6.『真実と、嘘と』
第六章:『真実と、嘘と』
暖かな春の日でした。新緑が残った雪の間から芽をのぞかせ、木の葉がほほえましく枝先をかざり、冬の寒さと春の温かさの入り混じった柔らかな風が、村のあちこちで吹いていました。
郵便屋も、新聞配達夫も村を訪れるようになり、外のニュースと接することができるようになりました。女教師の婦人は、ようやく、戦地にいる夫からの手紙を受け取ることができたのでした。
春の作付けの時期になると、娘は、率先して畑に出て手伝いました。娘は、村のどの家からも、頼まれたら、すぐにでもおもむいてどんな仕事でもこなしました。か細い、小柄な娘でしたが、手先が器用で、たいがいの仕事はこなしました。人手の少なくなった村で、娘はどこでも重宝がられ、娘は、人の役に立つことができるようになったことを喜びました。
作付けが終わると、時間を持て余した娘は、もっと役に立ちたいという気持が強くなり、救貧院での仕事を申し出ました。
「あそこでお世話になったお陰で、わたしは命拾いをしました。少しでもお役にたちたいのです」
翌日から娘は、その日から救貧院で精力的に働きはじめました。部屋の掃除、食事の支度、宿泊人の世話などを、引き受けました。訪れる人には笑顔で接し、誰にでも優しく丁寧に振舞う娘の姿に、宿泊者達はとても心癒されたのでした。
救貧院での仕事は、娘の心のよりどころの一つでもありました。誰からも望まれない人々に優しくすることで、娘は自分を慰めていました。
そんなある日、救貧院にひとりの少女が姿を現しました。汚い身なりのその赤毛の少女はどこかで見覚えがありました。娘は、その子にも部屋の中に入って食事でもしないかと声をかけましたが、すぐにどこかに出て行ってしまいました。
事件は翌日起りました。前日やって来た旅の商人が、懐の財布を盗まれたというのです。
「この辺をうろうろしていた、赤毛のアマっこにやられた」
旅人は言いました。
娘は、あわてて彼女を探しました。その子は、村の入り口の川べりで、靴を脱いで、両足を川の水のなかにつけて、遊んでいました。
「あなたが、お財布をとったの?」
娘は赤毛の少女に話しかけました。
赤毛の少女は一瞬身を固くして、丸くて大きな目をこちらにむけていましたが、意外と簡単に盗った財布を返しました。
「どうして人のものを盗ったりするの」
財布を受け取ると、娘は赤毛の少女に向かって言いました。
「人のものを盗ることは、悪いことなのよ」
「そんなことは知っているわよ」
少女は答えました。
「悪いことだと知っていてやっているわよ。でも仕方ないじゃない。お財布をスッてこないとお母ちゃんに殴られるんだもん」
「お母ちゃんに?」
「それだけじゃないわ、ご飯も食べさせてもらえないもん」
赤毛の少女はそう言うと、隣村まで通じる、裏山の崖道を下ってゆきました。
娘は、少女の赤毛が見えなくなるまでそこで突っ立っていましたが、救貧院に急いで戻ると、持ち主に財布を渡しました。
「ちくしょうめ!」
商人は言いました。
「半分は抜き取ったな。全くこざかしいやつだ、今度会ったらぶっとばしてやる」
その日、娘は、巨木の目の前の土手に座って、スケッチブックに向かって一心に何かを描いている青年と出会いました。青年は絵筆をさかんに動かして絵に夢中になっていました。
「絵を描いていらっしゃるのですか」
娘は目の前にそびえ立つ巨木を指さしながら、青年に話しかけました。
「やあ、こんにちは」
青年は顔を上げて言いました。その眼はきらきらと輝いてとても楽しそうでした。
