11.イギリスのロングボウ
前回、戦場での運用次第では、古代から伝わる旧式の武器、弓が最新式の発達途上の火器と戦って勝利する可能性を、明と清の「サルフの戦い」を素材に考察してみた。
今回は、日本の弓に良く似た英国のロングボウ(長弓)がフランスのクロスボー(弩弓)及び重装騎兵と戦った二つの戦場について、勉強してみたいと思う。
当時、ヨーロッパの大陸側先進国では、従来型の弓では無く、貫通力の強力なクロスボーが普及し始めて、城塞の守備から野戦へと活躍の場が広まっていた。
しかし、島国の英国では、エドワードⅠ世がウェールズ侵攻の際、地元自由農民の熟達したロングボウの抵抗に苦労した経験から、ウェールズを含むイングランド全域で長弓兵の育成と練度の向上に努力していた。
その結果、中世、イギリス軍の有力な武器としてロングボウは、常に戦場にあって、勝敗を決定する最も重要な因子となっている。残念ながら英国のロングボウに関する基礎知識が不足していたので、最初にロングボウの構造と特徴を調べてみた。
(ロングボウとは?)
英国の「ロングボウ」は世界一長い和弓ほどでは無いがないが、世界中の弓の中でも長大な方であり、和弓とロングボウはユーラシア大陸の東西の長弓の代表選手と考えても良いだろう。
構造もトルコやモンゴル等の中東や中国周辺諸国で主流の騎乗用の小型の合成弓ではなく、古代の日本の弓と同様、1本の木から作成された単一素材の弓であり、盛んに用いられた地域は、英国のウェールズだった。
材料は英国内に多い、「いちい」の木や「にれ」の木が主に用いられた。例えば「いちい」の木の場合、適当な長さに切った「いちい」の木を縦方向に分割、張力に耐える白味の強い外側を弓の外側に、圧迫に耐える赤味の強い内側を弓の弦を張る側に加工して使用した。単一素材ながら、「いちい」の木の外皮と芯に近い側との材質の相違は、日本の平安後期から用いられた、外側に竹を内側に木材を貼り合わせた構造の半複合弓、「伏せ竹弓」に近い機能を果たしたと思われる。
弓の全長は4~6フィート(約120~180cm)で、当時は使用者の身長と同じくらいの長さが、適当だったらしい。弓の弾き方は日本を含む東アジア系とは異なり、人差し指と中指を弦に掛けて引く。箭も和弓のように弓の右側に当てるのでは無く、当然ながら現代のアーチェリー同様、西欧系の左側に当てる引き方である。
最大射程は和弓よりも相当に長く、300ヤード(約275m)に達する射手も往時は多数存在したらしい。往時とは、ロングボウ(以下、長弓と訳す)が大活躍した百年戦争(英国とフランスが百年以上に渡ってフランス王位を争って戦った戦争)時代のことである。
速射性も高く、一般的な射手で、1分間に6~10本、ベテランの優秀な射手では20本もの箭を敵陣に送り込むことが可能な伝説的速射性に優れた射手も存在したようだ。
当時、文化の先進国のフランスでは、クロスボー(東洋でいう弩弓)が発達していた。クロスボーの長所は、二つあった。
長弓の場合、命中精度が高く、速射性に優れた射手の育成には、数年を要したといわれていたが、クロスボーの場合、凡そ1ヶ月も練習すれば、そこそこの命中率が達成出来る兵を育成出来る速習性に優れていた。
第二のクロスボーの特徴は、近距離での箭の貫徹力が極めて高く、当時、普及し始めたプレーテド・アーマーを容易に貫通する能力を持っていた。今回の話題の少し前の時代の話だが、イギリスのリチャード獅子心王が戦死したのも城塞の守備兵のクロスボーによると記録されている。
