2.『大都会へ』
第二章:『大都会へ』
娘は荷物をかかえ、都心に向かう列車に乗り込みました。ふるさとから離れ、こんな大きな都会に行くのは生まれ初めてのことでした。
見知らぬ人、見知らぬ町、新しい仕事、いったいどんな人が自分を待っているのか、自分はそこでやっていけるのか、馴染みのある風景から遠のくにつれ、娘の胸には、不安と期待が、強くかきたてられてゆくのでした。
列車に乗ってからまる三日で、目的地の大都会にたどり着きました。
列車から降りたって、娘は腰を抜かすほど仰天しました。そこは、娘が見たことのない、想像を絶する世界でした。天をつくかの如く高くそびえる建物がすきまなく立ち並び、広い道路には、大量の車が排気ガスを出して行き来しています。商店、ホテル、行商人、そして人、人、人…こんな大量の人間を娘は見たことも聞いたこともありませんでした。
娘は、作曲家の男からもらった手紙の住所だけをたよりに、劇場を探そうとしましたが、この街は、都会が初めての若い娘にはあまりにも広すぎました。けたたましいクラクションの音、立ちのぼる埃に圧倒されて、娘は、右往左往、のぼったり下りたりなどを繰り返し、目的地の劇場に着いたときは、列車を降りてから丸一日経った日の暮れそうな時間になっていました。
しかし、劇場の姿を拝んだ時、娘はこの都会に到着してから、これほど驚いたことはありませんでした。この劇場の規模たるや、彼女が前にいた町にあった、あの劇場とは比べものにならないほどでした。しばらくぼうぜんとして、声もでませんでしたが、なんとか入り口の切符切りの窓口までたどり着くと、ガラス扉をノックして、例の作曲家の男の名前を出して彼に会いに来たのだと、娘は声をかけました。
窓口の派手な化粧をした中年の女は、眼鏡ごしにこちらをじろりと見ると、
「求職希望者は、裏口へまわって」
と不愛想に答えました。娘は礼を言ってから、裏口とはどこだろうと、大荷物をかかえながら、建物のまわりをぐるぐるとまわりましたが、やっとの思いでそれらしき入り口を見つけたのは、そのドアを三度も通りすぎた後でした。娘はドアを開けて、おそるおそる中に入ってきました。
内部は暗く、低い段差の階段が目の前にありました。入り口には守衛室があって、腹のでっぱった警備員らしき男がひとりいました。娘はその男に近づき声をかけました。
守衛の男は、
「その人なら今、舞台でリハーサルの最中だから直接行ってみれば」
と答えました。
娘は、教えられた通りに階段を上がって、舞台に通じる細くて天井の高い暗い道を通って行きました。劇場独特のドーランや汗などの匂いが鼻をつきました。やがて向こうの方から明かりが見えてきました。五分ほどあるいて、娘は舞台袖にたどり着き、その明かりが舞台の照明であることを知りました。
舞台の上にはグランドピアノが鎮座しており、オーケストラボックスには楽隊員が大勢いて、彼等は目の前の指揮者の指示に従って、それぞれ担当の楽器を演奏していました。
舞台の上には衣装を身に着けた者、私服らしい服をつけた人も混じって、オーケストラの奏でるメロディを背景に、芝居らしきものが繰り広げられていました。舞台中央で派手な衣装を身に着けてひときわ目立っているのが、プリマドンナであることが一目で分かりました。
そして、譜面をみながら指揮棒を振り回している男が誰なのか、たった一度しか会っていないのにかかわらず、娘はすぐに分かりました。広い舞台、舞台に向かってこちらを向いている無数の客席…まさにここが、娘が憧れ、自分がいつか立ちたいと夢描いていた板の上にほかなりませんでした。
