52・☆蒼竜フォウル1
フォウルは何時間もの間、屋上から動かなかった。
声も聞こえず、姿も見えないが、シリウスの近くにいられることが幸せで離れがたかったからだ。
「やあ、今日はずいぶんシリウス君に近いね」
旅館の屋上に立つフォウルにどこからか声がかけられたが、声の主の姿はなかった。
紫の霧が生き物のように集い、しだいに人の形になっていく。
霧が透明感を失っていくと、それぞれの部位にふさわしい色が内側から滲むように現れた。
緑の瞳に、赤銅色のくせっ毛。
二年前にウェスタリアを式神のワイヴァーンで襲った、陽気な性格の魔人、ツヴァイだった。
「このままシリウス君のとこに帰ってもいいんじゃないの? 僕は気にしないし、グレンもたぶんどうでもいいと思ってるよ」
フォウルはツヴァイに視線をやると、静かに、だが躊躇せず答えた。
「魔人を全員消滅させたときに、帰る」
それを聞いたツヴァイは肩をすくめたが、怒ったりはしなかった。
ツヴァイの知るフォウルはいつもこの調子で、淡々と恐ろしい言葉を平気ではなつ。
一見和解したかのように、争いもせず長く平和な関係を維持していたが、フォウルは最初から最後まで一度も魔人たちに心を開かなかった。
温和そうに見えるフォウルの蒼い瞳は氷よりも冷たく、永久に解けない氷山と同じだった。
「相変わらず物騒なことをいうねえ。でも、魔人を消滅させるなんて、それは君の大事なご主人様にしかできないことじゃないかな」
「ボクにもできる」
きっぱりと返事をしたが、ツヴァイは信じていなかった。
「君も良くわかっていると思うけど、ほかの誰にもできないから、以前の光の君は自ら力を尽くして死んだんだよ」
「同じやり方をする必要はない。道は他にもある」
そうかなあ、と、ツヴァイは首をかしげて肩をすくめた。
フォウルの方は表情を変えないまま続ける。
「あの人は、魔人を殺さず封じた。だからあの時は力を使い果たしてしまったんだ。ボクは封じたりしない。お前たちを滅ぼす。そのことであの人がボクを永遠に恨んでもかまわない」
「光の君は誰のことも恨んだりしないよ。君のことも、僕たち魔人のことすらも。――あの人にとっては魔人か竜人か、なんて、重要なことじゃないんだ。ただ人間と君たち竜人を守りたかったから、世界を滅ぼしたい僕たちとは相容れなかったってだけで」
「……」
フォウルは何も答えなかったが、ツヴァイが正しい事は知っていた。
過去のシリウスが魔人を殺さず封じた理由は、まさにそこにあったからだ。
フォウルのわずかに動いた表情を見て、ツヴァイは満足そうに笑みを浮かべた。
「君がどんなに意気込んでも、結局、君たちの主は死ぬ」
「……」
「自らの魂を使って魔人を封じ、すべての力を失って殺された、あの時と同じように。――そして今度こそ、あの人は僕たちのものになる」
言うだけ言うとツヴァイはため息をついた。
「時間が解決するとは良く言ったもので、あんなに強力だった封印も緩んでくる。永遠に続くかと思ったよ。――まあでもおかげで僕らは戻ってこられたし、君の主の魂も開放されて無事に生まれ変わることができた。光の君が計算ずくでやったのか、そうじゃないのかはわからないけれど」
「お前たちはまだ力のすべてが封印から解放されたわけじゃない」
「そうだけど、それは光の君も同じだからね。まだ僕たちへの封印に自分の一部を使ってる。たぶんまだ竜の姿になれないはずだ。……そんなわけで、ここでちょっと事態を動かしてみようと思う。グレンと相談したんだけど、光の君がどれぐらい力を取り戻したか知りたいんだ」
ツヴァイはおどけて優雅に腰を折る。
「だから君とはここでお別れすることに決まった。短い間だったけれど、なかなか面白い関係だったよ。双方そこそこ利益があったし。――君を殺すという案もあったけど、意見が割れて」
言葉と同時にツヴァイの瞳があった場所が何もない暗い孔へと変じた。孔から紫の霧があふれ始める。
「ちなみに、僕は殺さないほうに一票入れた。君を生かしておいても光の君を僕たちの物にすることに支障はないと思うし。それに正直言うと、あの子が嘆き悲しむ姿はあんまり見たくないんだよね」
輝きの消えた瞳から、霧は毒のように広がっていく。
