13.古代ヨーロッパ及び中世の剣
我々一般的日本人が見るヨーロッパの剣は、欧米の歴史ドラマで見る古代ローマ軍団の短い剣、「グラディウス」や中世騎士の振るう十字架型の重い長剣であろうか!
特に騎士の振るう剣は日本刀と全く異なる十字架型の形状で、刀身は真っ直ぐで諸刃、身幅は驚くほど広く、断面は菱形をしていて、重そうなその姿だけでも敵に大打撃を与えそうな感じがする形状をしている。しかもヨーロッパの騎士達はその重量級の剣を片手で軽々と振い、左手には大きな盾を持って敵からの攻撃を防御している。
長短は有る物の古代ローマの「グラディウス」や中世騎士の振るう長剣は、ヨーロッパ独特の十字架型の姿に特徴がある。強いて言えば中国の古代から近代まで続く「剣」に刀身部分の形状は似ているが、中国の剣は、どちらかというと細身スマートで元先の幅に大きな変化がない。更に、唐代以降、軍事における実戦の武器としての機能よりも伝家の名剣としての雰囲気を持って清代に至っている。
世界的に見てもヨーロッパの十字架型の剣の形状は、ヨーロッパ独特のスタイルといって良いであろう。ヨーロッパに隣接する中東でも古い時代には十字架型の剣が存在した時代もあったが、どちらかというと軽装騎兵用の湾刀が主であり、同じイスラム圏のインドの刀も彎曲した刀が主である。
中国では軍事用として古く漢代には、直刃の直刀が用いられたが、契丹やモンゴルの支配を経明や清では柳刀や青竜刀などの湾刀が実戦の軍隊の主流になっていった。
ヨーロッパの剣の構造を分かり易く理解するために「中世騎士の剣」をベースにその内容を分解してみたい。騎士の長剣は、刀身、鍔、柄、柄頭が鉄の一体構造になっていて、極めて堅牢に造られている。刀身の身幅は広く重量が有り、敵の盾や鎧の上から大きな衝撃を加えることが可能な構造になっている。片手打ちが主流ながら鍔、柄、柄頭が基本的に一体構造の為、丈夫で、日本刀のような戦場での柄や鍔部分の接続部での損傷も少ないと考えられる。増して、竹の目釘が飛んで刀として機能しなくなるような日本刀のような問題点も無い。
刀身の断面形状は基本的に薄い菱形で、重量軽減の為に中央に幅広い樋を彫る場合もある。また、鍔元での刀身の幅は極端に広く、先端に向かって徐々に細くなっている。
基本的には片手使いの剣で、約1kg~2kgの重い全体の重量をバランス良く保つために重い柄頭を付けている点が、他の諸国の刀剣と大きく異なる点であろうか。
基本的にヨーロッパ騎士の剣は重量と馬力で勝負の剣であり、圧倒的な堅牢さと破壊力を秘めた剣といえよう。しかし、重量が重く軽快な攻撃力に欠けるため東方の軽装弓騎兵の包囲攻撃や近接戦での湾刀の瞬速の切り付けには戦場で苦しんでいるし、ヨーロッパ内での戦闘でも落馬した際、敵の軽装歩兵の包囲攻撃に騎士は防御に苦労したようだ。
(ケルトの剣)
そこで、今回は、古代ローマ帝国の時代の地中海世界の刀剣から初めて中世前期の「騎士の剣」の完成期までのヨーロッパの剣の歴史や機能を学んでみたいと考えている。
ヨーロッパ起源の剣の入り口をどこから始めようか少々迷ったが、一般のヨーロッパの歴史教科書が説く古代ギリシャからでは無く、紀元前400年頃、今日の仏、英、独を含む古代ヨーロッパの広い領域で繁栄した「ケルト文明」に敬意を表して、古代ケルトの剣からスタートすることにした。
