15.幕末維新の大砲
以前、幕末から明治維新の小銃の発達過程の概要について、「ゲベールからスペンサーまで」の中で軽く触れてみたが、今回は、同時期の国内での大砲の開発経過と実戦での使用状況について、戊辰戦争の陸戦を中心に考えてみたいと思っている。
何故この時期の小銃や大砲に拘るかというと、ヨーロッパでの産業革命の影響を受けて、戦争に使用される各種兵器の大変革期に当たるからであり、中世以来、先込式だった銃砲が、急速に近代的な後装式の歩兵銃やライフル砲に大変身した時期だったのである。
19世紀初めのナポレオン戦争の頃は、船も帆走の戦列艦が主力だったし、小銃も滑空砲身にフリントロック発火式であり、技術的にも数百年間大きな変化が無かった時代だった。所が、19世紀中頃になるとヨーロッパ各国で新しい技術革新的な新兵器が次々と登場してきたのである。
幕末から明治維新までの大砲を考える時、最初に注目しなければ成らないのが、フランスからの最新兵器情報を得やすかった徳川幕府と長崎港警備の関係で、西洋の最新技術と兵器に特段の興味を持っていた肥前佐賀藩と島津斉彬の率いる鹿児島藩の三つであろうか?
英国との張り合いもあって、慶應2年ナポレオン三世によって、最新式のシャスポー元込銃二千丁とフランス式の青銅製四斤砲12門が徳川慶喜に贈られている。
一方、大砲加工技術で国内最先端だったのが佐賀藩であり、島津斉彬が主導した集成館を中心とした薩摩藩の大砲製造能力もアジアとしては優秀なものがあった。
(東アジアに衝撃を与えた大事件)
当時、平和の中に安住していた東アジアの大国清や李氏朝鮮、タイ、日本にとって、「アヘン戦争」の衝撃は深刻で、戦争終了後、「清」の威信は大きく傷つき、ヨーロッパ列強によるアジアの植民地支配が急速に進行している。
兵器の面では、海戦における英国側の軍艦の優位性と陸戦における英国軍火器の際だった高性能が瞠目された戦いであった。良くアヘン戦争の象徴的な絵として、英国軍艦が群がる中国のジャンクを砲撃で木っ端微塵にする瞬間を描写した海戦の図が引用されている。この絵画に勇姿を見せている戦闘艦は、英国の戦艦では無く、英国東インド会社の河川用鉄製砲艦「ネメシス号」である。排水量660トン、長さ約55mの小型艦で120馬力の蒸気機関を搭載し、32ポンド旋回砲2門を装備していた。同艦を含めた英国艦隊によって、ジャンクに大砲を搭載した清国の軍船9隻が撃沈され、砲台を破壊されている。
この最新情報を幕府は懇意なオランダから早い段階で入手、新たな国際外交上の憂慮すべき問題点として認識し始めていた。
(19世紀の戦争)
それでは、アヘン戦争から戊辰戦争に続く、19世紀の戦争に付いて振り返って見たよう。この時代、産業革命による大技術革新により、蒸気機関を搭載した機帆船が登場、小銃もフリントロックのゲベール銃から、先込式ライフル銃のミニエー銃、更に、元込連発銃のスペンサー銃が実戦でデビューしている。
その背景の一つに、5年から10年置きに起きた世界的に影響力の大きい戦争が続いた為でもあった。アヘン戦争以降の日本に関係する大きな戦争を幾つか次に上げてみよう。
アヘン戦争 (1840~1842年)
クリミア戦争 (1853~1856年)
南北戦争 (1861~1865年)
薩英戦争 (1863年8月15~17日)
戊辰戦争 (1868~1869年)
今も昔も武器商人にとって、自国、他国を問わず戦争ほどうま味があり、儲かる商売は無かった。彼等死の商人は、何時も世界中の何処かで、戦争が順番に起きることを祈っていたのである。
アヘン戦争で近代的な砲艦外交の極致が示される一方、南北戦争で本格的に登場したのが、砲腔内にライフルを施した近代的な大砲であった。従来の内部がすべすべの滑空砲に比較して、射程距離、命中精度、砲弾の炸薬量がライフル砲の場合、圧倒的に向上し、敵に対する殺傷力、破壊力が増大している。
(当時の武器流通における世界情勢)
