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1.『別れ』

田舎娘の彼女の夢は、大歌手になること。大勢の人の前で、歌を歌うことでした。故郷の村を飛び出し、大都会へ夢をかなえるために旅立っていきます。彼女は果たして、歌手になれるのか、そして、夢をかなえることができるのでしょうか?

「人間万事塞翁が馬」の女性版です。

第一章:『別れ』




昔、片田舎にあるある小さな農村に、歌の上手な女の子がいました。




女の子は歌を歌うのが大好きで、朝、太陽ともに目を覚ますと、農作業やお料理、お裁縫の傍ら、朝から晩まで、小鳥がさえずるように、一日中歌い続けていました。




「嬢ちゃんは本当に歌がうまいねえ。大きくなったら歌手になるのかね?」


女の子の歌を毎日耳にし、聴きほれていた村の人達は、口々にたずねました。




「ええ、将来わたしは歌手になりたいの」


と、女の子は答えました。


「いつか、大きな劇場の舞台に立って、わたしの歌う歌を、沢山の人に聴いてもらいたいたいわ」




「そうかい」


村人達は頷き、女の子に言いました。


「あんたは働き者だから、いつかきっと願いがかなうだろう。都会に行って歌手になれるように、これからもしっかり働くんだよ」




女の子は十七歳になりました。美しい娘に成長した彼女は、ある日、家族にこう訴えました。


「お父さん、お母さん、わたしは、もっと上手になれるように、隣町に住んでいる音楽の先生のところに歌を習いに行こうと思うのよ」




お父さんは娘に言いました。


「隣町と言ったって、ここから半日もかかるじゃないか。そんな遠い所に、どうやってここから通うんだい?」




「馬を使ったら、その半分で町まで行けるわ」娘は答えました。




「馬は、昼間は農園で(すき)をひいて畑を耕すのに必要ですよ」


お母さんが言いました。




「じゃあ、農作業が終わってからでもいいでしょう?」


娘は言いました。




「夜、若い女が一人で出歩くのは危険ですよ」


お母さんが言いました。


「それに馬は、午後は休ませなければなりませんからね」




「でも、わたしは隣町まで歌の練習をしに行きたいの」


娘は言いました。


「馬がダメなら、歩いてでも行くわ」




「町まで行って帰ってくるのに、丸一日かかってしまいますよ」


お母さんは言いました。


「あなたとても疲れてしまうことよ」




「そんなの全然かまわないわ。馬が使えないなら、歩くしかないもの。そんなのへっちゃらよ、辛くなんかないわ」




「でもねえ、娘や」


お母さんは言いました。


「歌のレッスンは、相当お金がかかるんじゃないかしら」




「大丈夫よ、わたしもう十七歳よ、大人だもの。今まで以上に働いて沢山稼ぐから、お金のことは心配しないで。だからねえ、お母さん。わたしに歌を習いに行かせて下さい」




お父さんとお母さんは、表情をくもらせて、しばらくの間顔を見合わせていました。



「お前、どうしてそこまでして歌を習いたいんだい?いまのままでも十分上手じゃないか」




「わたしは将来、劇場の舞台に立って歌を歌いたいと思っているの。だから今よりもっと上手になりたいの。そのためにはプロの先生の手ほどきを受けたいのよ」




「お前は本当に劇場の歌手になりたいのかね」


お父さんは言いました。


「本気なのかね?」




「あら本気よ、わたし、小さい頃からそう言っていたでしょ?」




「歌手になるなんて、しかも劇場の舞台に立つなんて、そんな特別な世界に入れるのは、ほんの一握りの人達だけなのだよ。お前にその才能があるかな?」




「才能があるかどうか、やってみないことには分からないでしょう?」


娘は言いました。




「どんなに才能があっても、歌手になれない人は世の中に沢山いるのだよ」


お父さんは言いました。


「歌手になろうと思ったらね、歌が上手いだけじゃダメなんだ。辛いことも、理不尽なことも耐えて忍ばなければならない。お前にその覚悟があるだろうか」




「もちろんどんな苦労も、わたしは耐えるつもりよ」


娘は答えました。


「歌手になるのは、きっと大変なことに違いないわ。でもね、大事なのは、不可能に見えることでも、勇気をもって道を切り拓いて行くことが大事なんだって、お父さんはいつもそう言っているじゃないの」




