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17.新春夢想:世界の城郭に遊ぶ

「兵器」が主題なので、「城郭」は本来のテーマから大きく逸脱してしまうが、新春の夢と言うことでご容赦頂きたい。物心付いた5歳の頃から「城」が好きで、城のある城下町以外に殆ど住んだことが無い関係もあって、余暇と経済的な負担が可能であれば、世界中の主要な城廓を遍歴したいと妄想することも多かった。

国内では、対馬の朝鮮式山城、「金田城」を始め、平安時代初期の東北の城柵の古代城柵群や、平安時代中期の秋田県横手市の「大鳥井山の柵」等を歩いたし、主に室町~戦国期の城を散策して来た。

白亜の天守や櫓の残る江戸時代の城も嫌いではないが、城下町を含む一体化した「江戸期の文化ゾーン」として味わった方がより好ましい感じがして、「城下町探訪」をメインに全国を歩いて来た。

国内は、それでも150以上の城や城下町を探訪することが出来たが、誠に遺憾ながら「世界の城郭」に関しては20カ所を越える程度しか訪れていない。

そこで、新春でもあり、興味のある有名な城廓を想像の世界で勝手に選んで、気ままに素材として料理してみたいと想っているので宜しくお願いしたい。


(千里の長城)

「万里の長城」と聞くと始皇帝や漢代の長城を思い起こされる方も多いし、時代の下がった明代築造の八達嶺の万里の長城を歩かれた方も多いと思う。

ヨーロッパでは、古代ローマ皇帝ハドリアヌスによって英国北部のスコットランドとの境に築かれた「ハドリアヌスの長城」が有名である。

始皇帝の長城は知らないが、甘粛省の敦煌の西、陽関近くに今でも残る版築の漢代の長城は歩いたことがある。周辺の砂漠の土をある程度の厚さに版築し、サンドイッチ状に緩衝材として植物を敷き、また、土を詰んでは棒で叩いて造った形状が現在でも見て取れる遺跡で、二千年以上経過しているのに、砂漠の彼方に向かって伸びる、その姿は悠久の時を感じさせるに充分だった。

「ハドリアヌスの長城」にしても、ニューカッスル・アポン・タインからカーライルまで118kmに渡ってスコットランドに対する防御壁として1世紀半ばに構築されたが、北からの攻撃に対する障壁の実用的な使用は長く、17世紀に至ると聞く。


それらの東西の有名な長城に比較して、「千里の長城」の知名度は、今、一つだと思う。殆どの人は、聞いたことも無いし、記憶の片隅にあったとしても、詳細な実態を明確に覚えている方は、余程、「東アジア史」に詳しい方だと思う。

「千里の長城」が正確な理解を中々得られない原因の一つに、長城が、そもそも二つ存在する点にある。朝鮮半島の二つの王朝がそれぞれ別の場所、異なる時代に長城を建設している。


1)高句麗の「千里の長城」 :唐からの国土防衛の為、高句麗が建設

2)高 麗の「千里の長城」 :中国東北部の女真族対策として高麗が建設


高句麗の長城は、631~646年に建設され、有名な淵蓋蘇文えんがいそぶんもこの建設に携わって唐軍に対する防衛線として構築している。この長城は、隋、唐と高句麗との戦いで有名な遼東城や安市城を中核城廓として、渤海湾から北の扶余城まで、建設されている。

建設地域は、現在の中国遼寧省で高句麗の首都の今日の平壌と旧首都の国内城を護るように南の渤海から北東に向かって南北に伸びるように建設された土塁の長城だったと考えられている。

高句麗の「千里の長城」は、唐の太宗の高句麗侵略戦では相当の効果を発揮したが、強力な指導者淵蓋蘇文を失った後、唐の高宗の高句麗征討戦では、何らの効果も無く、名将李勣の率いる唐軍は「千里の長城」のほぼ中央に位置する新城を突破して首都平壌に迫り、新羅と連合して強国高句麗を滅ぼしている。


高句麗滅亡から凡そ400年後、高麗は、朝鮮半島北部に中国東北部からの女真族の侵攻を防ぐために「千里の長城」を建設している。場所は、高句麗の千里の長城が今日の中国東北部だったのに対し、高麗の千里の長城は、現在の北朝鮮北部に位置する。

鴨緑江の河口近くに始まり咸鏡道永興に至る防御線で北に向かっての備えであり、約10年の歳月を掛けて建設され、1044年に完成している。

しかし、女真族が急成長して「金」を建国、北宋を滅ぼすと高麗は、金に臣従せざるをえなくなり、その結果、徐々に、その価値を失って千里の長城は形骸化していったのである。


