95・☆母の思惑
「あなた、シリウスの手紙、読みました?」
王妃ジュディスは、ニコニコと笑顔のまま、愛する夫に問いかけた。
すべての公務を終え、二人だけの寝室で、ジュディスは刺繍をさし、ライオネルは本を読んでいたときのことだ。
「ん? あ、ああ」
ライオネルがなんとなく歯切れの悪い返事をしたのには理由がある。
妻の笑顔が怖かったからだ。
一見、おだやかで、いつもと変わらぬやさしい笑顔だったが、ライオネルにだけわかる特別な迫力があった。
彼女がこんな笑みを浮かべているときは、なるべく近寄らないようにするのが良いのだけれど、今は逃げ場がない。
夫の返事に、ジュディスは笑みを絶やさぬままうなずく。
「顔に、怪我をした、と」
「……すっかり治ったとも書いてあったぞ」
「本当にそうなら良いのですけれど、もし、帰ってきたあの子の顔に傷が残っていたりしたら、わたくし……」
続きを言わないので、ライオネルは思わずゴクリとつばを飲み込んでしまった。
彼女は笑顔のまま、刺繍を続けているだけなのだが、怒りのオーラが吹き出て見える。
もちろん気のせいだと思いたいのだけれど、ライオネルには、妻に相談しないまま、次男の留学を決めてしまった負い目があったため、どうにも怖い。
ジュディスは非常に甲斐甲斐しく家族や国に仕えるやさしい王妃だったけれど、時々、ほんとうにごくまれに、夫のライオネルにも逆らえない迫力があるのだった。
「心配するな、あの子のことは竜人たちが守ってくれている。もし本当にシャレにならん怪我だったのなら、すぐに戻ってきただろう」
「そうね、今は、あなたのおっしゃるとおりに思うことに致します」
「今は……?」
とまどう夫にそれ以上何も言わず、ジュディスははさみで糸を切り、刺繍糸の色を変えると、再び複雑な図形に向き合った。
数式のように規則正しい模様を刺しながら、ジュデスは大事な息子の顔を思い浮かべる。
ただでさえ、無理を言って強引に勝ち取った勉強の時間ぐらいにしか二人きりで会ってあげられない次男。
卵から出てきて、まだわずか二年しか経っていない。
普通の子供だったなら、二歳はまだまだ、毎日抱っこしたり、言葉を教えてあげたり、母親にベッタリな時期だ。
立場上、乳母に任せなければならないことも多いだろうけれど、それでも、もっと愛してそばにいてあげいのに、ままならない。
実際、長男のルークのときは、王族ではありえないほど、密な時間をたくさんすごしたのだ。
次男のシリウスにも、同じようにしてあげたかった。
息子が誰かに怪我をさせられたのなら、たとえ軽症であっても、相手の家に怒鳴り込むのが、普通の家族なのではないだろうか。
ジュディスは、シリウス本人が嫌がっても、息子を守って相手に怒れる母親であろうと決めていた。
それが立場上不可能だということは、もちろんしっかり理解していたので、どうしても不機嫌になってしまうのだった。
どんなに尊敬すべき強者であっても、竜人たちはシリウスの親ではないのだから、母として絶対に譲れない役割がある。
ライオネルに対して「今はあなたに従う」と言ったのは、また同じような事件があったなら、隣の国に乗り込んででも、息子を守ってやろうと心に誓ったからだった。
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自分が送った手紙のせいで、兄や両親が本気で心配したり怒ったりしていることなど、当のシリウスはまったく予想していなかった。
手紙に、アレスタで怪我をした出来事を、包み隠さず正直に書いた、と竜人たちに教えたので、アルファなどは、もしかしたらルークあたりは即日隣国へ乗り込んでくる可能性がある、と内心考えていたし、実際間違ってはいなかったのだが、シリウス本人は、もしかしたらちょっと心配させちゃうかもしれないけど、今は元気だと書いたのだから大丈夫だよね、ぐらいの、普通の手紙のつもりだった。
だから手紙を受け取った人々の反応を気に病んだりせず、手紙を送った後も、普通に楽しく学園に通った。
ワグナーの父、ロイド卿を救出した翌日も、シリウスはいつものように登校したけれど、残念ながらワグナーはまだ休みだった。
救出劇の件はジャンと相談して、赤竜公、カイルが単独で被害者を助け出したということにしてもらった。
ずっと行方不明で生死もわからなかった父が帰ってきたのを知ったワグナーはきっと喜んだに違いない。
その姿を想像するとシリウスもうれしかった。
ワグナーはとても父を尊敬し、慕っているように見えたからだ。
きっと今日は家族で喜びを分かち合っているのだろう。
学校でも、赤竜公がロイド卿を救出したことはすでに話題になっていて、今朝の新聞がさっそく掲示板に貼られていた。
