邂逅
船の揺れに合わせて、ランプが揺れる。中に火は灯っていないが、そんなものが必要ないほどに窓から入る日の光が船室を照らしていた。開け放たれた窓が潮を含んだ風を室内に運び、海鳥の鳴き声の通り道となっていた。壁にはいくつもの地図がかけられ、机の上には開いたままの航海日誌。部屋の隅には無造作に黄金の品々が積み上げられていた。
その部屋の中に上半身裸で椅子に座り、ナイフの先を見つめる男が一人。
浅黒い肌に黒い髪と黒い瞳、ほりの深い顔は退屈そうに呆けており、その肉体は無駄の無いしなやかな筋肉で覆われていた。彼の名前はバック、この船の船長である。バックは不意にナイフを壁に投げつけた。ナイフは壁に刺さらずに跳ね返ったり、床を転げまわりってバックの足元まで戻ってきた。
それを拾い上げ、またもや彼は壁にナイフを投げる。ナイフは同じ軌道を描いて壁に跳ね返り、再びバックの足元に戻ってきた。
彼はそれを何度も繰り返した。何度も何度も。彼なりの手遊びであった。
幾度となくそれを繰り返し、バック自身も飽きてきた頃、彼はおもむろに視線を窓に向けた。
その時、まるで待ちわびていたかのように窓から怒鳴り声にも似た見張りの声が流れ込んできた。
「前方に船だ。船が見えたぞ」
その瞬間、バックの目に輝くような光が灯った。
彼は椅子に掛けていた黒いジャケットを掴んで立ち上がった。ジャケットに袖を通しながら目の前にある椅子を蹴り飛ばしてどけ、手に持っていたナイフを壁に投げつけた。
わずかな振動音を響かせて壁に刺さったナイフに一瞥をくれ、バックは目の前に立ちふさがったドアを蹴り破った。
人が入り乱れる甲板を早足で駆け抜ける。バックは一番手近にあったマストから上を見上げた。頭上にはためく旗で風向きを確認してマストの頂上へと続くロープを登り始めた。上に行くに従い、強くなる風を受けながらバックは見張り台へとたどり着く。
「船影はどっちだ」
「前、真正面ですよ、船長」
示された方角をバックが凝視すると水平線近くに黒い染みのような塊が見えた。差し出された望遠鏡を受け取り、バックは右目にそれをあてた。
複数のレンズ越しに見える船は赤を主体とした船の装飾を見せびらかしている。船はこちらに船腹を向けてバックの船と垂直の航路を進んでいた。
しばらくの間、何かを探すかのように望遠鏡を上下させていたバック。だが、ある時を境に彼は彫像のように動かなくなった。その顔にはやや険しい表情がうかんでいた。そうしているうちに見張り台にまた一人男が登ってきた。
「バック、来てたか」
「ラツィオ、見てみろ」
ラツィオと呼ばれた男は長い銀髪を後ろに流し、緑色の瞳を望遠鏡にあてた。
「ダンク商会の船だな」
ラツィオは望遠鏡を覗いたままそう呟いた。海賊にしては場違いな程に整ったラツィオの顔立ちにも険しい表情が浮かんでいた。
「身内の船だ」
ダンク商会、それは彼らの海賊団の傘下にある商会だった。それゆえ、彼らはあの船に手出しする理由が無い。
「まったく、つまらん。せっかく暴れられるかと思ったのによ」
「さっき散々暴れただろうが。部屋のドアをまた蹴破りやがって」
「手で開けるのは面倒くさいだろうが」
「お前はいつになったらドアノブの存在を覚えるんだ?お蔭で船大工の仕事がまた増えた」
そんな軽口を叩いている間も彼らの表情が和らぐことは無かった。
だが、二人の表情には大きな違いがあった。バックは明らかに退屈しただけであったが、ラツィオには別の理由があった。
「バック、ダンク商会の今月の取引予定覚えているか」
「あぁ、確か縄張り内の取引が主だったな。それ以外は確か船団での取引が二回、個別での航海が三回」
「よく覚えてんな」
「一応、俺が船長だからな」
「アイアイサー」
「で、副船長のラツィオ君。それがどうかしたのかい?」
長い銀髪を風になびかせながら副船長は望遠鏡から目を離した。
「なんであの船はこんな海域をうろちょろしてんのかと思ってな」
一瞬だけ、マストの上が旗のはためく音のみとなった。
「おい、デンゴ。おれの机の上の海図を持ってこい、大至急だ」
「了解」
デンゴと呼ばれた見張りの男はさっさとマストを降りて行った。
「必要なのは海図なのか?」