(モット・アンド・ベイリーから発達した英国の城)

ヨーロッパの城の起源的な形態の一つにウィリアム征服王時代から始まる英国でのノルマン人の「モット・アンド・ベイリー」がある。侵略者であったウィリアム王旗下のノルマン人は、英国の各地に自身の権威を確立するため土と木で造った急造の城塞を次々と建設している。それが、「モット・アンド・ベイリー」と呼ばれる城塞であった。

この城塞は、小高い天然の丘や人口の丘の上に、領主の居館となる木造の城塔を建設し、丘の下の平地に堀と木柵に囲まれた側近や臣下の居住区が構成されている。

征服最初の段階では、ウィリアム王の本拠地ノルマンディで部材加工を行って、船で英国各地に運び、要地に一日で組み立てを終わり、夜には建設の終わった「モット・アンド・ベイリー」の中に食料を運び込んで宴会を開催して、周囲の人民に威圧を加えたと聞く。

この雰囲気と経過は、秀吉の墨俣築城の逸話に近く、一夜にして敵地に城を築く得意技をウィリアム征服王の臣下達は、東西の違いはあるものの実施して、昨日まで敵だったイングランド国民に威圧を与えることにより、短期間でのイギリス征服に成功している。


初めは野戦築城に近い急造の「モット・アンド・ベイリー」がノルマン人によって、英国各地に建設されたが、主要地点の城柵は急速に石造に変更されている。現在の英国王家の持ち城、「ウインザー城」もその一つである。今日のウインザー城の航空写真を見ると城中央部のモットを挟むように2つのベイリーが明確に見て取れる。川岸の細長い土地の上に建設された城は、ヘンリーⅡ世の時代木造だった城塔が円形の石造キープに建て替えられ、その他の部分も順次、石造建築に変更されて、今日の姿になっている。

国防上の重要拠点の一つ「ドーバー城」が「モット・アンド・ベイリー」がスタートだったかどうかは不明だが、ドーバーの白い崖の上の最高所に、ウィリアム征服王が最初の土塁の城塞を建設したことは確かである。

土塁と木柵の城塞はやがて、石造りの城壁になり、更に、大キープが建設された。ジョン王の時代には、外城壁が建設されて、西欧で最初の「多重環状城壁を持つ城塞」として進化していくのであった。


(城門の傑作:南京聚宝門とアレッポ城塞)

城門と聞くと攻守の要であり、東西の城門の代表選手を考える時、アジアでは、南京城の「聚宝門しゅうほうもん」が思い浮かぶ。「聚宝門」は明の最初の首都南京の正門で、現在は「中華門」と呼ばれていて、ご覧になった方も多いと思う。

門全体の大きさは、東西128m、南北129mと資料にあり、この一ブロックだけでも小城廓に比肩できる大きさがあった。城門は、直線上に四つの門から成り、門内には27個の守備兵を潜めさせる「蔵兵洞」と呼ばれる空間があり、総数で三千の兵を収容できたという。

外側に面する高い城壁の上には三階建ての大きな城門が存在感を示して建ち、背後の三つの城門の上には内門が同じように三つ建設されていた。

城外から侵入した外敵は、四つの頑丈な城門を突破する必要があり、一つの城門を破壊通過しても、周囲の高い城壁から守備兵の攻撃を3回以上受ける危険を覚悟しなければ南京城内には突入出来なかった。


我国の徳川将軍の居城江戸城の正門大手門でさえ枡形の門は二つ、それも外の門は低い高麗門で、石垣も低く、平和な国の平和な城門の印象が強い。それに対し、南京の「聚宝門」の威圧感は圧倒的で、敵兵の侵入を例え許したとしても、その後、三度に渡って前後から圧殺できる重圧感は相当な物があったと思うし、映像を見ても戦乱が収まって間もない時期の建築の感じがする。

北京の紫禁城の通称前門、壮大な正陽門の存在感も大きな物があるが、何処か恩威兼ね備えた雰囲気があって、南京聚宝門のような一度攻め込んだ敵を最後まで抹殺しなければ収まらない殺気を感じない。


一方、エジプトと中東を結ぶ黄金の三日月地帯の場合、その地政学的な位置関係から、4千年に渡って、多くの民族が興亡を繰り返した。

この地域の北部シリアのアレッポの丘にも、紀元前2千年頃から城が築かれている。丘の高さも丁度良く、丘を取り巻く斜面の傾斜も好ましかった為、頂上を平坦にならして木柵や石の壁で囲繞すれば、それだけで天然の要塞になったと考えられる。