「そうなんだ、この木、描きごたえのある立派な木だろ。以前、ここから遠く離れた外国で、これとよく似た木の絵を描いたんだけど、それ以来、木を描くことがやめられなくなっちゃってさ。今度××という大きな町で開かれるコンクールに出品しないかと誘われて、構図を考えているところなんだよ」
「素敵ですわね」
娘は言いました。
「君の方はどう?何だか悩み事のあるような顔をしているけど、どうかしたの」
娘は、さっき起ったスリの事件をかいつまんで青年に話しました。
「今思い出したのですけど」
娘は言いました。
「あの赤毛の少女、隣村の礼拝所で、わたしの財布をスッたあの親子の子供の方ですわ、間違いありません」
「暖かくなったから、裏の山道を登ってこっちまで来たんだな」
青年はとても弱った様子でした。
「戦争でこの不景気だからねえ、隣の村でもよく稼げないのかもしれない。遠いし、足場が悪いからここまで縄張りを広げてくることは、これまであまりなかったんだけど」
「問い詰めたら、あの子、思ったより素直に財布を返しましたわ」
「返さなければ、殴られると思ったんだろう。可哀想に、あの子達は稼ぎが悪いと元締めから殴られるんだ」
「あの子、スリは悪いことだと分かってやっているんですわ」
娘は言いました。
「でも、言いつけをきかないと母親に殴られるし、ご飯も食べさせてもらえないと」
「それが隣村の実情なんだよ」
青年は言いました。
「以前に言った通りさ。彼等は、親から、幼い頃から食べて行くためだと言われて、スリの教育を受けて育った子ばかりなんだよ。他に生き方を知らないんだ」
「何かいい方法はないものでしょうか」
娘は言いました。
「殴られてスリをさせられるなんて可哀想です」
「隣村では、そんな子供達を引き取って教育する孤児院もあるんだよ。それでも、何人かは親元にもどってしまうそうだ。そんな子は、何べん連れて帰っても元の木阿弥らしい。長い時間をかけて染み付いた習慣は、そうそう治るものじゃないようだ」
「だからと言って、放っておくのですか」
「こちらからどうにもできないよ」
青年は言いました。
「あのう」
娘はたどたどしく言い出しました。
「こちらで助けてあげることはできないのでしょうか」
「助けるって、あの救貧院でかい?」
「そうですわ」
「誰が面倒をみるの」
「もちろん、わたしが」
「そんなこと無茶だよ。できっこない」
「どうしてですか、わたし責任もってお世話しますわ」
青年は驚いて立ち上がりました。
「あそこは、救貧院で、一時的に動けない人や旅の途中で泊まれない人を受け入れる施設で、孤児院のように長く滞在する人のためのものじゃないんだよ」
「でも、誰かが手を差し伸べなければ、あの子は永遠にあのままですわ」
「そのぐらいわかっているよ」
青年は言いました。
「でも、他人である我々に彼等の人生をどうこうできる権利も責務もないよ」
「でもあなたは前に、誰かが気を利かせて、何かしら仕事を教えてあげるべきだと仰ったじゃないですか」
青年は、自分の言った事に思い出して、ひとり頷きました。
「確かにそう言ったよ」
青年は言いました。
「でも現実的なことを考えてもらいたい。あの救貧院はね、昔、かつてこの村に愛着を持って度々訪れてくれた、ある資産家の紳士の遺産で運営されているんだ。だから、人手が少々足りなくても、何かとやっていけているんだよ。でも、それは小規模でやっていく、と言う前提で成り立っているんだ。孤児院のように、行き場のない子供を長く預かって教育させて、その上働けるように道筋を立ててやるようなことは、あの救貧院の規模ではとても無理だよ」
「ではこのまま、放っておくのですか」
娘は言いました。
「あなたは今、不景気で、隣村では食べられなくてこの村まで縄張りをのばしたんだと言ったではありませんか。このままにしておけば、いずれあの子のような子供がこの村に次々とやってきて、また、盗みを働きますわ。それでもいいのですか」
