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最終章.『ふるさとからの旅立ち』

最終章:『ふるさとからの旅立ち』



 村は再び静かになりました。戦争から帰って来た男達は戦地へ、出稼ぎ者も町に戻ってしまったので、その年のクリスマスも寂しく活気のなく過ぎてゆきました。




「また雪の季節が始まるのね」


女教師の婦人が雪化粧した窓の外を眺めながら絵描きの青年に言いました。


「この雪が降り積もれば、また外界と遮断される生活がはじまるんだわ。あの娘も赤毛の少女もいなくなってしまったし、その上、あなたがいなくなってしまうと思うと、寂しくてやりきれなくなるでしょうよ」




 絵描きの青年は、春には外国へ絵の勉強に行くことになっていました。




「救貧院は閉めなくてはならないだろうね」


青年は言いました。


「僕がいなくなったら、君ひとりでは運営することはできないだろう」




「仕方がないわ」


女教師の婦人は残念そうに言いました。


「人手がないんですもの。戦争さえ早く終わってくれればね。わたしはもう、これ以上、悪い知らせが今日明日来るんじゃないかと、気をもみながら毎日を過ごすなんて、これ以上耐えられそうにないわ」




「いずれ終わるだろうさ」


青年は言いました。


「いつまででも悪いことばかりじゃないよ。はじまりがあれば、かならず終わりはあるのだから」






 そうやって冬が過ぎ、雪解けの季節がやってきました。春一番の郵便配達夫がこの村にやってきた日に、思いがけないお客が、絵描きの青年のもとにやってきました。彼は、救貧院を閉めるために片づけをしているところでした。




「こんにちは」




 それは、隣町の孤児院にあずけられたあの赤毛の少女でした。彼女は孤児院の制服と帽子を身に着けていました。




「やあ、久しぶりだね」


青年は驚いてかけよっていきました。


「どうしたの、こんなところに」




「わたし、今日は、郵便屋さんがこの村に来るっていうから、一緒にのせてもらったんです」


赤毛の少女は答えました。




「まさか孤児院を逃げ出してきたんじゃないだろうね?」


青年は心配そうに言いました。




「今日は、院長先生の言いつけで、ここの村長さんに用事があってきたんです」


赤毛の少女は怒ったように答えました。


「抜け出してきたんじゃないわ」




「そりゃ、変に勘ぐって悪かったね」


青年はそう言ってあやまると、彼女を部屋の暖かいところにまねきました。


「それで、僕に何か用事かな?」




「あの…あの人、先生いらっしゃいますか」


赤毛の少女は言いました。




「先生?ああここで仕事をしていた彼女なら、もうこの村にはいないよ。自分の故郷に帰ったんだ」




「えっ」


赤毛の少女は驚いて言いました。


「まさか、わたしのせいで追い出されたんじゃ」




「そうじゃないよ」


青年は少女を安心させるように言いました。


「あの人も自分の故郷が懐かしくなったんだよ。君が故郷の村に帰ったんで、きっと、安心したんじゃないかな」




「そうですか」


そう言って赤毛の少女は、残念そうに肩を落としました。




「彼女がどうかしたの、何か用事があったの?」




「実はあの、先生に返すものがあって」


赤毛の少女は言いました。


「ずっと、返そうと思っていたんですけど、できなくて。それで、郵便屋さんがこの村に来るのをずっと待っていたんです」




「何なんだい?」


青年は言いました。


「よかったら預かろうか?」




 赤毛の少女はポケットをさぐって、一枚の折りたたまれた紙を青年に渡しました。




「これ、あの人のものなんです」


赤毛の少女は言いました。


「あの人と最初に会ったのは、隣村の教会の中だったんですけど、あの時、わたし、お母ちゃんに言われて、あの人の手提げ鞄の中身を全部抜き取ったの。お金はお母ちゃんに渡したけど、この紙はずっとわたしが持っていたの」