「俺の机には今は航海日誌しか無い。単に下っ端に聞かせたくなかっただけだ」
「頭を使われると、知恵熱で使い物にならなくなるような奴ばかりだからな」
「いいから、さっさとお前の話を聞かせろ」
ラツィオは望遠鏡をバックの方へ差し出した。
「もう、見たぞ」
「旗じゃない、甲板を見ろ」
バックは再び望遠鏡を覗きこみ、言われたとおりに甲板へと目を向けた。
「やけに人の動きが慌ただしいようには見えないか?」
「ああ、見える。しかも、その大半が大砲の整備だ。俺達の船を見て準備してるって感じだ」
「それに、商船にしてはやけに船が沈んでいる。よほど重い品を運んでるらしいな」
「火薬とかか」
「大砲とかもな」
バックが望遠鏡を折りたたんで、見張り台の中に投げ捨てた
「まるで戦艦だ」
「臭うな」
「そんなわけあるか、こっちは風上側だ」
「正確には七時の方向からの風だ」
七時の方向とは、自分の周囲に時計を作り、正面を十二時とした時の七時の方向である。今回の場合おおよそ後ろからの風というわけだ。バックとラツィオは顔を見合わせた。そして、バックが見張り台から下を覗きこむ。
「野郎共、仕事をくれてやる。喜んで働きやがれ」
その声が響き渡った途端に甲板を大歓声が覆った。人々の動きが水が高いところから低いところに流れるかのように整ったものへとかわっていく。
「喜んでる、喜んでる」
「そんなことより、さっさと降りるぞ、船長」
「へいへい」
二人はマストを滑るように降り、舵輪へと向かいながら指示を飛ばす。
「面舵だ。全ての帆を降ろして風を後方から目一杯受けろ。この船の最高速度で進む。全速前進」
「武器庫を開けとけ、砲雷班は大砲の準備。弾はつめこむんじゃねぇぞ、どっち側で撃つのかはまだわかんねぇんだからな」
周囲から返事の声が上がった。
マストにくくりつけられていたロープが解かれ、閉じられていた帆が船の前方から順に音を立てながら張られていく。降ろされた帆は巨大な一枚の壁となり風を受けて美しい弧を描いた。船がたてるさざなみが勢いを増し、頬を打つ風が強くなっていった。
「前方の船が帆を張ったぞ。逃げる気だ」
どこからか聞こえてきた怒声に耳を傾けるバック。彼は舵輪を握ったラツィオが差し出した望遠鏡をひっつかんだ。今や、こちらの甲板からでも見える程に接近したその船。その船は舵を切る様子は無く、今までの航路のまま速度をあげながらひたすら真っ直ぐに進んでいた。
「どうだ?」
ラツィオからの疑問符にバックは望遠鏡から目を離して答えた。
「縦帆が主体の船だ。追い風なら話にならないが、横からの風ならこっちの船より速そうだ。俺達が追いつくまでに逃げ切れると踏んだんだろう。まったく、船を偽装するぐらいなら堂々としてりゃいいものを」
バックは望遠鏡をラツィオに返しながらそう呟いた。
「案外、本当にダンク商会の船だったりしてな。俺達に知られたく無い物を積んでいるんじゃないのか」
「それならどちらにしろ、俺達がやること変わらないじゃねぇか」
「バックが楽しそうに見えんのは気のせいか」
バックはラツィオに不敵な笑みを返して、前を向いた。
「何言ってんだ。楽しくなるのはここからだろうが」
彼の目線の先、遠目で見え始めた船から何かが次々と落ちている様子が見て取れた。
「積荷を捨ててやがる。本当に俺達から逃げ切る気らしいな」
ラツィオのその言葉にバックは口元に笑みを浮かべた。
「面白い、それでこの船から逃げ切れるもんならやってみやがれってんだ。海賊旗を掲げろ、奴らを絶望の淵まで追い込んでやれ」
今まで掲げられていた無地の旗が降ろされ、白地に黒の逆さ髑髏が掲げられた。
逃げる船、追う船。
バックの視線の先に見える逃げる船はやはり進路は変えることなく速度をあげながら進んでいた。ほぼ真横からの風を受けながらの速度なら向こうの船はバックの船よりも速かった。そして、このままでは引き離されるのもまた事実。
だが、それは船の前方を塞がれないことが大前提である。
彼らの希望を打ち破るためにバックは指示を飛ばす。
「面舵だ。ガフスルを回せ。五時の方向から風を受けろ。」
舵輪が回り、船体が軋むような音を立てながら船の先端の女神像が視線を変える。帆を支えるマストが動き、風をはらんで船を加速させていく。
