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18.兵器の大転換期ルネッサンス

西ローマ帝国の滅亡後、ヨーロッパの高校で教えている「暗黒時代」中世が始まる。以前フランス人のブロンドの女子高生と話をしていたら、「暗黒時代」とは、本当に何も無い時代だったと先生に教えられたといわれた。彼女が言うには、ヨーロッパで長い暗黒時代が続き、十字軍も終って、やっと新しい文化の香りが漂い始めたのはイタリアルネッサンス(14~16世紀)が始まってからだということだった。それだけ、フランス人から見ても、文化面でのイタリアを中心とした文芸復興が目覚ましかったのであろう。

兵器の面からイタリアルネッサンス期を考えるとその初期は、騎士中心の十字軍時代の雰囲気を濃厚に引きずっている時代だった。馬上の騎士を中心とする鎧や兵器改良の一翼をイタリア諸国も担っていた。中でもミラノ製の甲冑の名声は高く、初期十字軍の愛用した「メール・アーマー(鎖鎧)」から、最新式の「プレート・アーマー(西洋式板鎧)」にヨーロッパの甲冑様式も大きく変化している。ビザンチン帝国やイスラム諸国とも交流の深かったイタリア諸国は、兵器の先進性も高く、ヨーロッパの中でも新しい文化が急速に市民権を獲得している最先端の地域だったのである。

十字軍の海上輸送その他で実力と富を蓄えたヴェネツィア共和国やジェノバ共和国、金融で財を成したフィレンツェ、イタリアの諸国は急速に経済力を身に付けてヨーロッパ諸国をリードしている。

同時にイタリア諸国はヨーロッパの先進国として独自の文化を開花させている。その様子は、今に残るフィレンツェのウフィッツィ美術館やヴェネツィアのドゥカーレ宮殿の中に残る数々のルネッサンス期のイタリア絵画や彫刻を見学するだけでも充分に現代人の我々を納得させるだけの迫力と厚さを感じさせる。


加えて、ルネッサンスのこの時期の少し前、中国で発明された黒色火薬を用いた兵器が、12世紀にイスラム圏に伝わり、キリスト教国とのイベリア半島に於ける戦闘で使用された結果、13世紀中葉にヨーロッパに伝搬したと考えられている。伝来した火器の詳細は不明だが旧式の鉄炮だったと想像されている。

その結果、14世紀には、ヨーロッパ世界に徐々に火縄銃が広まり、15世紀には戦場の主役が従来の騎士中心の戦闘隊形から歩兵中心の鉄炮と槍の密集隊形に大きく変化しているのがルネサンス中期ヨーロッパでの戦場の大きな変化であった。

如何にもルネッサンスらしい絢爛たるレオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロ、ラファエロの絵画や彫刻が生み出された背後の現実世界では、大きな軍事革命が進行していたのである。ルネッサンス期のヨーロッパは、剣や弓の時代から鉄炮の時代へと変わる兵器と戦術の大転換期でもあったのである。

一方、ルネサンス期の後半になると、既にフォークを使い始めたイタリアの上流階級とは大きく異なり、国王以下、貴族もナイフと手づかみで食事をしている後進国のフランスやドイツ、イギリス等の後進国が着々と力を増している。

中でも14世紀に造られ始めた青銅製の大砲に関して、フランスを中心に先進的な改良(後述)が進行した結果、それまで大型の攻城兵器だった射石砲が小形の移動可能な大砲となって戦場に登場して、第一次イタリア戦争の前半の驚異的なフランス軍のイタリア国内侵攻成果となって現れてくることになる。

本項では、ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿の武器庫やナポリの城のアンジュー家の色彩の強い城門を見た印象も含めて、イタリアルネッサンス期の前半と後半で大きく異なるヨーロッパの兵器の大転換期を少しではあるが勉強してみたいと思っている。


(ヨーロッパ騎士甲冑の完成期)

