84・☆月下黒竜2
黒竜の手の中に収まって雲を抜けると、そこはもう「空」ではなく「宇宙」のようだった。
満天の星空が間近に迫り、手を伸ばせば届きそうに思える。
「すごいよアルファ! ぼくこんなにたくさんの星を見たの初めてだ!」
竜の指の間から身を乗り出し、シリウスは腕を伸ばす。
もちろん星に触れたりはできなかったけれど、触れられないことが不思議に感じるほど、星が近くに見えた。
シリウスが心から喜んでいるようだったので、アルファも満足げに喉を鳴らす。
怪我をして落ち込んでいたあの日から、ほんの数日しか経っていなかったが、すっかり元気を取り戻してくれたことがなによりも嬉しい。
アルファは空中をごくゆったりとした速度で移動した。
上空の夜風が冷たかったため、手のひらの中の大事な宝に風邪をひかせるわけにいかなかったからだ。
急ぐ理由は何もない。
空の散歩を楽しみはじめてほどなくしたころ、シリウスの耳に、遠くからかすかに甲高い音が届いた。
「ねえアルファ、いま何か聞こえなかった? すごく遠かったけど、悲鳴みたいな……」
「悲鳴ですか?」
不意にそう聞かれ、アルファは耳を澄ませたが、風の音しか聞こえない。
「あ、ほら、また!」
シリウスには、地上から風に乗って届く悲鳴が聞こえていた。
若い女性が助けを求めるような叫び声だった。
地上へ目を凝らし、街灯の並ぶ路地を見つめたが悲鳴の主は見つからない。
「風の音ではありませんか?」
「ううん、人の声だった」
竜の指の隙間から身を乗り出すと、風にあおられて金髪が乱れる。
比較的明るい大通りではなく、街外れの暗闇に包まれた裏路地の方から、もう一度小さく悲鳴がシリウスの耳に届いた。
今度もアルファには聞こえなかったが、シリウスにはハッキリ聞こえた。
しかも今回は女性だけでなく、入り乱れて威嚇しあうような男達の声も。
「あそこだよアルファ! あの暗いとこ……。誰かが襲われてる。助けてあげなきゃ……!」
今にも飛び出して行ってしまいそうな主人を、アルファはそっと指を曲げて抑える。
アルファはシリウスが勘違いしているとは微塵も思っていなかった。
たとえ自分には何も聞こえなかったとしても、主人が聞こえたと言うならば間違いなく聞こえたのだ。
「いったん下宿に戻りましょう、我が君。しかるのち私が一人で助けに……」
手の中の感触にわずかな変化が生じた。
驚いて視線を落とすと金色の翼が指の隙間からキラキラと見え隠れしている。
「ここからお降りになるおつもりですか!?」
「うん」
あっさり言うと、背に現れた金の翼を広げ、手のひらから飛び出そうとする。
「お、お待ちください! 降下しますからそのままで!」
「そう? わかった。……でもほんとはもうちょっと二人で空の散歩をしたかったね」
心から同意して、アルファは徐々に高度を下げた。
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旅芸人一家の「花道一座」は、今夜アレスタに到着したばかりだった。
街に入って興行を始めるのは明日にして、今夜は街外れの一角に馬車を留め、そこで休むつもりだったのだ。
だが旅の疲れを癒すことはできなかった。
縄張り意識の強いチンピラ集団が、この街で興行するならば毎月みかじめ料を払えと要求してきたからだ。
花道一座は普段から各国を回っているだけあって、腕っ節の強いメンバーも揃えていたし、もめごとは慣れている。
街にいる間穏便にすごせるのなら、みかじめ料を支払うこともめずらしくない。
だが今回は少々事情が異なった。
要求された金額が法外だったからだ。
「あまりにも高額すぎる。それではいつまでたっても次の街にいく旅費を稼げない」
「まけてやってもいいが、おまえらが街にいる間、女たちを自由にさせてもらう」