「そりゃあ」
と言って、青年は困ったように顎に手を当てて考えこんでしまいました。
「いいわけはないけれど、でもね」と言って青年は、何か言いかけましたが、視線を落として、気まずそうに口をつぐんでしまいました。
「何ですか」
娘は言いました。
「何を仰りたいのですか」
しばらく考えた後、青年は、言葉につまりながら話し始めました。
「僕はその、君がね、この村の人間じゃない人間と深く関わるのはどうかと思うんだよ」
「どういうことですか」
「君は、都会から自分を追いかけてきた債権者に見つかりたくないんだろう?彼らから顔を隠すために、ここにいるんじゃないか。君を追いかけていた連中は、おそらく隣村に住む全ての人間に、尋ねて回ったことだろう。指名手配まではされていないだろうが、君のことを目ざとく探している人間がウヨウヨいるに違いないよ。僕は、君は、へたに隣村の人間と接点を持たない方がいいと思うんだ。わざわざこちらから出向けば、彼らに、居場所を教えに行くようなものだからね。いや僕は、別に君のしたがっていることを非難するつもりはないよ。君の言った通り、本当は、彼女のような子は、誰かが気を利かせて、何かしら仕事を教えてあげるべきなんだ。それは、本来は、隣村や近隣住まう僕らのような人間がするべきなんだ。村の外からやってきた君に、そう言われてちょっと恥ずかしいくらいだよ。でも、僕が思うに…その、きみは、変わっているよ。この村で大人しくしていれば安全に過ごせるのに、しかも、あの子からお金をすられて大変な目に遭わされたこともあるのに、どうしてまた、こんな面倒なことを引き受けようと思ったの」
「わたしは、何かの役に立つことがあればやりたいと思っただけですわ」
と、娘は答えました。
「他に深い意味はありません」
「僕が心配しているのは、あの子達は普通の子供とは違うということなんだよ」
青年は言いました。
「普通の親なし子なら、話は別だ。僕が言いたいのは、あの子はスリの教育を受けた子供ということなんだ。これまでの生き方を矯正して、正しい道に導いていくことは、きっと並大抵のことではないと思う。それでも、そうしたいと思うのかい」
「確かに、これまでの習慣を変えるのは難しいことだと思います」
娘は答えました。
「でもね、生まれながらのスリなんていやしないんです。たまたまスリの親から生まれて、しこまれてしまっただけで。彼女達は、外の世界を見たことがなく、知らないのです。世の中に、今いる場所と違う、もっと素晴らしい世界があると知れば、彼女達の考えを変えることができるかもしれない。それに、かつてわたしも、あの孤児たちと似たような境遇でした。人は、ちょっとしたもののはずみで、親しい人と離れ離れになり、一文無しになることだってあるんです。あなたの救貧院がなければ、あなたや、女教師の婦人や、この村の人達の厚意がなければ、今は、彼等と同じような仕事を隣村でしていたかもしれないのです」
青年は、娘の話に、また言葉を止めて考え込みました。青年は、かつて、自分が見知らぬ村で、置き引きに遭い、行く当てもなく、道端で倒れた時、通りすがりの見知らぬ人に助けられたことを思い出したのでした。
「弱ったな」
娘の言葉に圧倒された青年は、彼は頭をかいて腕組みしました。
「仕方ないなあ、じゃあ。こうしよう。僕が隣村まで君と一緒に行って、例のそのスリの子を探してあげるよ」
「では」
娘は、視線をあげて青年を見上げました。
「君が隣村をひとりでウロウロして、聞き込みするわけにはいかないだろ。だから僕が一緒に行くよ」
ついに、青年は娘の真剣さに折れたようでした。
