3.『変化の嵐』
第三章:『変化の嵐』
その年、娘の主人だったプリマドンナが、鉄道王の男と結婚したのを機に舞台から身を引きました。
プリマドンナは、
「良い後継者が見つかったから、あたしは安心して引退できるわ」
と言って、娘に後を託して夫とともに遠い地へ行ってしまいました。
一躍看板スターにのぼりつめた娘のために、作曲家の男は、娘のイメージに合う作品を次々と書きました。娘のまわりには、かつて彼女の主人に取り巻いていたのと同じように、娘の後見人になりたいという金持ち達がむらがってきましたが、ひとりとして作曲家の男は娘に近づけさせようとしませんでした。
「君の純粋で儚げなイメージを壊してほしくないんだ」
作曲家の男は悩まし気に彼女を眺めながら言いました。
「誰かに愛想を振りまいたり、お金のことで心配したりして欲しくないんだよ」
「でも、それで劇場はやっていけるのかしら」
娘は言いました。
「たくさんの後援者がお金を出してくれたから、これまで劇場は運営していけたんでしょう?」
「公演料だけで何とかやっていけばいい」
彼は言いました。
「必要とあらば、どこからか寄附を集めることもあるかもしれないが、それは僕がやるから君は心配しなくていい。とにかくいい作品を書けば、お客はきてくれる。それだけで劇場はまかなっていけるもんだよ」
確かに作曲家の男のいう通り、娘が主演する舞台は、いつも大入り満員で、劇場は常に賑わっていました。彼女は、これまでのプリマが務めていた役柄と正反対の、清楚で純粋なイメージを持っていたので、それが街の人々の目に新鮮に映りました。
娘の人気が高まれば高まるほど、劇場は、新たな演目、新たな演出、新たな衣装や舞台装置など、客を飽きさせないために、様々なアイディアを出して公演を盛り上げようとしました。劇場主は、作曲家の男が出してくるプラン通りに、お金を出しました。そして彼は、今が機とばかりに、娘のために一大傑作を書きあげました。
「この作品に合う、新しい劇場を作ることになったよ」
作曲家の男は娘に言いました。
「ここから二キロほど離れた所に低い丘のふもとの公園に、小さな湖と木立があるだろう。あそこに、君専用の小さな劇場を作ることになった。新作の舞台は、森に囲まれた古城だ。そこに囚われた亡国の王女が、騎士に助けられるのだが、悪魔の作った迷路に迷い込み、二人とも湖の泡と帰す、という悲劇的な作品だ。劇場の中には木々を入れ、舞台装置のひとつに自然の鍾乳洞をとりいれる予定だ。これはわたしの最高傑作になるだろう」
果たして劇場は作られました。
作曲家の男が望んだとおりの、自然に調和した美しく華奢な建物で、湖が近くまで入り込み、劇場の中にまで自然の木々が配置されていました。
娘は、舞台上に配された深い森林と湖を見て、まるでふるさとに戻ったかのような安堵感を感じました。薄い板張りの床と壁が、微妙な反響版の役割をなし、幅の狭い劇場のなかで、耳に心地よく響きました。まったく申し分ない劇場でした。こんな美しい場所で歌を歌えるなんてこの上ない幸福であると、娘は、歌手としてこれ以上他に望むものはないと思いました。
娘が純白の薄いベールを身にまとい、舞台の青白い明かりの下に現れたとき、作曲家の目は誇りと感動で輝いていました。彼の目もまた、娘の姿に魅了されていました。
「今の君ほど、美しく荘厳に見えたことはなかったよ」
娘はこれほど気持ちよく歌い、役柄を演じたことはありませんでした。これは一重にこの作曲家の男が、自分のために骨を折ってくれたお陰だと、娘は彼に、言葉に尽くせぬほどの感謝を感じました。
彼はいつも、娘のために心を砕きました。金の心配をさせず、無粋に近寄ってくる取り巻きを遠ざけ、常に好意的な劇団員をそばにおくなど、常にいつもベストの状態で歌えるよう最善をつくしてくれました。彼はまさに、ふるさとから遠ざかってしまった娘の心の中にあいた穴を、埋めてくれるかけがえのない存在でした。娘は、ふたりの関係の中に流れる、強い絆に、とてつもなく高い誇りと、安堵を感じていました。そしてそれは、気の休まることのなかった娘の人生の中で、つかの間の平和でもありました。
しかし、それは長くは続きませんでした。
狭い劇場にこもりきりになり、世情から全く離れてしまった二人は、劇場の外での出来事に疎くなっていました。ふたりの足元には、知らぬ間に不吉な影が忍び寄ってきていました。
チケットが、初めて完売に至らなかったその日、劇場に毎日配達に来ていたある商人が彼等にこう言いました。
「戦争がはじまったってよ」
「戦争が?」
「ああ、また物騒な世の中になるだろうよ」