 青年は四つに折りたたまれた紙を開けました。それは分厚い紙で、肉厚な字で書かれた契約書のようなものでした。




「この紙、最初は何が書かれているか、分からなかったの」


赤毛の少女は言いました。


「でも、この村に来て、字の勉強をするようになって、初めてこれが何を意味するものなのか分かったの。これ、劇場雇用主と歌手との間に交わされた、契約書みたいなんです」




「そうみたいだね」


青年も書かれている内容を確認しながら答えました。




「多分、あの人が劇場と契約した時の契約書だと思うの」


赤毛の少女は言いました。


「ここに書かれている名前と先生が名乗っていた名前とは違うけれど、先生は、やっぱり、劇場の舞台に立っていた、プロの歌手だったんだわ」




「やっぱりって、どういうこと?」


青年はたずねました。


「あの人が歌手だなんて、誰かが言ったの?」




「わたしがこの村に来るずっと前のことよ。先生と最初に会った次の日ぐらいに、〇〇っていう都会からやってきた黒服の男が何人かやってきて、劇場でプリマ歌手をしていた若い女性を探しているけど知らないかって尋ねられたことがあるわ。あの人達は、その後何日間も、村中をネズミのようにあちこち動き回ってその人を探していたの。わたし、あの時、〇〇っていう都会(まち)から逃げてきて若い女の人が、あのあたりをうろうろしていたっていう話を、農家の人から聞いたこともあったもんで、わたしずっと、あの人がその歌手だったんじゃないかって疑っていたのよ」




「本当に?」


絵描きの青年は言いました。


「本当に彼女が、その黒服の男達に追い駆けられていた歌手だと思うのかい」




「あんな小さな村だもの、よそから入って来た人ならすぐに分かるわ。もっともわたしも、最初は分からなかったけど。それにね、その契約書に保証人の欄があるでしょ。そこに男の人の名前が書いてあるじゃない。その名前の人を調べてみたのだけど、今、〇〇っていう都会の劇場で指揮をとっている、今流行(はやり)の、とても有名な作曲家なの。先生にその名前の人を知っているかって聞いたら、なんだか知っているようなそぶりだったわ」




「でも、先生は歌手だって、自分からそう言った訳じゃないだろう?」


青年は言いました。




「だからね、その、はっきりさせるために、わたし、先生を試してみたわけ」赤毛の少女は言いました。「先生がそのプリマ歌手かどうか調べてみようと思ったわけよ。わたし、先生から秋のおまつりで何か余興をしてみないかって誘われて、それで、先生に、歌の歌い方を教えてくれないかって頼んでみたの」




「歌を?」




「先生の歌声をナマで聞けば、歌の腕前を知ることができるでしょ」


赤毛の少女は言いました。


「プロ並みに上手いかどうか分かるじゃない。先生は、一人でいるときはよく鼻歌を歌ったりするけど、わたしや、誰かが近くにいているところでは絶対に歌おうとしないから。それで、先生が本気で歌っているのをどうしても聴きたくて、秋のおまつりで、ステージで歌を歌いたいから、歌を教えて欲しいっていったみたわけ」




「それで、先生は歌ってくれたの、教えてくれたのかい?」




「教えてくれたもなにも」赤毛の少女は、うっとりと目を閉じると、「素晴らしかったわ」と、当時を思いかえすように言いました。


「先生は、まず自分が見本を聴かせるからと言って、自分で歌ってくれたの。あんな素敵な声を、あたし、生まれてこのかた聴いたことないわ。天使の歌声ってまさにあの声のことだと思うの」




「そんなに素晴らしかったの?」




「ええ、本当に」


赤毛の少女は答えました。そして、彼女は、何かを訴えるかのように熱っぽく語りました。


「あんな声を人に聴かせることができるなんて。先生みたいなあんな風に歌を歌えたら、どんなにか素晴らしいかと思ったわ。先生は、普段はおとなしくて目立たない感じだけど、歌い始めると、全く人が変わってしまうの。堂々として、海の女神のように雄々しく光り輝くの。あの時わたしは、先生は正真正銘の、プリマドンナだとわたしは確信したわ」




「その話、本当かね」


絵描きの青年は驚いて声もでないようでした。


「歌が上手いとは前々から思っていたけど、プロの歌手だったとは」




「先生は、わたしに、歌の歌い方をとても丁寧に教えてくれたわ。とても親切だった。先生みたいな歌手になりたいって、わたしあの時ほど強く思ったことはなかったわ」




「じゃあ、おまつりの日にステージにあがれなくて、君はさぞかし残念だったんじゃないかい?」




赤毛の少女はクスリと笑いました。




「何がおかしいの」




「別に、そんなこと何でもなかったわ」


彼女は自分に向かって笑っているかのようでした。


「あの日のステージのことなんて、どうだっていいの。だって、先生の歌をもう二度と聴けないことに比べたら、どうってことないもの。二度と先生から教えてもらえないことに比べたら、大したことじゃないもの」




