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1.中国の刀剣と日本刀

 『兵器』、このテーマで書き始める時に、最初は『刀剣』の関係からスタートしたいと思っていたが、『地中海世界のヨーロッパの刀剣』から始めるか、東アジアの隣国、『中国の刀剣』から始めるかで迷いがあった。

 しかし、考えた末、日本刀創製の基盤技術と関係の深い中国の刀剣から書き始めることにした。

 当然な事ながら、専門家の調査旅行では無いので、現物を見ている数も少ない上、気楽な散歩なので、安易な気持ちでお読み頂きたい。

■初めに

 日本刀の歴史では、古代の直刀と平安時代中期以降から現代まで続く反りのある日本刀の二つの流れ(日本では剣は古代には相当数が制作されたが、平安時代以降近代までの製作数は少数に過ぎなかった)を頭に入れておけば良かったが、中国の古代から清代まで続く約三千年に渡る刀剣の歴史においては、何回も形状に大きな変化があった。

 ここでは、極めて大雑把だが、4つの時代に注目して中国での刀剣の発達を振り返ってみたいと思う。

1)青銅製刀剣から鉄刀の時代

2)古代からの刀剣の完成期:唐

3)外敵の影響による刀剣の多様化:宋

4)モンゴルの影響:元、明、清の刀剣

 この中でも、日本刀に大きな影響があったのが、2)の漢から唐時代の刀と古代の製鉄技術ではなかったかと考えている。


 中国の刀剣は、その表現の通り、形状的に剣(諸刃で真っ直ぐな形の不動明王が持っているような剣)、と刀(片刃で古代では直刀が一般的で、後世には反りのある湾刀に移行した)の二種類の系統が存在した。

 青銅製刀剣の時代から諸刃の剣は王を初めとする上流階級の武器として貴重視されたが、後世では、民間の武器や伝家の宝刀視されて、軍隊用の武器としては製造工程の複雑さや北方民族との戦闘用武器としての性能の低さもあって軍用としては使用されなくなって行った。


 反対に、軍隊用の実戦兵器として漢の時代に発達した片刃で直刀の環刀は、時代と共に製造技術、性能が向上、唐の時代には、ほぼ完成の域に達している。

 しかし、唐の滅亡後、北方騎馬民族の度重なる侵攻と略奪により、直刀とは異なる異民族との対騎馬戦に向いた形状の多様な刀剣類が五代十国から宋の時代に現れる。

 更に刀の形状変化が顕著になるのがモンゴル軍による中国占領で、中国の片刃の刀は直刀から大きく湾刀に変っている。この湾刀姿は、元、明、清と受け継がれ、湾刀が中国の皇帝以下、下級の兵員の装備品に至るまで定着している。


 それでは、私が理解している範囲で恐縮だが、日本刀の関係も含めて、中国の刀剣の流れを概観してみたい。



■青銅製刀剣から鉄刀の時代

 青銅器の鋳造技術に於いて古代中国は全世界に冠たるものがあった。特に商(殷ともいう)から周時代の祭祀に用いられた青銅器の鋳造技術は、今開催中の故宮博物院展を見ても、美術的、技術的に素晴らしい物がある。

 武器もまた商時代には青銅の鋳造技術によって製作が開始され、商に続く周、秦そして前漢と青銅器製の武器の時代は長く続く。特に、構造の複雑な鏃は戈や矛、刀の材質が鉄製に移行した後も青銅の鋳造品が多く用いられている。


 昔、秦の始皇帝が中国を統一した力の一つが、秦の軍隊が最新鋭の鉄製武器の装備によったと本で読んだ記憶があったが、最近の研究では、秦軍は青銅製武器を主に用いて全国を統一した事が判明している。

 また、甘粛省の陽関の博物館等の漢時代の出土品展示を見ても青銅製武器の比率は予想外に多かった記憶がある。


 鉄製の刀剣の登場は周の春秋末期だが、全国的に普及したのは前漢末期であろうか? 刀剣の形状としては、王や貴族達を中心にした上級者用の剣(断面が菱形の諸刃の真っ直ぐな剣)と実践的な兵士用の環刀(頭に環状の飾りがつい刀身と柄が一体構造の直刀で片刃)の二系統の形状が主だったようだ。