古代ケルト民族の剣では、湾刀で殺傷力の高い「ファルカータ」と騎兵用の長剣が知られている。「ファルカータ」の製作には面白い伝承があって、多種類の鋼と鉄を鍛造した後、数年間地中に埋めて腐食させて、余分な成分を取り除いた後、刀剣として改めて鍛え直す技法を用いて製作したらしい。
こうして造られた丈夫な剣は、ローマ軍との戦闘で優越性を発揮し、紀元前4世紀にはケルト人はローマの街まで侵入して掠奪を行ったとされている。当時のローマ軍の剣は細くて長い片刃の剣だったと推測されている。
古代ローマ人は、ケルト人をガリア人と呼んでいた。古代共和制ローマでは、後年のローマ帝国の軍団兵ほど、優秀な武器を持っていなかったようで、ガリア人との戦いでも最初の頃は戦力、武器共にローマ軍が絶対的に優位な位置を保っていた訳では無かった。
しかし、古代ローマ人達は粘り強く、自分達に無い周囲の優れた物を採り入れて自己の物として存分に活用、徐々に自国の領域を拡大していったのであった。
そして、ケルト人にローマまで攻め込まれた共和制ローマであったが、ある大戦争を契機に古代ローマ軍団を代表する鋭利で、ローマ軍の密集隊形での戦闘に理想的な剣に巡りあったのである。
(グラディウスの登場前のローマの状況)
高校を卒業した年の夏休みに、スキピオ・アフリカヌスの第二次ポエニ戦役やユリウス・カエサルのガリアの戦いを中心に何冊かの本を読んだ記憶がある。
その中で、気になったのが両者の卓越した戦略や戦術の興味有る問題を除くと古代ローマ軍団の優れた武器であった。
古代ロ-マ帝国の軍団が持つ剣と聞くと「グラディウス」を思い浮かべる方も多いと思うが、当にその「グラディウス」が気になったのである。
どの本か覚えていないが、スキピオ・アフリカヌスやユリウス・カエサルが率いたローマ軍団の末端の兵士まで持っていた鋭利な「グラディウス」に比べて、ガリアの諸部族が編成した軍では「グラディウス」クラスの先進的な鋼鉄の鋭利な武器を所持していたのは、諸族長クラスだけで、末端の一般兵士まで、行き亘っていなかったとの説もあるそうだが、そうだとするとケルトの優秀な剣を持った民族にローマまで侵攻されて防戦に苦労した話と大きく矛盾してしまう。(笑い)
それからもう一つ、ローマ軍団の有名な「グラディウス」は別名、「グラディウス・ヒスパニエンシス(スペインの剣)」とも呼ばれていたことも気になっていた。「ヒスパニエンシス」とは、ラテン語で「スペインの」という意味である。
そんな小さな過去の記憶を大切にしながら古代から中世前半のヨーロッパの刀剣に関して学んでみたいと想っている。
(古代ローマの剣「グラディウス」の登場)
古代ローマがイタリヤ半島の一都市国家から巨大な地中海世界を版図とする大帝国を築くまでには、プルタルコス英雄伝に登場する主な英雄だけでも多くの登場人物が存在した。
「グラディウス」に最初に関わる人物の名は、冒頭に挙げた古代共和制時代のローマの名将「スキピオ・アフリカヌス」である。
