵出土の1号馬車と2号馬車の加工精度と完成度は高く、中国古代の戦車の姿を想像されるのに十分な迫力と歴史的な価値を持っていて、見る人々を感動させている。

古代中国の戦車の全体的な印象としては、主要構造物が頑丈な木製である上、乗車している人員も3人と多く、4頭立てという点を考慮しても、エジプトの2頭立ての軽快なチャリオットの機動性には遠く及ばないような、気がしている。

しかし、中国風の三軍からなる重厚な横陣を組んだ中速での全軍突撃の際の迫力と、平原での戦闘時の効果は極めて大きかったものと考えられる。特に、将と御者に加わって戦車に登場する第三番目の戦士、「車右しゃゆう」の存在は大きく、大将の戦車に同乗する車右は、全軍随一の勇者が選ばれたという。

その点、古代エジプトの2頭立てで、乗車人員2名の戦車では、主役の国王を際立たせて表現する以外、圧巻の戦闘場面と勝利の瞬間を現わしようがなかった気もしないではない。(笑い)

その反面、戦場での英雄的な国王の行為が、全国民の崇拝の対象となるオリエント及び西欧の伝統精神の芽生えを感じずにはいられない。

一方の東洋では、偉大な国王の功績は、史官によって史書に記載されて、後世に称えられる事が最大の評価とされて来た。戦場で弓矢や剣を握って力戦することが東アジアの帝王の美点とは必ずしも考えられていない。

伝統的に、古代中国では、国王自身は泰然として安座していながら、指揮下の名将を自在に使う王こそが、望ましい君主の姿であった。


一方、戦闘技術の面から古代の戦車を考察すると、地形的に極めて限定された使用範囲でしか有効に作用しない兵器である事は、明白である。

戦車戦には、両軍を展開できる草原か土の広い平坦地が必要であり、双方の暗黙の了解がないと最適の交戦地で対峙出来る可能性は少なかった。言うなれば両国間の戦争に対する暗黙の紳士協定が生きている時代であれば十分運用可能な兵器であり、戦闘方法であると考えられる。

特に、古代中国の春秋時代のような同一民族独特のルールや信義が生きている時代には有効だった戦車戦も同じ中国の戦国時代になると、北方民族から影響を受けた騎兵の登場もあって、徐々に戦車は戦場の主役から去って行く場面が増えている。

オリエントでも、紀元前1,000年頃、あちこちで騎兵が登場している。特に、丘陵や山岳などの傾斜地の多い国や地域では、騎兵の登場と共に戦車は衰退し、軍の主役の座を騎兵や歩兵に譲り渡していった。

紀元前7世紀頃から、古代ギリシャでは、市民による重装歩兵の密集隊形の方形陣、「ファランクス」が戦場の主役として登場して来るし、紀元前450年頃のスキタイの弓騎兵は卓越した乗馬技術で大活躍している。


(参考資料)

1.図説:古代の武器・防具・戦術百科 マーティン・J・ドアティ 野下祥子訳 原書房

2.戦闘技術の歴史1古代編    サイモン・アングリウム他 天野淑子訳 創元社


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