表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

4.『放浪の果てに』

第四章:『放浪の果てに』


 娘は列車にまる二日ゆられて、ふるさとから列車で半日のところまでやってきました。ここから分岐した別の路線に乗り換えるために、小さな寒村でいったん列車を降りました。次の列車は翌日でした。彼女は宿をとり、一晩その村で過ごすと、翌日の朝、昨日降りた駅に向かいました。人気のない静かな駅舎は、霧が立ち込めてあたりはよくみえませんでしたが、娘の他に人はいないようでした。




 娘は木の箱をひっくりかえしたような椅子に腰をかけて汽車を待ちました。その時、ホームの背後から、地面の砂利を踏んで車が停車したような音が聞こえてきました。そしてすぐに、車を降りる男達の声が聞こえてきました。車はすぐに行ってしまいました。男は二人組でした。




「ここがさっき言っていた駅だ」


 一人の男の声が言いました。


「あの女は、昨夜、この駅で降りたらしい。おそらく今日、ここから地方に行く列車に乗り継ぐつもりなんだろう」




「しかし、なんでこんなへんぴな田舎に来る気になったんだろうな?」




「故郷がこっちの方なんだろう」




「そりゃ都合がいい。本人を見つけたらそのままそっと後をつけて、実家の場所をつきとめよう。本人が借金を支払わないっていうんなら、家族に肩代わりさせることだってできる」




 娘は、駅舎の壁の板張りの隙間から、道路の上で立ち話をしているこのふたりの姿を覗き見ていました。一人は、間違いなく劇場で見たあの黒服の男でした。




 娘は、このふたりのやりとりを聞いて、心臓がつぶれるほどびっくりしました。霧の立ち込めたホームで、あと半時間ほどでやってくる列車を娘は待っていましたが、ここに居ては、彼等に見つかってしまうのは時間の問題でした。




(このまま、奴らに見つかって家族の住む故郷までついてこられたら大変だわ!)




 痩せた土地を耕して、必死に村の再生を目指している妹とその夫、年老いた両親のもとへ、借金取りを引き連れて帰京するどんな理由も言い訳も浮かびませんでした。




 娘は、手提げ袋をかかえて、ホームから線路に飛び降りると線路を横切って向こう側の草地まで走って行きました。そして、進入禁止の柵を再び超えて体をかがめて背の高い草むらの中に身を隠しました。幸い霧が濃かったので彼女の姿は誰にも見られることはありませんでした。




 娘は帽子を深くかぶって、草地から街のある方向へゆっくり移動してゆきました。途中、ついたての前で姿を隠しました。彼女は、そこから、駅舎の前で立ちはだかるように立っている男達を見ていました。彼らは、人が通り過ぎるたびに、じっと顔をのぞきこんだりしていました。




 娘は、身をかがめた状態で、ついたてのところから教会の塔の見える方向へ進み、角を曲がったところで走り出しました。中心部にある、市場などがひらかれる広場の噴水のところまでやってきました。




(あいつらがあそこで張り付いているかぎり、列車に乗れそうにないわ)


 娘は息をきらしながら絶望的に考えました。


(あいつらに見られるわけにはいかないもの。ああ、故郷に向かう別な方法はないものだろうか)




 しかし、娘の故郷は、今いるこの村よりも、もっと離れた片田舎で、さっき乗り継ごうとしていたあの列車の終着駅からも、馬車で何時間もゆられなければなりませんでした。そんな遠い所まで自分を連れて行ってくれる乗り物もなければ、また、そんな遠い道のりを歩くこともできそうにありませんでした。




(たとえ、いい乗り物が見つかっても、やつらの目にとまってしまえば、もともこもないし…)




 雨がしとしとと降ってきました。娘は傘を持っていませんでした。




 焦りと心配は、極度に体をこわばらせました。心臓がどきどきと音をたてて鼓動しはじめ、冷や汗が湧きの下を流れ落ちました。誰が彼女を助けてくれるだろう、誰に助けを求めたらいいのだろうかと、娘は、そんな誰かが、あたかもこの辺にいるかのように、きょろきょろとまわりを見回しまわした。