そして、お互いの甲板が見える程に接近してきた時点でバックの船は既に逃げる船の航路を塞ぐ位置まで陣取っていた。
「バック、操舵は任せる」
「おう、さっさと行け」
ラツィオが舵輪を離れ、甲板から階段を下りて行った。それを確認して、バックが腹の底から大声を響かせた。
「海戦だ、甲板に砂を撒け。左舷大砲用意、奴らのマストをへし折るぞ。鎖弾を込めろ」
海底から響くような男たちの唸り声が轟き、甲板の大砲が船の縁へと押し出された。それとほぼ同時に、初めて向こうの船が進路を変えた。面舵をとってバック達の後方を抜ける気のようだった。
「取舵切るぞ。てめら、振り落とされんなよ」
バックの船が左側へと回転しながら進む。その結果、二隻の船が進行方向を異にしながら、平行の進路をとった。緊張する海域。向こうの船もバック達と同じように大砲を全面に押し出していた。
お互いが大砲の並ぶ船側を向けながら接近していく。自ずと甲板が静まり返り、船員達は船長の合図を待つ。
「砲雷班、狙いを上に向けろ。」
二本の剣を腰に差し、手甲を抱えて戻ってきたラツィオが叫んだ。それに合わせて歓声があがる。今や二隻の船はすれ違う寸前にあった。
「大砲、構えぇ」
ラツィオの叫びとほぼ同時に船員の動きが止まる。まさに船全体が一匹の獣のように整った動きを示した。船は牙を剥き出しにして獲物の喉首に噛みつかんと身構えているかのようだった。
ラツィオの持ってきた手甲をはめるバック。頭に白いバンダナを巻き、バックは吠えた。
「撃てぇぇぇ」
爆音と共に獣が飛び掛かった。大砲が次々と煙を上げながら鋼鉄の塊を相手の船へと叩き込む。弾があたった個所が木片を飛び散らせながらはじけ飛んでいくのが見て取れた。
こちらが撃ち込むと同時に向こう側からも弾が飛んでくる。向こうの大砲はこちらの船腹に向けられ膨らんだどてっぱらに風穴を開けようと迫ってきていた。届いた弾は船底近くに穴を開け、届かなかった弾は水しぶきをあげてバック達の甲板に塩水の雨を降らせた。
「怯むな、撃ち続けろ。奴らの弾はあたりゃしねぇぞ」
爆音と水しぶきに負けないように声を張り上げるラツィオ。その言葉に返事の声こそ上がらない。だが、火薬の爆発する音が叫び声を返してきた。
次々と撃ち出される鉄塊が二隻の船の間を飛び交いながらお互いの体に爪を立て、牙を刺し、足をもぎ取らんと迫っていた。そしてバック達の放った一発の弾丸が相手の船の前方にそびえたっていたマストの一部を吹き飛ばした。一枚の帆が支えを失って風に煽られてはためく。次の瞬間には別の帆が数個の穴を開けながらマストから離れて上空まで舞い上がった。
「相手のマストが折れたぞ、畳み掛けろ。撃ちまくれ」
十五門に及ぶ大砲が船の足たるマストを破壊しようと火を噴き続ける。
一本のマストを失い、まさに手負いの獣と化した相手の船は最後の抵抗とばかりに必死に弾を撃ち込み続けてきた。だが、帆を失い風から受ける力が不安定となった船はとても揺れる。足を片方やられた獣の牙は相手の骨までは届かない。後は狩られるのを待つしかなかった。二つの弾を鎖で結び、マストや帆に損害を与えるために作られた鎖弾。次々と打ち込まれる大砲の弾がマストをただの木屑へと変えていった。
一連の射撃が終わった後、相手方の船は一枚の帆も残されず、全ての足をもぎ取られていた。勝どきと共に船長であるバックの指示でバック達の船は相手方の船に接舷した。
「よーし、乗り込むぞ。なるべく全員を生かして捕えるつもりで行け」
「あくまで抵抗する奴はどうすんだ」
「皆殺しだ。行くぞ」
まるでお使いにいく子供のような陽気な声でそんなことを言いながらバックは真っ先に相手の甲板に突っ込んでいった。
そんなバックに続いてラツィオが剣を両手に構えて船員に切りかかりに行く。
一歩遅れてバックの船の船員達は各々の得物を持ちながら相手の甲板に降り立った。先程の海戦で既に浮き足立っていた敵の船員達に勢いにのる海賊達を止める術は無い。喉首に刃物を当てられて自ら剣を放すもの、頭部にきつい一発をくらい気絶するもの、最後まで抵抗して胸に短刀を突き刺されて海に捨てられるもの。
周囲がそうやって甲板を蹂躙していく中、一番乗り気だったバックは少し変わった相手と戦っていた。