お父さんは、娘の熱い眼差しをじっと見つめ、


「ふむ、もちろんそれはそうだ」


と言いました。


お父さんは、しばらくの間、(あご)に手をあてて考えていましたが、やがて、


「では、お前の希望が叶うように、お父さんとお母さんができるだけのことをしてあげよう」


と答えました。




「本当?お父さん」


娘は喜んで答えました。


「お父さんなら、絶対そう言ってくれると思っていたわ」





数日たったある日、お父さんが娘に言いました。




「お前の音楽の先生を見つけたよ」


お父さんは言いました。



「隣町にある楽器屋の、そこの主人の夫人が歌を教えている。そこで住み込みで働いてくれる女の人を探しているそうだ。お前にぴったりの仕事だと思うんだがね」




「あらあたしは、仕事を探しているんじゃないわ。仕事はこの家でいくらでもすることがあるじゃないの、外に働きに出るなんて」


娘は言いました。




「町の仕事はお金になるんだよ」


お父さんは言いました。



「農作物の出来が悪いと食べていくのもままならないから、お前に町に出てもらって少しでも現金を稼いでもらいたいんだよ」




「でもお父さん」


娘は言いました。



「わたしは歌のレッスンをするために、町に行きたいのよ」




「それは分かっているよ」


お父さんは答えました。


「そこの楽器屋の主人の夫人は、お前の働きぶりがよかったら、ただで歌の練習をつけてくれると言っているのだよ」




「本当に、お父さん?」




「ああ、本当だとも」




「本当に一生懸命働いたら、歌の練習をつけてくれるってそう言ったの?」




「そう言ってくれているよ」




 娘は顔いっぱいに希望の色を浮かべ、にっこりと笑いました。




「ありがとうお父さん!」


娘は言いました。


「あたしとうとう、歌の訓練を受けることができるんだわ!もっと上手になって、大きな舞台に立つことがわたしの夢だったんだもの」




「よかったね」


お父さんは言いました。


「だから稼いだお金をうちにいれてくれるだろうね?」




「もちろんよ」


娘は言いました。


「そこで一生懸命働いて、お金をうちに送るわ」






娘が町に行く日がやってきました。



娘の歌声を毎日楽しみに聴いていた村人達が集まって、娘を見送ってくれました。




「町での生活はきっと大変だろう。かまうことはない、辛くなったらすぐに帰ってくるんだよ、ここがあんたのふるさとなんだから」




 娘は笑いながら答えました。


「いいえ、あたしは少々の辛いことじゃへこたれないわ。歌手になるには、色んなことを経験しなければならないの。苦労のひとつやふたつは、ひとりで乗り越えなくちゃ。少々の弱音で帰ってきたりはしないって、お父さんとお母さんと約束したんですもの」




「体に気を付けるんだよ」


お母さんが涙ながらに娘の手をとって言いました。




「手紙を度々よこすんだよ」


お父さんも言いました。




「もちろん、手紙も書くし、体にも気を付けるわ」


娘は言いました。


「だから皆は、わたしが歌手になって帰ってくるのを楽しみに待っていてね」




娘はそう言って、家族や村人達と別れを告げると、希望と期待を胸に、揚々と隣町に向かって旅立って行ったのでした。






隣町は、娘の住む村から馬の背を借りて半日ほどの所にある、小さな集落でしたが、農村の片隅で暮らしてきた娘の目には、十分ひらけた都会に映りました。




その町にたった一軒だけある楽器屋さんの屋敷が、娘の新しい職場でした。




楽器屋の主人の家庭は、主人の他に、主人の妻と、赤ん坊を含む、子供が七人もいる大家族でした。娘はここで下働きと子守の仕事を引き受けることになったのでした。




下働きや子守は、両親が仕事に出ている間、小さな妹や弟の面倒をみてきた娘にとっては、慣れない仕事ではありませんでしたが、商人である楽器屋一家の家は、娘にとって、とても目新しい光景でした。




娘のこれまでの生活は、村の人達や、たまの外からの来客から見聞きする他は、外界からの刺激はほとんどありませんでした。しかしここは違いました。




楽器屋には頻繁にお客が訪れ、毎日知らない人達が、楽器を買いに、または取引するために、ひっきりなしに店に出入りするのでした。それに、元劇場歌手の夫人のもとには、華やかな訪問客があって、家の中は常に楽しそうな歌声や楽器の音で賑やかでした。





「これが音楽家の生活なのね」


娘は美しい衣服を身に着けた客人の後ろ姿をうっとりと眺めながら思いました。


「歌手になったら、こうやって毎日新しい人と会ってお喋りしたり、音楽や歌について意見をかわし合ったりするんだわ」





家にやってくる客人の中には、楽器屋夫人が教えている弟子達もいました。娘は度々彼等の歌声をドア越しに聴いたのでしたが、生まれて初めて自分より上手に歌う人に出会ったと思いました。




(この人達はなんて歌が上手なんだろう!)