「ほんとうですか」
娘は表情を明るくしました。
「そんなに真剣に考えているのなら、仕方ないじゃないか。君の好きにするといいよ。その代り、その子を引き取ったら、ちゃんと面倒をみると約束して欲しい。そして、変わった事があったら必ずと報告するんだよ」
娘はあの事件があって以来、初めて隣村に降りて行きました。青年と一緒に、村のあちこちを回って彼女を探し出しました。すれ違う村人全てが、自分を疑いの目で見ているのではないかと、びくびくしていましたが、幸いにも、噴水の近くで例の赤毛の少女を探し当てることができました。
娘は、その赤毛の少女に、盗みをきっぱりやめられる決心があるのなら、隣村の救貧院に来るといい、と申し出ました。
「そんなことできないわ、お母さんが反対するに決まっている。仕事をやめたらまた殴られるもん」
赤毛の少女は言いました。
「このまま一生、お母さんに言われて盗みをやり続けて行くか、それともお母さんとスッパリ縁を切って、教育を受けて、普通の人と同じように暮らして行くか、自分で決めるといいわ」
赤毛の少女は、娘の言うことを耳を澄ませて聞いていました。
「そこに行けば、本当に普通の人と同じになれるの」
「ええ、本当よ」
「普通の人になれば、決して殴られたりしないの」
「ええ、絶対にそんなことはないわ」
娘は、その気になったら隣村の救貧院に訪ねてくると言いと少女に言い残してその場を離れました。
三日ほどたって、例の赤毛の少女が現れました。
「わたしも、普通の人になりたいの」
赤毛の少女は言いました。
汚れた衣服を身に着け、追い立てられている人から逃れ、行く場所もなく、身寄りもいない彼女が、かつての自分と重なりました。娘は、彼女を助けよう、彼女が独り立ちして立派に生きて行けるようにしてあげたいと強く心に刻みながら、娘は、赤毛の少女を救貧院に招き入れたのでした。
娘は女教師の家を出て、救貧院に移り住み、赤毛の少女と共に生活を始めました。
娘は、彼女を身ぎれいにさせて、読み書きを教えました。生まれてこのかた、教育を受けてこなかった赤毛の少女にとって、文字を覚えたり、数字の計算をしたりといったことはとても退屈なことのようでした。それでも娘は、彼女に世間になれてもらいたくて、農家での畑仕事や、救貧院での仕事を手伝わせ、なるべく人と関わらせました。
最初は、決まり事の多い生活に窮屈そうにしていた彼女も、村人達の温かい心に触れて、だんだんと口数が多くなり、笑顔も出るようになりました。
「皆あなたのこと、感心しているわ。救貧院での仕事も忙しいのに、子供の面倒まで見るなんて、とてもよくやっているって」
ある日、女教師の婦人が娘に言いました。
「あの赤毛の子、だいぶこの村にも慣れたようだし、どう、学校に通わせてみないこと?」
女教師の婦人の勧めもあって、彼女は、赤毛の少女を学校に通わせることにしました。赤毛の少女は、当初はしぶっていましたが、慣れてくると、文句を言わずに素直に学校に通うようになりました。
「どう、学校は?」
娘は、帰り道、賑やかにお喋りをしながら友達と一緒に戻って来た彼女にたずねてみました。しかし返事は意外なものでした。
「学校なんて、つまんないものね」
赤毛の少女はあっさりと答えました。
「だって、どんな駆け引きもないんだもの」
「駆け引きですって?」
「そうよ、だってあの子達にはどんな計算もどんな嘘も必要ないんですもの」
「学校へ通うのに、計算や嘘が必要なの?」
娘は驚いて言いました。
「あたりまえでしょう。そう簡単に人を信用するもんじゃないわ」
赤毛の少女は平然と言いました。
赤毛の少女の言葉に、娘は目をまるめました。
「信用するもんじゃないって」
