16.大砲の成長期:明治時代
近代的な世界の大砲の大成長期が丁度、日本の明治時代に当たると前から思っていた。前回、「幕末維新の大砲」を書きながら、その思いが益々強くなってきたので、何時もの通り極めて準備不足を承知で、気持ちを優先して「明治時代の大砲」を書かせて頂くことにした。
しかし、大砲と言っても、海軍が戦艦に搭載する大型砲や海岸の要塞に配備した重砲、要塞や敵陣地攻撃用の榴弾砲や臼砲等々、多彩な種類があるので、今回は、野戦の主役、各国の『野砲』に的を絞って勉強してみたいと考えている。
「明治」と呼ばれる時代は、日本の場合、大平を謳歌した侍の時代から一変して、全国民が一致して近代化と富国強兵を目指して激走した怒濤の時代だった。その一方、世界的には西欧諸国が産業革命によって手に入れた近代兵器によって、植民地拡大に狂奔した時代でもあったのである。
ヨーロッパ諸国が大航海時代以来、300年以上費やして達成した成果を極東の小国日本は、たった50年弱の期間で成し遂げようとしたのであった。それも、三度の大戦争(西南戦争、日清戦争、日露戦争)を戦いながら、国内の社会諸制度(憲法制定、身分制度の改革、教育改革、経済改革等)の急速な変更と実施を併行して行った有り得ない時代だったのである。
(幸運だった19世紀後半の日本)
欧米諸国が近代兵器によって、絶対的な覇権を確立していった19世紀後半の時代を考える時、「極東の日本は幸運だった」と思うことが多い。参考のため、大雑把に年代順に日本を取り巻く大きな事件を列記してみよう。
黒 船 到 来 1853(嘉永6)年
晋 墺 戦 争 1866(慶應2)年
明 治 維 新 1867(慶應3)年
日 清 戦 争 1894~1895(明治27~28)年
日 露 戦 争 1904~1905(明治37~38)年
第一次世界大戦 1914~1917(大正3~6)年
ペリーの日本来航が19世紀後半の初年であり、日本が国運を掛けてロシアと戦った日露戦争が、その約50年後だったことを思うと、日本近代化の準備期間が半世紀取れたことは誠に幸運だったと感じる。
北前船や菱垣廻船、樽廻船が海上輸送の花形だった日本の海にペリーの蒸気船が現れて日本の上下は驚愕、全国民は大きく動揺した。しかし、幸いな事に、ペリー艦隊はまだ、鋼鉄製の戦艦では無く、その内の2隻は蒸気機関を搭載していないただの帆船だったし、搭載砲も先込の滑腔砲だったのである。
もしペリー来航の、この段階で欧米の近代化が完成していれば、日本刀を差した武士達が如何に抵抗しても先進国の植民地に日本がなっていた可能性が高いし、死ぬ気で頑張って学習しても西欧に追い付けなかったかも知れないと戦慄する思いがある。
ところが、産業革命後の急速な近代化の初期段階で日本は学習の機会を与えられた事実を考えると我国は誠に幸運だったと思う。
日本人は中華思想を信奉する清国や李氏朝鮮と違い、火縄銃の伝来時にも即応して戦国時代終了の一助としたように、古来、新規の文明導入に対し、何時の時代でも積極的だった。
この民族的な新規の文明に対する尊敬と明るい受け入れ姿勢が明治期の日本人にも大きく幸いしている。
西洋文明の偉大さを始めて実見した黒船来航から15年足らず後に起きた「戊辰戦争」では、両軍共に、フランス式の四斤山砲やオランダ式の20ドイム臼砲、英国製の6ポンドアームストロング砲を実戦で使いこなしているし、海では榎本軍の開陽や回天、政府軍の甲鉄や富士山丸が遊弋、対峙するところまで成長出来たのであった。
日本人の勤勉さと国を挙げての努力は、僅か10数年で、ヨーロッパの弱小国並の兵器と軍隊を準備できたのである。それが、明治初年の日本であった。
(明治初年の日本とアメリカの動き)
それでは、本論に戻って、日本の明治初期の大砲(野砲)から話を進めたい。戊辰戦争で最も活躍し、その後に起きた「西南戦争」でも主力野砲の重責を担った大砲は、「戊辰戦争」で活躍した「フランス式の四斤山砲」であった。
前装式青銅砲ながら砲身内にライフルも施してあり、砲弾も旧式の(火薬の詰まっていない)球形実体弾ではなく、椎の実型で榴弾、榴散弾共に炸薬量の多い進歩した兵器であった。