娘は舞台の隅で彼等のすることをじっと見て待っていました。やがて仕事が終わると、指揮台に立っていた男は振り返ってこちらに向かって歩いてきました。まちがいありません、彼は、クリスマスのあの日、娘に向かって
「歌の上手な人は皆、大勢の人の前で、自分の実力を試したいと思うもんだよ」
と言ったあの男でした。
「よく来てくれたね。待っていたんだよ」
彼は、あのさわやかな笑顔をつくって娘を迎えてくれました。
「こんな遠くまで大変だっただろう」
娘は「いえ、そんなの平気です」
と、疲れを隠して元気よく答えました。
作曲家の男は、
「君のことはずっと忘れずにいたんだよ。きっと連絡をくれるものと思っていた」
と言いました。そして
「これからは、一緒にやっていこうね」
とも言いました。
作曲家の男はまず、劇場を人案内した後に、彼女を住居に案内しました。そこは、劇場の屋根部屋にある、狭い一室でした。
「今日から、ここが君の住居だよ」
彼は言いました。
娘は狭い部屋を眺めました。教会の塔のさきっちょにあるかのような高いところにその部屋はあり、その部屋の小さな窓から、町全体が見渡せました。
「歌のレッスンをするなら、劇場の中で暮らしていた方が都合がいいだろうからね。僕が稽古をつけてあげるから、明日から、毎晩舞台に必ず来るんだよ」
彼は何気なく言いました。
「いったい何の話をしているんですか?」
娘は床に荷物を置きながらたずねました。
「何の稽古ですか」
「歌のレッスンだよ」
男は真顔で答えました。
「夜、歌手たちが家に戻ったら、ここで君は歌のレッスンをするんだ」
不思議そうに首をかしげている娘に向かって彼は続けました。
「君はいずれ歌手になるつもりでここに来たんだろう?」
「歌手になるなんて」
娘は言いました。
「わたしはただ、仕事が必要だったんです。どうしてもお金が必要だったんです。田舎の両親が病気で…」
「おや、ここまで来てまだ迷いがあるとは意外だな」
作曲家の男は、娘の顔に浮かんだ戸惑いの表情を見てとって言いました。
「歌手だって立派な仕事だよ。君が歌手になったら、今よりも何倍ものお金をご両親に送ってあげられるんじゃないか」
娘は、答えられずに、だまってそこでつっ立っていました。
「まあいい」
作曲家の男は言いました。
「君にその気があるなら、明日の夜、舞台のところに来てくれればいい、僕は待っているからね」
次の日から、めまぐるしい日が始まりました。
プリマドンナは大柄な女性で、この広い劇場の隅々までゆきわたる、非常にボリュームのある美しい歌声の持ち主でした。大変美しい人で、娘は一目で彼女の虜になり、彼女のような素晴らしい女性の側で働けるなんて、なんて素敵なんだろうと思いました。
娘の仕事とは、主人であるプリマドンナの希望と気まぐれに応えるために、朝起きて、帰宅するまで、彼女に張り付いて用を足すことでした。
劇場の中は常に刺激的でした。芝居の脚本、歌のレッスン、音楽家、演奏者達、劇場には一本の歌劇を作り上げるために、舞台セットを作る人、衣装を作る人、カツラを作る人達など、様々な種類の仕事を持つ人々が出入りして、彼等の仕事を傍で見聞きしたり、俳優達の仕事ぶりを観察することは田舎者の娘にとっては、大変目新しく楽しいことでした。
中でも一番興味深かったのは、プリマドンや有名歌手についている支援者達の存在でした。彼等は、毎日彼女らの楽屋にやってきては、まるで監視するかのように、ステッキを片手に煙草をふかしながら、自分が後援している歌手を眺めたり褒め称えたりしていました。
(では、この人達が楽器屋の夫人の言っていた、スポンサーなんだわ!)