それでは、クロスボーには欠点が無いかと見るとクロスボーにも大きな難点が二つ存在した。一つは、長弓が得意とする速射性に対し、次発への装填時間が長く、1分間に1~2本しか、箭を発射出来ない点と近距離での貫徹力に優れている反面、長弓のような遠距離射撃による敵の頭上に箭の雨を降らす集中攻撃には全く向かない武器であった点である。
逆に、英国の長弓の欠点としては、実戦で戦えるような優れた射手の育成には、数年の訓練期間を必要とし、戦場で失ったベテランの補充は、フランスのクロスボーの射手の補充と違って、そう簡単には困難な点にあった。また、長弓兵の身に付けている鎧も粗末な鎧を身につけている者はまだ良い方で、簡易的な鎧さえ装備していない兵も多かったと聞く。
次に、同じ長弓仲間である日本の和弓と比較して見たい。最初に構造的な議論から始めたい。古代、和弓も長弓同様、「まゆみ」や「槻」、「梓」の木を用いた単独素材の弓であった。現存する古弓の長さは、6~7尺(約182~212cm)で、世界的に見ても長さでは最大の部類に属する弓である。
また、和弓と同様、日本の箭も長くて重い傾向にある為か、実戦でも射程距離は短く有効射程距離50m、最大射程距離100mと一般に見られている。即ち、イギリスの長弓最大射程距離200~300mに比較すると和弓は近距離戦用の弓矢であった。
もう一つ、長弓と和弓の違いは、戦場での使用方法にある。日本の弓が飽くまでも個人の武勇重視の姿勢から発達して、敵を直射する手法を重視したのに対し、モンゴルもそうだが、英国の長弓も遠距離で箭がアーチ状を描いて敵の頭上に無数に落下するように射て、敵の集団的殺傷に至る方向を目的として使用された。
加えて、長弓の特徴の一つに、「チゼル(鑿)」や「ボドキン(千枚通し)」と呼ばれる四角錐型の鋭利な鏃が装着されていた。その結果、遠距離であっても落下の加速度が箭に加わるため、メール・アーマー(鎖鎧)は基よりプレーテド・アーマー(板鎧)も貫通出来た可能性が高いのが、長弓の使用法であった。
どうも、日本人は弓の使用法にも民族性が出るようで、「流鏑馬」等を見ても近接戦を好む傾向がある。射場においての的との距離も15間(約28m)と短く、遠的と称する場合でも約50mと世界的に見て、近い距離での直射を好む傾向にあるようだ。
百年戦争が始まる少し前、13世紀の英国では、イングランドに隣接するウェールズと北部のスコットランドを併合しようとする動きがあった。ウェールズに侵攻するイギリス軍に対し、ウェールズの民衆は使い慣れた長弓で果敢に抵抗、小さなウェールズの占領に予想以上の時間をイングランド軍は必要とした。この長弓の顕著な働きに俄然着目したのがイギリス国王エドワードⅠ世であった。その結果、ウェールズの自由農民はもちろん、イングランドの国民にも長弓使用の習熟を求め、長弓隊兵員の供給元としている。長年の育成によって、英国内に長弓隊と騎馬隊の連携作業が可能となり、実戦での積極的運用が、「百年戦争」において始まったのであった。
(百年戦争とは)
英国とフランスの間で長期間に渡って戦われたフランス王位継承戦争が有名な「百年戦争(1337~1453年の116年間の戦い)」である。この戦争は、間に休戦期間やにらみ合いの中弛みの期間もあって、実際の激しい戦闘が百年続いた訳では無い。
戦場では、少数の英国軍がフランス軍を圧倒して勝利するケースが多かった。「クレシーの戦い」、「ポワイエの戦い」、「アジャンクールの戦い」等。
しかし、遠征軍の英国軍は食料の調達等に苦しみ、地元民からの掠奪等でフランス民衆の離反を招き、「ジャンヌ・ダルク」の登場を境に敗退を重ね、英国の敗戦とフランスからの撤退で終っている。ここでは、二つの戦いを参考にして、「長弓」の兵器としての活躍に焦点を当ててみたい。