西ローマ帝国の滅亡後から始まる「暗黒時代」と十字軍時代のヨーロッパにおける剣の変化と発達に関しては、「古代ヨーロッパ及び中世の剣」で以前、概略を述べた。

中世の主力武器は、騎士の持つ槍と剣、歩兵部隊の弓やクロスボーであったし、身に付けている鎧も「メール・アーマー」と呼ばれる網鎖が主要構成要素の鎧であった。流石に冑は板金製だったが、メール・アーマーの特徴として、身体にフィットする柔軟性を持っている反面、槍や弓矢の攻撃には脆弱で、特に衝撃力の強いクロスボーには殆ど効果が無かった。その影響で中世の騎士達は必ず家紋をデザインした大形の盾を携えて戦場に臨んで、鎧の防御面での不足を補っている。その結果、ヨーロッパ諸侯を初めとする名家の家紋の輪郭は盾のデザインになっている点は良く知られている。

メール・アーマーの弱点で良く引き合いに出される話として、第三回十字軍で勇名を馳せたイギリスのリチャード獅子心王の戦死の原因が、城塞からのクロスボーによる狙撃による話がある。ローマ教会は何度もクロスボー使用の卑怯さを避難しているものの、クロスボーの使用が止むことが無かった。

その後、ヨーロッパ諸国では、十字軍時代後半から矢に対する防御力に劣るメール・アーマーに替わって、硬い鉄の板で構成されたプレート製の鎧が身体の胸部や籠手等の主要部から順次採用されて少しずつ改良が進んでいる。

特に、キリスト教圏の先進国イタリアでは、最新式の「プレート・アーマー」が造られヨーロッパ諸国に供給されたらしく、先端の加工技術を持つミラノ製の甲冑はヨーロッパ諸国の甲冑製造技術を牽引しているような印象が個人的にはある。

14世紀末にミラノで製作された甲冑では、胸甲の他に、籠手や脛当等も板金製の強固な鎧となり、中世甲冑の主要な構成要素だった鎖帷子は、首や肩の廻りや肘、腰、膝などの屈伸部位の補助的な防護部品に役割が後退している。

15世紀になるとミラノの甲冑師の数は名工だけで200人を超えたようで、大きな甲冑製造のための製造地帯を構成して、ヨーロッパ全域への供給に応じていた感じがする。

登場の初期段階では、不細工で稚拙だったプレート・アーマーも時代が進むと共に精巧に成って行き、肘や指先の関節の屈伸も容易に行なえる高価な甲冑も登場、人馬一体の装甲騎兵用の馬鎧も精巧な物が製作されている。

そして、14世紀以降、ヨーロッパの甲冑は大きく二つの流れとなって発展している。一つは、「マクシミリアン式甲冑」と呼ばれる甲冑群で、プレート・アーマーの強度と着用者の着用限界重量を考慮して、従来の鉄板を厚くする方式から、重量増加に直結するプレートの厚さを変えずに強度を向上させる為、甲冑表面に溝状の凹凸を設ける方式で堅牢さを増した甲冑が15世紀終盤に登場している。

もう一つは、「トーナメント用の甲冑」で、その名の通り戦場用では無く練習試合専用の甲冑である。トーナメント用の甲冑は、出場選手が怪我をしないことが重要な為、堅牢さを重視して製作されている。この頃になるとイタリア製とドイツ製の特徴に大きな差が生まれて、ヨーロッパ各国の甲冑に個性が誕生している。

しかし、上にも述べたように、ヨーロッパ式の「プレート・アーマー(西洋甲冑)」の完成期の少し前の15世紀半ばには戦場の主役が歩兵の持つマスケット銃に変化しつつあったのである。その結果、完全武装の甲冑の出番の時期は極めて短く、戦場での主役を軽装歩兵の持つマスケット銃や大砲等の火器に譲らざるを得なかったのであった。

騎兵から歩兵へと戦場の主役が交代した時期、歩兵の主要武器は、マスケット銃と共に長い柄の先端に刃物を装着した棹状武器であった。次に、ルネッサンス期のイタリアの棹状武器について知っている範囲で大雑把に述べてみたい。


(ルネッサンス期の棹状武器)

武器マニアがルネッサンス期の「ポールアーム(棹状武器)」として、真っ先に思い出すのが、「ハルバ-ト」である。ハルバートはルネッサンスの黄金期の15世紀から後年の19世紀までヨーロッパで広く使用された武器で、長い柄の先端に槍と戦斧と鉤状の突起の三点が装着された複合武器である。