娘はたずねかえしました。
「あなた、今一緒に学校から帰って来たお友達も、あなたに親切にしてくれる学校の先生や、畑仕事を手伝わせてくれた村の人達も信用していないっていうの」
「あの人達だけじゃないわ。信用できる人なんてこの世に一人だっていやしないわ。どんなに親切そうに見える人間でも、頭では何を考えているかわからない、まずは疑ってかかれってお母ちゃんが言っていたもん」
「どんな人も疑えって」
娘は喘ぎながらいいました。
「じゃあ、あなたは、わたしのことも疑っているの?」
「まさか」
赤毛の少女は言いました。
「あなたがいい人だってことはよく知っているもの、疑ってなんかいないわ。それに、そんなにびっくりしなくても、学校へはちゃんと行くわよ。だって、ここで生活してれば、誰にも殴られずにすむんだもの。学校に行くぐらいのことお安い御用だわ。少々退屈でも我慢するわよ」
赤毛の少女は、まだ十一、二歳の子供でしたが、まるで人生を悟った大人の女の様に、肩をすくめました。
二か月ほどたって、暑くて短い夏がやってきました。村の学校も夏の休暇で閉鎖されました。赤毛の少女の希望で、彼女は友達の農家で、住み込みで畑仕事を手伝いたいというので、留守にしていました。
ある日、娘が、来訪者の少なくなった救貧院で、鼻歌を歌いながら表の掃き掃除をしているところに、キャンバスらしき重そうな包を抱えた絵描きの青年と顔を合わせました。
「相変わらず君の声は素晴らしいね」
と、青年は言いました。
「遠くにいてても君の声だとすぐに分かるよ。歌手になればいいのに」
娘が振り返ると、絵描きの青年がにこにこしながら彼女を眺めていました。大きな包みをかかえた青年の姿を見て、娘はすぐに分かりました。
「では」
娘は歌うのをやめて言いました。
「コンクールに出す絵が仕上がったんですね?」
「そう、これから作品を納品に行くところなんだ」
「きっと、うまく行きますわ」
娘は言いました。
「うん、僕もそう願っているよ」
青年は照れ笑いを浮かべました。
「この秋は結果が出ているだろう。そういえば、毎年秋に、この村でおまつりが開催されるのを知っているかい。バザーやら、音楽会やら、品評会やら、隣町からも沢山招待客を呼んで賑やかにするんだよ」
「まあ。そうなんですか」
賑やかなことの好きな娘は、お祭りという言葉を聞いただけでも心うきたつような思いでした。
「きっと素敵なんでしょうね」
「秋の豊作を祝う祭りだから、村人総出で、おまつりを盛り上げるんだ。君も何かの企画に参加してみたらどうかな。楽しめると思うよ。ところで、今日は、あの子は出かけているの?」
「夏休みでお友達の農家の家に泊まり込んで、農作業の手伝いをしに行っているの」
「あの子。来た時のことを思えば、嘘みたいに元気になったよね。きっと、君の教育がよかったんだろう。実はその件で話があったんだが」
「どんな話ですか」
「実はね」
ちょっと声をひそめて青年は言いました。
「あの子を隣町の孤児院に移した方がいいと言っている人がいるんだよ」
「ええ?」
「あの子のことを、不気味がっているらしいんだ。何か不都合なことが起っているんじゃないかと、心配していたんだよ。変わった事、なかったかい」
「いいえ、変わった事なんて」
娘は言いました。
「ならいいんだけど」
青年は言いました。
翌日、女教師の婦人と会った時にも同じことを娘は聞かされました。
「あの子を、隣町に帰した方がいいっていう人がいるっていう噂をきいたの、何かあったのかしら?」
女教師の婦人が言いました。
突然、胸騒ぎがわきたってきました。何かあったのだろうか?昔の悪癖が出て人様に迷惑をかけているのではないだろうか?