彼が歴史に登場する少し前に、古代地中海世界の覇権を賭けた古代ローマと地中海の対岸の国家カルタゴとの死闘(ポエニ戦役)が始まっていた。ポエニ戦役は第一次から第三次まであるが、第二次ポエニ戦役の前半では古代戦史に名高い「カンネーの戦い」があった。この戦いはカルタゴの植民地ヒスパニア(今のスペイン)からアルプスを越えて、イタリヤ半島に攻め込んだカルタゴの名将ハンニバルと古代ローマ軍の間で戦われた戦役である。
ハンニバルの史上に残る見事な包囲戦術によりローマ軍は潰滅的な敗戦を喫している。この戦役以前からローマ軍が使用した剣は、先に述べた後年の古代ローマ軍団の「グラディウス」と違い、細くて長い片刃の脆弱な剣だったとヨーロッパの学者の間では推測されている。
では、この細くて長い片刃の剣から、今日、我々が知る「グラディウス・ヒスパニエンシス(スペインの剣)」に古代ローマ軍団の公式武器が変わった歴史を辿ってみよう。因みに「グラディウス」とは、ラテン語で「剣」を意味しているらしい。
この古代ローマ共和制時代、ローマ軍が「グラディウス・ヒスパニエンシス(スペインの剣)」に出会ったのが、スキピオの「ヒスパニア(今のスペイン)」遠征であった。
敵将ハンニバルにイタリヤ半島を荒らされたローマ軍は、父と叔父をカルタゴとのスペインでの戦いによって失ったまだ若い二十代半ばのスキピオを司令官とする遠征軍をハンニバルの根拠地ヒスパニアに向けて進発させた。
紀元前209年春、スキピオはヒスパニアにおけるカルタゴの本拠地カルタヘナを急襲している。カルタゴ側の有力な三軍は、この時、カルタヘナから10日以上離れた土地にあった上、カルタヘナの守備兵は極めて少なかった幸運もあって、スキピオは奇襲により一日でカルタヘナを攻略。
短期間で、しかも無傷で敵ハンニバルの本拠地カルタヘナを攻略した成果は信じられない位大きかった。ハンニバル軍の貯蔵していた膨大な軍需品と食料、軍資金、スペイン諸部族からカルタゴが取っていた人質の全て、多数の軍船と輸送船、約一万人の捕虜と二千人の職人達を入手する大戦果を挙げたのである。
この時、スキピオが着目した武器が、ヒスパア(スペイン)の剣として古くから造られ使用されてきた短いが幅広で斬れ味の優れた諸刃の剣であった。幸いなことに貯蔵されていた大量の剣と共に、その剣を造る職人集団を同時に入手した点にもスキピオの好運があった。その幸運を的確に生かしたスキピオは麾下のローマ軍重装歩兵の主要武器である剣を細長い片刃の剣から、混戦時の近接戦闘の刺突に有利な「グラディウス・ヒスパニエンシス」に全面的に変更することが出来たのであった。
「グラディウス・ヒスパニエンシス」への携帯武器の変更により、スキピオの遠征軍は格段に近接戦闘能力を向上させることが出来たのである。そして、ヒスパニエンシスの優れた性能に着目したローマ本国によって最終的には、ローマの各軍団全てに公式武器として、「グラディウス・ヒスパニエンシス」が装備されたと想像される。敵国の物であろうが、優秀な物には十分な敬意を払って自国の物とする柔軟な吸収力を発展期の古代ローマ共和国は持っていたのである。
ローマだけでは無く、歴史的に成長過程にある国の行動は、「柔軟性に富み、不思議なほど生き生きしている上に、吸収力に優れている」ように何時の時代にも感じられるが如何であろうか?