そう言って商人は陰気に顔を曇らせて行ってしまいました。しかし、それがどんな意味があるのか、どんな変化をもたらすのか、この若い二人の男女にはまだ分かっていませんでした。
戦争のニュースが広まるとともに、人々の生活は一変しました。突然の物価高に物不足。軍服姿の男達が闊歩しだすと、街の中は一気に緊張感につつまれました。チケットはあっという間に売り上げを落としました。
「困った事になったよ」
劇場主が頭をかかえてふたりに言いました。
「劇場にこうも人が入らないんじゃ、採算がとれない」
「戦争なんて一時的なことですよ」
作曲家の男は言いました。
「今さえ我慢すれば…」
「今の我慢だけですむだろうか」
劇場主は言いました。
「君の作曲した演目は、幻想的すぎて今の時勢には受けないのだよ。チケットの売り上げの落ち来みは尋常じゃないよ。もっと他の役者を採用するか、または違う路線のものを書いてくれると助かるのだがね」
「彼女は、今の役が一番合っている」
彼は断固として言いました。
「それ以外の役をさせたくないし、僕は他の役者を使うつもりはない。そもそもあの小劇場は、今の彼女の雰囲気合せて作ったものですからね」
「君の気持ちはわかるがね」
劇場主は更に言いました。
「わたしの身になって考えて欲しい。このまま客が入らなければ、あの小劇場自身だって人手に渡さなくてはならないし、本拠地の大劇場の方もやっていけるかどうか分からないのだよ。それとも何かね、誰か、大金を出してくれるいいスポンサーでも見つけたと言うのかね」
最後の方の言葉は、娘の方に向けられたものでした。
「そんなに大変なことになっているの?」
そんなに深刻な状態になっていることを娘は初めて知った娘は、劇場主が帰って行くと、作曲家の男にたずねました。
「まさか、小劇場を建てたときの借金がまだ残っているの?」
「なぁに大丈夫さ」
作曲家の男は言いました。
「あの劇場を建てるとき、半分は寄付でまかなって、後の半分は公演料の利益から埋めていくという約束だったんだ。でも、もうその返済も完了しているから何も心配はいらないよ」
「じゃあ劇場主さんは、何を心配しているの」
「彼にはね、もう何年も焦げ付いた借金があるんだよ。それを僕らの公演からあがってくる利益で埋め合わせようとしていたんだが、思いもよらず戦争が起こってしまったせいで、この不景気だろう。それで、頭をかかえているのさ」
作曲家の男は、新たに作品を書き、公演を成功させようあちこちに足を運んで借金を頼んだり、寄附をつのろうとしましたが、以前のようにはなかなか首尾よく事は運びませんでした。彼の顔には濃い疲労の色と、迷い犬のような困った表情が浮かぶようになりました。そして、チケットの売り上げが回復しないまま時は流れました。
「もっと悪いことが起った」
ある日、作曲家の男は娘を呼び寄せ言いました。
真っ青な彼の顔を見て、娘はただ事ではないと思いました。
「僕は、戦争に行くことになった」
娘は、彼が何を言っているのかわかりませんでした。
「え?」
「召集されることになったんだ。僕は戦地に行かねばならない」
「じゃあ…じゃあ、新作の公演はどうなるの?」
「寄付も大して集まらなかったし…もう、見込はないよ」
そう言って彼は頭をかかえこみ、絞り出すような声を出しました。
「もう終わりだ、これで何もかもおしまいなのだ」
「どうして、何がおしまいなの?」
「僕が戦争に行ってしまったら、新作を上演することなんてできっこないじゃないか」
「曲はすべて書き上がっているわ。誰か他の人に指揮を頼んだら…」
「そんなことをできると思うのかね」
彼は、皮肉に口をとがらせました。
「今回の公演で、奇特にも、たとえ少額でもお金を貸してくれようと言ってくれた人は、僕が公演の全責任をとることを条件にしているのだ」
「じゃあ…じゃあどうしたら」
「どうにもならないよ」
彼は言いました。
娘は、突然のなりゆきに、中ば、ぼうぜんとしていましたが、我に帰ると、思いついたように言いました。
「劇場主さんは何と言ってくるでしょう?公演ができなくなったら、わたし達の劇場、あの湖のほとりの小劇場はどうなるでしょう?」
「さあて」
彼は無感動に答えました。
「あの劇場主のことだ。当然、売りに出すだろうな」
「そんな、あなたが建てた劇場なのに!」
「権利は劇場主にある。彼は借金で困っているから、少しでも金になるものがあるものがあれば、見落としはしないだろうし、まして、明日戦死するかもしれない男の気持ちをくんでくれるようなことはしないと思うよ」
「戦死」という言葉で娘は息を飲みました。身に染みて事態の深刻さが分かって来たのでした。娘は彼を見つめましたが、死を覚悟した男が、真っ青になった唇を噛みしめているというのに、どんな慰めの言葉も浮かんできませんでした。