他方、黒船を日本に派遣したアメリカの南北戦争では、注目すべき野砲として、「10ポンド パロット砲」が登場している。鋳造砲身に練鉄製のタガを嵌めライフルを切った後装砲で、安価でありながら強い破壊力で名を馳せた大砲で、南北戦争では、英国製のアームストロング12ポンド砲と共に野戦で活躍している。
けれども、南北戦争と戦争直後に起きた西部開拓時代の幕開けにより、アメリカでは大砲よりも後装式連発銃の開発が国を挙げての大ブームとなっていた。戊辰戦争でも使われたスペンサー銃や有名なウインチェスター銃等である。
世界的に見ても、大砲に先行する小銃の後部装填機構の開発と連発銃の量産化は、明治前期には完成の域に近付いていたのに対し、大砲の場合、材料、工作機械の精度、後部閉鎖機構のアイデアの何れをとっても大きく遅れていたのである。
(明治初年に於ける「野砲の問題点」)
明治初年の時点で大砲に関して実用化しつつあった技術は、ライフルを砲身内部に加工して、命中精度と射距離を改善した点と実戦で使える椎の実型の近代的な砲弾技術位であった。
当時の大砲は、前装砲が主流であり、発射の度に砲車が大きく後退する、速射性に乏しい前近代的な兵器でしか無かったのである。
当時の「野砲の主な問題点」を次に挙げると、
1)近代的大砲に必須の冶金学が未発達で、鋼鉄製砲身は、まだ、未完成だった。
2)後装砲最大の問題点の、構造が簡単で安全な砲尾閉鎖機構が未完成。
3)当時、砲身は直接砲車に固定されており、発砲後、砲車は大きく後退した。
の3点に絞られる。
まず、砲の材料の問題だが、日露戦争の旅順要塞攻撃戦で大活躍した「28cm榴弾砲」が青銅製砲身だったことは良く知られている。明治時代前期、青銅製砲身は鋳鉄製砲身と共にまだ良く併用されていた。製造技術的に製鉄技術の先進国英国を除くと、高度で強靱な鋳鉄製砲身を製造し加工できる国は少なく、米国の「パロット砲」のように弱い鋳造砲身を何らかの方法で補強して使用しているケースが多かったのである。
第二の大きな問題点が、装填方法の前装式から後装式への転換であった。「後装式大砲」は、l大砲が登場した頃からの悲願であり、大航海時代には既に子母砲(フランキ砲)が登場していたが、砲身後部の閉鎖機構は、ガスが大量に漏れる不完全なものでしか無かった。
先に述べた初期のアームストロング砲でアームストロングは画期的な砲尾の閉鎖機構を提案して、英国の主力艦に搭載する所まで到達したが、その後の実戦での不発事故の頻発と爆発事故により、大きく後退して英国は前装砲の時代へと逆戻りしている。
更に1)、2)の問題点以上に解決に時間が掛ったのが、3)の問題点であった。当時、砲身が砲車に固定されていた野砲は、発砲する度に砲車は大きくバウンドして後退し、再度、人力で元の射撃位置に戻さないと射撃を開始することが出来なかったのである。
その為、一部に砲身下部に後退防止のバネを装着したり、砲車の脚の後部に後退防止の鋤を付加して、後退距離を軽減する諸策を取っていたが、抜本的な改善には成っていなかった。
この射撃の基礎となる砲車を動かすこと無く、発射時に砲身のみが後退し、砲弾を無事発射した後には、最初の発射前の位置に砲身が復帰する技術(復座)が強く求められていた。しかし、この第三点の問題点解決には多くの垣根が横たわっていたのである。
(英国の大砲開発と野砲)
後装式ライフル砲の最初の開発国英国では、発明者ウイリアム・アームストロングが1855年の開発と実用化以降、挫折はあった物の後装砲の改良に日夜努力していた。同氏は、次々と新しいアイデアで最初の砲尾閉鎖機構の欠点を改善している。最初の鎖栓とスクリューを組み合わせた方式から、今日、「段隔螺式閉鎖機」と呼ばれている少ない回転角で完全な尾栓の閉鎖が可能な方法を開発したのである。この「段隔螺式閉鎖機」は、現代でも大型砲の閉鎖機構として、多くの国々で使用されている信頼性の高い閉鎖方式であった。