 とりあえず、いつまでもこんな人目のつく広場にいるわけにはいきませんでした。やつらが戻ってきて、この辺りを探すともかぎりませんでした。




 娘は噴水の水を両手で汲みあげると、それをがぶがぶと飲んで喉の渇きをいやしました。そして、広場の隅にある、建物のひさしの、回廊の下にある遊歩の方へ走って行き、いったん雨が止むのを待ちました。




 娘はそこから、広場でうろうろしているよりは身を隠しやすいと考え、小雨になってから、畑のある方向へ足を伸ばしました。そこには何軒かの、農家が点在していました。




 村の中心部からからひとたび離れると、ゆるい起伏をなした広い畑がただただひろがってきました。雨だったので畑には誰もいませんでした。




 娘は畑をまわり、水たまりが点在している土手道を踏んで、やっとの思いで一軒の農家のドアをたたきました。中からは何の反応もありませんでした。二十分ほど歩いてその隣の農家をたずねました。そこには子供と雇われの子守だけしかいませんでした。




「あの」


 娘は、全身雨に濡れたよそ者の姿を見て、驚いている子守の女に、どのように、何を頼めばいいのか、頭が真っ白になってしまいました。


「あの、どなたかおうちの方はいらっしゃいませんか」




「この家の方は留守で、わたしは留守番をしているだけなんです」


 子守の女はそう言いました。娘は、身を引くしかありませんでした。




 三軒目にたどり着いたとき、雨が再び強く降ってきたので、娘はその家の軒下まで走って行きました。見上げると、そこは今までたずねた家より大きく、大きな納屋が裏手にありました。




 男がひとり、納屋の入り口近くで、マキ割りをしていました。その傍らで子供が割ったマキをマキ置き場に積み上げる作業を手伝っていました。男は大柄な体型で、腕っぷしも太く、この寒さにもかかわらず大汗を垂らして(おの)を振り上げたりおろしたりしていました。




 娘が近づいて行くと、男は眼光のするどい目つきでこちらを眺め返しました。




「あんた、何の用だね」


 さっきの子守同様、男はけげんな眼差しで彼女を見下ろしました。




「あの、一泊でもいいのですが、ここに泊めていただけませんでしょうか」


 娘は息を飲みこみながら言いました。




「うちは宿はやっていないんだ」


 そこは、かなり大きい家だったので、男は彼女を、ここを宿屋と勘違いした旅の婦人なのだと思ったようでした。男は村の中心の方向を指さしながら、


「あっちへ行けば、駅舎の近くに宿がある。そっちに泊まるがいいさ」


と、言いました。




 娘は、宿には逃げ込みたくありませんでした。奴等はまっさきに村の宿を調べるに違いと思ったからです。宿の小さな部屋で、たったひとりでいる彼女のところに、乗り込んでくることも考えられました。




「わたし、悪い人に追い駆けられているんです」


 こんな強そうな男になら、自分を助けてくれるのではないかと、(かす)かな希望を抱いて、娘はたどたどしく話し始めました。


「申し訳ありませんが、ここでかくまってくれませんか」




 男の顔は、驚いたというよりまるでコソ泥が家の中にもぐりこんできたかのように、顔いっぱい不審な表情を浮かべました。そして斧をおいてこっちに歩いてきました。男は、この辺ではみかけないモダンで高級な彼女の装いから、娘を街の女と勘違いしているようでした。




「わたし、覚えのない借金の支払いを迫られていて、困っているのです。助けてもらえませんか」


 雨のしずくを肩や帽子の先に感じながら彼女は言いました。




「そういうことなら、警察にいけばいいじゃないか。なんでわしに頼むんだね」




 警察に行くことは、彼女は何度も考えました。しかし警察がどれぐらい彼女の言い分を信用してくれて、助けになってくれるのか、見当もつかなかったのです。




「わたし、ここから遠く離れた〇〇という都会(まち)の劇場で歌手をしていました」


 娘は何とか分かってもらおうと説明を始めました。


「戦争が始まって以来お客が入らなくなって、劇場主が借金を残したまま逃げてしまったのです。それで債権者たちが、そこの歌手の仕事をしていた私にそれを肩代わりさせようとしているのです」