見出しには「一時帰国の赤竜公 巨大な魔物が巣食う地下洞窟で 拉致されていたロイド卿を華麗に救出!!」と書かれている。
そのあともカイルを褒めちぎる文章が続き、美しき竜人であるカイルが、いかに優雅に、いかに正確に、被害者を助けたかが誇らしげに書かれていた。
その書き方がなんとなくおかしくてシリウスは苦笑してしまった。
カイルがロイド卿を助けたとき、ロイド卿はカイルのせいで煤だらけだったうえ、髪もこげていた。
なにしろ当人であるカイルも煤だらけだったのだ。
地下はドタバタと大騒ぎだったし、優雅な様子とは遠かった。
誰が語った内容を記事にしたのかはわからないけれど、かなり脚色された内容といえる。
教室の中は予想通り、赤竜公の活躍の件でもりあがっていた。
シリウスは少しだけうんざりした気分で会話を聞いていたけれど、その中にシリウスも知らない情報が混じっていた。
「ほかの行方不明の人の捜査も、赤竜公に手伝ってもらえるよう依頼するんだって」
「そりゃそうだよな、赤竜公がちょちょいって手を貸しただけで一人みつけたんだもんな!」
詳しく聞こうかとも思ったけれど、ただの噂だったし、本当かどうかわからない。
家に帰れば噂などではなく、ちゃんとした正解がわかるだろう。
それに、この場で同級生たちに聞き出すのはあまり気が乗らなかった。
シリウスとしては少しだけ複雑な気分だったからだ。
ワグナーの父であるロイド卿の捜査にカイルを連れて行ったのはシリウス自身だ。
カイルが一人で救出したことにしよう、と最初に提案したのもシリウスだった。
自分の名前はもちろんだけれど、アルファやフォウルの名前を出すわけにはいかないのだから、それしか方法がない。
けれどやっぱりアレスタの人がカイルの事でやたらと盛り上がっているのを見ると、少しだけ胸がモヤモヤする。
そんな風に感じる必要はないと、頭ではちゃんと理解しているけれど、心が勝手に動いてしまうのはどうしようもないのだった。
午前中の授業を終えた後、本来ならまた剣術の授業がある予定だったけれど、前回の事故を考慮して、この日だけは授業が休みになった。
自習でも他の授業との交換でもなく、いつもより少しだけ早く、この日予定していた授業はすべて終わってしまった。
大喜びで帰宅するクラスの他の子供たちと違って、下校のときはアルファに迎えに来てもらっていたシリウスは、思いがけず時間が空いてしまった。
シリウスが校門のところまで歩いていくと、待っていたフォウルがすかさず駆け寄ってくる。
他に子供がいるので口には出さないが、予定より早いですねと言いたそうだ。
「ねえフォウル、アルファのとこに行ってみようか」
アルファが大学でどんな風に授業を行っているのか、じつはとっても興味があった。
本人に聞いても、問題ありません、それよりも我が君はいかがでしたか、と逆に聞かれてしまい、ほとんど詳細を話してくれないので、実際にはどんな授業をしているのかさっぱりわからなかったのだ。
大学は小学校と同じ敷地内だったので、狼のフォウルを伴って歩いていく。
校門は小学校のものよりもずっと大きく立派だった。
もしかして止められるかもと思ったけれど、誰もとがめるものはなく、シリウスは初めて大学の中に入った。
キャンパスの学生たちが、狼を連れて歩く金髪の少年に気づいて顔を見合わせる。
腰まであるサラサラの金髪を陽光にはじかせ、蒼毛の狼を連れた少年は、学生たちの注目を浴びながら、大学の敷地内を臆することなく歩いていく。
一見すると美少女のようだったが、歩き方や体型から男の子なのだとわかった。
人々の視線を一切気にせず、背を伸ばして颯爽と歩く姿は、それだけで身分ある家柄の子供なのだと悟らせる。
シリウスは、芝生の上で雑談をしていた学生グループに声をかけた。
「すみません、ジーン先生が授業をしている教室はどこか、わかりますか?」
「……えっ?!」
「ジーン先生の教室をご存知ですか?」
美しすぎる少年に突然話しかけられた学生たちはしばし唖然としていたが、すぐに正気に戻るとあわてて答えた。
「ジーン先生ならあの校舎の第三講義室で授業をしているはずだけど」
「ありがとうございます」
ペコリと頭を下げて去っていく少年を、彼らはいつまでも見つめてしまった。
彼らは今日、アルファの授業を受けるつもりだったが、どうしても入りきれずに講義をあきらめたメンバーだった。
「あの子、ジーン先生の親戚かな」
「まさか、ぜんっぜん似てないじゃん」
大笑いしながらも、謎に包まれまくったジーン先生についてのうわさで、学生たちは大いに盛り上がったのだった。