娘は感嘆しました。


(これまで自分は、ひとよりだいぶ上手い方だと思っていたけど、この人達に比べたらまるで大人と子供だわ)





楽器屋夫人は、忙しい人でしたが、娘に歌を教えると言ったことを忘れてはいませんでした。娘のレッスンの時間は、一日の終わり、屋敷中が寝静まった頃、主人の妻が就寝する前のほんの十分間でした。




「じゃあ、次回までここのところまでキチンと練習してくるのよ」


夫人は毎回娘に宿題を出しました。





娘はこれまで農園や畑での仕事をしながら、一日中歌を歌っていましたが、楽器屋の主人の家では、歌を自由に歌える場所も時間もありませんでした。仕方がないので、娘は外にお使いにいくとき、道中、人の耳に触れるのもかまわずに、常に歌を歌っていました。





「あなたは、毎日道の上で歌の練習をしているそうね」


ある日夫人が、娘に言いました。


「歌を歌いながらお使いをしている風変わりな娘がウチで働いているって、町の人が噂しているのを聞いたわ。どうして外で歌ったりするの?」




「だって、時間がもったいないんですもの」


と、娘は答えました。


「わたし、一日でも早く上手になりたいんです。奥様のお弟子さんと同じぐらいに。時間と場所さえ見つかれば、いつも練習するようにしているんです」




「本当に熱心なのね」


楽器屋夫人は感心しているようでした。


「わたしはあなたが楽しみ程度に上手になりたいのだと思っていたけど、そうでもないようね。あなたは今のままでもとても上手なのに、これ以上上手になってどうするつもり?」


楽器屋夫人は、娘のお父さんと同じことを言いました。




「わたし、将来は劇場の歌手になりたいんです」


娘は答えました。


「奥様と同じように歌手になって、劇場の舞台に立って沢山の人に歌を聴いてもらうのが夢なんです」




「歌なら、何も、劇場の舞台に立たなくても人に聴いてもらうことはできるわよ」


夫人は言いました。


「歌手にならなくったって、歌を歌う人は沢山いますものね。歌手になるっていうのは、なかなか大変なことなのよ」




「才能があるだけで、歌手になれるとは、わたしだって思っていませんわ」


娘は答えました。


「色んな苦労をしなくちゃならないことぐらい、私だって分かっています」




「どんな苦労だと思う?」


彼女は言いました。


「色んな苦労って、どんな苦労だとあなた思っているの」





娘はそうたずねられて、口をポカンとあけました。



歌手になるのに苦労があるという話はお父さんから聞いてわかっていましたが、実際のところ、歌を歌う以外のどんな苦労をしなければならないのか、深く考えたことはありませんでした。





「例えばね、この職業は親の死に目にもろくに会えないことだってあるのよ」


楽器屋夫人が言いました。




「どうしてですか?」


娘は驚いてたずねました。




「どうしてって」


夫人は、娘のあどけない笑顔に微笑み返しながら説明しました。




「だって、劇場で沢山のお客さんが待っているのに、親が死にかけているからと言って、お客さんをほっぽって行くことはできないでしょ?」




「そんなひどいわ」


娘は口をとがらせました。


「少しぐらい待ってくれたっていいのに」




「自分の歌を聴きに来てくれた人達を、待たせるわけにはいきませんよ。劇場に来る人達は、お金を払って、わざわざ足を運んできてくれる人達ばかりなのよ。彼らは、あなたの歌を、他の誰でもないあなたの歌を聴きにきているのよ。誰にも代わってもらうこともできないし、ましてや、親が死にかけているからと言って、泣きべそをかいている姿を見せることもできないわ」





娘は返事もできずに、まだポカンとしていました。華やかな舞台の一面しか知らなかった娘にとって、それは衝撃的な新事実でした。




「どう、もう歌手になるのも嫌になっちゃったんじゃないかしら?」


楽器屋夫人は娘の顔に浮かんだ、驚愕(きょうがく)の色を見て微笑んでいました。





もし現実がそうなら、娘は歌手になることも考え直さねばならない、とも思いましたが、かと言って、簡単に夢を諦めることもできそうにありませんでした。娘は質問を続けました。