作曲家の男は淡々と語りはじめました。
「劇場主の言った通りだよ。地流が変わっていたのだ。僕は、自分の理想とするものばかりを追い求めてきたが、それは、たまたま、その時代に合っていただけなのだ。世の中は常に動いていて、求められているものは変わって行くものなんだ。僕はそれに気付こうとしなかった」
作曲家の男は娘の顔に現れた驚愕と失望の色を見ても、驚きもせず同情もしていないようでした。
「言っただろう。もう、おしまいなのだ。僕には何もできない」
「でも、わたしは」
娘は言いました。
「あなたが戦争から帰っていらっしゃるのを待っているわ」
「そうかい」
彼は、頬をひきつらせたまま言いました。
「ありがたい言葉だが、遠慮しておくよ」
「どうして」
娘は必死になって言いました。
「どうして待っていてはいけないの」
「戦争が終わって元の平和な時代が来ても、いや、運よく生き延びて、ここに戻ってこられたとしても、以前と同じような、平和で安穏とした日は戻ってはこないだろう。以前のような自信も、作曲をしようという情熱も、僕は、もう持てないだろう。さっき言った通りだ。時流は、僕をもう必要とはしていないのだから」
「そんなことおっしゃらないで」
娘は、言いました。
「わたし達、これまで一生懸命頑張って来たじゃない。いい舞台を作るために、努力してきたじゃないの。そんな風に考えないで。力を合わせれば、また、いいものを作れるわ。そうよ、きっと作れるわ!あなたとわたしなら…」
「僕が君のために作った作品は、飽きられてしまったのは君だって知っているじゃないか」
と、彼は言いました。
「あれだけ客が入らなくなってしまったんだ。世間は、もう僕らの組み合わせの作品を望んではいない。何度も言うが時流が変わったんだよ。僕らの関係は、終わったのだ。終わってしまったのだよ。君も、潔く、僕のことは諦めて欲しいのだ」
「諦めるですって?」
「そうだ、諦めて欲しいのだ」
作曲家の言葉に、娘は耳を疑いました。
「じゃあ、どうすればいいの、わたしはどうしたらいいの!」
娘は目の前の事態を受け入れられず、その声は叫ぶようでしたが、作曲家の男は同じ言葉を繰りかえすだけでした。
「僕は、何もしてあげることもできない」
彼は言いました。
「僕は、君のために、何もしてあげることはできないんだ」
「では」
娘は声にならない声を出して言いました。
「私達の仲もこれで終わりということ?もう、一緒に歌ったり、舞台を作ったりすることはできないということなの?」
「そうだ」
と言って、作曲家の男は絶望的に頭をかかえました。
「我々にはもう、僕らの歌を聴きたいと言ってくれるお客も、興業をささえてくれる後ろ盾も、劇場さえないのだ。これ以上、何ができるというのだ」
数日後、作曲家の男は戦地に出立していきました。
予想した通り、劇場主は湖の劇場を売り払ってしまいましたが、それは予定していた額の半分にも満たず、劇場再建の道はほど遠いものでした。
専属の作曲家と、湖のほとりの小劇場。娘は、自分の分身を失い、何をしてよいからまるで分からなくなってしまいました。これから自分はどうしたらいいのか、どの道へ進んだらいいのか、途方にくれていました。
娘は久しぶりに街の中央にある大劇場の方に行ってみることにしました。劇場周辺は思ったより閑散とし、今は休業中で次作の公演を宣伝するはずの大きな看板も白紙のままでした。職員専用の裏口から入り、寒々とした廊下を通り抜けていくと、明かりの漏れている部屋の方へ自然と導かれました。そこは衣装部でした。
中では、あのお針子の女が荷造りをしている最中でした。お針子の女は、娘の姿を見ても驚きもせず、彼女に向かっていきなり、
「あんたはどうするつもりだね」
と、言いました。
「どうって?」
娘は問い返しました。
「このままこの劇場で働きつづけるつもりかと聞いているんだよ。いくら大スターと言ったって、お前さんの歌を聴いて金を払ってやろうという客がいなきゃ、おまんま食えないじゃないか。ここの団員も、半分は兵役でいなくなっちまったし、これからますます減るだろうて。借金まみれのこの劇場が、こんな歯抜けの状態で、簡単に再建できるとはとてもじゃないが思えない」
お針子の女はせかせかと荷物をまとめながら言いました。
「どこに行くの」
娘は引き止めるような声で言いました。
「転職するんだよ」
彼女はそう言って、荷物を担ぎあげました。
「軍服工場に仕事があるって言うからさ。このままここでぼんやりとしていたって、仕事も給金も減る一方だからねえ」