娘は実物を間近で見て思いました。
(彼等からお金をもらったり後押しをしてもらうことで、歌手達は舞台に立っているのだわ)
娘の主人であるプリマドンナは劇場で一番の歌手でしたから、彼女についているスポンサーの数は、何人も、それこそ数えきれないほどいました。貴族や大地主からはじまって、弁護士や医師、事業家、中でも新興と言われる多くの成金達が、彼女の周りに常に群がっていました。しかし、その出入りも激しく、昨日、花束を持ってオベンチャラを並べていた男が、翌日、ライバル劇場のプリマに寄り添っていることも少なくありませんでした。
プリマの仕事は華やかで、彼女達は愛想のいい人種に見えましたが、それは表側だけのことで、裏ではライバルとの駆け引きが激しく、常に権勢を奪い合おうとする攻防が繰り広げられていました。
歌や芝居の実力はもちろん、容姿にも彼等は人一倍気をつかいました。その分、精神の消耗も激しく、彼女達は常に心に不安をかかえていて、いらいらが募ってくると、気分で人をなじったりいじめたりすることもありました。
「あの男が、わたしのためになら、全財産をつぎこんでも構わないって言ったのはたった先週の話なのよ!」
娘の主人であるプリマドンナは、つい先日、花束と菓子を持って楽屋に現れた大金持ちの男が、よその歌手に鼻の下を伸ばしている姿を見て、激怒しました。
娘は、プリマドンナの一喜一憂の様子を間近で見て、楽器屋夫人の言った事の真相はこういうことだったのか、とやっと現実を知って納得していました。
(夫人がわたしには歌手には向かないって言っていたのも分かるような気がする。わたしのような田舎者が、わたしの主人のように、一度にこんな大勢のお金持ちの男性たちの相手なんてできるわけないわ)
仕事に慣れてくると、プリマドンナの主人を訪ねてやってくる客とも顔なじみになりました。中でも、さる伯爵家の三男坊の若い男はプリマドンナの一番のお気に入りでした。彼は彼女に熱烈に恋をしていて、女の方もまた、この男と一緒にいることを常に望んでいたので、娘は、プリマドンナがいずれこの男と結婚するつもりでいるのだろうと思っていました。しかし、まわりの意見は違っていました。
「あの男とは、あんたの主人とは絶対結婚なんかしっこないよ」
と、言ったのは長年劇場の衣裳部屋で縫い子の仕事をしている女でした。
「あら、どうしてですか?あの方はあの伯爵家の御子息と一緒にいらっしゃる時が一番幸せそうじゃないですか」
娘は言いました。
「伯爵家の三男坊ったって、あの男は、たいした財産も持っちゃいないよ。するとしたら、鉄道王のあの男だね」
「でも鉄道王の紳士は、七十歳を超えたご老人じゃありませんか」
娘は、驚いて言いました。
「彼女が彼を愛しているとは思えないわ」
「おまんまが食えなくなったら、愛よりも金だとわたしは思うがね」
お針子の女は言いました。
「食いっぱぐれる心配をせずに生きてゆけるんだもの。お金のない男においそれとついていく馬鹿はいないよ」
劇場には沢山の人達が働いていました。その衣裳部屋のお針子もその一人で、彼等は始終、誰と誰がくっついて、誰が誰のおめがねにかなっているかということを、驚くほどよく知っていました。
「あんただって、誰が金を持っていて、誰が持っていないかちゃんと分かっておかないとね」
女は言いました。
「いずれ、舞台デビューをするつもりでいるんならね」
娘は時折、リハーサルの時など、主人のプリマドンナの代役を務めることがあったので、娘の歌声を耳にした人達は皆、娘がいい歌い手であることを知っていました。
しかし娘は、あの作曲家の誘いにもかかわらず、一度も彼のレッスンを受けようとしたことはありませんでした。
「いえ、わたしはそんなつもりは、歌手になるつもりはありませんわ」
娘はお針子の女に言いました。
「そんなつもりがなくて、なんでこんなところで働いているんだい」
女は縫い針をさかんに動かしながら言いました。