「歌手になるには、他にどんな苦労があるんでしょうか」


娘は言いました。




「そうねえ…」


夫人は考えながら答えました。


「いつも劇場が大入り満員になるとも限らないの。こういった娯楽の世界は、常に世の中の景気と隣り合わせなのよ。どんなにいい舞台をやっても劇場にお客さんが来なければ、興業は赤字になってしまう。いいえ、不景気でなくても、色んな理由でお客さんは入らないことはよくあるから」




「色んな理由って何ですか」


娘は言いました。


「どんな理由でお客さんが入らなくなってしまうんですか」




「例えば、演目がお客さんの好みに合わないとか、歌手が飽きられてしまったとか、事情は様々よ。そうならないように、劇場は工夫をするの。新人を発掘したり、よそから人気歌手や作曲家、演出家を招聘(しょうへい)したり、そして何と言っても、きっぷの良いスポンサーを見つけたりね」




「スポンサーって何ですか?」


娘は興味を持ってたずねました。




「劇場や、または特定の歌手について売り出してくれるお金持ちのことよ。彼等がお金を出して、興業の下支えをしてくれるのよ」




娘は夫人の言うことをしっかり耳立てて聞いていましたが、なんだか難しそうな話だな、と思いました。歌手になるためには、ただ歌が上手いだけではなく、他にも努力しなければならないこと、いや、努力だけではなんともし難い複雑なことが沢山ありそうでした。夫人は娘の顔に浮かんだ戸惑いの表情を眺めていました。




「奥様が歌手だった時にも、スポンサーという人がいたんですか?」


やがて娘はたずねました。




「ええ、何人もいたわ」


楽器屋夫人は答えました。


「皆わたしが頼めば、いくらでもお金を出してくれたけど、それも一時だけの事だったわね。気が付いたときにはすぐにいなくなってしまったわね」




「いなくなったって、どうして?」


娘は無邪気にたずねました。




「なぜって」


夫人は少し笑いながら答えました。


「わたしが年をとって、若い頃と同じような人気がなくなったからでしょう。歌手なんてね、あなたみたいな可愛い娘が、後からいくらでも出てくるから、いい若手がでてきたら、そういったスポンサー達はすぐにそちらに鞍替(くらが)えをしてしまうのよ。ピークを過ぎてなお生き残ってゆける歌手は、本当に(まれ)よ」





どんなに才能ある歌手でも、若手の台頭で引退してゆくといった話は、聞いたことがありました。どんなの名声を得た人でも、いずれは歌えなくなる日がくるのだ…でも自分は、まだ若い。今後はいくらでもチャンスがあるはずだと、娘は思いました。





「あなたみたいなって、わたしと同じぐらいの年でも歌手デビューができるのですか」


と、娘は夫人にたずねました。




「もちろんよ」


夫人は答えました。


「わたしはあなたの年では、もう舞台に立って、いっぱしにスター歌手と呼ばれていたわ。わたしはデビューして十年ぐらいがんばったかしら。女性歌手のピークは二十歳半ばぐらいかしらね、それからは、女はお嫁にいったり、お店をひらいたり、何か新しいことを始めるようになるの」




夫人は他にも、歌手になったら大変なこと、また辞めた後にもついてまわる様々なことを教えてくれましたが、まだまだ若い娘の耳には、夫人の言っていることの、半分も入ってきませんでした。ただ、自分と同じ年頃の娘が、すでにスターと呼ばれているという話は、娘の気持ちを高ぶらせ、無性に興味を湧きたたせました。自分も早くそうなりたい、スターと呼ばれる歌手になった自分の姿を見たら、村の知り合いや両親は、どんなにか喜んでくれるだろうかと思ったのです。




(早く歌手になりたい)


娘は切望しました。


(舞台に立てるようになりたい)





娘は暇を見つけては、楽器屋の近くにある劇場(こや)に足を向けるようになりました。この劇場(こや)は、この町に唯一ある娯楽施設で、夫人もここ出身の歌手でしたが、町の歌手志望の娘達は、皆ここの劇場に立ちたがるので、スターになるどころか、入団するだけでも倍率が高く、また、縁故や紹介がないと、選抜テストも受けさせてもらえないのでした。いったいどうしたらいいものか。いくら実力を磨いて、歌が上手になっても劇場の人達に聴いてもらえないことには、何にもならない…





娘は思い切って、劇場主に自分を紹介してもらえないかと夫人に頼みました。




「奥様お願いです、今の倍、働きます。奥様のいいつけならどんなことでもしますから、わたしを劇場に紹介してもらえませんか」




夫人は微笑みながら娘の肩に手を乗せました。


「およしなさいよ」


夫人はいつもと同じ、温和な笑顔をたたえて娘に言いました。


「あなたは心地よい声を持っているし、歌も魅力的だけど、あなたみたいに純粋で、信じやすいタイプは、歌手には向いていないと思うわ。ああいった上昇志向の強い人達と競い合っていくのは、あなたには無理よ」