「命を奪う時も、なるべく苦しませないと約束する。だからここで、さようならだ」
「……まて、まだボクは……!」
フォウルは叫んだが、霧はたちまち濃度を薄くし、止めるまもなく空気中に拡散してしまった。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
港町サンターナ、高級旅館の居並ぶ一角に、紫色の霧が漂い始めた。
霧は不気味なワタのように濃く、街路をいく人々の足元を蛇のごとくうねりながら広がった。
「なんだこれは……」
屋台村の人々もその霧に気づいた。
どこかの店が何か失敗をやらかして、こんなことになっているのではないかとざわめきはじめる。
霧はわずかに甘い香水のような香りを発しながら、じわじわと街の中央部に向け移動を開始した。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
「!」
シリウスと二人の竜人が同時に緊迫した表情で顔を上げた。
「どうした?」
ルークが問いかけるが三人とも何かを探るように黙ったままだ。
留学騒ぎの相談の続きを行っていたところだった。
シリウスは立ち上がり、窓辺に近寄る。
カイルとアルファも続いた。
窓の外に紫の霧が広がり始めている。
「我が君、ここは危険です。なるべく遠い場所まで移動した方が」
切迫したように言うアルファに、カイルも続いた。
「ウェスタリアの方々だけなら我々でも十分に全員お運びできます。とりあえず国境付近まで下がりましょう」
けれどシリウスは頷かない。
「でも、他の人たちは……」
「我が君をお運びした後なら、俺がここに戻ってもかまいません。とにかくここから……」
ライオネルが立ち上がった。
「お前たち、もしかしてここが戦場になると言っているのか?」
シリウスは尊敬する父親に頷く。
「以前ウェスタリアを襲ったのと同じ人が来てると思う」
話している間にも、開かれた窓から紫の霧がじわじわと進入を始めていた。
床を這うように進み、甘い香りを広げて行く。
アルファがシリウスをかばうように立ち、主人を下がらせた。
「カイル、先に行け。屋上から出て竜身に戻り、四人を乗せてウェスタリアまで飛べ。他の人間を逃がしている余裕はない。俺はこのまま残って戦う」
カイルは頷いた。
すかさずシリウスの手を取ったが、シリウスは動かない。
「ぼくは行かない。カイル、父上たちとこの建物に残ってる人たちを避難させてあげて」
「シリウス!」
ルークとライオネルは同時に声をあげた。
到底許容できない発言だったからだ。
けれどシリウスは紫の瞳をやわらかく細め笑顔を作る。
「ぼくは大丈夫。残らないといけないんだ。いまここでほかの国の人たちを置いてぼくだけカイルと逃げたら、会議に来てる人たちみんな、ぼくのことを信じてくれなくなると思う。それじゃ会議に出た意味がないよ」
「だめだ。一緒に行くんだ」
父の言葉にもシリウスは是と言わなかった。
代わりにアルファに向け信頼しきった瞳を向けた。
「アルファ、僕を守ってくれるよね」
「無論です。しかし……」
主人に安全な場所にいてほしいアルファは複雑だ。
カイルも困惑していた。
いまこれから戦場になろうとしている場所に、シリウスを置き去りにしたまま他の人間を連れて飛んで行けという。
いくらシリウスの家族を逃がすためとはいえ、とてもそんなことはできない。
ライオネルもルークも承諾しないし、ロンはルークに従って動こうとしない。
一瞬全員の動きが膠着したときだ。
「何をしている!」
開いた窓から滑り込むように入室してきた人物がいた。
「早く光の君を安全な場所へ連れて行くんだ!」
「フォウル!」
フォウルは呼び声に反応し、青い瞳を細め振り向くと、一瞬だけ愛しげにシリウスを見た。
「ここはボクがなんとかします。全員でウェスタリアに戻って」
フォウルの立っている場所と窓との間に、蒼い水が床から重力に逆らいながら沸きあがり、油膜のように輝く美しい壁を作った。
紫の霧の進入がたちまち遮断される。
「あれは長くもたない。さあ、早く」
言葉の通り、蒼い壁はじわじわと紫の霧に浸食され色を変えていた。
シリウスは自分と霧との間に立ちふさがる青年の、蒼くしなやかな髪を見た。