「ここいる皆は、お前さんがいずれここの舞台に立とうと野心を持っていることぐらい分かっているよ。お前さんを蹴落とそうと睨みをきかせているたくさんの目があるっていうのに、まるで分かっていないようだね。せいぜい足元を救われないように気を付けることだね」
通し稽古で主人の代わりを務める時、たとえ代役であっても、娘は得意の絶頂で、一時でも自分がプロの歌手になったような錯覚を覚えるのは事実でした。しかし、実際、本物の歌手になるとなると…
いや、自分には無理だ。本物のプロの歌手になるなんてそれはとても大それたことなのだ、自分にはとてもじゃないが務まらないだろう。娘は、お針子の女に微笑みを返すだけで、何も答えませんでした。
その年の春の終わりに、故郷の妹から手紙が来ました。
今年の夏はいつ戻るのか、なるべく早く帰郷して欲しいとしたためてありました。年の始めにひいた風邪がもとで、両親はすっかり年老いてしまい、農作業の進み具合のよくなく人手が足りずに困っているようでした。
「わたし達は皆、寂しくくらしています。わたし達の村は、今年から一層若者の出稼ぎ者が多くなり、すっかり閑散としてしまっているのです」
妹の疲れ果て困り切った顔が目に見えるようでした。
夏の間、歌手たちは皆、避暑に行ってしまうと聞いていたので、娘の仕事はなくなってしまいます。娘は、夏は、休ませてもらいたいと劇場主に交渉しようと思っていました。そんな時、あの若い作曲家が娘を呼びました。
「僕が書いた新作の歌劇なんだがね、とうとうこの秋に上演することが決まったんだ」
と、作曲家の男は言いました。
「それはおめでとうございます」
嬉しそうな彼の微笑みに応えて娘も笑顔で答えいました。
「それでね、その新作のヒロイン役に君を抜擢したいと思っているんだよ。是非受けてくれるだろうね?」
この男のさも当然そうな話ぶりに、娘は目をまるめました。娘は喜ぶどころか驚いて最初は声もでませんでした。
「僕はずっと、自分のイメージに合う歌手を探していたんだ。それが君だ。君に初めて出逢った時、僕の作った曲を歌えるのは君以外にないと思ったんだ」
「とんでもありませんわたしは」
娘は答えました。
「わたしは、しがない劇場の一使用人にしかすぎませんもの。舞台に立つなんて」
「そう言うと思っていたよ」
彼は言いました。
「でもね、こういったチャンスはめったに来るものじゃない。よくよく考えた上で返事をして欲しいんだよ」
作曲家の男は、もし受けてくれるなら、夏の間じゅう猛特訓をすることになるから、良く考えて返事をしてほしいと言いました。
娘は受けるつもりはまるでなかったのですが、すぐには返事ができませんでした。返事をしぶっているうちに、この話を耳にした娘の主人のプリマドンナが、娘を呼び寄せました。
「あんた、あの若い作曲家に、新作のヒロイン役を受けないかと誘われているそうね」
娘はドキリをしました。主人は、自分の存在を脅かす有力な新人の登場を常に警戒していたからです。
娘は、自分はそんなつもりはない、こんな大きな舞台のプリマに自分を抜擢するなんて冗談に決まっている。それに、自分はこの夏は田舎に帰るつもりでいるのだから、そんな話はそもそも無理だと、慌てて答えました。
「あんた、怖いんでしょう」
しばらく間をおいてから、主人は娘に向かって言いました。
「怖いんでしょう?主役の重責に耐えられないと思っているんでしょう?」
主人の意外な意見に、娘は半信半疑で言いました。
「では、あなたは、わたしが新作の主役を受けたほうがいいと仰っているのですか」
「通し稽古の時のあんたの歌を何度か聴かせてもらったけど」
彼女は言いました。
「あれだけの声を聴かせて、皆の注目を浴びておきながら、自分はその気がないなんてよく言ったもんだわ」
主人は意外そうに眉をひそめました。
「そんな」
娘は、言いました。
「わたしは、こんな大きな劇場で歌を歌えるようなそんな器ではありませんわ、それはあなた様だってそう思われるでしょう?」
「ええ思えないわね」
と、主人は、見下すように言いました。
「主役というものは、それなりに肝が据わっていないと務まらないもの。あんたみたいな根性なしに、そんな器量があるとはとてもじゃないが思えないわ」