多くの異民族が攻防を繰り返した中東だけに、この「アレッポの城塞」の主権者も目まぐるしく交代している。現在ある「アレッポの城塞」の基本形を整えたのは、アイユーブ朝の創始者サラディンと息子のアル・ザーヒルだといわれている。

この城の最大の特徴は、城塞下の平地から入城できる城門が一カ所しか無いことである。平地部に前門と呼ばれる堅固な入場門が聳え、前門の上部から傾斜した橋が丘の上部に向かって延びている。

丘を3分の2程登った所に、新門と呼ばれるアル・ザーヒルが建造した大きな中門がある。中門は、それだけで一つの城のように巨大であり、後の支配者は、自身の宮殿を新門の上に建設しているくらいである。


話は変わるが、同一民族内の戦乱だった日本の戦国時代、

小城でも城門は2つあり、大きな城、例えば秀吉の大坂城二の丸で見ると出入り口は、大手口の他に、玉造口、京橋口、青屋口の合計四つを設けているし、滋賀県の彦根城のケースでもメインの京橋口、佐和山口を含めて複数の城門を開けている。

今まで見た日本の城の本丸や二の丸で出入り口を一つに限定して、悲壮なまでの冷徹な築城思想を現わしていたのは、松倉重政の築いた長崎島原城の本丸、二の丸の出入り口一つと、四国高松城の本丸への入り口一つ位しか記憶に無い。

その点、敗戦すれば血族全部が地上から抹殺されるケースも少なく無い中東での戦いでは、一カ所の城門の勝敗に自己の全てを掛けていた必死さと絶望感が、「アレッポの城門」から痛切に感じられる。


(大砲と攻城兵器には弱かった大坂城)

豊臣秀吉が大坂城の建設を始めたのは、1583(天正11)年であった。この百年以上前の1464年のメフメットⅡ世によるコンスタンティノープル攻略戦には、既に、大型の攻城砲が多数使用されているし、それ以前から、石造りの城塞の壁を破壊するための大型の平衡錘投石器トレビュシェットが西洋や中東、中国では大活躍していた。

天正年間に近いところでは、1529(享禄2)年のトルコのスレイマンⅠ世による「第1次ウィーン包囲戦」がある。包囲する側のスレイマンⅠ世は、イスタンブールから遠路、ウィーン攻略の為に300門の大砲を苦労して運んで攻撃を開始している。一方、護るハプスブルグ家側も大砲による火災を警戒して城壁外の家屋を撤去、城壁の破壊によるトルコ兵の乱入を想定して、城壁内に土塁で二重の防壁を急遽構築している。更に、トルコ側の砲兵陣地を攻撃するために70門の大砲を準備して待ち構えていた。

結果的には、ウィーンはムスリムの強力な攻城砲撃を含む包囲攻撃に耐えて冬を迎えた結果、雪と共に流石のスレイマンⅠ世もイスタンブールに撤退している。

但し、この50余年後、トルコ帝国は再びウィーン攻略を目指して、「第二次ウィーン包囲戦」を実施している。この時も少数のオーストリア側の苦戦や両軍の大砲の活躍があったものの結果的には、キリスト教側の勝利となり、トルコの衰退の兆しが始める戦いとなった。


大坂城はともかく、戦国時代当時の日本の城廓の大半はかき揚げ土塁に水堀、土造りの壁と木造の櫓を主とした貧相な藁葺き屋根か板葺きに置き石の貧弱な建物しかない構造物だったので、日本では大砲が普及しなかった可能性も有る。

その点、12世紀以降のヨーロッパの城廓は石造の堅固な城壁を持ち、壁の幅も大型の平衡錘投石機の飛ばす重量のある石弾にも耐える厚い城壁に変わっていたのである。また、大砲も初期の射石砲から、鉄の丸い砲弾を発射する大砲に変わりつつあった上、15世紀末のブルゴーニュ戦争の頃から、ヨーロッパの戦場では砲車に大砲を載せた野戦砲が登場している。更に、鉄製の球形砲弾の普及により、それまでより射程距離が長く、破壊力も大きい攻城砲が出始めていた。


さて、主題のヨーロッパから来たイエスズ会の宣教師も絶賛した秀吉の「大坂城」はというと、やはり、当時の日本人の一般常識通り、火縄銃の射撃と槍の密集攻撃を攻城手段とする大軍の包囲攻撃に耐えうるよう設計されたと考えられる。