 男はますます表情を硬くさせました。彼女に同情すると言うより、面倒をもちこまれたらたまったもんじゃない、といった感じでした。




「でも、その借金はわたしには身に覚えのないものなんです。わたしを歌手に育ててくれた劇場作曲家の方は戦地に行ってしまって、誰にも頼りにする人がいなくて」


 娘は涙を必死に抑えながら続けました。


「それでわたしは…」




「そんな大都会で働いていたすごい歌手が、何でこんな田舎の農村でうろうろしているんだね」


 男は言いました。




「故郷に帰ろうとしている途中で、この村にあるあの駅で、列車を乗り換えようとしたら、彼等に追いつかれてしまったのです。このまま彼等に付けられたまま帰ったら、家族に迷惑をかけてしまいます」




「だからって、ウチを頼ろうなんざ見当違いじゃないかね、お嬢さん」


 男は言いました。


「そう言われて、見ず知らずのあんたを、はいそうですかと助けるわけにはいかないよ。追いかけてくるその債権者とやらがヤバい連中なら、なおさら関わり合いたくなんかない。借りた覚えのない金なら、返す必要なんてない、はっきりとそう断ればいいだけの話なんじゃないかね」




「あなた、その方どなたなの」


 奥から妻かと思しき女性が建物の中から顔を出して、娘の方を見ながら言いました。


「お客様なの?」




「誰でもない」


 夫は答えました。


「道をたずねられただけなんだ」




 こういった反応は予想の範囲でした。彼女は軽く会釈すると、そこを逃げるように出て行きました。歓迎されないところにあまり長くいると、いいえ、助けてくれそうにない人に多くを語りすぎるのは、かえって奴等に見つけられやすくなります。娘は、往来に戻ると、両側に畑のひろがった細くてまっすぐな道を、雨の中、あてもなく再びとぼとぼと歩きはじめました。途中あまりに雨が激しくて、大きな木の下で雨宿りしました。




(ついに行くところがなくなった)


 彼女は頭をかかえました。


(他の家をまわったところで同じ反応だろう。悪いことをしていないのなら、警察に行けというのが道理だろう。借りた覚えがない金なら、返す必要など本当はないことぐらい私だって分かっている)




 娘は、劇場と契約したときの契約書は持っていました。そこには利益に応じて彼女に賃金を支払うといったことはあっても、彼女がお金を借りたなどといったことは、一言も書かれてありませんでした。金銭にまつわることは、あの作曲家が一手に引き受け、劇場主と直接取り交わしていました。




(あの男達の言った事は、本当なのだろうか)


 娘は木の幹を背に、体をもたせて考え込みました。


(彼らは、劇場が負った借金は、プリマ歌手であったわたしにも支払う責任があるはずだと主張していた。作曲家のあの方とプリマドンナである自分が、劇場の運営に責任を持つという条件で、湖の小劇場を建てるための金を貸してやったのだと、確かにそう言っていた。わたしはこれまで、自分が劇場の運営に責任があるなど、すこしも聞いたことがなかった。関わったことすらなかった。しかし)


 娘は疲れた頭脳の片隅で、あの作曲家と、債権者の話と、どちらが正しかったのだろうかと、双方の言い分を交互に思い返しました。


(作曲家のあの方は、本当に、いざというときは、わたしも支払の責任を負うという条件で、あの人達からお金を借りたのだろうか。劇場主が逃げ、あの方が戦地に行ってしまった今、やはりわたしは、劇場主の残した借金を支払う責任があるのだろうか?)