そして、この時から、ヒスパニア製の剣は、ローマ軍団の主要武器として今日の我々が知るローマの「グラディウス」になったと考えたい。
もし、「グラディウス・ヒスパニエンシス」が無ければ、後年のユリウス・カエサルによるガリア遠征の大戦果も、もう少し小さな功績になってしまった可能性がある。(笑い)
さて通常、ローマ軍の「グラディウス」と呼ばれる剣の大雑把な形状を挙げて見たい。その最大の特徴は、従来の剣に比較して、剣の身幅が格段に広く成った点である。出土品から想像される幅は、5~7cmで諸刃、通常の日本刀の約1.5倍から2倍の身幅である。刀身の長さは、約45~60cmと推測され、初期の物は日本の脇差程度の長さで、後期ほど長くなる傾向にあったようだ。
柄は約15cm程度と短く片手持ちである。従って「グラディウス」の全長は、60~75cmだったと思われる。
材料的には、鉄鉱石を出発材料として初期的な溶解炉で造った材料を使用していた。製錬技術は低く、溶解した鋼と同時に産出した介在物の多い鉄素材を複合して剣を鍛造していたと考えられている。その結果、鋼と不純物の多い鉄を混合して鍛錬することによって、鋼単体の剣よりも折れにくく優れた斬れ味と耐久性を上手に両立させた剣が出来たと思われる。
この時以降、ヒスパニア製の剣の名声の伝統は続き、中世のトレドの剣へと繋がっていく。それから、もう一つ忘れて成らない事は、ローマ軍にヒスパニアの剣を導入したスキピオのその後の働きである。
スキピオはその後、敵国カルタゴ攻略の為、アフリカに上陸、本国に呼び戻された名将ハンニバルと最後の戦いに望むことになる。「ザマの戦い」である。
この第二次ポエニ戦役最後の決戦を制して、ローマに栄冠をもたらして帰国したスキピオに対して、故国は熱狂して迎え、凱旋式の挙行、宿敵アフリカを攻略した勇者である「アフリカヌス」の尊称を贈って勝利の栄光を称えた。
その時以降、スキピオは「スキピオ・アフリカヌス」と呼ばれることになった。
(古代ローマ軍団の剣の変化)
共和政後期から帝政初期の古代ローマ軍団の重装歩兵は、「グラディウス・ヒスパニエンシス」の剣でガリアの諸部族を含めて多くの宿敵との激烈な戦いを戦い抜いた経過は皆さんご存じの通りである。スキピオ・アフリカヌスを始め、ユリウス・カエサルもポンペイウスやアントニウスも幅広で、やや短めの「グラディウス」を近接戦の主用武器とするローマ軍団を率いて、偉業を達成したのである。
その後、「グラディウス」は広大な帝国全土の軍団に広く普及し、地域によって小改良されながら使われていった。例えば、「マインツ型グラディウス」等である。
しかし、一世紀も半ばに達すると戦場の様子が徐々に変化を始める。従来の重装歩兵の密集隊形が主戦力の時代から、歩兵と騎兵が各々の特徴を発揮、連携して戦場の主導権を握る時代へと変化していったのである。
重装歩兵の密集した盾の間から突き出される短く幅広の「グラディウス」に替わって、斬合いを主目的とした騎兵用の長い剣、「スパタ」が騎兵部隊だけでなく歩兵部隊の主用武器となって普及していったのであった。
「スパタ」の発見例は少なく、以前、スペインでの4世紀のスパタの出土例が唯一と読んだ記憶がある。刀身はグラディウスに比較すると60cm~80cmと長く、日本の打刀から太刀位の長さに感じられる。70cm以上あれば馬上からの敵兵への斬り付けも十分可能だったろうと想像される。
それから、気になるのが、スペイン出土という点で、「グラディウス・ヒスパニエンシス」以来の優秀な作刀技術の伝承を持つスペインなので、もしかしたらスペインは刀身の長い、「スパタ」の製作でもその技術を生かし続けていたのかも知れない。そうであるとすれば、この次の時代の「トレドの剣」の名声もうなずける気がして成らない。
古代ローマ帝国の衰退と共に、民族大移動の時代が始まる。カエサルの時代にあれほど優位を占めていた古代ローマ軍団の武器と周辺諸部族の武器の差も無くなり、ローマ軍は苦しい戦いを強いられ、帝国の領土は縮小を続けていった。
そこで登場する有名人物といえば、フン族の「アッティラ大王」だが、残念ながら彼がどの様な剣を使ったのか何の伝承も無い。ヨーロッパの学者のフン族やゴート人の武装した復元図を見ると諸刃の直刀が描かれているので、もしかしたら、アッティラ大王の剣も諸刃で刀身の長い剣だったかも知れない。しかし、猛威を振るったアッティラ大王の王国も王の急死によってあっという間に崩壊してしまった。いよいよ、ヨーロッパ中世の暗黒時代の始まりである。
その結果、多くの優れたローマ文化が崩壊し、失われていった。けれども、時の権力者にとって覇権の確保に絶対必要な主要武器の製作技術と製作者は、当然ながら保護されたと考えたい。
あの残虐と一部で表現されるモンゴル軍でさえ、主要武器の製造や最新鋭の軍事技術に対しては尊重し、優秀な技術者は保護し活用している。
中世の暗黒時代(諸説があって期間の詳細は不明ながら、5~10世紀か?)、古代ローマ帝国以来の「スパタ(長剣)」は、有用な武器として歴代の権力者に大事にされて継続して使用されていったと考えたい。その中でもゲルマン騎士の馬に対する敬愛と剣に対する神聖視は中世の騎士の伝統に繋がっているし、何処か、東アジアの我国の古墳時代の古代風景と近似する物があると感じるが如何であろうか?