槍のように打突に使用出来る他、馬上の騎士や歩兵を斧で叩き切る動作も可能な上、重装甲の騎士を鉤で引っかけて馬上から落馬させることも出来る万能の武器であった。

但し、欠点としては、頭部が三つの機能を持っている分、相当に重く有効に使いこなす為には、かなりの腕力と熟練が必要な武器である。更に、重い分、敏速な左右展開能力に欠けるので、左右との歩兵同士の連携動作が重要で、歩兵相互の信頼関係が必要に成る。現在でも、何か機会があればローマ法王庁のスイス傭兵の武器として見る機会が多いので、ご覧になった日本人の方も少なく無いのではないだろうか。

その他、十字軍以降、イスラム圏との交戦の機会も増えた結果、ヨーロッパ各国の棹状武器の種類は急速に増え、各国の独自の多彩な棹状武器が多数、登場している。

日本の薙刀状の物や大きな戦斧状の棹状武器はもちろんのこと、日本の鎌槍の鎌の部分を小

型化したような三つ叉の槍「パルチザン」も各国ごとに特徴のある多くの形状の物が登場している。

ルネッサンス期のヨーロッパ棹状武器はイスラム圏も含む多くの国々が相互に刺激し合った関係で、その形状や使用方法は実に多彩であり、変化に富んだユニークな棹状武器が多く存在している。ここら辺が、単独の巨大国家中国や島国日本とヨーロッパ諸国の兵器の進歩で大きく異なる点であろう。

次に、ヴェネツィアの兵器製造体制に付いて若干触れてみたい。


(ルネッサンス期ヴェネツィアの兵器製造)

暗黒時代(480年頃~1000年頃)が終って、十字軍の時代が終焉するとヨーロッパの武器製造も大きな変化の時代を迎える。イタリアルネッサンス(14~16世紀)の時代のヴェネツィアを例に、変革期の兵器製造の考え方の変化について勉強してみたい。

良く言われるようにイタリアルネッサンス期は日本の戦国時代から桃山時代に良く似ている部分がある。

確かに、十字軍時代の武器と考えて直ぐに出て来るのが、騎士が身に付ける甲冑や剣、槍、そして、歩兵の持つ長弓やクロスボーであろう。そして、それらの武器の供給者は、日本でいう甲冑師や刀鍛冶、弓師であった。

しかし、ルネッサンス期のヴェネツィアでは、国が強力な力を発揮して、軍隊の整備や武器の開発を行っている。その中核となったのが、「アルセナーレ(国営造船所)」であった。

ヴェネツィア共和国の富と力を生み出す為の驚異的な源泉、アルセナーレの基礎である造船用の船台が最初に建設されたのが1104年であった。その後、ドージェ直轄の造船所として発展し、特に、1300年代初頭の拡張によって当時としては地中海世界でも驚異的な製造能力をアルセナーレは次々と身に付けていく。

アルセナーレの工業力の基礎は三つの部門から成っていた。造船、武器製造、ロープのより合わせである。これらの製造を通して、櫂などを中心に工業化と標準化が進み、装備の互換性も重要視されていたらしい。ここら辺が、桃山時代の日本の製造技術と大きく異なる点で、日本での兵器を含めた工業製品の互換性や規格化、武器の標準化が本格的に実施されたのは、敗戦後も相当時間の経った昭和40年代からであったのである。

あれだけ軍国主義が鼓吹された昭和初期の時代に於いても、兵器の互換性や標準化による陸海軍兵器の統一や工業規格の重要性に気付いた軍人や軍国主義者は少なかった点と比較するとヴェネツィアの兵器製造に関する考え方の先進性の驚異的な高さが感じられて、改めてイタリアルネッサンスの時代を牽引する力強さを感じずにはいられない。


どうも、ヨーロッパ諸国の兵器の標準化は、ローマ時代から続くガレー船等の船のパーツの標準化が先行していたようだ。櫂や帆布、ロープ等の標準化が先行して整備され、続いて艦載砲等の兵器の標準化が地中海世界で進んでいったように感じられる。

当然ながら海上の大砲の口径の集約が進めば、陸上用の野砲や火縄銃の口径と弾薬の標準化も想定の範囲内に入っていたかも知れない。

しかし、攻城砲や野戦砲の開発に関しては、イタリア諸国よりも後述するように後進国のフランス陸軍の方が改良については先行していた。


(ヴェネツィア共和国の兵器の転換時期)