一方、大砲製造の技術面から考えると英国における「アームストロング砲」の登場は、大砲の技術史上、誠に大きな位置を占めている。従来無かった画期的なライフル式後装砲の登場である。最初に開発されたのが、6ポンド64mm口径の山砲、軽野砲、9ポンド76mm口径の騎兵砲であった。この陸戦用最新兵器の登場に海軍を主力とする英国上層部は黙っては居なかった。戦艦搭載用の大型の20ポンド、40ポンド、更に巨大な110ポンド178mm口径の艦載砲を要求したのであった。しかし、後に述べる「薩英戦争」における同砲の爆発事故多発により、大型後装砲の採用は撤回され、一時的に英国は先込砲の時代に逆戻りすることになる。
当時の世界の武器商人にとって幸せなことに、5年に渡る南北戦争終了の3年後、日本の「戊辰戦争」が勃発、尊皇と佐幕の両陣営は武器の確保に狂奔することになった。
アメリカ及び先進国にとって自国で不要になった「ゲベール銃」等の世界的に殆ど需要の無い旧式の武器が大量に現金に替わる後進国日本は、極めて魅力に富む国であった。その結果、旧式、最新を問わず、不要になった大量の小銃、大砲、蒸気船等が日本市場に流入したのである。
しかし、先進諸藩にとって幸いな事に、そんな中にアメリカで不要となった最新式の「アームストロング砲」や「ガトリング砲」も含まれていたのである。
(幕末諸藩の大砲装備の概要)
幕末混乱の時期、最新鋭の輸入品のフランス式山砲やオランダ式臼砲を装備する幕府や雄藩がある一方、技術導入を図って、国産化を強力に推進する先見性の高い指導者も現れ始めたのである。幕府や佐賀藩、薩摩藩等である。
時代を少し遡るが、黒船来航後、幕府及び有力諸藩は、有名な韮山の反射炉始めとする反射炉を続々と建設している。その最大の目的が海防用の大型砲の鋳造にあったのである。しかし、当時の日本の製鉄技術では、品質の均一は大型砲の鋳造は難しく、増して、砲腔を正確に開けた上に高精度のライフルを切る事は至難の技であった。
その点、フランス式山砲やオランダ式臼砲等の青銅製の大砲の製造には短期間で成功できるだけの基礎技術が当時の日本にはあったようだ。
(薩摩藩の場合)
島津斉彬の先見性と沿岸防備推進策により、首府鹿児島を防備するための大砲の準備と設置は順調に進んでいたが、残念ながら、その主力は一時代前の射程の短い滑空砲であった。
その結果、生麦事件報復時の「薩英戦争」によって、滑空砲が如何に時代遅れかを薩摩藩全体が身を持って体験させられたのである。
「薩英戦争」の少し前、英国では画期的な近代的火砲、「アームストロング砲」が開発されている。最初に開発されたのは、6ポンド64mm口径の山砲と軽野砲であった。砲腔にライフルを切ったことにより従来よりも長い射程距離を持ち、後装式の為、弾薬の装填時間を大幅に短縮した最新式火砲である。
小型「アームストロング砲」の成功に大英帝国を代表する海軍も直ぐに飛びつき、戦闘艦に「アームストロング砲」を採用した直後に起きたのが「薩英戦争」であり、英国最新技術の結晶である同砲と世界最初に対決したのが、薩摩藩であった。
鹿児島湾に侵入した英国艦隊に対し、薩摩側は島津斉彬以来整備してきた錦江湾の陸上砲台の旧式滑空重砲多数で迎撃、薩摩側は勇戦、英国側は多数の戦死者を出した。
けれども、先込旧式砲の短い射程では充分に対抗出来ず、藩所有の艦船多数の拿捕を許した上、鹿児島城下の広い面積(10分の1)の焼亡により大きな打撃を受けた。
けれども、英国側艦隊は、それ以上に大きな物理的、精神的打撃を受けている。長射程で精度も高く速射性に飛んだ「アームストロング砲」は大活躍したが、同砲は新発明品独特のとんでもない未修正の欠陥を内蔵していたのである。
その第一は、ライフルに合わせるための砲弾表面に付けたボタン状の鉛の残存物が、10回~15回の発射により砲腔内に付着、掃除を丁寧に行わないと不発を起こす原因になる点であった。第二の問題点は、更に深刻で、6ポンド程度の軽砲では問題が無かった砲尾の閉鎖機構だったが、旗艦の40ポンド121mm口径や110ポンド178mm口径の重砲では、不完全で、点火時に爆発する危険性を秘めていたのである。
薩英戦争では、艦隊全体の同砲21門で365発(推定値)程度の発砲があったと考えられるが、内28発が不発事故を起こしている。最も深刻だったのが旗艦ユーライアラス号での同砲の爆発事故で、砲員は1名の重傷者を除き全員戦死、飛び散った破片により同艦の艦長、副長が戦死したとの説がある。しかし、英海軍は横浜帰還後、薩摩側の砲撃被害による戦死と糊塗して発表したといわれている。