娘は、急いで、赤毛の少女が、夏の休暇の間、世話になっている彼女の友達の農家の家をたずねました。よくよく話を聞いてみると、彼女を隣町に帰した方がいいといっていたのは、その農家の主人でした。
「彼女が何かをしたのでしょうか」
「したというかしないというか」
農家の主人は困った顔つきで言いました。
「あの子ね、スリの真似ごとをするんだよ」
「真似ごとですって?」
「そうだ、ワシらの知らないところで財布やら何やらを、知らない間にスッていくんだ。いやなに、モノを盗ろうなんてつもりでスっているわけじゃなくて、ただそうやって遊びたいだけのようなのだ。スッたものは、一分もしない間に、すぐ返すからね。ただ、あの手癖だけはどうも直りきっていないのが気になってね。わしらも年だし、人手の足りないなか、畑ではよく働いてくれるから、あまり頭ごなしにガアガア言いたくはないんだがねえ。あんたの躾けのたまもので、あの子はあそこまで立ち直ったようだが」
と言って彼はちょっと言いにくそうに付け加えました。
「村長とも話をしたんだが、あの子の将来を考えるなら、もっと厳しく悪い性質を矯正してくれるような、たとえば孤児院のようなところに入ったほうが彼女のためになるんじゃないだろうと思うんだよ」
「孤児院ですって?」
娘は叫びました。
「まさか、そんなこと!」
「例えばだよ」
農夫は言いました。
「このままあの手癖の悪さが治らなかったらの話さ。とにかく、彼女にきつく注意した方がいい。大きくなればなるほど、昔の習慣というものは、なかなか直らないものだからね」
この話を聞いて、娘の頭には、普段は気にならないような、微かな不安がよりぎりました。赤毛の少女は、ときおり、ぼうっと放心していることがあって、声をかけても返事もしないことがありました。そんなとき、娘もさすがに、彼女をここへ連れてきたのは正しかったのだろうかと考えることがありました。どんな悪い親でも、肉親と引き離して生活することが果たしてよかったのか、分からなくなることがあったのです。
娘は早速、赤毛の少女を呼んで、彼女を諭しました。
「スリをすることは絶対にいけないことなのよ。何度も言ったじゃないの、分からないの?」
「あたしは、別に財布が欲しいわけじゃないの」
少女は言い返しました。
「むしろ逆よ、あたしは親切心でやっているのよ。あたしみたいな、どこの馬の骨か分からない人間が同じ屋根の下で暮らしているっていうのに、あの人達、あたしを信用しすぎると思うわ。なんだかとても居心地が悪いのよね。あたしはね、もっと用心しろって言いたいだけなの。それに、どうってことないじゃない。ちゃんと盗んだものだって返しているんだし」
加えて赤毛の少女は、スリをするということは、ごく当たり前な、日常的なことなので、どうしてもやめられないものなのだとも言いました。
「なぜ信用されて居心地が悪くなるのか、わたしには分からないわ」
娘は言いました。
「村の人が信用してくれることは、あなたを村民のひとりだと認めてくれているからなのよ。あなたがこの村にいていられるのは、この村の人達があなたを受け入れてくれたからなのよ。村の人達の厚意で、あなたは食べ物を食べ、学校に行き、屋根の下で眠ることができるんじゃない。それを疑うなんて!人様が社会のために働いてくれているお陰で、自分は生きていられるのよ。あなたが信じられなくとも、村の人達はあなたを信じているわ。やめられないじゃ、すまないのよ。ありがたく思うのなら、相手にどんな隙があろうとも、たとえ、冗談であっても、盗みはしてはいけないわ。二度としないと約束してくれるわね?」
「もちろん、あなたがそんなに言うなら約束するわよ」
赤毛の少女は答えました。