夏が来て、歌手たちが避暑にいってしまうと、娘も帰り支度をしようと思いました。
「では君は」
作曲家の男がやってきて言いました。
「本当に田舎に帰ってしまうつもりかね」
「お申し出はとても嬉しいのですけど、舞台の主役を務めるなんて、わたしにはとてもできそうにありません」
娘は言いました。
「それに、妹が、わたしの帰りを待っているんです。うちは、両親が病気がちで人手が足りないから、すぐにでも帰って、農作業の仕事を手伝わないと。都会の人には想像つかないかもしれないけれど、農作業というのは骨が折れる仕事な上に、作物の出来が悪いと冬をこせないことだってあるんです。わたしに考える余地はないんです」
「家が危機に瀕している時は、家族総出で家の仕事を手伝うのはあたりまえのことだ」
彼は理解を示しました。
「そんなことは百も承知の上で言っているんだよ」
「それに、歌手になるためには、歌う以外の様々なことに気を遣わなければなりませんもの」
娘は彼の話をさえぎって言いました。
「わたしのような田舎者にはとても無理よ」
「確かに、今のまま付き人の仕事にしがみついていれば、言われた仕事を言われた通りにこなして、しばらくの間は気楽に暮らせるだろう」
彼は話し始めました。
「そして、君の主人のように、お金のことで心配したり、とりまき連中に気を遣ったり、下からの圧力に目を光らせたり、常にお客から上手に歌うように要求されて、神経をすり減らす苦労とは無縁でいられるだろう。
それでもね、考えてみるがいい、今後、プリマドンナの付き人なら君より若くて役に立つ娘が、いくらでも出てくる。そうすれば、当てにしている今の仕事だって、保障はしかねるんだよ。その頃には、君は年をとって、歌も今ほど上手くなくなっているかもしれない。あの時ああしていればよかったと思ったところで、遅いんだよ。君はそのことを、考えたことがあるのかね」
「もちろんありますわ」
娘は反論しました。
「わたしだって、仕事を失ったことがありますもの。これから仕事を続けていられるのかと、いつも考えています。でも、失敗すると分かっていることにむやみに足を突っ込むことが正しいとは思えませんわ」
「なぜ失敗すると思うのかね。君の主人のプリマドンナも若い頃は、今の君とさほど変わらない田舎者の普通の娘だったんだよ。でも、彼女の歌を歌いたいという強い情熱と、責任感の強さが、彼女を、今の彼女にしたのだ。いい歌手というものは、常に、聴衆に対する責任を感じているものだよ」
「聴衆に対する責任ですって?」
娘は驚いて言いました。
「誰が何の責任もっているっていうんですか?」
「歌手というものは、自分の歌を人の耳に届けるという責任を常に持っているのだと言っているのだよ」
作曲家の男は答えました。
「彼女達は、どんなに具合が悪くても、都合が悪くても、穴をあけずに舞台に立ち続けていけるのは聴衆に対しての責任と、歌いたいという情熱があるからなのだ。君は、歌なんて好きな時に、気分にまかせて歌えばいいと思っているかもしれないがね。ハッキリ言おう。結局君は、それが嫌なのだろう。この話を受けないのなら、君は正真正銘の腰抜けだよ」
腰抜けと言われて、娘はさすがにムッとして言い返しました。
「わたしは腰抜けなんかじゃないわ」
「いや、何度でも言ってやる、君は腰抜けだ。めったにない、百万分の一回しかこない貴重なチャンスを、あっさりと棒に振ってしまうようなヤツを、腰抜けと言ったところでまだ足りないくらいだよ」
娘はそう言われても、故郷に帰るつもりでいました。しかし、彼らの話の中で、どうしても聞き捨てならないことがありました。それは、腰抜けや根性なしと、なじられたことではありませんでした。
もっと根本的なことを、考えなくてはならないと娘は感じたのです。
この夏、田舎に帰って仕事を手伝ったところで、家族は、多少は助かるかもしれないけれど、それは一時しのぎのことでした。今年、危機を潜り抜けたところで、冬は、来年も再来年もやってくる。今年はよくても、冬はまた次の年も、その次の年も来る。毎年毎年、同じことが繰り返されてゆくのです。それは何を意味するのか、こういった苦労をいつまで続けていけるのかという疑問が、娘の心の奥底に不安をかきたてていました。必要なのは、今の状況を、何とか変える努力をすることではないかと、娘は考え始めていました。