即ち、大型投石機は愚か大砲に対する備えも全く準備していない城廓だったのである。もし、少しでも当時のヨーロッパ情報の入手に努力して、最新の大砲の射程距離と命中精度を考慮していれば、外郭の防御線と城の主体部である本丸、二の丸の距離を充分開けて設計したと考えられる。

しかるに、秀吉の心配していた南側と東西は良いとして、北西の京橋口と北東の青屋口の間の防御線は紙のように薄い。東西と南側の三方の守備が極めて重厚巧緻であるのに対し、淀川や旧大和川(平野川)を含む中小河川が複雑に入り組んでいる地形に安心した秀吉が防備を怠ったとしか思えない薄弱さを露呈した防御ラインである。


城の北側を流れる平野川の川幅は淀川に比較すると狭く、強固な出丸も存在しない。秀吉自身は、自分が心血を注いで築城した大坂城最大の欠点は大軍を展開し易い平坦な南側に有ると思って節がある。その為、生涯を掛けて子秀頼のために改修を続けて、南側の改修、増強を図っている。

しかし、当時のヨーロッパの常識から見れば、天守や本丸御殿への大砲の集中射撃が短距離で可能な北側は、殆どがら空きだったのである。後世でいう縦深の薄い、薄弱な防御線しか、存在しなかった。

もし今人気の真田信繁が砲術の大家であれば、淀川に面した北側、例えば備前島に強力な出丸を築き、大坂城本丸に対する徳川方の直接射撃を妨害したと考えるが如何であろうか?


逆に、攻撃側の徳川家康は永年掛けて、幾つもの攻撃手段を準備したと思われる。その配下には英国人のウィリアム・アダムスも居たし、親しかったオランダ商館からも十分なヨーロッパの最新情報を家康は得ていたものと思われる。

その結果、堺鍛冶や近江の国友鍛冶以下の鉄炮鍛冶職に大筒の製作を急がせる一方、海外からの大筒の調達にも余念が無かった。この当時、家康が調達した大砲の口径と射程距離に関して、詳しい資料が手元に無いので申し訳無いが、オランダ製半カノン砲12門、英国製カルバリン砲4門、セーカー砲1門等のヨーロッパ製大砲を購入して砲撃の中核部隊を編成し、加えて火縄銃技術の拡大発展型の(当時としては)国産大口径砲を多数製作して、攻城戦に使用したと考えられる。家康は、当時の大砲の射程距離も良く理解していたようで、大坂城の直ぐ北、備前島にこれらの大砲、100門を集めて集中運用させたという。

集めた大砲の射程距離に関しては色々な説があって、私には、現時点で判別できる良い資料を持って居ない。一説には、2km程の射程距離があったとも伝えられている。

慎重に準備された大筒によって、「大坂冬の陣」では、城北備前島からの一斉射撃で天守を始め本丸御殿が被弾、淀君の侍女が死亡する惨事が発生している。この淀君の眼前で起きた惨事の衝撃こそ、家康が永年掛けて準備した最大の目標の一つだったと考えられる。

真田丸の活躍もあり、籠城戦を有利に進めてきた豊臣方が急に腰砕けになり、堀を埋める等の極めて不利な講和条件に同意した真意は、大坂城の女城主である淀君の恐怖心に火を付けた大砲の斉射がもたらした大きな効果だったと考えられる。


今回は、新春の初夢ということで、殆ど行ったことの無いヨーロッパ中東の城廓資料を中心に空想の城歩きをしてみた。

北京の紫禁城の正陽門の城壁や、ロンドン塔の石壁を触って感触を楽しんだり、インド、ムガール時代のアグラ城塞のアマルシン門から内郭に続く屈曲した通路に立ち止まって想いを馳せたりと世界の城歩きの時間は、楽しく、空想がドンドン広がっていくのを感じる。

しかし、現実には、行くつもりだったシリアのアレッポ城塞の城門ヘの探訪旅行も内乱のため実現出来ず、僅か、数年前に行った友人から同城の話を聞いて羨ましく思っているのが現状である。(苦笑)

しかし、世界の名城を見て歩けない悔しさは本棚にでも置くとして、満開の桜の花の下で歩く千鳥ヶ淵の広い堀と緑豊かな土塁の景観は、同一民族内での平和な文化を長く育んできた国の幸せを感じるに、十分な眺めだと毎年同じ場所を歩きながら想っている。

(参考資料)

1)世界の城の歴史図鑑 チャールズ・スティーヴンソン  柊風社  2012年


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