ルネッサンス期が古代からの主用兵器の剣や槍、クロスボーが「火器」に変わる大きな転換期に当たる点は何度も述べてきた。ヴェネツィア共和国の場合でも同様で、1490年にクロスボーを全てマスケット銃に置き換えている。更に、新しく1508年に編成された市民軍でも同様にクロスボーを捨て火器を装備している。

火器の普及と共に従来幅を効かせていた身幅の広い剣や大薙刀のようなグレイブは倉庫に収まってしまい、1520年には、軍隊から姿を消している。その結果、16世紀の早い段階で実用から除外された身幅の広い剣や大型のポールアーム類を今日、我々はドゥカーレ宮殿の武器室の展示品として観ることになる。逆に皮肉な見方をすると、実戦で急速に不要になった多くの武器類が、ヨーロッパの無数の武器博物館に収蔵されている可能性もありそうである。後述する、ドゥカーレ宮殿の武器展示室でも、ルネッサンス当時最新鋭の火器の展示は殆ど無かった。どうも、多くの新鋭火器は実戦で消耗されるか、散逸してしまったと考えられる。

しかし、旧来の武器の中でも唯一生き残った武器がある。それは、槍であった。発射速度の遅かった初期の小銃に対して、槍の密集隊形は火器を装備した陣形を破砕する有効な手段であったし、槍の方陣は騎兵の突撃に対しても強靱な力を発揮した。

特に、スイス傭兵のパイク(槍)兵の方陣は有名で、高度に統制がとれ、強固な意志で密集隊形を崩れない陣形は、無敵の強さをヨーロッパ全土、特にイタリア諸国の戦闘で発揮したのであった。

1420年代以降、徐々に火器の比率は軍隊の中で上昇していくが、パイク(槍)隊は、他の武器と違って戦場から姿を消すことは無く、徐々に比率は下がっていくものの、尚、戦場での有効な兵器としての地位を保っていた。


ここまで、陸戦関係の話ばかりしてきたが、「アルセナーレ(国営造船所)」の例でも解るようにヴェネツィアの主力は飽くまでも海上権力の維持にあった。海上こそがヴェネツィアの生命線であり、ヴェネツィア最大の戦力は強力な「ガレー船」団にあったのである。

有名な、1571年のレパントの海戦に於いてもオスマン帝国の大ガレー船群に対して終結したキリスト教連合軍の有力な一翼をヴェネツィアは担い、勝利に大きく貢献している。この海戦の両者の艦隊の主力は櫂による航走を主としたガレー船であった。浪の穏やかな地中海では、帆船のガレオン船よりもガレー船の方が適していたのである。

その結果、レパントの海戦では、敵味方のガレー船が接舷、搭乗していた陸兵が敵船に陸戦さながらに斬り込んで制圧する戦法が主に用いられている。その為、これ以後の海戦のように両者の砲撃による沈没船の数が極めて少なかった。これは、ドゥカーレ宮殿の各広間にヴェネツィアの栄光の海戦の図が多数掲げてあるが、その殆どが、陸戦様式の歩兵同士の戦闘場面が多数を占める海戦の図である点である事実によっても納得される。


しかしながら、ヴェネツィアの栄光の時を示す「レパントの海戦」遡る15世紀半ばから、ヴェネツィアの未来を変える「大航海時代」が既に始まっていたのである。

船と海戦の変化は、ヴェネツィアの属する地中海世界では無く、大西洋岸のヨーロッパ諸国に於いて、それはゆっくりと進行しつつあったのである。

ヴェネツィアの得意とする地中海型の「ガレー船」は、大砲を装備していたものの、大砲の搭載位置は船首楼と船尾楼に限定された少数の搭載だったのに対し、大西洋岸のヨーロッパ諸国で多く建造されたガレオン船の大砲搭載方式は、船の幅の最も広い中央部甲板の両舷に多数装備され、左右どちらの方向へも発射可能な状態で設計、建造されたのである。

装備する大砲も前装式の青銅砲多数であり、中には、砲列甲板を二段にして、二倍の搭載砲を持つ軍艦まで現れ始めたのであった。

地中海世界ではガレー船が、まだ優勢だったが、それ以外の海域では、帆走砲艦である「ガレオン船」が徐々にその勢力を拡大し、初期には小さかったガレオン船も1580年代には、排水量も増え、スペインの無敵艦隊の1588年のイギリス侵攻を開始する頃には時には巨大な船体と多くの搭載砲を持つ、海の巨人に成長していったのであった。