 もしそうなら―作曲家のあの方が、そのような約束をしたというのなら、自分は、引き返して、やつらの希望に沿うことをしなくてはならないのでは、という恐ろしい可能性について、嫌でも考えずにはいられませんでした。




(いやわたしは、そんなことをする必要なないはずだ)


 娘ははげしく頭を振りました。


(あの時彼は、小劇場を建てた時の金は返済済みだと言ったではないか。自分達が借りた金は既に返しているから心配する必要はないと、何度も言っていたではないか。逃げた無責任なあの劇場主の代わりに、タダで働らいてやるなんて、そんな馬鹿げた話があるもんか)




 雨はまだ激しく降っていました。水しぶきが、木の枝葉の間から滴り落ちてきました。もっとしっかりした雨宿り先がないかと娘がそこから立ち去ろうとしたとき、後ろから傘をさした女性があらわれたかと思うと、さっと彼女の頭の上に傘をあてがってくれました。




「これを使って」


 彼女は、さっきの農家で会ったマキ割りをしていた農夫の男の家で見た女性でした。


「雨が激しいから」




 娘は地獄で天使に出くわしたかのようにびっくりして、女性を見上げました。




「あ、ありがとう」




「さっき、夫と話しているのをちらりときいたのだけど、あなた、行くあてはあるの?」


 農夫の妻は言いました。




「いいえ」




「隣の村になら、行くあてのない人を泊めてくれる施設があるけど」


 彼女は言いました。




「ほんとうですか?どこにあるんですか」




「この道をまっすぐ行けば隣村よ」


 婦人は彼女達が立っている、さっき来た街とは反対側に森の方におびている、一本の細い道を指さしました。


「この道が一番の近道なの。一本道だから分かりやすいはずよ。その救貧院のことは隣村の人達なら皆よく知っているから、通りがかりの人にたずねたらいいわ。だけどこんな雨の日は、地面が沼地みたいになるから、歩いて行くとなれば、ここから丸一日はかかってしまうわ。かといってあそこまで行く車も、滅多にいないしね」


 婦人は、なんとか力になってあげたいような感じでした。


「何とかいい方法があればいいのだけど」




「ありがとうございます、教えて下さって感謝しますわ」


 娘は救われたような思いで言いました。


「今日がダメなら、明日行ってみますわ」




 そう言ってそこを立ち去ろうとしている娘に、婦人は傘を持っていくように彼女に手渡しました。




「いいのよ、これはわたしの傘なんだから、もっていらっしゃい」


 彼女はそう言って、雨の中、来た道を小走りで引き返して行きました。




 娘は傘を手に道を歩いていきました。親切な人に巡り逢えて、わずかな希望が再び心に湧いてきました。明日、隣村まで行ってみよう、そこでならしばらく身を隠すことができるかもしれない。娘は、農器具をしまっている畑の小脇にあるような掘立小屋のようなところをまわって、なんとか今夜一晩、泊まれそうな場所がないか探してみました。




 しばらく歩いて行くと、小さな教会が現れました。中を覗いてみると、驚いたことに先客は彼女だけではありませんでした。浮浪者のような身なりの汚い親子が一組、そこで雨風をしのいでいました。




「はいんなよ」


 母親らしき女が、先客に驚いて、入ろうか入るまいか迷っているびしょ濡れ姿の娘に声をかけました。


「あんたも宿無しなんだろう?今晩一晩ぐらいならここで過ごせるよ」




 娘は言われた通り、中へ入って行きました。




 教会は狭くこぢんまりしていました。教会というより、礼拝をするだけの小さな部屋といった感じでした。女は部屋の隅にあるストーブにマキをいれて火を起こしていました。部屋のその一角だけぼんやりと薄明るくなっていました。




「火にあたんなよ、服をかわかすがいい」




 娘は言われた通りに、火の側の小さな木製の椅子に腰かけました。




「ここの教会は、雨や雪の日はこうやって鍵をかけずに開けておいてくれるんだよ」


 女は、火かき棒でストーブの中をかきまわしながら言いました。




「そうですか」




「この教会の人の厚意でね」




「そうですか」




「あんた、街から来たのかね」




「そうです」




「こんな田舎までよく足を伸ばしたものだね」




「ええ」




「知り合いでもいるのかね」




「ええ、まあ」


 と、娘はそう言ってうつむきました。




 女は、瞬きしながら娘を見ていました。




「水を飲むかい」


 女はコップの水を彼女に差し出しました。娘は喉がかわいていたので、遠慮せずに飲みました。これほど美味しい水を娘は飲んだことがないと思いました。今まで喉が渇いていることに気付きもしかなかったのです。