 古墳時代の日本にもこの二系統の刀剣が伝来して、今日、古墳から発見される刀剣も両方の形状の物が出土しているが、全体的な出土数としては、片刃の直刀か環刀が多い。


 日本で人気のある三国志の時代の刀剣も諸刃の剣と片刃の直刀の両方が用いられたが、数量的には圧倒的に片刃の環刀を含めて一体構造の直刀が多かったようだ。

 物語の三国志演義に登場する関羽愛用の青竜刀の大刀は、実際は時代が下がった宋の頃に登場しているので、この時代には存在しなかったと考えられる。そこで、関羽の使用した実際の刀はどの様な物だったのか調べてみたが、残念ながら詳細は不明だった。



■古代からの刀剣の完成期:唐

 三国時代から続く南北朝の長い混乱の時代も随、唐による天下統一によって、安定期に入る。当然の事ながら、漢の時代から発達した片刃直刀の環刀を含めた横刀たち類も完成期を迎える。

 柄と刀身も従来型の一体加工品では無く、刀身と柄が分離した形となり、茎もきれいに成型され、区や目釘穴も設けられている。刀身の鍛錬、焼き入れ技術も進化して、形状が直刀な以外は完成期の日本刀と大きな差は無いように感じられる位である。


 その証拠は正倉院に伝来する多くの刀剣と刀装具によって、証明される。正倉院の刀剣は、大陸製の舶載品と中国製や朝鮮半島製をコピーした日本製の物が混在していると考えられるが、奈良時代の日本では、唐の作刀技術を十分模倣できるだけの基盤技術が育っていたと考えても、大きな誤りは無いような気がする。

 しかし、製鉄技術面で見ると古代から唐、宋、そして近世まで、鉄鉱石の溶解による各種鉄の原料の量産と青銅以来の鋳型による成型技術において、世界的にみても中国は明らかに時代の最先端技術を保持している優秀な先進国であった。


 一方、平安中期の日本刀の完成以降、砂鉄を原料とした出発材料による繰り返し鍛錬によって、数々の優秀な日本刀が誕生してきたと唱えられてきた。しかし、優秀な中国の鉄鉱石を原料とした大量生産に適合した製鉄技術は、とうとう古代、中世を通じて日本には定着しなかった。

 日本における鉄鉱石の溶解炉による製造は、西欧の技術を導入した反射炉の建設される幕末期まで待たねば成らなかった。


 古代から、江戸後期に至る優秀な日本刀の原材料は、国内の砂鉄からの少量生産の鉄か中国を含めた東アジアからの輸入鉄に頼らざるを得ない時代が、長く続いたのである。

 中国における鉄鉱石と日本における砂鉄の原材料の違いを含めて、唐から宋に掛けての日中の製鉄技術の相違と作刀技術の違いを、今後の両国の考古学が少しずつ解明してくれることを期待したい。この両国の差異こそ、初期日本刀の創生の謎を解いてくれる鍵の一つになってくれると個人的には確信している。

 


■外敵の影響による刀剣の多様化:宋

 唐の滅亡後、北方からの騎馬民族の中国侵攻は日常化して、中国の刀の形状も少しずつ変化していったと考えられる。方向としては、騎兵に対抗する為、従来の直刀の幅が少しずつ広く、長くなったのではないかと推測されるが、詳細は不明である。

 宋代に至って、現在、日本人が青竜刀と呼ぶ形状に近い刀が現れている。従来の直刀に比較して相対的に身幅が広くなり、元幅よりも打撃を敵に与え易いように、先の身幅を広くした刀も出現したようだ。中には長く、重くなった刀身を使用するために柄を両手使いが可能なように長くした刀も出現している。


 刀剣の全体の構造もまた、大きく変化している。唐の時代に刀身と柄が分離する方向に変化したが、中国大陸北部の諸民族との抗争が激化した宋代には、再度、丈夫で大量生産に向いた刀身と柄が同じ材質での一体構造の物が軍隊用に広く普及しだしている。

 この時期、当時の日本では大陸との公の交易を絶っていた為に、宋の刀身と柄の一体構造の新形状を学ぶ機会に恵まれず、旧来の刀身と柄の分離構造による形状のままで、構造よりも機能性の改良に励んでいたのかも知れない。


 その結果として、柄の強度に関わる構造を若干犠牲にしても、斬撃機能を最大限に発揮できる外装も含めた日本刀の構造を完成させることが出来たのかも知れない。唐の時代には大陸製の刀剣に羨望を持って接していた日本人だったが、宋の時代には反対に中国の人々が日本刀の格段に優れた鋭利さに興味を抱く方向に変化している。