(クレシーの戦い)
百年戦争で、今回のテーマの英国の長弓が活躍した戦いを二つ挙げるとすると前半の「クレシーの戦い」(1346年)と後半の「アジャンクールの戦い」(1415年)が挙げられる。
1346年の戦いの場所は、カレーの南、クレシーで、英国のエドワードⅢ世とフランスのフィリップ6世の間で戦われた。英国軍は、騎士と長弓兵併せて約1万3千、フランス側は騎兵とクロスボーの射手を中心に約3~4万だったと伝承にある。
大軍であるフランス軍の追撃を知った英国軍は、クレシーの丘の緩やかな斜面に陣地を設営して迎撃の対戦を整えた。事前にフランス軍の騎士の数が英国よりも極めて多く、更に、新式のクロスボー射手も相当数保持している構成を把握していたエドワードⅢ世は、V字型の縦深のある隊形を採った上に、騎士の突撃を阻止するために自軍の前面には、壕を堀、杭を相当数打ち込んで、フランス騎士団の突入に備えさせた。
最初の戦いは、英国の長弓隊とフランスのクロスボーの戦いとなった。しかし、前述したように、長弓の射程距離は、200~300mと極めて長く、近距離射撃の防御戦に向くクロスボーとでは勝負にならず、遠距離からフランス兵の頭上に驟雨のように落下する長弓の無数の箭に、フランスのクロスボー隊は敗退している。
自軍の不甲斐ないクロスボー射手の負け戦を後方から見ていた、フランス自慢のきらびやかな重装騎士達は、自軍の騎士の数がイギリス軍に比較して格段に優位に立っていることもあって、各個に突撃を開始した。
しかし、両翼と正面からの長弓の集中は途切れずに続き、射手に迫っても無数の杭の列と壕によって落馬した騎士は、重量のある甲冑の為、十分な反撃に移れないまま、英国軍の歩兵によって次々と虐殺同然に屠られていったのである。
中世ヨーロッパの騎士達の中でも騎士道精神に富んだフランス諸侯及び高名な騎士達が、名も無いイングランドやウェールズの農民出身の長弓兵達の弓矢、剣、斧によって、次々と戦死するか捕虜になったのである。
黒い鎧を身につけていた為、「ブラック・プリンス(黒太子)」の愛称で敬愛されていた16才の皇太子も一軍を率いて戦っている。戦闘が終って、英国王とブラック・プリンスは抱き合って喜んだと伝えられているが、信じがたいほどの大戦果から考えると、それも最に感じられる。
英国軍の死傷者千名に対して、フランス軍は、名誉ある騎士を中心に1万2千から2万人の死傷者を出したと伝承されている。
当に、長弓の大活躍による英国軍の完勝であったし、フランス側から見れば、「名誉ある中世騎士道の終焉」の始まりであった。
(アジャンクールの戦い)
百年戦争の後半、1415年に起きた「アジャンクールの戦い」は、ヘンリー5世率いる1万の英国兵がフランス北部にフランス軍を求めて進軍、フランス軍に遭遇しないまま、カレー目指して後退している途中に起きた戦いである。
季節的には、晩秋の嵐の時期で、道や耕地は泥濘状態の所も多かった上、疫病の影響で英国軍の兵員数は、大きく減少して、約7千まで低下していた。それに対し、追撃するフランス軍は国王の参戦は無かったものの、総司令官としてドルー伯シャルルⅠ世指揮の下、多くのフランス大諸侯が参戦しており、重装騎兵とクロスボー射手を中心とする総兵力は、英国軍の凡そ三倍の2万に達していた。
フランスの大軍が追撃している情報を正確に入手したヘンリー5世は、アジャンクールの地で、対戦する覚悟を決め、低い山の緩やかな斜面に兵員を配置した。この戦いでも、ヘンリー5世は兵に、長さ1.8mの両端を尖らした杭を持たしている