 先客の女は、娘のすることをじっと見つめていました。彼女もまた、娘が何者かを知りたそうにしていましたが、暖炉の火が暖かく、気持ちよかったので、娘は、緊張と疲労のため張っていた神経がゆるんで、すぐにそのまま眠り込んでしまいました。




 翌朝、女に揺れ起こされて、娘は飛び起きました。




「いつまで寝ているつもりなんだい」




 娘は椅子の上に座り直しました。目をこすると、昨夜目の前で明々と燃えていた火は、消えてなくなっていました。娘は立ち上がって、外を眺めました。東の空が明るくなっていました。




「人が来る前にここを出るんだよ」


 女はてきぱきと娘を教会の外を追い立てました。


「さ、荷物を持って。ゴミを残して行くんじゃないよ。でないと二度とここを使わせてもらえないからね」




 娘は促されるまま外に出ました。地面はまだぬれていましたが、雨は止んでいました。浮浪者の女は、自分は子供を連れて街へ行くつもりだと言いました。




「あんたは、どこへ行くんだね」




「わたしは、この道をまっすぐいった隣の村に行くつもりです」


 娘は汽車を降りた村とは反対方向の、森に通じている上り坂を指さして言いました。




「隣の村だって?」


 女は呆れた声を出しました。


「この先に村があるっていうのかい?」




「ええ、こっちに行けば、村があるって聞いたので」




「じゃ、あんた、そっちへは行った事ないんだね?」


 女は言いました。


「よしなよ」




「どうしてですか?」




「だって、そっちに行ったって村なんかありゃしないもの」




「ええ?」




「だから、村なんてないって言ってんの。あるのは真昼間でも陽のささない森があるだけさ」




「隣村へは、一本道で分かりやすいって聞いたのですが」




「一本道どころか、道なんてありゃしないよ。この森に迷い込んで生きて帰れなかった人もいるっていうよ」




「・・・・・・」




 娘は立ち止まってしまいました。




「その村とやらに、知り合いがいるのかい」


 女は言いました。


「行くあてでもあるの」




 娘は答えませんでした。女は言いました。


「まあ、あたしがとやかく言うことじゃないがね。もし行くあてがなかったら、あたしと一緒にこっちの村にこないかい」




 娘は目を見張って彼女を眺めました。




「いい仕事を紹介してあげるよ」




 娘はそれでも、返事をしませんでした。




「もしその気になったら、こっちの村においで。あたしは、昼間はたいてい村の中心にある噴水のところか、夜だったらこの辺いるから」


 女はそう言うと、意味をふくんだ笑みを浮かべて、子供を連れて反対方向の道を行ってしまいました。




 娘は、女の姿が見えなくなるまで立ち尽くして彼女を見送っていました。が、我に返って、自分はどこへ行こうとしているのかと考え直しました。




 再び駅舎のある村にもどっても、昨日乗るはずだった列車が今日もくるとは限りませんでした。そればかりか、あの連中が村じゅうをうろついて自分をさがしまわっているとしたら、村の中に、彼女の居場所はありませんでした。




 娘は意を決して、坂道を登り始めました。隣村へは歩いて丸一日かかると、あの親切な婦人が言ったではないか。ゆっくりと物思いにふけっている暇はありませんでした。





 娘は、農家の妻から借りた傘を杖がわりにして、ぬかるんだ泥道をすすんでいきました。

道がすすむにつれ、彼女が当てにしていた一本道が細くなり、分岐したり、昨夜の雨で泥道どころかほとんど沼地のようになっている所に何度も遭遇しました。




 娘は何度も泥水の中に足をとられて倒れ込みました。途中、どうしようにもなく道がわからなくなり引き返そうかと途方にくれているところで、幸運にも山道を下る少年と出会いました。