彼女はそう言って、娘の側を通り過ぎてドアの外に出て行きました。去り際に彼女は、
「悪いことは言わない、あんたもさっさと身を隠した方が身のためだよ」
と言い残しました。
それから二、三日経って劇場が破産したといった噂が広まりました。
「劇場主がお金を着服して逃げちゃったそうよ」
誰かが言いました。
「あの湖の劇場を売った額では、借金を返済できなくて、結局、一銭も支払わないでそのお金を持ったまま、いなくなっちゃったんですってさ」
こんな大きな都会の真ん中にある、町一番の大劇場が破産するなんて、想像つかない出来事でした。この話を聞いても、最初、娘は信じられませんでした。悪い夢でも見ているに違いない…
噂がひろまってすぐに、黒い服を着た債権者が劇場に波のように押し寄せてきました。劇場主が失踪した事実が彼等の耳に知れ渡ると、彼等は
「金を返せ!」
と騒ぎたてて、劇場の中は騒然となりました。
「おい、あの劇場主はどこへいった?お前なら知っているだろう?」
債権者の一人に娘は強引に腕をひっぱられて、差し出された椅子に座らされると、彼らは警察の尋問のように鋭い口調で詰問しました。
「わたしは知りません、わたしも今、そのことを知らされたばかりなんです」
娘は怯えながら答えました。
「作曲家のあの男は?あいつも経営者のひとりだったんじゃないのか」
「あの方は…出征されて、ここにはもういません」
「あんたはあの男専属の歌手だったんだろう?」
債権者は怖い顔を、さらに凄めて尋問を続けました。
「この劇場は、あんた一人の働きでチケットを売っていた。あんただって、ここの経営の責任があるんじゃないかね」
「いいえ」
娘は言いました。
「わたしが経営に関わったことは、一度もありません。まして、わたしが返済しなければならない借金なんて、聞いたことありません」
「そういうわけにはいかないな」
債権者は言いました。
「わしらの貸した金は、先代のプリマドンナから焦げ付いたものなんだ。あの女が引退するとき、後任のプリマが、がっぽり稼いで、返済できるはずだと言ったんで、わしらはあの女の引退を認めてやったんだ。そうじゃなかったら、あの女は今でも舞台に立って歌っていたさ」
「なんですって?」
「聞いたことのないような顔をしているが、そうなんだよ。あんたは湖のほとりの小劇場でのんきに歌っている暇があったら、お客がたんまり入るこっちの大きな劇場で歌って、チケットをバンバンと売るべききだったんだよ」
その話をきいて、娘は、声の他にも、膝やら、腕やら、体のあちこちが震えるのをとめられませんでした。
「そんな、劇場主さんの借金は、わたしとは関係ありませんわ!」
娘はいいました。
「どうしてわたしが」
「どうしてだって?そんなことを言える立場だと思っているのかね」
男は言いました。
「お前さんとあの作曲家には、あの小劇場を建てるとき、わしがどれだけ金を貸してやったと思うんだね。その恩を忘れたのかね」
「でも、あの分のお金はもう支払い済みじゃありませんか!」
「何を言っているんだ。あの信用のおけねえ劇場主が約束を守らなかったら、あんた達ふたりがこの大劇場の運営に責任を持つからと、あの作曲家が散々言うんで、湖のほとりにあのばかばかしい小劇場を建てる時に、金を貸してやったんだ。そういう意味では、あんたは、この劇場を運営していた責任者のひとりとみなされているんだよ。劇場主と作曲家がいなくなっちまえば、当然、あんたが、劇場が借りた金を返す義務があるんじゃないかね」
「だって、わたしは、そんな約束をした覚えはありませんもの」
娘は言いました。
「そんな話は聞いたことありませんもの!」
「聞いたことがなくとも、お前さんには支払う義務があるんだよ」
債権者は言いました。
「なんといってもお前さんは、前任者の残した借金を支払うためにプリマドンナに選ばれたんだから」
娘は追い詰められてとまどいました。
「そんなことを言われても、わたしにはお支払するお金なんてありません」
「なら舞台に立ってもらおう」
男は目を光らせて言いました。
「これからは演目がどうのと言っている場合じゃない。どんどん客受けする舞台に立って、そうだ、地方をたくさん回って、資金力のある後援者にもついてもらって、お金を集めるんだ。文句なんて聞きたくない、どのみちあんたに返済してもらうしか道はないんだから」
男はそう言うと、立ち上がろうとしている娘を、再び乱暴に椅子に座らせて、
「わしらから逃げられると思うなよ」
と言い残すと、彼女が逃げられないようにその部屋に鍵をかけて出て行ってしまいました。
娘は、震えるだけでなく激しい息切れと、同時にめまいを感じました。
借金の返済?