 宋の時代でもう一つ忘れてならない特徴は、鉄の生産性の大幅向上である。鉄の製造工程で11世紀から木炭では無く石炭が使用され初め、コークスも1270年頃からの高炉での使用が確認されている。その結果、宋代に入ると共にの鉄の年間生産高は飛躍的に上昇して15万t前後に達している。この生産量は、18世紀末の全欧州の鉄生産量に匹敵する量で、当時の宋は世界一の製鉄大国だったと考えられると、出典メモを紛失して申し訳ないが、研究者の方の資料にあった。



■モンゴルの影響:元、明、清の刀剣

 モンゴル軍の中国への侵攻により、従来の中国式の刀剣から騎馬民族式の湾刀が普及して中国の刀剣が再度大きく変化した時期が元代である。

 騎馬遊牧民族のモンゴルは元々、西域諸国との交流を通じてペルシャやインドの影響を受けてきたが、征西によって更に、西アジアの優秀な武器の情報と現物及び製造技術者を大量に入手していた。

 刀剣で見ると西アジア系のイスラム様式の軽量で先端の尖った湾刀を早い時期に自分達の物にしていっている。反抗する敵には残虐なモンゴル軍も最新技術を持った技術者には寛容であり、特に、最先端の武器技術者は優遇されたと考えられる。

 その為、中国本土侵攻の時点では、モンゴル軍の装備する刀の形状は、宋の軍隊が装備する刀とは異なり、湾刀が主流になっていたようだ。湾刀の柄は刀身の反りと反対方向に曲がっている物も多かった。これは、騎馬での斬撃と突きの両用に便利な形態である。この流れは、明、清の刀剣でも基本形状が踏襲されるほど後世に大きな影響を与えている。


 現在、英国の博物館や北京の故宮博物院に残る明、清の皇帝の刀剣を見ても、雁毛刀、柳葉刀と呼ばれる湾刀の系譜を引く刀が主流で、日本刀より若干身幅が広く、日本刀に似た反りがあって、先端は突き技が有効なように尖っている。そして、多くの刀剣の柄が、日本刀と違って刀身の反りと逆方向の反っており、騎馬での突撃時の突きに効果的な形状になっている。


 この期間に特筆すべきは、元寇の終わった明の時代に日本から長船や美濃を初めとする多くの産地の日本刀が明や朝鮮半島に輸出された事実である。この時代、東アジアにおいて、日本刀の鋭利さは定説となって行ったのである。



■中国の刀剣と日本刀

 古代中国の揚子江流域で発展した水稲栽培技術や黄河流域で進化した青銅器が古代日本の形成と発展に大きく寄与しているように、漢の時代から、三国志の時代、そして、唐の時代の製鉄方法や鉄の加工技術、刀剣に付随する冶金、鍛造技術が日本の鉄製品の発展に大きく影響を与えた。


 当然ながら、古墳時代から、飛鳥、奈良そして平安初期に至る直刀の時代の刀剣制作技術は中国大陸と朝鮮半島の強い影響下にあった。漢から唐の時代の先進国家中国の技術を学ぶ事からの出発した古代日本は、徐々に独自の改良を進めていったと考えられる。


 最終的な唐の直刀の横刀たちの完成した姿は、正倉院の御物によって幸いにも今日、容易に推測できる。切刃造りながら鎬造りに近い断面を持った刀や自然にゆったりと変化した直刃調の焼刃、鍛錬の跡が忍ばれる地肌、刀の中心(茎)のまちや目釘穴の直刀として一つの到達した姿を示している。


 正に、正倉院御物から想像される中国唐時代の刀剣の完成度は、外装も含めて極めて高かったと考えられる。唐時代の直刀に反りを付けて、切刃の段差の位置を棟の方に若干移動させ、元幅と先端の幅を付ければ、日本刀の姿になるのではないかと一瞬思うことがある。(笑い)


 中国における唐の衰退と遣唐使の廃止によって、多様面に渡って国風文化が発展し始めるが、刀の世界でも同様に平安時代中期に、日本刀独特の姿や機能を持つ鋭利で美しい形状の我が国固有の刀が完成した。

 日本刀が誕生した平安期からおよそ10世紀経過した今日でも、その基本的な形や機能美に根本的な変化はなく、刀剣としての完成度は世界中で高く評価されている。


 この30数年における中国全土での発掘成果は、大きな物があった。最近の発掘でも三国時代の魏の曹操の墓の発掘で鉄製品が多く見つかっていると聞く。漢から唐に掛けての製鉄技術の発展経過や刀剣に関する冶金技術の研究が、今後なされれば日本刀黎明期の制作技術発展段階の解明に大きく資することは疑いがない。

 日本刀の誕生に大きな興味を持つ一人として、今後の日中両国の古代製鉄史と冶金技術の研究成果に期待したい。





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