この最新砲の爆発被害の結果は深刻で、英国海軍は、後装式の同砲を全ての艦艇から撤去、旧式の前装砲に交換している。またそれまで輸出禁止だった同砲の海外持ち出しを解禁、アメリカの南北戦争でアームストロング砲は活躍、その後、日本へ再輸出された同砲が、少数ながら戊辰戦争で活躍する遠因となったのである。
(佐賀藩の大砲)
幕末の動乱期、諸藩は色々なルートから銃器を緊急輸入している。最も大きな窓口は長崎港だった。慶應3年の長崎運上所を通して諸藩が購入した大砲の数は23門で、その全てを佐賀藩が購入している。砲の種類は、アームストロング6ポンド砲5門、9ポンド砲5門、野戦砲3門、砲種不明10門であった。
続いて、明治元年、藩主の上京に際して多くの藩兵と共に大砲6門を送っているが、その内容は、6ポンド・アームストロング砲2門、四斤山砲2門、12インチ砲(臼砲か?)であったが、この時点で、佐賀藩首脳は、最も実戦的な砲種として、以上3種の大砲を選択したと見て良いと考える。
最初の佐賀藩砲兵の活躍の場は、彰義隊の占拠する上野の山上に対する不忍池越えの「アームストロング砲」の遠距離射撃だった。この攻撃には薩摩藩始め多くの西軍諸藩の大砲が参加しているが、薩摩藩を始めとする他藩の四斤山砲や臼砲を越える長い射程距離とライフル砲ならではの命中精度、後装式独特の速射性で、他藩の大砲を圧倒する高い評価を得ている。
配置場所は、前田家の分家の富山邸で砲門数2門であった。詳細なデータは不明だが、藩主上京時に帯同した砲だとすれば、この時の「アームストロング砲」は、口径は64mmの6ポンド砲で、射程距離は3~4km、諸藩の信頼を得る優秀な大砲だったと想像される。
佐賀藩以外の岡山、津、佐土原、尾張の各砲隊は水戸藩邸から砲撃しているが、四斤山砲と臼砲の混在する部隊で、四斤山砲はともかく、近距離射撃用の臼砲は射程距離の点でお飾りに過ぎなかった可能性が高い。薩摩藩は少数ながら四斤山砲と臼砲各2門、計4門で、湯島から黒門口の正面攻撃に参加している。黒門口の激戦は近接戦が主であり、薩摩の臼砲は活躍した可能性が高い。
佐賀藩の「アームストロング砲」活躍の第二の場面は、会津若松城の攻城戦だった。城近くの約1,600m離れた小田山中腹に西軍は大砲を上げて砲撃を開始しているが、中でも「アームストロング砲」の活躍は諸藩の注目を集めたようだ。しかしながら、この時の同砲の数も正確には伝わっていない。多分、1門か2門の少数ではなかったかと考えられている。
その他の諸藩、薩摩、大村、松代、柳川を含めて約50門の大砲で三方向から鶴ヶ城を砲撃、2,800発の砲弾を撃ち込んだとされている。
これらの大砲の大半は四斤山砲だった可能性が高いが、その他、に12、20ドイム臼砲やメリケンライフル砲もあったと記録されている。20ドイム臼砲は元々オランダ製の輸入品を佐賀藩が複製した物で、青銅製滑空砲で射程距離が短いものの、城内への破壊力では、アームストロング砲や四斤山砲よりも強大であった。
佐賀藩の「アームストロング砲」に関して、長州藩の斎藤太郎の談話が残っているが、「他藩は小さい円弾丸なのに対し、肥前藩は三里もゆく大砲を持って来た」と評している。他藩の臼砲や山砲の射程距離の短さと円弾に対し、ライフル式元込めの椎の実型弾丸の長射程砲に対する西軍各藩の信頼性の高さが感じられる評価である。
(幕府及び各藩の大砲製造能力)
ペリー来航以来、幕府及び有力各藩は海軍や台場の整備と併行して、武器の国産化に英知を傾けていた。有名な韮山の反射炉を始めとする設備の究極の目的は、欧米並みの大砲の製造にあった。
その中でも優秀な大砲製造能力を示したのが、幕府の「関口大砲製作所」、薩摩藩の「集成館」、そして、佐賀藩であった。結果的に見て、当初の国産目標として第一が、軽量高精度な仏式四斤山、野砲であり、上記三カ所の大砲製作所共に量産化に成功したと考えられる。多分、戊辰戦争での主要活躍砲種は四斤山砲であり、輸入品と国産品が混在して両軍で使用されたと推測される。佐賀藩が次に着目したのが、オランダ製の12、20ドイム臼砲であったが、この砲の国産化にも佐賀藩の技術者達は成功しているようだ。更に、その上の加工技術を要求される最新式の大砲が、「6ポンド・アームストロング砲」であった
(最新鋭のアームストロング砲は国産化出来たのか?)