思いもよらないことでした。新人プリマの登場をあんなにも歓迎していなかった先代プリマドンナがなぜ、あんな言葉を残して行ったのか、今となってやっと理解できました。
「この話をうけなきゃあんたはただの根性なしよ」
「いい後任者ができたから、わたしは心置きなく引退できるわ」
怒りが発作のように噴き出てきました。彼女が意図していたのはこのことだったのか、これが、彼女の企みだったのか!
債権者は、娘に借金の返済をさせようとしていました。このまま、ここに部屋に大人しく居ていたら、彼等に捕まって彼等のいう通りのことをせざるを得なくなるだろうと思いました。畜生!
娘は約束した覚えのない借金を、返済するお金も、気持ちもありませんでしたが、頼りになる人はひとりもいない上に、どのように抵抗してよいのか想像すらつきませんでした。
(逃げなければ。とにかくどこかへ行かなければ。このままここに居れば、奴隷のように、タダ働きさせられるに決まっている)
娘は部屋の中を見回しました。そこは楽屋のひとつで、ドア以外にも、舞台方向に通じる隠し扉の存在を娘は知っていました。それは劇場関係者の中でも限られた人間しか知らない秘密の通路で、スター歌手などが恋人と密会するときによく使われていました。
娘はスカートのすそをつまみあげると、鏡台の上によじのぼりました。そして、鏡の裏にかかってある分厚いカーテンをめくり、その奥の重い壁を押しました。回転式で、人ひとりが横になって通り抜けられるぐらいの広さでした。娘はその通路に出て、カーテンと壁を元通りにしまうと、まっすぐ楽屋裏の雑用口を抜けて、舞台袖に通じる狭い段を上って行きました。
舞台には、幸いだれもいませんでした。娘は、台の上から降り、オーケストラボックスを越えて、客席専用のドアに向かって歩いて行きました。ドアを開けるとき、彼女は舞台の方向を振り返りました。
わたしはここでスターになったのだ。ここで歌を歌い、大勢のお客を楽しませ、また自分も幸福だったことを思い出しました。
しかし感慨にふけっている暇はありませんでした。大事な金づるがいなくなったことを知れば、彼等はすぐに娘を探そうとするに違いありません。娘は観客用の表玄関から急いで劇場の外に出ると、自宅にもどって、貴重品をまとめ、と外套と帽子と手袋だけ持つと、そのままそこを出ました。
もう日が暮れて真っ暗だったので、姿を隠すには好都合でした。娘は駅に急ぎました。切符売り場の女に行先を尋ねられて、娘ははたと考え込みました。
わたしはどこへ行ったらいいのだろう?どこへ行くべきなのだろうか。
娘は、この地上で、もはや誰からも必要とされず、帰りを待っている人もいませんでした。しかし娘は、ふるさとに戻ろうと思いました。誰にも歓迎されなくったっていい、ふるさとのなつかしい風景、なじみのある匂いを嗅ぎたいと、せつなに感じました。切符を買って汽車に乗り込むと、娘はほっとして座席に座り込みました。
汽車は進み始めました。窓の外は雪がちらついていました。前回、帰郷した時も雪が降っていたことを、娘は思い出しました。あの時、彼女は初舞台を成功させたばかりで心は誇りに満ち溢れていました。ところが今の彼女は、着の身着のまま、持ち物もほんのわずかで、借金取りに追われて、一度は彼女を歓迎し、賛美した都会を、命からがら逃げ出そうとしていました。
娘は目をきつく閉じました。彼女は両手で顔を覆いました。頬は燃える様にほてり、目頭が熱くなり、のどもとから憤怒が塊となって吹き上がってくるかのようでした。娘は、あの時の自分と今の自分を引き比べて、自然、目に涙があふれだすのを、どうしようにもできませんでした。
<第三章:『変化の嵐』終わり> 第四章に続く