「約束するわ、もう、そんなことしない。でもね、あたしには、このぐらい刺激的なことがないと、脳ミソが溶けてくさっちゃいそうなの。あなた(、、、)みたい(、、、)な(、)人なら、ここの生活が退屈極まりなって気持ち、分かるでしょ?」
「どういう意味なの」
娘は、彼女が何を言っているのだろうと、眉をよせて言いました。
「わたしが、この村での生活をどうして退屈だと思うのよ」
「あなたは、もともとここの村民じゃないって聞いたから」
赤毛の少女は言いました。
「きっと、どっか遠い都会から来た人なんでしょ。あなたが生まれながらの農民じゃないぐらいのこと、ものごしを見れば分かるもの。あなた(、、、)みたい(、、、)な(、)人が、こんな田舎の、畑と動物以外に何にもないこんな場所での生活に満足しているとは思えないわ。そうよ、ここは静かすぎるの。変わりばえがなさすぎるのよ!」
娘は、赤毛の少女は、これまで穏やかな生き方を知らなかったせいで、刺激の薄くなった生活に退屈しきっているのだと感じました。
どうしたら、彼女にスリをやめさせることができるのだろうか。悩んだあげく、娘は女教師の婦人を訪ねました。
女教師の婦人は、秋祭りに向けて学校の子供達と演し物することになっていて、忙しそうにしていましたが、出征した夫が近々休暇で帰ってくることになって、嬉しそうでした。娘は婦人に悩みを打明けました。
「ただ単に手癖だけの問題なら」
と、婦人はしばらくしてから答えました。
「彼女にも、何か仕事なり、楽しみを持たせたらどうかしら。スリをすることと同じぐらい心おどる何かがあれば、そんな気持ちも消えるんじゃないかしらね」
「心おどる何かですか」
「要は、心ときめくようなことよ。例えば、何か趣味を持つとか」
と言って、婦人は何か思いついたようでした。
「そうだわ、彼女にも、秋のお祭りで演し物をしてもらうというのはどう?」
「演し物?」
「何でもいいのよ、バザーをひらくとか、お芝居に参加するとか、ステージで余興をするとかね」
娘は、女教師の婦人の言うことも一理あると思いました。彼女は、休暇が終わって、赤毛の少女が農家から帰ってくると、秋のおまつりで、あなたも何かの企画に参加してみないかと誘いました。
「何でもいいの、バザーでも、お芝居でも、あなたがやりたいことなら」
赤毛の少女は、最初、そんなつまらないこと興味ないわ、としぶっていましたが、娘が熱心に誘うので、それなら考えさせてくれと言いました。
「何をやってもいいのね?」
赤毛の少女は言いました。
「ええ、あなたが楽しめて、お祭りにきてくれた人達が喜んでくれるものならね」
「じゃあ、あたしひとつだけやりたいことがあるんだけど」
赤毛の少女は言いました。
「もしこれができたら、あたしとても楽しめると思うの」
娘は、赤毛の少女の希望をかなえてやるために、協力を惜しまないと彼女に約束しました。彼女が、好きになることができて、自分がスリだったことを忘れるぐらい夢中になれる何かがあるというのなら、何でもしてあげたかったのです。
夏が過ぎ、秋の風がすぐそばまで近づいてくると、赤毛の少女の手癖の悪さもすっかりナリをひそめるようになり、彼女を隣村の孤児院に移そうと口にしていた人々も何も言わなくなりました。
娘は、どんなに絶望的な状況でも、希望を持って、誠実に生きていれば報われるのだと、赤毛の少女の熱心な取り組みようを見て、実感していました。
秋のお祭りを数日前にひかえた頃、女教師の夫をはじめ、村から出征した男達数人が、休暇をとって、戦地から帰ってきました。お祭りに合せて、町の工場で働いていた若者達も、戻ってきました。村は、彼等がもたらした都会の香りと、お祭りの装いが混じりあい、華々しく賑わってきました。
「ねえ、先生」
赤毛の少女は娘のことを普段から先生と呼んでいました。