「そんなことありません」


娘は食い下がりました。


「わたしは仰る通り、世間知らずな人間ですが、歌手になるためにはどんな苦労もいとわないって決めているんです。故郷の両親にも少々のことじゃへこたれないって約束して出てきました。大変なことも理不尽な事も覚悟の上ですわ」




夫人は娘の熱心な気持ちは理解しているようですが、態度は変えませんでした。そして


「歌を歌えるだけで幸せじゃないの」


と言って、彼女の背中を優しくたたくのでした。







娘が町で働き始めて最初のクリスマスがやってきました。




この日はお客様を沢山招いて、楽器屋一家でも、屋敷じゅうの力をあげて、クリスマスのお祝いをすることになっていました。主人と取引のある業者やその家族、夫人と懇意している劇場関係者やその友人、もちろん夫人の弟子達も呼んでの大きなパーティーでした。娘を含め、沢山の使用人達がお祝いの準備に二週間も前からあけくれました。娘もまた、家の中の一番大きな広間に大量の椅子を運び入れる作業を手伝いました。




「結構な準備ですよね。こんなに沢山の人を招いて、ゲームでもするんでしょうか」


古株の同僚に、娘はたずねました。




「あらいやだ、ゲームじゃないわよ」


彼女は答えました。


「ここでお祝いを兼ねた新人の演奏会が開かれるのよ。毎年、クリスマスのパーティーには、一年で一番お客様が集まる日だから、夫人のお弟子さん達がこぞってここで歌の腕前を披露するの。遠方から有名な劇場関係者も来られることもあるのよ。だから、彼女達にとって、クリスマスは、劇場の選抜テストと変わらないぐらい大事な日なのよ」




「劇場関係者の方がこられるんですか?」


と、娘はたずねました。




「そうよ、彼等は地方に埋もれている新しい才能を発掘にくるの。いい人材が見つかれば、彼等と一緒にそのまま劇場についていく娘だっているのよ」






慌ただしい準備の日数が過ぎて、華やかなクリスマスの日がやってきました。




毛皮のコートや絹のスーツ、または、きらびやかに光るドレスに身を包んだ美しい男女が、楽器屋の屋敷に集まってきました。夫人のお弟子達は一等の晴着に身を包み、化粧をして、この日一番の大舞台に備えていました。




娘は、彼女達の着替えや準備の手伝いをし、彼女達が広間に集まってきた客人達の間に混じって、客人を紹介してもらったり、話をしたりするのを見ていました。




娘は、この特別な日の舞台で、お弟子さん達が歌うプログラムに、自分も混ぜてもらえないかと、夫人に頼みたかったのですが、夫人は忙しそうで取りつく暇もなく、また、言いだせる雰囲気でもありませんでした。





娘は、あれから夫人の意見をなんども繰り返して考えていました。





確かに夫人の話には、理解できるところがありました。夫人の弟子達は夫人が言うように上昇志向が強く、常にライバル意識丸出しでした。彼女達は有力者の目にとまれるようにと巧みに動き回り、今日も、名の知れた事業家やお金持ちが来たかと思えば、その周りに群がって愛想をふりまき、チャンスを逃すまいと、気をひくために懸命になっていました。





(歌手になるためには、こういった努力もしなければならないのだわ)


娘は彼女達を眺めながら思いました。


(劇場主に顔をつないでもらえるように、お金持ちや有力者に味方になってもらったり、そういった努力が必要なんだわ)




お弟子さん達が、順番に広間の演台に立って、伴奏を背に、歌い始めたので、娘は、控室のドアから広間の舞台をそっと覗き込みました。




お弟子さん達は、華やかな夜にふさわしい楽しい歌を上手に歌って、客人を楽しませていました。彼女達の上気した目と、朗らかな頬は、自分達のしていることにとても満足しているように見えました。




しかし娘は、(うらや)ましいというより、むしろ、自分も果たして彼女達と同じような振る舞いができるだろうか、という気持でいました。彼女にとって、子供や赤ん坊の相手、針仕事や、料理、農作業の手伝いなどは慣れた仕事でしたが、都会に住む大人の、しかも大変世慣れた人間の相手をするとなると…




(都会に住むお金持ちのおめがねにかなった、気の利いたお喋りなんて、わたしにはできそうにもないわ)