「そんなに感謝していたんなら、どうして、先生の気持ちを傷つけるようなことをしたんだね。畑のものを盗んだりしたら、どんなことになるか君だって分かっていただろうに」


青年は不思議そうにたずねました。




「あの時はまだ、よく分かっていなかったの。まだ、自分がどんなに貴重な体験をしているのか分かっていなかったの。それに、認めたくなかったんだもの」


と言って、赤毛の少女は頬を赤らめながら、両手をもみしぼりました。




「何を認めたくないの?」


青年は言いました。




「わかるでしょう?」


赤毛の少女は肩をすくめました。


「悔しかったのよ。だって、あたし、先生からこの救貧院にこないかって誘われた時、先生のこと、馬鹿にしていたんだから。あたしはね、その日が暮らしていければそれでよかったの。スリをして暮らす生活も悪くはなかったわ。多少殴られるようなことがあっても、能天気な金持ちの隙をついて懐からお財布くすねる仕事も、スリルがあって面白かったし。それがまあ、あの人、わたしがお母ちゃんに殴られて、スリの仕事をさせられているのが可哀想でならないなんて顔するのよね。だからさ、スリの子は無知で不幸だと信じ込んでいるあの人の鼻を明かしてやれば、またそれも楽しいんじゃないかって、それであの人の申し出をうけたってわけよ。だからさ、あの人がこの契約書の持ち主で、正真正銘のプリマだというのなら、あの黒服の連中に先生がここにいることを知らせてやって、報酬をもらうのも悪くないなんて、そんなことさえ考えていたくらいなのよ」




「きみ、本当にそんなことしたのかい?」


青年は驚いて言いました。




「まさか、だってさっき言ったでしょ」


少女は言いました。


「先生の声は素晴らしいって、ずっと聴き続けていたいぐらいだって。あたしが先生を困らせるようなこと、するわけないじゃないの」




「君がそんなことしてなくて、ほっとしたよ」


青年は言いました。




「あたしだって、残念だったわ」


などと言って、赤毛の少女は、あつかましくため息をつきながらも話を続けました。


「何が残念かって、先生の声が聴くことができなくなったということよ。孤児院に行って、先生と分かれて暮らすようになって、初めて先生のことを懐かしく感じたわ。馬鹿みたいなことをしたって今本当に思っているの。言い訳みたいに聞こえるけど、あの時、お母ちゃんから、作物を盗んで来いって言われた時、生まれて初めて、盗みなんて、なんてつまらない仕事なんだろうって感じたの。通りに立って通行人の財布なんかをくすねるとき、ドキドキして興奮していた昔が嘘みたいだった。歌の楽しみを知ってから、盗みなんて、三文の価値もないって思うようになったの」




「本当にそう思うの?本当に、そう思っているのかい」




「本当よ。こんな気持ちになって、あたし、先生を傷つけるようなことをしてしまって、それでいま、馬鹿なことをしたなって思うようになったんです」




 その時、青年は、赤毛の少女の顔に現れている真剣な眼差しを見たのでした。その眼には、以前に見られたいような人を斜めから観察するような、すばしっこい雰囲気はどこにもありませんでした。