そして、やや遅れて、オランダもフランス王家も外洋性の高い帆走戦列艦を建造、大航海時代の植民地獲得競争に勇んで参入して行くのである。

一方、あれほど繁栄したヴェネツィアを初めとするイタリア諸国は、大航海時代の到来と共に海洋国家として没落、衰退が進み、ナポレオンのイタリア遠征によってとどめを刺されるのであった。


(ヴェネツィア、ドゥカーレ宮殿の武器展示室)

ヴェネツィア、サンマルコ広場にある旧ヴェネツィア共和国総督府「ドゥカーレ宮殿」の三階の運河に面した大会議室の間の並びに旧武器庫、現在の武器展示室がある。大会議室の間は、有名なティントレットの「天国」の大きな絵の他、壁面全てにヴェネツィアの歴史を物語る絵画や宗教画が無数に掲げられていて壮観である。そういえば、このフロアーを訪れた折、アンドレア・ヴィチェンティーノの「レパントの海戦」の絵は確か、元老院の間に掲げられていたと思ったが、安易に前を通り過ぎてしまって良く見なかったので日本に帰ってから後悔している。(笑い)

この旧武器庫がアルセナロッティ国立造船所工員の管理区域である点からも、日本の武家社会の武器、武具の管理方式と大きく異なる。

日本の武家制度の基本は、飽くまでも武器、武具の調達、整備は侍個人の家々の問題とされていた。幕末・明治維新の戊辰戦争での戦闘時でさえ、個人調達を義務付けた諸藩が多い点を考えるとヴェネツィアの兵器管理の先進性を感じさせられる部屋であった。

しつこいようだが、日本軍の場合、第二次世界大戦時でさえ、士官の主要武器である拳銃と軍刀は個人調達の装備であった。どうも、日本人には長い間、標準化や互換性の観念が欠落していたとしか思えない節がある。

ここに展示してある武器は、説明によると14世紀~17世紀のヴェネツィア共和国時代の武器を主に展示しているようで、四室から構成されていた。


第一室の正面には、ミラノ製を含むと思われる豪華な甲冑群が並び、甲冑の後ろには日本の大薙刀に似たポールアーム(長柄武器)「グレイブ」が大量に林立していた。グレイブはフランス発祥の武器で、薙刀に似た刃長、約55cmのブレード部分と2m前後の柄から構成されている。薙刀と大きく異なるのは、刃と反対の棟の中ほどに敵の武器を受けるためのフックが付いている点である。

グレイブが使用された時代は、中世末期(13C末~14C初か?)から17世紀だったと本で読んだが、ここに展示されているグレイブは、表示によると1490年頃の物らしく、刃部は広い身幅の関係で日本風に表現すると大薙刀の長さに見える。

 第一室の一方の壁に、「ハルバート」が多数展示されていた。「ハルバード」に付いては前述したが、日本では「槍斧」等と訳す場合があるように、槍+斧+フックの3機能を合体させたヨーロッパらしい強力な複合武器である。展示されているハルバードの全長は比較的短く、2.3m前後の物が多い。槍と斧、フックの3つの部位から構成されるヘッド部分は、全長50~60cm位だろうか? 

ハルバードの発祥地は不明。多くの国が昔から興亡を繰り返してきたヨーロッパでは、敵国の持つ最新式の武器に対する情報の収集能力が高く、優秀な兵器は、瞬く間にヨーロッパ中に普及しているので、近接戦闘に有効なハルバートは短時間でヨーロッパ全土に普及したものと思われる。

また、日本では長柄武器として、薙刀や槍、長巻き位しか普及しなかったのに対し、ヨーロッパでは、ハルバード、グレイブの他にも、「パルチザン(鎌槍に似た武器)」、「パイク(槍)」、「ビル(ハルバードに似た武器)」、北ヨーロッパの大斧「バルデッシュ」、イングランドの大鎌「ウォー・サイズ」等々、複雑多岐に渡るポールアームがあった。