「あの、この先の村へは、あとどのぐらいの距離でしょうか?」


 娘は彼を呼び止めてたずねました。




「僕は、この辺はよくは知らないんだ。マキ拾いにここに来ただけだから」


 少年は答えました。




「この道は、この先にある村に通じていると聞いたのですが」


 娘はたずねました。




「村ねえ、聞いたことはあるけど」


 少年は答えました。




「本当ですか?」




「ただ、こっち側から行く道はだいぶ険しいらしいんだ」




「じゃ、この先に村はほんとうにあるんですね?」




「だと思うよ」




 マキ拾いの少年と別れると。娘は、再び歩きはじめました。この先に村があるというのなら、きっとそうなのだろう。早くいかなければ、日が暮れてしまう。




 娘は必死に道を進めましたが、真昼間でも陽のあたらない森が続いているというあの女性の話は本当で、彼女は暗くてジメジメした見失いそうになる細い道をひたすら歩かねばなりませんでした。




 こんな風に、目指す場所も不確かで、引き返そうにも戻る道もなく、見えにくく暗い道を、合っているのだろうか、それとも迷い込んでしまったのだろうかと疑いながら、ただてくてくと歩き続けて行くことは、体力の消耗以上に、精神的にも非常につらく苦しい仕事でした。




 娘は歩きながら、自分のこと、これまでの自分の人生を、いやでも思いかえさずにはいられませんでした。このような苦境に立たされなければならないようなことを、自分は、どこでやらかしてしまったのか、ああ、どこで間違ってしまったのだろう、どこで行く道が変わってしまったのだろうかと、何度も問いなおさずにはいられませんでした。




 娘の希望は単純で明快なはずでした。最初は歌手になりたかっただけで、次に望んだことといえば、田舎の家族に楽をさせたかっただけでした。娘は希望通り、歌手にもなり、お金も稼ぎました。しかしいつのまにか、娘は歌手という地位も、ふるさとに居場所も失くしてしまっていました。




(わたしは、他は、何も望まなかったはずだ。なのにどうして!)




 きつい坂にさしかかりました。それは道というより、岩が複雑に入りくんだ崖でした。長い傘に滑りやすい靴。泥の中をひきずりまわしたスカートが鉛のように重く、娘にはそこを超える体力はもはやありませんでした。きついきつい坂道を目の前にして彼女は泣きだしてしまいました。




 あたしは借金取りに追い駆けられるような罪を犯した覚えはないと、娘は、もう何度も心の中でつぶやいていましたが、あまりに苦しく悲しかったので、声に出して叫ばずにはいられませんでした。夢をかなえるため、真面目に働いてきたつもりなのに、なぜ歌う場所も帰るべき故郷も失くさねばならぬのかと、答えの帰ってこない問いを、からっぽの空にむかって叫び続けました。




 娘の脳裏には、輝かしい名誉と喜びを与えてくれた舞台と、彼女を褒め称えた観客たちの顔が次々に思い浮かびました。彼等は娘の歌に、惜しまぬ拍手を送り、穴のあいていた心に、温かい誇りと、生きる希望(のぞみ)を支えてくれた人達でした。しかし彼女は、それは現実だったのだろうか、それは夢の中での出来事ではなかったかと疑いました。そうでなければ、あれほど賞賛され、あれほど求められ、あれほど貴重な存在だと大事にされていた自分が、こんなところで借金取りに追い立てられて、道なき道を泥にまみれながら、頼りにする人もなく、存在しているかどうか分からない片田舎の救貧院目指して歩いているわけがないと思いました。




 あまりに疲れ切って、娘はしばし固くて座り心地のよくない岩場に腰を下ろしていましたが、あきらめをつけると、涙をふいて、立ち上がりました。そしてスカートの端を両手でひろげて結びあげて、傘を岩場の上にほうり上げると、岩と岩のすきまに足をかけてゆっくりとのぼっていきました。




 岩場は数十メートル進むと、また平べったい道が続きました。娘は擦り傷をかばい、びっこをひきながら歩いて行きました。




(そうだっただろうか?)