「先生が、それを聞いたらきっと喜ぶに違いないよ」


青年は言いました。




「別に、わざわざ聞かせる必要ないわよ。相手が、あなただから、言っただけ。だからね、その契約書、先生に返してもらえないでしょうか」


赤毛の少女は、青年の手の中にある紙を指して言いました。




「いいよ」


絵描きの青年は言いました。


「送っておくよ」




 赤毛の少女はそれを聞くと、胸のつかえが下りたようなほっとした表情を浮かべました。そして、そろそろ帰らなければならないからと言いました。




「先生に何か伝言はあるかい」




「いえ別に」


赤毛の少女は言いました。そしてまた夢見るような、それでいて挑戦するような強い目つきになって、付け加えました。


「ただわたしは、いつか、先生みたいな、いえ、先生を超えるような歌手になりたいって、今はそう思っているの」






 郵便配達夫が隣村に戻るというので、青年は村の出口まで赤毛の少女を見送りました。




「元気でな」


青年は少女の首にしっかりとマフラーをまきつけてやりました。


「体こわすんじゃないよ。頑張って生き抜けよ」




 赤毛の少女が帰った後、救貧院の片づけを手伝うために女教師の婦人がやってきました。彼女は、手を振って背をむけていく一人の少女に気が付いて言いました。




「今のひょっとして、あの赤毛の少女じゃないの?」




「そうだよ」




「しばらく見ない間に、変わったわね」




「本当に、子供っていうものは、知らない間に成長するものだね」




「もう、若い娘さんみたいに見えるじゃないの」




「ほんとうだね」




「それで、彼女、何の用事だったの?」




「別にたいしたことじゃないよ」


と、青年は、彼の手に遺された契約書の紙を見ながら言いました。


「ただ彼女は、自分の目の前にも、自分だけの人生が存在していることに気が付いたのだと、それを報告に来たんじゃないかな」








 青年が外国へ、絵の勉強に出発する日がやってきました。







「いずれまた、戻ってきますよ」


青年は、見送りに来てくれた村人達に向かって言いました。


「戦争が終わった頃にね」




 青年はパリに向かう途中、彼が赤毛の少女から預かった契約書に書いてあった〇〇という都会の劇場に立ち寄りました。行ってみると、劇場はすでに破綻(はたん)していて、所有者も劇場の名前も変わっていましたが、彼はそこで、かつてそこで働いていた、その契約書の保証人の欄に書かれてある作曲家の居所を聞くことができました。




 青年は、彼を訪ねようと思いました。この契約書がもし本物で、この男が実在するのなら、彼は、彼女が今かかえている困難を解決するのに、役に立ってもらえるかもしれないと思ったからでした。




 青年は、同じ〇〇という都会にある、××という名前の劇場に向かいました。




 青年は、そこでやっとその作曲家に会うことができました。青年が手にしていた契約書を彼に見せると、彼は、驚いて、この契約書の持ち主は今どこにいるのかとたずねてきました。




「戦地から帰って以来、彼女のことをずっと探していたんですよ」


作曲家は言いました。


「彼女は、ずっと僕の大事なパートナーで、わたしの専属の歌手でした。素晴らしい声の持ち主のプリマドンナなんです。今、どこにいるのですか。以前契約していた劇場が倒産して以来、彼女、行方不明なんですよ」




「じゃあやはり、彼女は、この契約書を取り交わしたプロの歌手だったんですね」


青年は言いました。


「彼女は、僕の住む村に逃げ込んできて、昨年一年ほどのあいだ、そこで暮らしていました。彼女が僕らの村に来た時、債権者に追われていているとかで、自分が何者かも、本名すらいえないと言っていました」




 絵描きの青年がそう説明すると、作曲家の男は彼女が無事で元気でいるのが分かって、とても嬉しいと言いました。作曲家の男は、絵描きの青年が知りたがっている、この都会(まち)を出る前の彼女の状況を簡単に説明してくれました。




「我々が契約していた劇場の、かつての劇場主が、戦争で劇場の経営が左前になってしまった上に、借金を残したまま逐電(ちくでん)してしまいましてね。劇場主に金を貸していた債権者が、残された歌手連中に無理難題をふっかけたんですよ。わたしは出征していたので、そんなことが起っていたとは、帰国するまで知らなかったんです。彼女を探そうにも、黙って劇場を飛び出して行ったと聞かされたきりで、どこを探しても、何の手がかりがつかめなかったんですよ」




「じゃ、やっぱりそれは、彼女の支払うべき借金ではなかったんですね」


絵描きの青年は言いました。




「そうです。ついでに言うと、わたしだって、支払う義務はないんです。彼のために裏書をしてあげたことなんて一度だってなんですからね。あの劇場主は、借金の返済を待ってもらうために、債権者にあることないこと吹き込んだんですよ。ただ、債権者達は、先代のプリマの時代に、劇場が返しきれなかった金は、次代のプリマがきっと埋め合わせると、先代プリマが太鼓判を押して辞めて行ったので、彼女にはかなり期待していたんですよ。それで、劇場倒産後も、彼女を手放したがらなかったんでしょう。彼女は、自分が返さなければならない金があるなんて聞かされて、寝耳に水だったでしょうね。だから姿を隠したんだと思いますよ」


と、作曲家は言いました。




「じゃあ、債権者は今でも、彼女に借金を返させようとしているのでしょうか。彼女のことを探しているのでしょうか」


絵描きの青年は言いました。




「いいえ、彼等はそんなことはもうしないはずです。といいますのは、劇場主が残した借金は、わたしが責任を持って支払ってやることになりましてね。新作の興業の売り上げの利益を折半するという条件で、彼らから新たに資金を出してもらったのです。で、ただ今返済ちゅうというわけなんですよ。幸いわたしは、病気が長引いたことと、負傷したせいもあって、軍隊に戻らずにすみまして。新しく採用したプリマに人気が出たお陰で、公演も、ようやく軌道に乗ったところなんです。この先巡業を続けていくことができれば、細々ですがまた返済を続けられますし、今シーズンが終わったら、来年もまた新作を書く予定です。まあ、戦争前の仕事から見れば、かなり大衆的ですし、規模も半分以下、さして儲かりもしませんが、仕事を続けていられるうちは、僕はあいつが焦げ付かせた借金を払い続けるつもりでおりますよ」