フォウルは背を向けたまま、振り向かない。
「我が君、参りましょう、とにかく遠くへ……」
「シリウス様」
カイルとアルファが交互に声をかけるが、シリウスは拳を握って歯を食いしばっていた。
「……いかない」
「?」
「いかない!」
シリウスは怒りすら滲ませた強い口調でキッパリと言い切ると一歩前に出る。
紫の瞳が宝石のように輝き、金の柳眉が少年らしい勇気を反映して引き締まった。
「ぼくはここに残る、絶対にどこにもいかない。フォウル、君がここでぼくを守るんだ」
フォウルの肩がかすかに揺れた。
シリウスは背を向けたままのフォウルに歩み寄ると、並んで立って同じように窓を見つめ、フォウルの手を握った。
「大丈夫。君がいるし、みんなもいる」
ライオネルは息子が話しかけている青年の事を何も知らなかったが、何者であるかは察しがついていた。
蒼い長髪はサファイアのごとく複雑な輝きを放っている。
細身の青年の肩が小刻みに震え、今その足元に、青年のあごから落ちたしずくが、ひとつ、ふたつ、と床にこぼれた。
「で、も……」
声にならないかすれた声をなんとか発し、フォウルと呼ばれた青年は嗚咽する。
こんな場合だというのに、今にも膝をついて倒れてしまいそうに見えた。
息子の方は青年の手をしっかりと握ったまま、窓から侵入を続ける霧を睨み続けている。
声をかけるべきなのに、なんと言っていいのか見当もつかない。
長男のルークも、その友人のロンもそうなのだろう、命の危険が迫っているというのに動くことが出来なかった。
室内に入り込んでいる霧は、油膜のような守護をじわじわと侵食し続け、床付近で何かの形をとりつつあった。
ぐねぐねとうごめき、守護の障壁の下に生じた隙間をこじあげようとする。
「父上」
「うん」
「ここに残ります」
「わかったよ」
苦笑するように言うと、ライオネルの愛しい次男は振り向いて、その天使のような顔をわずかに曇らせた。
「……ごめんなさい」
「謝ることはない。お前たちが街を守るのだろう?」
「うん」
窓の外、どこか遠くから悲鳴が届いた。
若い女性の声、続いて男性の。
室内の霧はいまや完全に魔物の姿に変わっていた。
蜘蛛のような下半身には8本の足。するどい爪は毒々しい赤と黄色のまだらだった。
そして獣の頭部と牛の角。
式神のワイバーンと同じく目はひとつしかなかった。
大型犬ほどの大きさのその魔物は、身悶えるように床を這い、起き上がろうとしている。
「フォウル、あれがなんなのかわかる?」
つないだ手を離さないままシリウスが聞いた。
「ツヴァイの霧を媒体にした式神……。牛鬼です」
「弱点は……」
続けて問おうとした先を、雷光がさえぎった。
室内をうちつけるように盛大な破裂音とまぶしい光が炸裂した。
アルファがいつの間にか背後からシリウスの目と耳を塞いでいて、自分が放った閃光と轟音から主人を守った。
消えつつあった油膜の壁の向こう、生まれたばかりの牛鬼はアルファの雷撃で灰となり、もはや原型をとどめていない。
そのアルファがフォウルの代わりに答える。
「牛鬼の弱点は雷です」
「おいコラ! 何か言ってから攻撃しろ!」
抗議の声は、まぶしさと轟音によろめいたルークのものだ。
アルファはフンと鼻を鳴らすと、わずかばかり残った油膜の障壁を腕を振って消し去り、窓から外を見下ろした。
あちこちから悲鳴が響いている。
屋台村の人々が逃げ惑い、そのあとを速度の遅い牛鬼が群れとなって醜いからだをくねらせながら追っていた。
一匹一匹は人間の騎士でも十分対処できる程度の魔物だが、何しろ数が多い。
「アルファ……」
シリウスが懇願するように、大事な友人を見つめた。
「お願いできる?」
アルファは躊躇せずその場に膝をついた。
「御意のままに。――ですが人と魔物が入り混じりすぎて範囲魔法は一切使えないでしょう。竜身では狭い場所で身動きもとれませぬし、俺はこのまま街に下りて対処していこうと思います」
「うん、無理はしないで」
「はっ」
短く答えると、アルファは立ち上がってフォウルを睨んだ。
「お前には言いたいことと聞きたいことが山とある。――我が君をまかせたからな。傷ひとつ負わせても許さぬ」
堂々と脅し、そのまま窓を蹴って街の中に消えた。