第一室のもう片方の壁と第二室、第三室には、主に剣と「ポールアーム(棹状武器)」が収蔵されていたが、三室を見た感じでは、ドゥカーレ宮殿最大の武器コレクションは、15世紀後半から17世紀のヴェネツィアの刀剣類だった。

前半の展示品は中世騎士の時代からの流れを引いた「ナイトリー・ソード」には、15世紀の表示があった。刀身の長さは約80cm、柄の長さから想像すると片手使いの剣が殆どだった。

時代の経過と共に(16~17世紀か?)、刀身は長く成る傾向で、両手使用の剣「ツーハンデッド・ソード」が増えて行く感じが、展示内容からは感じられた。

本では、十字軍によって、中東の湾刀の影響を受けたと書いてあるが、鉄砲が戦場の主流武器として普及するまで、イタリア・ヴェネツィアでは騎士の時代の剣の系譜を引く、諸刃直刀形状の剣が愛好されていたと思われる。

湾刀は無いかと探してみると片隅に、トルコの刀剣、「タガヤサン」があった。タガヤサンは日本でいう逆刃刀で、彎曲した刀身の内側に刃がある刀である。トルコの有名な「イェニチェリ」の基本的な武器で斬れ味で有名だった。展示の表示には、17世紀、ペルシャとあり、当時ヴェネツィアではトルコを含めて中東のことをペルシャと呼んでいたらしい。

日本の打刀に似た短くて軽快な刀剣は、この刀身の長さ60cm位のタガヤサンだけで、これ以外の多くの剣は、長大で重そうな諸刃の剣が主流であった。

但し、1560年の年紀がある展示品には、細身で突き専用の剣に近い両用の剣があり、刀身も軽そうで、刀身も多の剣に比較して極端に長く、時代は、既に火器の時代に入った事を示すように感じた。


その他の武器としては、「クロスボー」の展示が少数ではあったがあった。弓も小形で、矢も長さが60cm位と短かったが、材質と形状から想像するに、貫通力は相当のものがあったと想像される。円筒型の矢筒も軽快そうで移動に便利な気がしたが、携帯できる矢の数はそう多そうでは無かった。(20本位か?)

剣とポールアーム、クロスボー以外では、金属製の中央部が円盤状に盛り上がった盾があったし、火器では、フリントロックのマスケット銃と拳銃が幾つか展示されていた。最後の部屋に日本の徳島藩の狭間筒を拡大して野砲にしたような口径30~35mmの長砲身の野砲(砲車付)があった。砲身長は2m弱あるように感じた。


日本の戦国時代以降の火器の発達を考える時、ヨーロッパと大きく異なるのが大砲、それも、特に砲車を用いた野砲や攻城砲の発達が全く無かった点であろう。日本独特の抱え大筒の修練に各藩の鉄砲方が励んでいた頃、ヨーロッパでは、砲車の改良と砲身の軽量化に努力していた。その改良途上の実物の一つが、目の前の展示品であると強く感じた。

後に調べたところでは、ヴェネツィアでは、船の修理を1104年以降、艦船の建造を1320年から、各種武器の製造を1370年からナポレオンに侵入される1797年まで、続けていたという。

であれば、ドゥカーレ宮殿の武器コレクションの大半は、14世紀後半から、ナポレオン戦争以前のものと考えてそう大きな誤差は無いように感じた。


(ルネッサンス・イタリアの軍事的特徴)

ルネッサンス初期のイタリア独特の軍事で最初に気になるのが、軍事面での一般市民の比重が大きくなってきた点であろうか?

敵襲があると市民は武装して担当の城壁に駆け付け、クロスボーや更に大型で箭の貫通力も強い大型弩器を操作して、守備に就いたといわれている。また、野戦でも軽装歩兵の市民軍が重武装の封建諸侯の軍隊を圧倒した例も多かったようだ。しかし、ヴェネツィアやフィレンツェを初めとするイタリア半島の国家の市民の多くは、戦争よりも経済活動による利益の追求に興味の大半が向いているのが実情であった。

そこでこの時期に登場したのが、傭兵である。没落した小領主や流民などの雑多な人種によって構成された傭兵は、外見は如何にも格好良く威風堂々としていて勇壮に見えるが、戦場での実態は外観と全く異なる軍隊であった。