それは、当時のヨーロッパでも日本でも剣は信じられない位、高価で貴重な尊重すべき武器で、王からの下賜品の中でも最上級の宝物だったと推測される為である。
(ヨーロッパ中世騎士の剣の完成)
中世の暗黒時代、ヨーロッパの製鉄技術は停滞し剣の形状や冶金技術の改良も進まなかった印象が強い。
けれども、フランク王国最初の王朝メロヴィング朝(6~8世紀)でも古代ローマ帝国以来の「スパタ(長剣)」が改良されながら主に用いられていたようだが、スパタ以外でも刀剣類の種類が増え、片刃の刀や短剣等がメロヴィン朝の領土内各地、例えば、ドイツ等で出土している。
フランク王国第二の王朝カロリング朝(8~10世紀)では、カロリング・ルネッサンスと呼ばれる新しい文化の息吹が感じられ始める。その結果、古代ローマ以来の刀身の交易が広範囲に進み、各地の特徴有る刀剣類や槍がヨーロッパ各地に伝搬していった可能性がある。更に、鉄鉱石から鋼を造る技術が改良されて、従来の鉄を主体とした剣に較べて強度の向上した鋼鉄を混ぜた騎士の好む長い剣を製作することが可能になっていった。
このフランク王国時代の出土刀に対して日本刀研磨の伝統技術で研磨、観察研究しようとする動きが最近出てきているのは、これからの刀剣に対する国際研究発展を考えると好ましく感じられる。
その結果、メロヴィング朝の刀身では、「溶接模様」と呼ばれる肌模様が顕著なようだし、カロリング朝の剣では、二つの異なる鋼材を複合して製作している様子が窺えたり、芯金と皮金を用いて製作した可能性のある剣が見つかったりしているようで、今後の研究の進展を期待したい。
(ヴァイキングの剣)
これまで、ヨーロッパの歴史がギリシャ、ローマを中心とした地中海世界とローマ帝国領土になった南欧での剣の発達を見てきたが、これまで、ヨーロッパの刀剣の歴史に登場しなかった北欧の剣が9世紀頃から、北部海岸地帯へのヴァイキングの侵攻と共に広まっている。
「ヴァイキングソ―ド」である。北欧スウェーデンは古くから優秀な鉄鉱山がある事で知られる上、ヴァイキングが北海、バルト海を越えて北部ヨーロッパの海岸地帯に進出する際の有力な武器として、彼等が持つ身幅の広い頑丈な「ヴァイキングソ―ド」は有名になっていった。
最近、ノルウェーの山中で発見された八世紀末のヴァイキング時代初期頃の剣の形状は、今日、我々が想像する中世騎士の剣に近い形状ながら、諸刃の練鉄製で、長さ80cmと短いスリムな形状の剣である。
そう言えば、ヨーロッパ諸国の海岸地帯を荒らしまくったヴァイキングの姿は、長い間、水牛の角のような角付きの兜を被り、丸盾を構えて、長い「ヴァイキングソード」を振り回す野蛮人のイメージが強かった。
近年の研究では、ヴァイキングは角付きの威嚇するような兜は被っていなかったようだし、初期ヴァイキング時代の彼等の諸刃の剣は、後世の騎士の剣よりも短く、しかも材料は練鉄で、焼入硬化も表面だけで、当時、フランス人やスペイン人が用いていた剣とは性能、長さ共に大きく劣っていたと考えられている。
更に、付け加えると初期ヴァイキングでは剣が高価だった為、剣を所有できたのは族長クラスや富裕なヴァイキングだけだったらしい。一般兵士は丸盾に主な武器の斧を持ち、補助的にナイフを身に付けて、戦闘に臨んだようだ。
ヴィキングの剣で、現存する出土品の古い年代の剣を探してみても、最も古い物でも900年頃の剣であろうか?