と、娘は思いました。




最後のお弟子さんの演奏が終わると、広間では大きな拍手が湧きおこりました。その後、客人達は食事をするめに食堂にぞろぞろと移動してゆきました。




娘は台所のドアへ早道をするために、誰もいなくなった広間を横切っていこうとしましたが、ふと、ピアノの上に放り出された譜面に目に止まって、立ち止まりました。




娘は何という気もなしに、鍵盤をたたいて音をとりながら、さっきお弟子さんが歌っていた同じ曲を、譜面を見ながら口ずさみ始めました。





「歌は歌手でなくても歌うことができる」




確かに夫人の言う通りでした。



歌は、こうやっていつでも歌うことができる。



たった一人でも歌うことができる。



ひとりで歌っていても、自分で自分を癒すことができるのだ。



なのにわたしは、どうして歌手になりたいという気持を持ち続けているのだろう?







そんなとりとめのないことを考えながら、歌っていたのはほんの一分ほどの間だけでしたが、娘は、背後に人が残っていることに、まるで気が付いていませんでした。




その男は、


「ブラボォ!」


と声をかけました。




娘はびっくりして振り向きました。




黒の夜会服を着た、若い金髪の男が、彼女の真後ろに座っていました。男は拍手をしながら立ち上がりました。




「君はそんなに上手なのに」


男は言いました。


「どうしてさっき皆が歌っている時に出てこなかったの?」




「わたしは、ここで下働きと子守の仕事をしているんです」


娘は気まずそうにいいました。この人は誰かしら?




「下働きだってかまうことないじゃないか。この日は無礼講だろう?誰だって歌ったりはしゃいだりできたのに」




「そんな時間はなかったんです」


と、娘は言いました。そして


「わたしは仕事があるので」


と言って、譜面を閉じてそこから立ち去ろうとしましたが、彼は娘を呼び止めました。




「君は、まだ若いのに才能がありそうだ」




娘は足を止めて、男を見上げました。りりしく誠実そうな感じの青年でした。




「あなたは…」


娘は、彼の正体が分かりかねて首をかしげました。




「失礼、僕は、ここから遠く離れた〇〇という都会(まち)の××という劇場所属の作曲家でね。ここの楽器屋の夫人に是非どうぞと今日のパーティーに招かれたんだ。それで、さっきの演奏会で、自分が書く楽曲に合う、いい人材がいないか探していたんだよ」




「そうですか」娘は言いました。




「君は、歌手になりたいと思ったことはないの」




娘は相手を見ながら、何と返答したらいいのかと思いました。




「奥様は、わたしは歌手には向いていないと申されました」




「じゃ、君もここの夫人のレッスンを受けているんだね?」




「奥様は、歌は歌手にならなくても、歌えると仰っています。わたしもそう思います」




「それはそうだが、歌の上手な人は皆、大勢の人の前で、自分の実力を試したいと思うもんだよ。君はそう思った事はないの?」




娘は、この愛想の良い感じのいい男に、ありのままを話そうか話すまいか迷いましたが、どういうわけか、


「はい、思った事はありません」


と、答えてしまいました。そして


「もうよろしいでしょうか、食堂でお客様が待っていらっしゃるので」


と言って立ち去ろうとしました。




作曲家と名乗った男は、娘の警戒した態度を見て取ったのか、強く引き止めようとはしませんでした。ただ、自分の名前と、自分の勤めている劇場の名前を娘に教えると、


「困った事があったら、いつでも相談しにおいで」


とだけ言いました。







その日は賑やかに過ぎて行きました。お客様がはけると、使用人たちは集まって内輪のクリスマスパーティーをしました。この日は大盤振る舞いで、大きれの肉の(かたまり)や、お酒がでました。皆、機嫌よく歌ったり踊ったりしながら、今日の労働の疲れを癒しました。




娘は仲間のリクエストに応えて、台所頭(だいどころがしら)の男の奏でる、陽気なバイオリンの伴奏とともに、クリスマスソングを歌いました。皆、娘の歌うしらべに合せて合唱しました。




その日はとても楽しい夜でした。こんな風に楽しく夜を過ごせるのは、歌を自由に歌うことができるから、仲間の皆がそれを聴いて楽しんでくれるからだと思おうとしました。しかしその一方で、さっきの男が言った


「歌の上手な人は皆、大勢の人の前で、自分の実力を試したいと思うもんだよ」


といった言葉が浮かんでくるのでした。




(どうしてわたしは、あの時、歌手になりたいと思ったことはないなんて言ってしまったんだろう?)