「わたしねえ、先生。明日が楽しみで眠れそうにないわ。舞台の上に立って、人前で演し物をするなんてこれまでしたことなかったんですもの。皆、気に入ってもらえるか心配なの」
「人前で何かをするときは、どんな時でも緊張するものよ」
娘は答えました。
「わたし、あまりに緊張しすぎて舞台の上に立ったら何もできなくなるんじゃないかって、今から不安で心臓が爆発しそうよ」
赤毛の少女は落ち着きのない様子で言いました。
「思いっきり緊張したり、どきどきするといいわ」
と、娘は微笑みながらアドバイスをしました。
「どんな経験を積んだプロだって本番前は緊張するんだから。緊張するのはあなたが頑張った証拠なのよ。いいものを作ろうと努力したから、気に入ってもらえるだろうかと気になるの。最高の自分を見せられるように最善をつくしなさい。明日の舞台は、間違いなくあなたの一生の思い出になるはずよ」
赤毛の少女は、これまで見せたことのない真剣な眼差しになって、彼女の言うことを聞いていました。
「ねぇ先生、わたし聞きたいことが…」
「なあに?」
「えっとあのね、その、前から聞きたかったことなんだけど」
「何なの?」
「じつは、その、あのね。わたしが最初に先生に会ったときのことなんだけど」
「どうかしたの、言いたいことがあったらさっさと言ってしまいなさいよ」
赤毛の少女は口をひらきかけましたが、すぐに閉じてしまいました。
「いいの、やっぱり何でもない」
「変な子ねえ」
赤毛の少女は手持無沙汰にポケットに手をいれて、何か触っているようでした。
「さっきから、ポケットの中で何をいじっているの?」
娘は言いました。
「何でもないの」
赤毛の少女は手をだして背中にまわしました。そしてふいにこんなことを言い出しました。
「ねえ先生、あのね、〇〇っていう都会の大きな劇場で作曲をしている××っていう男の人のことを知ってる?」
赤毛の少女は相手の返事を待たずに、早口で話をつづけました。
「その人ね、若手の劇場作曲家で、戦争が始まった頃に徴兵されて、今年の始めに負傷してもどってきたんですって。それでね、新しく創作した歌劇を、つい最近、〇〇っていう都会の劇場で発表したんですって」
「それ、ほんとうなの?」
少し間をおいてから、振り向かずに娘は言いました。
「ほんとうよ、その人、戦争に行っちゃって、創作をやめちゃったんじゃないかって、一時期噂になっていたんだけど、新境地を拓いて、これまでの路線とは正反対の、派手で賑やかな作品を創ったそうなの。それで、都会ではそれがすごく評判になっているんだって」
「その話、誰にきいたの?」
「誰って、町から帰って来た娘達なら誰でも知っているわ」
「それで、その―その作曲家がどうかしたっていうの?」
「別に」
赤毛の少女は答えました。
「ただ、私達の間で噂になっているだけ。何でもその作曲家が新しく採用した、若くて美人のプリマドンナがすごい人気で、その人、その作曲家の新しい恋人らしいの」
娘は、彼女の話を聞いていましたが返事をしませんでした。
「どうしたの」
赤毛の少女は言いました。
「ねえ、先生はやっぱりその人のこと知っているんでしょ?」
「いいえ、知らないわ」
娘は答えました。
「聞いたこともないわ」
「うそよ、だって先生、青い顔しているもの」
「いいえ、顔が青いのは寒いからよ」
娘は言いました。赤毛の少女は不安げに彼女の顔を見守っていました。
「だって…先生」
「さあ、今夜は早くベッドに行きなさい」
娘は少女の話をさえぎって言いました。
「明日は本番なんだから、ちゃんと寝ておかなくちゃ」
赤毛の少女は、言われた通りにベッドに向かいましたが、送り出した当の娘の方は、突然もたらされた新しい情報に接し、心は荒波のように揺れていました。失恋した小娘のようにいらいらと心みだれて、まるで眠れない夜を過ごしたのでした。
<第六章:『真実と、嘘と』終わり> 第七章に続く