優れた傭兵隊長の資質で最も重要な要素は、出来る限り戦争をせず、戦争をしても味方を殺さずに、如何にして多くの金貨を手に入れる才覚があるかどうかであった。雇う側の共和国や王国にしても、平和な時期の軍隊に出す金は出来るだけ値切りたいし、金の掛かる傭兵は必要最低限の短期間の雇用であるに限ったのである。

その結果、有名な史上に残るような会戦でも双方の戦死者が、一人、あるいは二人程度の極めて少数で終ったケースが多いのが、イタリルネッサンス期の双方が傭兵隊同士の戦闘の実態であった。

しかし、これが、北からの神聖ローマ帝国の軍隊や西のフランス軍の攻撃では、このイタリア流の戦争ルールが適用されなかったのである。フランスのシャルル8世のイタリア侵攻時には、フランスから侵入した同王の軍隊は、イタリア北部から中部、そして南部のナポリまで、「バターにナイフを差すように」と表現された如く、各地でイタリア諸侯の傭兵軍を簡単に撃破している。

海という防壁に囲まれたヴェネツィア共和国は例外だったが、陸続きのイタリア本土の各地の諸侯の傭兵隊を主とする軍隊は、フランス軍の兵器と戦意に圧倒されて、瞬く間に粉砕されている。

ここら辺にも、近世から近代に続く弱兵の国イタリアの伝統(笑い)が感じられる。


このイタリアルネッサンスの栄光の時代が終ろうとする時期のヨーロッパ各国の軍制と我国の戦国時代から江戸初期の兵制を比較してみると有り難いことに、イタリア諸国よりは、王制の強力な軍隊を持つフランスやスペイン、神聖ローマ帝国の兵制に近いような気がしている。

特に、精神的には鎌倉時代以来の「一所懸命」の思想が武士の中に脈々として息づいてきていたし、主君に身命を賭して奉公するという道徳観も侍の中に根付きつつあった。

一方、それまでの先進国イタリア諸国で発展した工業化や標準化、互換性の思想は、軍事でイタリアを凌駕した大陸軍国フランスや海洋の国オランダやイギリスで広く採用されて普及している。例えば、帆走戦艦に搭載する艦砲のサイズなども、大きい方から挙げると、32ポンド砲、24ポンド砲、12ポンド砲等とヨーロッパ各国での標準化が進み、敵の大砲を分捕っても、直ぐに自国の戦列艦に搭載して使用出来る所まで進化していたのである。急造の艦船などでは、搭載している艦載砲の国籍が種々雑多な場合も往々にしてあったと伝えられている。それでも、大きな混乱が起きなかったのは、砲の口径と砲種がヨーロッパ諸国内で一定の暗黙の了解があって、小差はあった物の同一運用に大きな支障を来さなかった為とみられている。

このような点からもヴェネツィアの兵器製造所であった「アルセナーレ(国営造船所)」の果たした役割は大きかったと個人的には思っている。巨大国家の存在しなかったヨーロッパでは、如何に敵国の長所と欠点を素早く入手して、敵の長所を採り入れ、短所を攻撃する行為が、勝利への早道であった。


(イタリア諸国を震撼させたフランス軍の侵攻)

十字軍の時代が終って、イタリアでルネッサンス時代が始めると、産業や文化の諸方面で新しい革新が始まる。15世紀に入ると鉄の製造でも、従来の旧式な炉には替わって、「木炭高炉」が登場、均一で高精度の鉄が生産され始める。加工技術の方でも、水力ハンマーや足踏み式研磨機の技術革新により、量産技術が進歩、プレート・アーマーの登場に大きく貢献している。

しかし、マスケット銃が戦場で活躍し始めた15世紀中頃以降、完成度が高く重いプレート・アーマーと長大な剣の活躍場所は急速に縮小している。16世紀も後半になると火薬を用いた火器の普及により、鎧も頭部や胸部を覆う程度の部分的で軽快な物に大きく変化して、戦場での主役も歩兵の持つマスケット銃や最新式の野砲へと転換して行くのだった。


そのような時代、中小の共和国や王国がバランスを執りつつ共存していたルネッサンス期のイタリアに衝撃を与えたのが、フランス王シャルル8世によるイタリア侵攻であった。

この第一次イタリア戦争と呼ばれる1494年のフランス軍のターゲットは、南のナポリ王国であった。仏伊国境から侵入したフランス軍とスイス傭兵の大軍は、瞬く間に北部及び中部イタリアを制圧して、ナポリに到達している。その様子は、上述したように、「バターをナイフで刺すように」と表現されている。