「そういう商売はやっていない」
「やってようがやってまいが関係ねえんだよ! 女を差し出すか、金を払うかどっちかだ!」
チンピラの一人が突然大声を出し、不安げに様子を見ていた女性の一人の腕を掴もうとした。
女性は悲鳴を上げ、男達が怒声をあげる。
「やめろ! 触るな!」
「うるっせぇよ!」
怒声の合間に怯えた少女の悲鳴が重なり、たちまち場は殺伐とした空気に包まれた。
チンピラどもが剣を抜き、迎え撃つ旅芸人一座も後方で障壁魔法の詠唱を始めている。
今まさに争いがはじまろうという一触即発の瞬間、その場にふさわしくないおっとりとした声が響いた。
「どっちが悪い人たち?」
真っ暗な路地の一角から金の髪の少年が歩み寄り、双方に視線を向けた。
闇の中にあってさえ輝く白い頬、紫の瞳。
場合が場合だったので、その常識はずれな美しさと発言が現実味を薄くしていた。
シリウスは怯えて仲間の後ろに隠れている少女に視線をやった。
少女はナイフ投げの達人である自分の母親の後ろで震えていたが、シリウスを見ると母親の腕を放し驚いたように目を見開く。
彼女が毎日馬車の中で祈りを捧げている天使様の絵にそっくりだったからだ。
シリウスは両方の陣営を観察した後、チンピラたちに向かって微笑んだ。
「お兄さん達が悪い人たちだね。このまま帰ったほうがいいよ。じゃないと二度と家に帰れなくなる。今帰ればまだ大丈夫だから」
「何いってんだこのクソガキ」
「見た目が綺麗な分、頭がおかしいんじゃねえか? かまわないからこのガキも連れて帰ろうぜ。コイツは絶対金になる」
下品な笑みを浮かべ、シリウスに歩み寄ってくる。
だが、一番先頭を歩いていた男は不意に止まった。
捕まえようとしていた子供の背後の闇に、何かの気配を感じたからだ。
闇は真実真っ暗で、目を凝らしても何も見えなかったが、男は心臓に冷たいナイフを押し当てられたように感じてゾクリと震えた。
こんなに深い闇は見たことがない。
すべてを吸い込み、一切なんの光も反射しない、真実の闇だ。
「おい、何やってんだよ。早く捕まえろよ」
もう一人に声をかけられ、先頭の男は我にかえると先ほどの悪寒を気のせいだったと信じて再び歩を進めようとした。
何しろ目の前に立っているのは、ひたすらに美しいだけの細身の少年だ。
恐れる理由など何もない。
だが男の意思に反して本能は前進を拒否した。
膝に力が入らず動けない。
仲間達のいぶかしむ視線を感じ、男は己を鼓舞するために腰に下げていた短刀を抜いた。
武器の放つエネルギーに力を借り、男はようやく再び一歩前に進む。
ナイフを見て逃げるかと思ったが、少年は相変わらず身構えもせずつっ立ったままだ。
ただ小さく首をかしげ口を開いた。
「そんなの持ってると危ないよ」
その発言は、自分ではなく、武器を手にした男の命を心配してのものだった。
もしも武器をもったまま襲いかかってきたら、男はその瞬間この世界とお別れすることになる。
だがシリウスを捕らえようとしている男達は、もちろん少年が武器を恐れてそう言ったのだと思った。
「……なんだ?」
男達の手の中の武器が金色に淡く輝き始めた。
先頭の男の取り出した短刀も例外ではない。
何が起こったのかといぶかしんだ時間はほんのわずか。
ずっしりと頼りにしていた重量が、突然消え去った。
気づけば自慢の武器を握っていたはずの手のひらの中には、いく輪かの小さなヒナギクだけが乗っていた。
「?!」
驚いて周囲を見渡す。
短刀をとり落としたのかと思ったのだ。
だが周囲には何もない。
同時に困惑の声をあげた仲間達の手の中からもヒラヒラと薄桃色のヒナギクが散らばった。
それだけではなく、内ポケットに忍ばせた高価な魔法道具や、靴の中に隠した仕掛けナイフまで、すべてが小さく可憐な花に変わっていた。