英国は、「クレシーの戦い」の勝利の主役だった長弓の活躍に今回も大きな期待を掛けていた為、作戦計画と陣形もウェールズ人を主力とする自由農民の長弓が最も効果を表せる前回同様の陣形とした。
兵の基本配置をV字型とし、中央やや後方に徒歩兵と下馬した騎兵の混成部隊を置き、両翼に長弓兵を配置、陣の前面には、壕を堀、「クレシー」と同様に杭をしっかり打ち込んで、突入するフランス騎士の防御対策を採った上で、万全を期して待ち構えたのであった。
一方、フランス側も先の「クレシーの戦い」の深刻な惨敗に関して徹底的に研究していた。フランス諸侯は、中央に下馬騎兵とジェノバ人傭兵のクロスボーの混成部隊の大軍を配置して、圧倒的に多い兵数によって、イギリス長弓隊に対抗しようとしたのであった。
更に、中央の大部隊の両翼には、フランスの誇る重装甲騎兵の部隊を配置して、緒戦から混戦段階に移った状況で、左右から英国陣営両翼の長弓陣地に騎兵突撃を敢行、背後に回り込んで徒歩兵で、十分な鎧も身につけていない英長弓隊を粉砕する計画であった。この重装騎兵の中には突撃の際、馬を守る為の高価な馬鎧を装備している兵も多かった。
緒戦は、フランス軍中央の下馬装甲騎兵とクロスボーの混成部隊の前進から始まった。それに対し、両翼の英国長弓兵は、フランスの大部隊の頭上へと箭の雨を降らせたのである。根拠は不明だが、一説には、長弓兵がこの戦場で射た箭の数は10万本以上と伝えられている。楯を持たない弩弓手や落馬したフランス騎士にとって、天空から落下する箭の雨は、当に、恐怖の瞬間だったであろう。
長弓の箭の落下時の加速も加わって鎧を貫通、フランスの中央部隊は壊乱、自軍の苦戦を見たフランス諸侯の騎士達は、黙視できずにてんでに突撃を開始している。
英国が少ない兵数ながら、国王の指揮の下、統一した命令系統で最後まで乱れずに戦ったのに対し、フランス軍は、総司令官は存在するものの大諸侯の寄せ集めに等しい連合部隊だった為に、突撃の時期に関しても最適な戦況判断に立ったかは、不明である。
更に、戦場になった耕地は、泥濘と化し、重装騎兵の突撃に好ましくない足場だった。更に、英国兵の周囲に掘られた壕と植えられた沢山の杭が、「クレシーの戦い」同様、無数の落馬する騎士を頻出させたのである。重い鎧を身につけて落馬した騎士ほど惨めな者は無かった。
期待していた英軍の左右を迂回して後方からの攻撃に失敗したフランス諸侯の誇る騎士達は、英陣地周辺の障害物の周囲で落馬、軽装の徒歩兵と下馬した英国の騎士達によって、惨殺、殲滅されたのであった。
フランス軍の死闘により、英国軍もヨーク公やサフォーク伯の二人を含めて、三千が戦死、全軍7千の内の3千であるから、英軍にとって軽い損害では無かった。
しかし、フランスの諸侯連合軍の被害は、それ以上に極めて甚大で、総司令官ドルー伯シャルルⅠ世を始めとする諸侯の戦死5名、捕虜5名を含む、騎士とクロスボー射手を含めて1万人の戦没者を出し、壊滅に近い状態で戦役を終了することになってしまった。
ここでは触れなかった二つの戦役の中間に起きた「ポワイエの戦い」を含めて、イギリスの長弓は、フランス側のクロスボーを野戦で圧倒している。上記に挙げた三つの戦いは共に、長弓によって購われた勝利と考えて良い。しかし、短期間で育成出来るクロスボーの射手と異なり、長弓の熟達者は、そう簡単には補充がきかなかった。
(ロングボウの終焉と和弓の存在位置)