娘は自問自答しました。


(あれほどなりたいと思っていたのに。お父さんとお母さんが、さっきのわたしの態度を見たらなんと思うだろう。わたしは、歌手になるためになら、どんなことにも耐えてみせるって誓ったのに)




両親は、娘が町で稼いだお金を送ってくれることに大変喜んでいるようでしたが、それ以上に、娘の一日でも早い成功を望んでいるに違いないと娘は信じていました。





(まさか、わたしは弱気になっているのではないだろうか…)





今日はクリスマス。ふるさとの家でも同じようにクリスマスのお祝いをしているはずでした。



娘は夜じゅうずっと自分の浅はかな行動を悔やみながら、故郷の両親や家族のことを思っていました。





新年にはいって、町に歓迎せざる客が居座りました。悪性の流行性の風邪が、猛威をふるったのです。一気に町の半数の人間が病みつきました。





日頃から忙しく立ち働いていた楽器屋の主人も、病に()りつかれた一人でした。夫人は病気の蔓延をふせぐために、使用人の半数を残して、後は皆、実家に帰してしまいました。




娘も半年ぶりに、ふるさとの家に帰ってきました。事情はどうあれ、予期せぬ休暇に喜び、町でしか手に入れられないお土産を買って、うきうきした気持ちを胸に、元気よく家の敷居をまたぎました。




 ところが、この村でも、病気の伝染を免れることはなく、父と母までもが寝込んでいることを、娘は戻ってきて初めて知ったのでした。




「まあ!病気で寝ているなら、どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」


娘は、両親の枕元に駆け寄りながら、驚いてたずねました。


「分かっていれば、すぐにでも帰って来たのに」




「たいしたことないよ、ただの風邪なんだから」


お父さんは言いました。




「それに、お前に、迷惑をかけたくなかったのだよ」


と、お母さんも娘に心配をかけまいと弱々しく微笑みながら言いました。





 娘は両親の顔を覗き込みました。ふたりの容態はあまりよさそうではありませんでした。両親は、娘の不安を取り除こうと、笑顔を作って、医師の診察を受けて毎日薬も飲んでいるし、今は農閑期ですることもさしてない、寝てれば治るから心配ない、早くお前は町に帰りなさいと口を揃えて言うのでした。





「何を言っているの、これからはわたしが家のことをするから二人は心配しないで」





 今年の風邪のひどさは、娘も間近で見て知っていました。弱った両親をこのまま放って町に戻るなんてできそうにありませんでした。




しかし姉に代わって家をきりもりしていたすぐ下の妹は、姉が町の仕事から離れることに難色を示しました。


「お姉さんが町に戻ってくれなきゃ困るのよ。だって、今はお姉さんが町で稼いできてくれたお金で、毎日の食事や高価な薬代を(まかな)っているんですもの。昨年の収穫高が悪かったのもお姉さんも知っているでしょう。今、現金の収入が途絶えたら、わたし達は飢え死にしてしまうわ」




のんびりと実家に腰を落ち着けている場合ではなさそうでした。妹の話によると、昨年は天候不順で冷害がはげしく、例年の半分しか作物が収穫できませんでした。このまま両親の病気が長引けば、春の作付けにも差しさわりがあるのでは、と妹は心配していました。




「お金のことは大丈夫よ、わたしが何とかするから心配しないで」


姉は答えました。




とりあえず十日間実家に滞在し、両親の病が回復し始めたのを確認して、娘は町に戻って行きました。そして、楽器屋の夫人に、もっと仕事を増やしてもらって、給金を上げてもらえないかと交渉しようと思いました。




「まあ、あなた戻って来たのね!」


娘の顔を見るなり、先にもどってきていた同僚が驚いて言いました。


「もうあなたの耳にも入ってしまったの?奥様はまだ誰にも話していないはずなのに」





「何のことですか」


 娘は言いました。


「何かあったんですか?」




「じゃあ、知らずに帰って来たの?」 


彼女は声を潜めて言いました。


「じゃあ、聞いていないのね。ご主人様が亡くなったのよ」




「亡くなったって?」




「そうよ、結局あのまま病状が悪化してね。三日前にお亡くなりになったの。昨日葬儀が終わってやっと家の中が片付いたところなの。そういうわけで、大変なことになっちゃったのよ」