 娘は空虚な森に向かって言いました。


(本当にそうだったのだろうか、わたしの希望は本当にそれだけだったのだろうか、もっと違う何かを求めていたのではなかったのだろうか?)




 娘は、いなくなってしまったあの作曲家のことを、あの都会(まち)を出てから初めて思い出しました。彼女は、彼に恋心を抱いていました。彼の、出征しなければならないと語った時の、悲し気で絶望的な表情が浮かんでは消えてゆきました。




(あの人も今頃、厳しい戦地の中、こんな風に泥道の中を雨にうたれながら行進しているのだろうか…)




「もう二度と、平和で安穏とした日は戻ってこないだろう。以前のような自信も、作曲をしようという情熱も、僕は、もう持てないだろう。地流は、僕をもう必要とはしていないのだ…」




 娘はあの時、彼をもっと強く引き止めるべきではなかったかと、ふと思いました。あの時、自分は彼を必要としているのだと、あなたの才能だけではなく、あなた自身に居てもらいたいのだと、戦場になど行って欲しくないのだと、そして何より愛しているのだと、そう言った方がよかったのではないだろうかと、今初めて思ったのです。娘は、彼を理解しようと、今はばらばらになり、忘れ去られていた記憶の欠片(かけら)を必死に寄せ集めました。彼は、娘を一流のプリマに育てることに心血を注いだ人でした。娘は、彼の申し子でした。彼あっての自分でした。にもかかわらず、自分は彼に感謝の気持ちを伝えたことがあっただろうかと思いました。彼は、劇場を存続させようと骨を折っていましたが、娘は彼に任せきりで手伝うどころか、彼の苦労を知ろうとさえしませんでした。




 娘は目の前に長く細くのびる、前の石ころだらけの固い道を見つめ続けました。閉じられた過去のページが大きな波となって、彼女の心に覆いかぶさるように押し寄せるかのようでした。




「あなたみたいに純粋で、信じやすいタイプは、歌手には向いていないと思うわ」




 と、言ったのは、彼女に最初に歌を教えてくれた楽器屋夫人でした。彼女は、あの時の夫人の言葉を今初めて理解したのでした。




(彼女のいう通り、本当に、わたしは無知だった)


 娘は自分に向かって言い渡しました。


(わたしは、歌手になりさえすれば、スターになりさえすれば、お金さえ稼ぐことができれば、何もかも解決がつくと信じていた。しかし現実はどうだったか。彼だけではない、わたしもまた、時流から取り残されたひとりなのだ。ただの役立たずになってしまったことに、こんな有様になるまで気付きもしなかったのだ)




 道はまだ続いていました。歩いても歩いても、森は続いて視界が開けてくれるような気配は少しもありませんでした。娘は、まる一日以上歩いているような気分でした。あまりに森ばかり続くので、もう村に出られなくったってかまわない、とさえ思うようになっていました。




 みぞれ混じりの冷たい雨が降ってきました。もらった傘は、途中岩場で滑りおちそうになったとき、両手から離れて谷底におちてしまって、頼るすべはありませんでした。娘は、冷たい雨を全身に受けながら、もはや苦しいとも思わなくなりました。




 体が凍えるように冷え込みながらも、彼女は足を進めました。単調な山道がやがて少しずつ開けてきて、人の手によって整備されたまっすぐな石畳が数メートル現れはじめた後数分、突然森が切れて、村落が現れました。




 山の上の村落、といった感じの、想像したより開けた村でした。娘は村の中心部を探して歩きつづけました。そこには人どころか猫一匹さえいませんでした。娘はあたりを見回して、あの農夫の妻が教えてくれた救貧院らしき建物を霞む目で必死に探しました。