さてここで、第一次イタリア戦争全体を述べるつもりは全く無いが、イタリア諸国がバターで、ナイフがフランス軍の何なのかを少し、考えてみたい。

端的に言って、フランス軍のナイフとは、機動性に富んだ、フランス陸軍の攻城砲(野砲)と考えたい。フランス軍の描かれているナポリ入場のシーンを見ると馬に牽引された機動性の高い大砲が幾つも描かれている。

その画面だけ見ていると後年のスウェーデン王グスタフ・アドルフが使用した3ポンド砲やナポレオンの用いた青銅製野砲と殆ど変わらない形状をした大砲が描かれている。

それまでの大砲、特に攻城砲といえば、大型で据え付けに長時間を要する上、砲撃時の射撃角の変更にも多大な手間と時間が必要であった。これは、洋の東西を問わず13世紀までは普通の状況であり、例えば、エジンバラ城に現在展示されている1449年製で、全長4mを超える大型攻城砲の「モンス・メグ」やオスマン帝国のメフメット二世が1454年のコンスタンティノープル攻略の為にハンガリー人ウルバンに命じて製作させた長さ8m以上の射石砲がイスタンブール軍事博物館に現存していて、1400年代中頃に使用された大型攻城砲の一端が解る。けれども、これらの大型射石砲は、移動や設置、装填、そして射角の変更に膨大な時間を必要とするのが常であった。


しかし、ヨーロッパ各地では、1400年代の初め頃から大砲やマスケット銃の改良、開発が始まっている。大砲の進歩の中でも、個人的に最も重要な発明の一つが、「砲耳トラニオン」だと思っている。

砲耳の発明によって、大砲の使用方法は画期的に進歩している。砲耳によって、大砲の固定方法は容易になり、大砲を載せる砲架の改良も大きく進んでいる。砲耳と砲架の一体化により、従来大変だった大砲の射撃角度の変更が信じがたいくらい容易になり、射程距離の変更や標的に対する目標変換が極めて短時間に可能になったのである。

加えて、砲架を支える車輪や車軸の強度向上も併行して行なわれた結果、移動可能で、射撃体勢が短時間で容易に出来る小形攻城砲が史上初めて登場したのであった。

この小形で扱いやすい攻城砲(野砲)をひっさげてフランス軍は、イタリア諸侯の軍や城塞を容易に突破して、短時日でナポリ入城を果たしたのであった。

この第一次イタリア戦争と第二イタリア戦争を通じて、フランス王家はナポリ王国の継承権を強力に主張している。その結果、ナポリの城の城門付近は、イタリアの城郭でありながらまるでフランス王家の城のような建築様式に変わっている。この城門を見ながら、ナポリの大学出身のガイドさんの紹介では、「アンジュー家の色彩の濃い城門建築」と表現されていたのが印象的だった。


イタリアルネッサンス期の兵器と戦術の流れをここまで観察した結果、この大転換期に大きな因子が二つあることが解ってきた。

一つは、ここまで述べてきたように15世紀半ばから有力になった戦場での「火器」使用の有効性の劇的な向上による歴史的な転換であった。中国によって発明され「火薬」によって生まれた「火器」は、ヨーロッパに渡ってから、驚異的な発達を遂げた結果、戦場の主役の位置を確実なものとしている。それは、「核兵器」のある今日の世界の戦場でも主役の座を奪われていない点からもその影響の大きさが理解できよう。

二つ目の歴史的な転換点が、「大航海時代」の到来による地中海型ガレー船の終わりと帆走軍艦の登場である。後年、「砲艦外交」の言葉が生まれたように、大型の大砲を多数装備した戦列艦の数によって、強国の暗黙の順位が決まったように、最初に優秀な「火器」と「帆走戦列艦」を手中にしたヨーロッパ諸国は、全世界の温順な人々の国々を次々と征服し、己の植民地としていったのである。 それは、両方とも、イタリアルネッサンスの時代に芽生えた「火器」と「帆走軍艦」の発展によって支えられていたのである。


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