同氏によって始められた兵器開発会社は、途中幾つかの兵器メーカーと合体、順調に成長している。1897年の合併で社名は、「アームストロング・ホイットワース社」となり、日本には、大砲よりも日露戦争で活躍した戦艦や装甲巡洋艦を製造した企業としてヴィッカース社と共に良く知られることとなった。
更に、第一次世界大戦後の1927年には、ヴィッカース社と合併して、「ヴィッカース・アームストロング社」となっている。
日本の明治時代後半、英国はボーア戦争を戦っている。第二次ボーア戦争(1899~1902年)で活躍した主力野砲が1892年から配備された、「BL15ポンド砲」口径76.2mmである。この砲は、日本陸軍の三十一年式速射野砲と同様の後座機構に関して不完全な発展途上の砲で、海軍の戦艦群とその搭載砲が最新式のわりに、英国の陸上装備は陸軍国フランスに比較してやや遅れている印象がある。
第一次世界大戦の英軍は、「QF18ポンド砲」口径84mmで戦っているが、開発は1902年、配備は1904年~で、フランスの「M1897 75mm野砲」に比較すると7年遅れの駐退複座機付きの新型野砲配備で、この時点でも英陸軍の遅れが感じられる配備だった。
(「大砲王」クルップの活躍)
独の代表的な大砲メーカーというと「クルップ社」と「ラインメタル社」が直ぐに思い浮かぶ。独エッセンの実業家七代目クルップが1811年、「クルップ鋳鋼所」を建設したのが兵器メーカー・クルップ社の始まりであった。14歳で父の死に遭遇した八代目のアルフレート・クルップは自社の鋳鋼製品の販路拡大を図ると共に、鋳鋼の先進国英国に渡って鋳鋼関連技術はもちろんのこと企業運営や労働管理等広く学んで帰国している。
その後、1840年代から「クルップ社」は大砲を製作し始めて、当時の最先端の展示会だった第1回のロンドン万国博覧会(1851年)には、6ポンド砲を出品して金賞を獲得、1867年のパリ万国博覧会には当時としては怪物のような巨大鋳鋼砲を出品して注目を集めている。
クルップ社と日本との繋がりも古く、幕府から派遣されて最新鋭の軍艦「開陽」建造を監督中の榎本武揚はオランダから独に赴いて、クルップ社の工場を視察、同社の大砲18門を購入して開陽搭載を決定している。その陰には、破裂事故を起こした最新式のアームストロング砲を避けて、やや旧式ではあるが堅実なクルップ砲を求めたものと考えられる。
クルップ砲及びクルップ型式の大砲は、日本では「克式」と呼称され、日露戦争でも多数の「克式」が活躍している。
その間、1859年にはプロイセン陸軍から鋳鋼後装砲300門の発注があり、1861年とその翌年には、ベルギーから合計500門近くの注文を受けている。同社の鋳鋼後装砲は実戦の場の対デンマーク戦争や晋墺戦争、晋仏戦争で、高い発射速度と遠距離射撃での命中精度を実証して評価を高めている。対デンマーク戦争での実例では、当時ヨーロッパで一般的だった青銅製前装砲に比較して、クルップ砲は4~5倍の発射速度を達成している。
陸上用の野砲や要塞用の重砲などを完成させたクルップは、従来遅れていた軍艦搭載用の重砲にも挑戦している。この分野は英国のアームストロングが得意とする分野であり、第一回のチャレンジには後れを取ったものの、第二回の挑戦でほぼ満足する結果をクルップ社は出している。
アルフレート・クルップは、1887年、亡くなるが、その生涯で24,576門の大砲を製造して、自国はもちろん、世界中の軍隊に輸出した結果、彼は、「大砲王」と呼ばれた。
(砲尾閉鎖機構の完成)
ヨーロッパ諸国が、どうして列強となり得たのか考える時、お互いに切磋琢磨する中規模国家群集団が近接して存在した点を忘れてはいけない。
後装砲の新しい発想を英国のアームストロングが案出し、金属冶金分野で独のクルップが卓越した改良を次々と行った結果、明治時代後半には、高強度の鋼鉄製の砲身を量産するところまで到達している。
砲弾を迅速に装填するための砲尾の閉鎖機構に関しても、ヨーロッパ各国は異常なまでの開発競争を繰り広げている。結果論だが砲尾閉鎖機構の革新的なアイデアが2つ、努力の結晶として結実し、その2つの閉鎖機構方式が今日でも使用され続けている。その2つの砲尾閉鎖方式とは、