 その時、目の前の建物が開いて、男が一人でてきました。小脇に布に包まれた板のようなものを持っていました。彼は、帽子をかぶり雨をさけるためにコートの襟をたてて建物の階段を降りようとしたとき、目の前にずぶ濡れになって、まるで死人のような顔つきで突っ立ている人間の姿を見て、非常に驚いたようでした。




「あなた、この雨の中何をしているですか?」


 男は娘に向かって叫びました。彼は荷物を地面に置いて、彼女に近づいてきました。


「幽霊かと思いましたよ。顔が真っ青じゃないですか」




 男はそう言うと、自分の着ているコートを脱いで彼女の肩に着せました。




「そんな恰好でここに居てたら、死んでしまいますよ」




「あの、わたし、ここに救貧院にあるというのを…聞いて…きたんです」


 娘は蚊がなくようなか細い声で言いました。




「え、何ですって?」


 男は聞こえなかったようで、耳を彼女の顔に近づけました。




「身よりのない人も、受け入れてくれるって聞いて…」




 娘は男の反応を待っていましたが、彼は心配そうに眺めるだけで何も言わないので、返事をしないのは、隣村で会ったあの農夫のように、自分をあやしい人間だと疑っているからかもしれない、と思いました。彼女は、手提げ袋をあけて、お金を取り出そうとしました。少しでもお金を払えば一晩でも泊めてくれると思ったのです。




 しかしその手提げ袋には、入っていたはずの財布どころか、全ての持ち物がなくなっていました。




「ないわ」


 娘は叫びました。




 娘は手提げ袋をひっくり返しましたが、それは空っぽでした。




「大丈夫ですか?」

 

 彼は言いました。


「何がないんですか?」




「お金が…ないんです」


 娘は言いました。


「そんなはずないわ。だって間違いなくここにいれて夕べは」




 そう言って彼女は、礼拝堂のようなところで、浮浪者らしき親子と夜を過ごした昨夜のことを思い出しました。




「あの浮浪者の女にお金を盗まれたんだわ」


 娘は呟きました。




「ええ?」




「どうしよう…」




 娘はショックのあまり、地面の上にそのまま倒れ込んでしまいました。




 青年は気絶した娘を抱きかかえ、さっき出て来たばかりの建物に引き返してゆきました。そこは、この村の救貧院でした。広くて奥行のある建物の中には、何台かのベッドや椅子がしつらえてあり、唯一の明かりであるストーブの火が、暖かそうな光を放ちながら、部屋のすみでごうごうと燃えていました。




 大きなエプロンをつけたひとりの若い婦人が、身寄りがなく行き場のない今夜の宿泊者のために、あれこれと世話をしていました。彼女はこの村の小学校の女教師で、この施設のスタッフのひとりでした。青年は娘を連れて彼女に近づいて言いました。




「この人の世話を頼めないかな」




「どうなさったの、その方」


 女教師の婦人が、青年が連れてきたびしょ濡れの娘の姿に驚いてたずねました。




「建物の外で傘も差さずに立っていたんだ」


 青年は、彼女をゆったりとした椅子に座らせながら答えました。


「浮浪者の親子にお金をすられたたと言っていた。おそらく隣村の、あのスリ集団にやられたんだろう」




「見かけない人だわね」


 女教師の婦人は娘を介抱しながら言いました。


「このあたりの方でもなさそうだし」




「彼女、南側の馬車道じゃなくて、裏の山道を登ってここまで来たに違いない」


 青年は、娘の泥だらけになった衣服を見ながら言いました。


「こんな天気の日に全く、よくこんなところまで歩いてきたもんだよ」




「外はまだ雨が降っているの?」


 婦人が言いました。




「いや」


 青年はコートのボタンをかけながら言いました。


「さっきまで雨だったが、もう雪にかわったよ。今夜はこのまま降りやまないだろう」




「寒くなりそうね」


 婦人も言いました。




「長い冬がまた始まるんだ」


と 、青年は窓の外を見て答えました。


「明日の朝にはきっと、あたりは一面銀世界になっているだろうよ」





<第四章:『放浪の果てに』終わり> 第五章に続く


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