「どうも納得できないんですが」


 分からないというより、少々腹立たしい気持ちになって、絵描きの青年はたずねました。


「なんだって、他人の借金を引き受けたりするんですか?だって、それは、あなたが借りた金じゃないって仰いましたよね。当然支払うべきは…」




「もちろん逃げた劇場主ですよ」


作曲家の男は言いました。




「あいつには、首をねじ切ってやっても気が済まないくらいアタマにきています。あのトンマな劇場主が見つかったら、わたしが立て替えた分も含めて、耳を揃えて支払ってもらいますよ。でもそれは、警察や他の方にまかせるとして、でもねえ、あなたも創作の仕事をされる方ならお分かりと思いますが、わたしの仕事場はここなんです。ここにしか居場所はないんです。ここがわたしのふるさとなんです。劇場に歌劇(しばい)を観に来てくれる方に、面白いステージをお見せするのが役目で、わたしはこれまで何度も舞台に足を運んでくださるお客様と向かい合ってきました。この町に住むお客さん達は、この劇場で歌を聴くことをとても楽しみにしている。わたしは、この街の劇場には、言葉につくせぬぐらい感謝しているんです。こんなことぐらい、何てことないですよ」




「なんてことない、ですか?他人の借金を請け負うような理不尽な目にあってでも、なんてことないのですか」




「たしかにね」


作曲家の男は苦笑しました。


「でもね、世の中にはもっと理不尽なことがいっぱいあるじゃないですか。例えば戦争がそうです。昨日まで隣で元気で生きていた人間が、明日、何の理由もなく鉄砲の弾にあたって、死んでゆくことだってあるんです。戦争に行く前は、僕は今、手にあるものの、ありがたさに気付きもしませんでした。平和でおっとりとした日々に、霞のような儚い夢ばかりを追っていました。あの頃の方がずっと豊かで恵まれていたはずなのに、僕は今の方が、ずっと充実した幸せを感じているんです。今のわたしには、まだ元気な体と、劇場と、仲間と、資金を出そうと言ってくれる人も、作曲する情熱も、何より喜んでくださるお客さんがいる。こんなに幸せなことはありません」




幸せ、という言葉に反応して、絵描きの青年は言葉を止めました。




「そうですよ、わたしは幸せな人間なんです」


作曲家の男は念を押すように繰り返しました。


「もう一度、仕事をしたいという情熱を持つことができたんですからね」




 作曲家の言葉は熱く、言葉通り情熱に溢れていました。絵描きの青年は、村を去るつもりだと告白したときの娘も、目の前の男と同じに、とても挑戦的に輝いていたことを思い出しました。




「ところで、今、彼女がどこにいるか分かりますか?是非、彼女と連絡をとりたいのですが」


作曲家の男は言いました。




「連絡をとって、どうするつもりですか」


絵描きの青年は疑わし気にたずねました。




「決まっているじゃないですか」


作曲家の男はさも当然といった感じで答えました。


「彼女には、もう一度、舞台に立ってもらいたいのです」




「まさか、彼女にも、借金の返済を手伝わすつもりじゃないでしょうね」




「いけませんか」




「彼女はこれまで、あの債権者に追いまわされ続けて、とても苦しんできました。またあんな辛い思いをさせるなんて」




「彼女は歌うことの好きな人間ですよ」


作曲家の男は言いました。


「歌が好きな人間は、歌うことをやめてはいけないのです。どんなに苦しくとも、歌いつづけなくてはなりません。もし彼女が今、歌う仕事をしていないのなら、きっと、歌いたくてうずうずしているはずです。僕は、彼女の才能を、誰よりも買っている。僕がここに居て、彼女を待っていると知れば、彼女は、きっと、舞台に戻ってきてくれると信じていますよ」







 青年は、作曲家の男に別れを告げると、鞄を持って、その場所を後にしました。




 彼は今出てきた劇場を振り返って見上げました。百年以上もの昔に建てられた、その古くて伝統のあるその建物は、燦々と降り注ぐ陽光を浴びて、さっき見たときよりもずっと美しく、誇り高くそびえ立っているように見えました。