百年戦争の結末を導いたものは、長弓兵の大活躍があった戦場での勝敗では無く、英仏両国の国力の違いと戦場となったフランス国民の英国への感情の変化であった。百年戦争が始まる前のフランス王国の人口が凡そ1,600万人であったのに対し、イギリスは人口約7分の1の小国に過ぎなかったのである。
国家財政規模の小ささは、英国民への大きな負担となっただけで無く、英国から海を渡って侵攻したイギリス軍は、食料その他の補給に常に苦しんだ結果、占領地や当時自国の領地だったフランス各地から強引な徴集と掠奪を繰り返し、フランスでの人心を失い敗退したのである。
百年戦争が終って、飛び道具の主流が、「クロスボー」で落ち着くかに見えたヨーロッパだったが、中国から伝来した火薬を使用した「ハンドガン」が急速に改良されていたのである。
1453年頃のヨーロッパの「ハンドガン」は中国の初歩的な銃と同じように、口径が大きい割に銃身は短く、指し火式の点火機構で、射程距離も短距離であった。しかし、その後、火蓋の付いた火縄による点火機構を採用する事により、ヨーロッパの「マスケット銃」は、急速の進歩を遂げて、中国の火器を圧倒する性能を身に付けていく。
火縄銃の普及は、あっという間にヨーロッパ全土の戦場から、クロスボーや長弓の姿を消し去ってしまったのである。
「マスケット銃」と「野砲」の登場は、ヨーロッパの戦場の姿を一変させ、次の大航海時代への道を大きく切り開く一因となった。
さて、本題に戻って、東西の長弓使用の国家、英国と日本の弓の使用法の決定的な違いを再度述べてまとめとしたい。
英国の長弓は、「クレシーの戦い」と「アジャンクールの戦い」で述べたように、敵の頭上に遠距離(100~300m?)から、アーチ状の曲線で無数の箭を射込み、落下速度の優越性を生かして敵の大部隊を壊滅させる点にあった。この手法は、モンゴル軍もトルコ軍も用いた手法で、モンゴル軍の場合、遠距離用のアーチを描いて射込む軽い箭と近接戦用の直射型の重い箭の二種類の束を携えて戦場に望んでいる。
一方、平安時代以来の大将同士の騎射戦による一騎打ちを重んじた鎌倉武士は、集団戦とモンゴル軍から大量に射込まれる頭上の箭に苦戦して、第一次の元寇では、博多の街を捨て、水城まで撤退している。
この近接戦を好む戦い方は、太平記の時代や応仁の乱になってもそう変わらなかったようだ。箭も世界的に見て長く、重い和弓は、元寇時もそうだったが、近距離での鎧への貫通力は高く、特に、熟練した射手の射る箭の破壊力は大きかった。
これらの条件から、各国の今日の弓の的までの距離においても、相当な差があることが解る。
伝説では世界最長の700mの距離を飛ばした伝説があると聞くトルコ弓の的までの距離のデータが無いので残念だが、ヨーロッパ発祥のアーチェリー男子の遠距離の的までの距離は、90mと70mであり、モンゴルの的までの男子の距離は75mであるのに対し、和弓の遠的までの距離は60mと短い。この距離は、モンゴル女子の的までの距離と同じである。(念の為!)
世界史的に見て、戦場での弓の効果を考えると自軍の損傷が少ない遠距離での射戦は、極めて有効で有り、その名残が、各国の的までの距離の差に現れているような気がする。まず、遠距離で敵を減らし、残った敵を近接射撃で潰滅させる。これが、世界の弓による射戦の流れであった。
戦場での箭を瞬時に大量に消費する、この遠距離で敵の頭上に多量の箭を連続で降下させる手法を戦場で余り用いなかったと想像される日本の弓の戦い方は、武勇ある個人対決を基本とした戦闘形態であった。その結果、近い距離で敵を直接見ながら射る行為を好む、国内独自のルールに従って合戦していたと感じるが、如何であろうか!
 