田舎から出てきたとき、娘の心は、ただ歌手になって舞台に立ちたいという単純な思いだけでした。歌手に対する魅力が薄まってしまった今でも、都会で働き続けてきたのは、故郷の両親や家族を助けたかったからで、その気持ちは今でも変わっていませんでした。娘は、歌を歌うのは好きでしたが、これまで、それをあまり収入につなげて考えたことはありませんでした。しかし彼女は、この時初めて、歌を歌うことは、お金を生んでくれることなのだと、その可能性について考えたのでした。
(わたしが歌手になったら…田舎の家族はもっと助かるかもしれないのだわ)
決心をする時が近づいていました。
娘は、人生を、生きる道を変えようと思いました。その道の向こうに、当てになる何かが見えたわけではなかったけれど、今ここで、ぐずぐずしていることが最高の機会を失うのではないかと、それを恐れたのです。
娘は、いつもより倍額のお金、彼女の手元にあった、ありったけのお金を田舎の両親の元へ送り、妹に、今年の夏は劇場デビューをするため特訓をしなくてはいけないから、帰ることができなくなったと、書き送りました。
歩む道を変えれば、状況が変わるかもしれない、という思いは、夏の猛特訓の日々が終わって、舞台の初日がやって来たとき、彼女の心の中で、やがて確信となって変化してゆきました。
舞台初日の日、娘は、儚げな妖精の役を高々と歌い上げると、客席から割れんばかりの拍手が湧きおこりました。観客のどの顔も、娘に向かって素晴らしい出来だと絶賛していました。演目は、記録破りのロングランとなり、劇場主も作曲家の男も、大喜びで、よくやったと彼女を大変褒め称えました。公演は、冬になるまで、毎日続演されました。そう、今年の夏まで、ただの田舎者の娘だった彼女は、たった数日でスターになっていたのでした。
収入はうなぎのぼり。娘は、喜びとともに、沢山のお金を田舎に送りました。きっと両親も、自分の成功を喜んでくれるに違いない。もう、つらい農作業で苦しんだり、お金のことで悩んだりしなくてすむのだと思うと、娘は嬉しくなりませんでした。
クリスマスになる頃、バッグに入りきれないほどのお土産をたくさん買い込み、ふところにお金をたくさん詰め込んだ娘は、故郷に帰っていきました。
一年ぶりの故郷は、雪に覆われて一面の銀世界でした。そのせいか、いつもよりずっと静かでした。たった一年故郷を離れていただけなのに、ずいぶん長い年月が経ったように感じられました。
家につくと、両親が出迎えてくれました。一年ぶりの父と母は、以前会ったときより、ひとまわり小さくなったように見えました。両親は、久しぶりの故郷だ、ゆっくり休んでいくがいいと娘の帰郷を労いました。妹も姉の帰郷を喜んでいるようでしたが、彼女もまた、前回合った時より、ずっと娘らしくなり、いつになく遠い存在に感じられました。
クリスマスの膳が下げられ、両親が寝室にひきあげると、娘は妹と暖炉をかこんでお茶を飲みました。娘は、ちょうどいい機会だ、妹に、両親をつれて、一度、都会に来てみないか、そして、自分の晴れの舞台を見てみないかと誘ってみようと口をひらきかけました。しかし、逆に、妹の方から話しがあると、姉に向かって話を始めました。
「春になったらね、わたし結婚する予定なの」
相手は隣の家に住んでいる、同じ農家の妹の幼なじみだと、妹は、恥じらいながら打ち明けました。
「まあ、すばらしいわ」
と、姉は驚いて言いました。
「彼もまた、昨年まで出稼ぎでここを離れていたけど、今年の夏に帰ってきたの。結婚したら、この家で一緒に暮らして、うちの農場も一緒に面倒をみるといってくれているのよ」
「素晴らしい話じゃないの」
姉は言いました。
「そうしてくれれば、どんなにか助かるか」
「そうなのよ」
妹は嬉しそうに彼との馴れ初めを話し始めました。