 青年は町の中央にある駅まで戻ってくると、パリに向かう列車に乗り込みました。







 彼にとっても新たな出発でした。絵がうまくなりたい、もっともっと、満足のいく絵を描きたい。絵を描き始めた時から今まで、そして未来も、青年の夢は、いつも同じでした。








**








 娘は、故郷に戻ってすぐに、都会(まち)に残っている、昔の劇場仲間のひとりに、例の債権者が今どうしているのか、まだ自分を探しているのか、それとも諦めたのか、そして、劇場主の所在がどうなっているのか調べてくれないかと、手紙を書き送りました。




 返事を待っている間は、長く感じられました。あの時の債権者達が詰め寄って来た時の、恐ろしい顔を思い出すと、身の毛がよだつ思いでした。それでも彼女は、彼等が、今だ自分を探しているというのなら、たとえ自分が借りた金ではなくとも、道義的に責任は果たさねばならないところが、少しでもあるのなら、話し合いに応じるべきだと、覚悟を決めていました。




 しかし、聞かされた答えと言えば、しつこく彼女を追い回していた債権者達は、逃げた劇場主は今だ見つかってはいないけれど、貸した金を返済してもらえる目途がたったので、ほかを追い回すことをやめた、とのことでした。




 誰が肩代わりをしているのか、それを知る術はありませんでした。




 娘は、肩すかしをくらったような気分でしたが、娘は、その後、都会(まち)に戻ることもなく故郷の畑を、妹夫婦と共に耕す日々を過ごしました。




 ある日、郵便局から戻って来た妹が言いました。




「姉さん、手紙が来ているわよ」




 妹は、一通の手紙を姉に手渡しました。




 それは、かつてお世話になったあの村の絵描きの青年からでした。消印はパリになっていました。娘は封を開きました。




 中には一枚の見覚えのある薄汚れた契約書と、見覚えのある字で書かれた手紙が入っていました。娘は、畑の上でしばし農作業を休んで、その手紙に見入っていました。




 娘は手紙を胸に抱くと、畑を離れて、村を見渡せる、小高い丘の方に登って行きました。ひとりになりたかったのです。彼女は、丘の上のやわらかい草地の上に腰を下ろして、再び、手紙をひらいて何度も何度も読み返したのでした。




 娘は、自分が去った後、あの村で起こった出来事や、青年が今パリにいること、春のはじめに赤毛の少女がやってきて、この契約書を返しにきたこと、そして、彼がわざわざかつて彼女が勤めていた都会の劇場に出向いて、あの作曲家に会って話したことの詳しい内容が、彼からの手紙で知ることができたのでした。娘は、手紙を胸に抱き、なつかしいあの村での思い出に、しばし、じっと浸っていました。




 目の前で、夕陽が美しく沈もうとしていました。娘は目を閉じて、瞼の裏に沈む、かつてあの村で見た夕陽と同じ夕陽を、えも言われぬ甘美な思い出とともに、眺めていました。




 その日の夜、娘は家族に向かって、そっとこう打ち明けました。




「ねえ、わたしまた、歌手の仕事をしようかと思うのよ」


娘は言いました。




「歌手にかね」


両親は言いました。




「そうよ、人前で、わたしの歌をみんなに聞いてもらうのが、昔からの、わたしの夢だったんですもの」




「そりゃあいい」


両親は言いました。


「お前は昔から歌が上手だからね。しっかり稼いでくるがいいさ」




 しかし横で話を聞いていた妹は、賛成しがたい顔で、むっつりと黙ったまま、何も言いませんでした。彼女は姉とふたりきりになると、このように言い出しました。




「いったいどういうつもりなの?」


妹は、顔いっぱいの渋面を見せました。


「せっかく債権者が姉さんを追い回さなくなってホッとしたところなのに、姉さんはまた歌手の世界に戻ろうというの?」




「あの村でお世話になった、あの絵描きの人からの手紙を見せたでしょう」


姉は妹に言いました。


「ほら、こんな風に書いてあるわ。今勤めている劇場で、また来年新作を上演する予定でいるから是非わたしに戻ってきてもらいたいって、彼は言っているらしいのよ」




「何を言っているのよ」


妹は軽蔑をこめて言いました。


「その男は、はっきりと自分のことは諦めてくれと言ったのでしょう?姉さんは、戦争から帰ってくるのを待っているって言ったのに、それでも姉さんを捨てて行ってしまったんでしょう?そんな男に義理立てする必要がどこにあるの。今帰れば、姉さんが借りた覚えのない借金の返済に手を貸してやることになるのよ。それでもいいの?」