ヴァイキングが、我々の知る鋼の焼きの入った長剣を手に入れて縦横に活躍したのは、イギリスやフランスとの戦闘や交易によって、長剣を入手できた10世紀以降らしい。
その間接的な証明の一つが、フランス北部のノルマンディーを占拠して、911年にフランス国王シャルル3世によって、公国を認められたノルマンディー公ロロの息子ギョームのニックネームに有る。ギョームは先祖以来のノルマン風の短い剣を厭がり、フランク人風の長剣を好んだ為、「ギョーム長剣公」と呼ばれていた。
ヴァイキングもフランス北部に土着して、二,三代立つと、会話する言葉もフランス語になり、風俗習慣も故国の風習から離れたフランク人風に急速に感化されて行ったのであった。
ギョーム長剣公の一族から後のノルマンディー公ギョームⅡ世が出てイギリスを征服している。フランス風にギョームⅡ世と聞くと日本人には解り憎いが、イギリス風に「ウィリアム征服王」あるいは、「ウィリアムⅠ世」ならば、皆さんも良くご存じなのでは無いだろうか?
現在に続くロンドン塔を建設した初代のイギリス国王である。彼がイギリス征服時の「へイスティングの戦い」で彼の部隊が使った剣は、ヴァイキング風の短めの剣では無く、フランク風の長剣だったと想像したい。
(ヨーロッパ風騎士の剣の完成)
ヨーロッパ中世前半のローマ伝統の剣と南欧、北欧相互の武器の交流と改良によって、ヨーロッパが誇る騎士の重要な武器の一つである「騎士の剣」が完成していったと考えられる。
「中世騎士の剣」の代表選手といえば、「ノルマン人の剣」で、長さは、「ヴァイキングソ―ド」よりも長く、約1mに達する剣も多い。日本刀と違って諸刃の身幅も広く、鍔元で7~9cmと標準的な日本刀の元幅の約2倍~3倍弱の幅広の剣である。当然ながら日本刀に比較して重量は重く、約1kg後半から約2kgに近い重量に達していた。因みに、日本刀の標準的な重さは、刀身重量約800g~1kgであろうか?
基本的には中世騎士の剣は「片手使い」ながら、重量と広い身幅によって相手の盾や鎧の上から斬り付けて打撃を与えることが主目的で、刺す行為は補助的に行われる程度だったと考えられている。
この「完成した騎士の剣」を装備した重装槍騎兵を率いたヨーロッパ諸侯は、十字軍での戦いにおいて、全く異質の中東イスラム教徒の湾刀を持った軽装弓騎兵と対峙することになる。
(参考文献)
1.世界の刀剣歴史図鑑 ハービー・J・ウィザーズ著 原書房 2015年
2.図解 世界の武器の歴史 チャック・ウィルズ著 グラフィックス社 2015年