「実を言うとね、お姉さんが今年の夏に帰ってこなかったでしょう。手が足りなくてどうしようかと悩んでいた時、彼がうちの農場の仕事を色々と手伝ってくれたの。彼は、わたしが人手が足りなくて、長い間困っていた事を知っていたから、なんなら結婚しよう、結婚できるのなら、もう出稼ぎに行くのをやめて、自分の家の農場と一緒に、ここの面倒をみてやってもいいってそう言ってくれたのよ」
「そんなことがあったの」
「そうなのよ」
妹は言いました。
「彼は、この地に腰を据えて、もっとたくさんの農作物を生産できるように、この村の未来について、真剣に考えているの。出稼ぎに出たら一時的にお金は入るけど、それだけじゃ、この村はちっともよくならないでしょう。わたしも、同じ思いだったから、彼の言葉には感銘を受けたわ。お姉さんはどう、そうは思わないこと?」
「そう思うわ」
姉は言いました。
「まったくその通りだと思うわ」
「お姉さんが賛成してくれてわたしも嬉しいわ」
妹は嬉しそうに言いました。
「このまま、外の力に頼っていては、この村は少しもよくならないものね。それに、わたしひとりではこの家を切りもりしていくには、これ以上限界だし」
「ごめんなさい、この夏帰ってこられなくて…」
「あら、お姉さんのせいではないのよ」
妹は言い直しました。
「今は笑っていられるんだから何てことないわ。それに、お姉さんの送ってくれるお金がなかったら、去年の冬はこせなかったもの。わたし本当にお姉さんには感謝しているのよ。お姉さんだって苦労しているのに、あんなに沢山のお金を送ってくるのは大変だっただろうといつも気になっていたの。だからね、来年からはもうお金を送ってくれなくても大丈夫よって、そう言いたかったの」
「では、もう送金は必要でないということ?」
「もちろん、お姉さんの仕送りがなくなったら大変なのは目に見えているわ。でもね、彼もわたしも、所帯を持って、この家をふたりで力を合わせて守って行こうと決めたの」
「でも、誰かが病気をしたり、収穫高が減ったりしたら…」
娘は妹の意外な申し出に驚きました。
「その時は、お金が必要でしょう?」
「もちろん、どうしても助けて欲しくなったらお願いするかもしれないけど」
「そうよ、遠慮せず言ってちょうだい」
娘は、妹は、昔ほどお金にこまっていない今、なぜ急に送金してくれるなと言い出したのだろうかと思いました。
「あたし達、誰の力も借りずに、頑張ってみたいのよ」
妹はにっこり笑って言いました。
「自分達だけで、自立した家庭を作りたいの。だから、しばらくの間、だまってわたし達を見守ってくれないかしら」
妹の決心は固そうだったので、娘はこれ以上何も言うことはできませんでした。
娘は自分がいないこの一年の間に、ずいぶん色んな出来事が、この家にも、この村にも、起っていたことに気が付きました。
昨年の冷害での収穫高の激減。冬に起った流行病のせいで、村の若者達は出稼ぎにでかけて、村の人口は半分になっていました。このままの状態が進めば、村は間違いなく、近いうちに廃れてしまうのは目に見えていました。妹とその夫は、それを必死に食いとめようとしていたのでした。
春になって、妹の結婚式が無事終わったのを見届けてから、娘は故郷を離れて都会へ戻って行きました。
列車に乗り込み、最後に車窓ごしに故郷の人々の顔を見るとき、いつもは、見知らぬ世界に恐れをなして、不安に駆られたものでしたが、娘は、今回ほど、ほっとした気分を感じたことはありませんでした。なつかしい故郷。しかし、そこには、彼女の居場所はもはやなくなっていました。彼女は果たしてここは自分のふるさとだったのだろうかという疑問が、ちらりと胸をよぎりました。妹は、笑顔で見送ってくれたけれど、妹の姿は、横に立っている妹の夫にさえぎられて、半分しか見えませんでした。
目の前が涙で霞んだような気がしました。
(もうここでは、わたしは必要とはされていないのだ、もうここにわたしの居場所はないのだ)
娘は呟き、ちくちくと刺すような胸の痛みを感じながら、小さくため息をつきました。
<第二章:『大都会へ』終わり> 第三章に続く