 妹はとても怒っていました。




「別に、あの人はわたしを捨てたわけじゃないわ」


姉は答えました。


「あの時は、戦争に行かなければならなかったので仕方なかったのよ。それに、彼が今返済している借金だって、彼の責任ではないのよ。それでも彼は、一度はお金を貸してくれたことのある、あの債権者達に恩があるので、返済の肩代わりをしているだけなのよ。彼は、今、とても困っているに違いないわ」




「そうよ、困っているから、姉さんに帰ってきてもらいたいのよ」


妹は歯がゆそうでした。


「姉さんを誘うのは、姉さんのお人よしにつけこんで、安く働いてくれると思っているからよ。たいして儲かる仕事じゃないって、その手紙にはっきりと書いてあるじゃない。それなのに、もどってくれだなんて、よくもまあ、いけしゃあしゃあと言えたもんよ。それに今の彼には、新しいプリマがいるんだから、姉さんがもう一度、舞台の真ん中で歌えるとも限らないのよ。それでもいいの」




「わたしももう年ですものね」


娘は微笑みながら言いました。


「年をとれば、それも致し方なないわ。でも、そんなこと、気にしちゃいないわよ」




「じゃ、何を気にしているの?」


妹は言いました。


「行けば苦労するのは目に見えているわ。なのに、一体何が気になって、もう一度歌手をしようなんて言い出したのよ」




「あの人は、今、わたしを必要としてくれているの。わたしの才能を評価してくれている。わたしを、役に立つ人間と思ってくれている。歌手として、値打ちがあると思ってくれているのよ!わたしは彼に育てられた人間として、また、一緒に仕事をしてきた一人として、彼を見捨てることはできないわ」




 妹は、姉の言葉にじっと耳を傾けていましたが、やがて目頭は涙でいっぱいになってゆきました。




「全く、馬鹿じゃないの?」


と、妹は、呆れ果てたように言いました。そして、歯を食いしばったかと思うと、顔いっぱいに怒りを露わにさせて、まくしたてるように話し始めました。


「本当に、姉さんは馬鹿よ。ちょっと褒められたり、注目されたりしたら、すぐにその気になってしまうんだから!全くのせ(、、)られやすいったらありゃしない。姉さんは昔から、歌が上手だって言われてきたけど、父さんも母さんも、村の人達も、姉さんが歌手になれるなんて少しも信じてなかったのよ。父さんが隣町の楽器屋の仕事を見つけてきたのは、単に、現金が必要だったからよ。それなのに、上手におだてられて、その気になっちゃってさ」




 妹は話しながら、何度も涙を流していました。姉は妹が話終えるのをじっと待っていました。




「それとも姉さんは、まだあの作曲家とやらに未練があるの?あの男は、今は、新しい恋人がいるっていうじゃない。その女をプリマに取り立てて一緒に仕事をしているんでしょ?そんな男を追いかけて行って何になるっていうのよ」




「ちがうわ、そうじゃないわ。彼に未練があるわけじゃないの」


姉は説明しました。


「彼に何人恋人がいようが、気に入りのプリマがいようが、そんなこと気にしてなんかない。わたしはただ、歌いたいの。歌うことをもう一度やりたいの。プリマでなくったってかまわない。自分の歌を人に聴かせる仕事をもう一度で聴かすことさえできれば。まだ自分を必要としてくれている劇場と、お客さんがいるのなら、お金にならなくとも、わたし、行きたいのよ」




「そう言うと思っていたわ」


妹は、言いました。


「金にならない仕事をするなんてね、わざわざ他人の借金を返しにタダ働きしにいくなんてね!ああ、わかったわよ、わたしが何言っても無駄よね。昔から姉さんは、人の言葉に聞く耳なんか、もちやしなかった。わたしの意見なんて、はなから聞く気なんてないわよね」




 妹は、ハナをかみました。まだとても怒っているようでした。




「姉さんがいなくなったとき、わたしがどれほど心配したと思っているの?」




「・・・・・・」




「債権者に追われているって聞いて、どれほど肝を冷やしたと思っているの?姉さんの居所を探すのに、どれほど時間とお金を割いて探し回ったと思っているの?」


 妹はそう言って言葉をとめると、もう一度、ハナをかみました。


「わたし、姉さんがいつか、泣きベソかいて、戻ってくるんじゃないかって、いつも心配していたけど、思った通りだと思ったわよ。今度行っても、多分結果は同じよ、散々便利にこきつかわれて疲れ果てて戻ってくるに違いないわ」