1)段隔螺式閉鎖機:アームストロングが改良を進めた部分ネジ式尾栓で大型砲に向く。
2)スライド鎖栓式閉鎖機:クルップが開発した尾栓で、薬莢を必要とするが、構造簡単。
この両方式の完成により、小型野砲から大型の重砲、戦艦搭載の主砲までの後装化が完成している。「スライド鎖栓式」は、構造が簡単であり、使用砲弾に薬莢式を使用しなければならない問題は有るが、各国の小型砲を中心に広く応用されている。特に、クルップ砲を愛用した独軍は大型砲でも「スライド鎖栓式」の大砲を使用している場合がある。この傾向は、第二次世界大戦の独砲兵隊の射撃シーンの映像を見ても、英米軍が「段隔螺式鎖栓」使用の口径の大きな大砲でも「スライド鎖栓式」を用いていて驚いたことがある。
一方の「段隔螺式鎖栓」は、アームストロングが最初に提案したネジ式鎖栓の改良型で、部分的加工したネジによって、少ない回転角で砲尾を閉鎖出来る利点があり、砲弾と発射薬が分離して装填する大型砲に適する構造になっている。ド級戦艦搭載の巨砲では、全て「段隔螺式鎖栓」になっている。
それぞれ一長一短がある両方式は、今日でも砲尾閉鎖機構の2つの方式として併存して使用されている。
(残った問題)
製造上の冶金学と精密機械加工の問題が片付き、砲尾閉鎖の2つの方式が確立すると残った大きな問題は、発砲時の砲身及び砲車の後座(大きくバックする)問題だけとなった。
この問題を解決するため、各国は、独自の解決手段を試行錯誤しながら進めている。第二次ボーア戦争を戦った英国の、「BL15ポンド野砲」では、車軸の下に後退防止の駐鋤を取り付け、脚には反動吸収用のスプリングが付加されていたが、砲車の後退を完全には防止出来なかった。
当然ながら、英国以外の列強各国の大砲開発者も色々な方法で、砲身の後座を軽減するための改善策を提案、実施したが、抜本的な改善には成っていなかった。
最後に完成度の高い実戦に使える野砲を造り上げたのは、ナポレオン以来の大陸軍国フランスの国営兵器工廠であった。
(『M1897 75mm野砲』の登場)
フランスの国営工廠が開発提供したその野砲は、採用の年式を採って、『M1897 75mm野砲』と呼ばれている。
フランスの仮想敵国独の大砲がクルップ社等の企業によって主に大砲が開発製造されたのに対し、フランスの場合、国営兵器工廠主導で、この時代大砲は主に開発製造されていた。
ライバルのクルップ社が新型の駐退複座機を開発している情報を入手した同工廠は、新型の「液気圧式駐退複座機」の開発実用化に努力した結果、世界で始めて完璧な駐退複座機の製造に成功している。その構成は次のような新機軸だった。
A.砲身は砲車では無く、後座機構に固定する「揺架」の採用
B.油圧ブレーキの緩衝装置で、発砲の衝撃を吸収する「駐退機」の採用
C.圧縮空気で砲身を元の位置に戻す「復座機」の採用
その成果を受けて、実機として搭載した大砲が、『M1897 75mm野砲』であった。同砲は、世界の大砲の一大革命児と呼ばれた。
それまでの大砲は、一発発射する度に砲車が大きく後退し、人力で前の発射位置に戻す必要があったが、同砲は優れた新式の「駐退機復座機」により、発射後も発射前の位置に砲身が自動的に戻り、連続する素早い射撃を維持することが出来た。
フランス本国の他アメリカやポーランドでも同砲は用いられた他、世界中の大砲製造メーカーが、同砲の新駐退復座機構を採用する一大ブームを起こす切っ掛けとなった記念すべき大砲である。
因みに、日本陸軍の三十一(1897)年式速射野砲は、同野砲と同年の採用兵器ながら、砲身は砲架に固定され、駐退機構も中途半端で、発射の度に大きく砲車の位置が後退する、速射性があるとはとてもいえない旧式兵器だった。これは、日本だけでは無く、世界中の国々全てで起きた現象で、各国は追随して、フランス製の「M1897 75mm野砲」と同等の性能を持つ野砲及び重砲の開発に注力する事となる。
結果的には、最先端の野砲を持つフランスが先頭を走り、やや遅れて、英独が追随し、更に遅れて、ロシア、アメリカ、日本が息を切らしながら続いたのが、明治時代後期の野砲開発競争の実態だった。