幕末の日本に於ける兵器の製造能力に関する最大の疑問点は、当時世界最先端だった英国のアームストロング砲を佐賀藩がコピーして国産化に成功して戊辰戦争に大活躍させることが出来たか、あるいは、当時技術力トップの佐賀藩といえども、国産化は難しく相当良い所までいったが、形状模倣レベルだったのかの問題であろう。
佐賀藩の「アームストロング砲」と聞くと作家司馬遼太郎氏の小説の中で大活躍した同砲と鍋島閑叟を思い出される方も多いと思う。上野の彰義隊との決戦における不忍池越えの砲撃により、僅か12発の射撃で黒門口の死命を制した同砲の遠距離射撃の絶大な効果や、肥前藩の卓越した技術によって製作された、後装式ライフル砲の素晴らしさを司馬氏は氏独特の感動的な表現で記述されている。
しかし、軍事作戦から立体的に「上野戦争」を見ると、城でいえば大手に当たる黒門口の主力攻撃部隊を最強の薩摩藩兵とし、佐賀藩を始めとする諸藩の砲兵隊を不忍池の本郷側から砲撃させて威圧する一方、搦め手口に当たる鶯谷方面の新門に対しては、千住方面から前夜に大迂回させた手駒の長州兵を奇襲部隊として有効に使った参謀大村益次郎の作戦勝ちと考えられる。
また、6ポンドアームストロング砲の口径2.5インチ(約64mm)の小口径砲弾では、例え榴散弾を使用したとしても、後年の手榴弾程度の小さな破壊効果レベルであったと思われる。
鋼鉄製ライフル砲身と砲尾閉鎖機構を持つ後装砲で、椎の実型の最新式砲弾を用いるアームストロング砲は、近代的な大砲の基本を全て網羅した最新鋭の大砲だった。その反面、薩英戦争の項で述べたように、砲身の閉鎖機構が完全とは言えず、使用状況によっては、砲身の破裂による砲員の死傷を起こす場合もあった。しかし、これは海軍の艦載砲等の大型砲の場合で、陸戦用の6ポンド軽野砲や9ポンド騎兵砲等の小口径砲では発生しなかったと考えられる。
当然ながら、幕府や佐賀、薩摩両藩等の優秀な技術陣を要する大砲製造部門は、仏式四斤山砲やオランダ式20ドイム臼砲の模作の成功に続いて、難問のアームストロング砲のコピーに挑戦した物と想像される。しかし、青銅製の二つの大砲は、当時の日本の技術でも製造と加工可能な先込砲身(砲尾部が閉鎖された袋状)であったのに対し、アームストロング砲の場合、最初に優秀な製鋼技術が必要であった上、高精度の内面のライフル可能や閉鎖機構に対する機械加工を必要としていたのである。
その結果、国産の可能性のある三カ所の内、幕府の「関口大砲製作所」や薩摩藩の「集成館」では、成功しなかったと考えられている。それに反し、唯一佐賀藩では、アームストロング砲の模倣にある程度の所まで迫ったと当時から思われていた。
しかし、全く個人的な意見だが、国産初のアームストロング砲製作は、完成しなかったと思っている。当時も今も、最先端の兵器製造に関しては、総合的、複合的な技術力を要求されており、明治前半期が終了しても、英国のアームストロングやヴィッカース、独のクルップ程の製鋼技術と大砲の高精度な加工技術を持つ事が出来なかった八幡製鉄所や大阪砲兵工廠の総合力を考えると佐賀藩の同砲も形状的な模倣レベルで、奥羽の山野で実戦に耐えうる大砲を造れるレベルでは無かったと技術屋の末端として思っている。
頭脳明晰な司馬氏にしても、幕末のアームストロング砲のネジ式砲尾閉鎖機構を正確には理解していなかったようで、明治後期の野砲の閉鎖機構を基にして書かれているように感じる。更に付言すると、同砲の口径64mmは、明治維新に最も活躍した四斤山砲の口径86.5mmに比較しても余りにも小さく、破壊効果は戊辰戦争に参加した諸藩の大砲の中でも、小さい方だった気がしているが如何であろうか!
(参考文献)
1)佐賀藩戊辰戦史 宮田幸太朗 佐賀藩戊辰戦史刊行会 昭和51年
2)世界銃砲史(上、下) 岩堂憲人 国書刊行会 1995年