 妹はそう言うと、目頭の涙を拭いて、三度目に、またハナをかみました。




「そんな人の気持ちも知らないで…」




 娘はだまって妹の言うことを聞いていました。妹の目にちらりと寂しそうな光がよぎりました。娘は、なんとも言えない気持ちになりました。




「悪かったわ」


娘は言いました。


「本当に、悪かったわ。では、もうこんなことを考えてはいけないわね。あなたにそれだけ心配させたんですもの。無理をさせたんですもの。ただね、ただわたしは」





 長い沈黙が流れました。やがて、娘は話し始めました。





「ただ、あの人がわたしに目をかけてくれなければ、いいえ、わたしの才能を信じてくれなければ、わたしは歌手になれていなかった。あんなふうに、わたしが歌手にしようとしてくれた人は、ひとりだっていなかったもの。それを思うと、いてもたってもいられなかったのよ」




 彼女はもう言葉が見つかりませんでした。そして、


「いえ、そうね、あなたがそんなに反対するんなら、歌手の仕事は諦めるわ。あなたにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないもの」


と言って、目を伏せました。




 妹は、姉の態度に、もう我慢できないと言った具合に言いました。


「行くな、なんて、誰も言ってないわよ!」


そして、これまで聞いたことのないようなヒステリックな声で叫びました。


「一言だって言ってやしないじゃないの!そんなに行きたいなら、行けばいいじゃないの。姉さんが、債権者に追われずにすむようになったのは、あの作曲家が借金を肩代わりしてくれたからなんでしょう?あの時、あの作曲家が姉さんに仕事を紹介してくれたから、私達はあの年の冬を越せたんでしょう?、あの人に恩があるぐらいの事ぐらいのこと、わたしにだって、分かっているわよ」




 妹は、四度目にハナをかみました。




「わたしが反対するわけがないじゃない」


 妹は言いました。


「できるわけないじゃないの!行きゃあいいでしょ。都会(まち)の劇場だろうが、宇宙の果てにだろうが、行きたかったら行けばいいのよ。行ってもう一度苦労してくればいいじゃないの。わたしが腹をたてているのは、姉さんは間違いなく苦労するに決まっているのに、姉さんはそれをちっとも分かっていないからよ。まるで、散歩に行くように簡単に決めてしまうからよ。わたしはね、後になって、何か言ってきても知らないと言っているだけよ。泣きべそかいて戻って来たって、慰めてなんてやらないと言っているだけよ」




 二人の間に再び沈黙が流れました。長い間、離れ離れで暮らし、住む場所も、行く道も全く違ってしまったと思っていた妹が、こんなにも自分を心配してくれていたことに、姉は、今やっと気が付いたのでした。




 娘の目にもいつのまにか、涙が溢れていました。




 娘は妹を抱きしめました。お互いの涙が、お互いの頬を濡らし合いました。その顔はぐしゃぐしゃになって、もう何も言えないようでした。







娘は、一言


「ありがとう」


とだけ言いました。












 娘にとって、歌うことほど、心ときめく、刺激的なことはありませんでした。今、彼女は、心の奥底にしまわれたままになっていた歌の情熱を、ふたたび取り出そうとしていました。




 娘は再び出発の支度を始めました。




 再び歌を歌うということ、舞台に立つということが、大変な努力と困難を伴うということを、娘は知っていましたが、もはや迷いませんでした。娘は自分の手のひらを眺め、赤毛の少女に平手打ちを食らわせたあの日のことを思い出しました。娘は、あの時の痛みを感じながら、そっと、ほくそ笑みました。




 出発の前日、娘はパリの友人に向かって手紙を書きました。自分のためにわざわざあの都市(まち)にまで出向き、あの作曲家に会ってくれたこと、彼の話をわざわざ手紙に書いて知らせてくれたことに篤く礼を述べました。そして、自分がこれから行こうとしているところ、しようとしていること、成しえようとしていることなどを、書き記しました。彼女はそこに最後にこうしたためました。








「わたしが歩いた道のすべてが、わたしのふるさとなのです。わたしのであった全ての人もまた、ふるさとなのです…」








 娘は、夢は常に目の前にあることを、知っていました。目をそむけて、見えなくなっていたときも、夢は、ずっと目の前にあったのです。




「新しい始まりがきたのだ。ひとつの道が終わって、また、次の新しい道が始まったのだ」





最後に娘は、そっとこう呟きました。




「昨日振り向きもしなかった人が、今日、微笑みかけてくれるように、今日赤の他人だった人と、明日、めぐり逢うこともあるのだ」


と。



<完了>


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