「大変なことって?」


娘は言いました。




「奥様は、近日中に、ご実家にお子様を連れて戻られるそうなの」




「ご実家に?」




「そうなのよ!」


彼女は言いました。



「なんでも、お葬式に来られたご親戚が戻られる時に、一緒に()ちたがっていらっしゃるとかで、準備を急がれているの」




「でも、またすぐにこちらに戻ってこられるのでしょう?」




「いいえ、もうお戻りにはならないわ」


彼女は言いました。


「ずっと、あちらにお住まいになるようよ」




 予期せぬニュースに娘は戸惑いました。




「じゃあ、この家はどうなるんですか?」




「閉めてしまうのよ」




「閉めるですって?」


娘は叫びました。


「それは、本当ですか?」




「突然のことでわたしだって困ってしまうわ。一緒にお供できたらいいけど、奥様のご実家は外国でしょう?連れて行ける使用人は古株数人で、わたし達は全員解雇せざるを得ないって、奥様は仰っていたわ」




「そんな」


娘は言いました。




「奥様は、悪いけど、急なことなので、皆に次の勤め先を探してあげることはできないって」




「できないなんて」


娘は叫びました。


「じゃあ、わたしはどうなるの?」




「わたしに言っても仕方ないじゃないの」


彼女は肩をすくめて言いました。


「自分でなんとかしなくっちゃ」






まさに、青天の霹靂でした。一番仕事を必要とするときに、仕事を無くしてしまったのです。楽器屋の主人の訃報を知った仲間の使用人達も同じでした。彼等は顔なじみの知り合いや、懇意にしていた夫人の友人達を訪問して、新しい勤め口を探そうと動き出しました。娘も彼等と同じように仕事を探そうとしましたが、娘は町での生活が浅く、彼女に興味を示してくれる人はありませんでした。




(どうしよう、このまま仕事がなくなってしまったら)




仲間の使用人達も自分のことに必死で、相談に乗ってくれそうな人は誰もいませんでした。

夫人の出発の前日に、夫人のお弟子さん達が夫人に別れの挨拶にやってきました。彼女達は皆、夫人に劇場への口利きをしてもらおうと頼みにしていた人達ばかりでしたので、ツテを失うことを大変残念がり、中には、逃げ出すように町を出て行く夫人に悪態をついたり、絶望して泣きだす人もいました。




(泣きたいのはこっちだわ)


娘は彼女達の姿を横目で眺めながら思いました。


(わたしだって、これからも歌を歌っていきたい。歌手になる夢も諦めたわけでもない。でも、今はその場合じゃないんだわ。早く次の勤め先を探さなければ)




その時ふと、クリスマスのパーティーで彼女に声をかけてきた男のことを思いだしました。





「困ったことがあれば、いつでも連絡しておいで」





その男の名前と、彼が勤めている劇場名や場所を、娘は覚えていました。


(あの人は、たしか作曲家といったっけ…)





娘は、その時初めて彼に連絡をとってみようかと思いつきました。一度会ったきりの、どんな素性が分からない男ではありましたが、彼の笑顔は印象的でした。夫人のパーティーに招かれるぐらいの人なのだから、悪い人ではないに違いない、それに今は、あれこれ選んでいる場合ではありませんでした。




娘はすぐに、その作曲家の男に、楽器屋主人が亡くなり、夫人が家を閉めてしまって遠方に行ってしまうので、仕事がなくて困っている旨を伝え、新しい勤め口を紹介してもらえないだろうかと、手紙を書き送りました。




娘は当初、彼はもう自分のことは忘れてしまっていて、何の反応がなくとも仕方がないと諦め半分でしたが、返事は驚くほどすぐに届きました。




娘はやってきた手紙を急いで開けると、むさぼるように読み始めました。




「君にやる気があれば、今、自分が契約している劇場で活躍しているプリマドンナの付き人の仕事がある」


といった内容でした。




その作曲家の男が契約している劇場は、この町から、列車を乗り継いでも何日もかかる大都会にありました。



プリマドンナの付き人。



それが理想的な仕事なのかどうか皆目見当つきませんでしたが、出発を渋る理由も、時間も、娘にはありませんでした。娘には仕事が、故郷の家族を養うお金が必要でした。

娘は出発を決断しました。




「お父さんとお母さんの世話を頼むわね」




妹は、連絡のつきにくい遠方に頼りになる姉が行ってしまうことを大変不安がり、もっと近くに仕事を探してほしいと、引き留めようとしましたが、娘は決心を変えようとはしませんでした。




「夏になったら、一度は戻ってくるから」


娘はそう言って、妹に体の弱い両親の世話を頼むと、まだ雪深い故郷の村を背に、大都会へと旅立っていきました。





<第一章:『別れ』終わり> 第二章に続く




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