2・☆卵はいつかわれるもの
遠慮も躊躇なくとっとと扉を開け部屋に入ったアルファに続き、カイルもとまどいながら室内に入る。
部屋の中は午後の明るい光に包まれていて、とても清潔だった。
空気を循環させるためか、わずかに開いた窓から心地よい風が吹き込み、レースのカーテンが揺れていた。
部屋の所有者のためのベッドは王族にふさわしく巨大で壮麗だったし、黒檀の机や椅子、本棚も置かれている。
けれどこの部屋の主にそれらの品物は必要ないだろう。
部屋の中央にはまるで玉座のように大きなクッションが置かれ、その真ん中に「主」は鎮座していた。
まごうことなき「卵」だ。
カイルの予想の「卵」は、卵に似ているだけの、実際は卵ではない何かだったのだが、青白く輝いて見えるそれは、間違いようもなく「卵」だ。
しかも一抱えするほどに大きい。
「これは……」
アルファがつぶやき、卵に近づく。
先ほどまでの自信に満ち溢れた様子からは遠く、指先で卵に触れようとして躊躇し、結局触れないまま手の平を握る。
カイルも卵に近づきたかったのだが、なぜか体が硬直したように動かない。
自分の体が自分の意思で自由にならないという異常さに困惑したが、その理由に気づいて鳥肌が立った。
(……私はこの卵に怯えている……!)
とにかく恐ろしかったのだ。
カイルは今までの人生で、何かに怯えて己の意思を変えたことなど一度たりともなかった。
だから体を貫く悪寒が畏怖のせいであるとなかなか気づかなかった。
じっと動かない、生きているのかすらわからない単なる卵に対し、怖れを感じるなんてどうかしていることも理解していたけれど、竜という野生の獣の本能が、相手が自分よりもはるかに強大な存在だと警告を発している。
アルファを見ると、驚いたことに彼も同じように感じていることがわかった。
精悍な表情を崩してはいなかったが額に汗が浮いていて、みえない手のひらでやんわりと押されたように数歩、後じさり、卵に視線を向けたまま、カイルを見ずに問うてくる。
「……カイル、おぬし、これをどう思う」
「わからない、けれど……ただごとじゃない」
二人の竜人が怯える物体。
けれどカイルは怯えてはいても、その卵を邪悪なものだとは思っていなかった。
ただただ強大で、はかりしれない力を感じた。
己では到底及ばない存在に初めて出会ったせいでこんな風に畏怖を感じるのだとわかっていた。
アルファはカイルよりも早く自分を取り戻したようで、ふたたび慎重に、今度は一歩だけ卵に近づく。
「……竜人の卵だと思うか?」
「いや白竜公も蒼竜公もご健在のはずだ。彼らの身に何かが起きたというような気配も感じなかったし、ありえない」
「だがこの卵から発せられている気は竜の気配のように思われる。……それにしても尋常ではない力だが」
「あっ、待て……」
カイルが止めるまもなく、アルファは指先をのばすと今度こそ卵に触れた。
そっと、慎重に、やさしさすら感じるしぐさで卵の表面に指をすべらせる。
「心配無用だ。この城の人間が毎日拭いてやっているのだろう。ホコリも一切かぶっていないし、当然だがひび割れもない。触れても安全だ」
「安全なのはわかっている! わかっているけれど……!」
卵から発せられる気を畏怖せずにいられない。
この強大な力を普通の人間は感じられないのだろうか。
だとしたら少々うらやましい。
カイルは落ち着こうと意識して呼吸をゆっくりにし、鼓動をなだめた。
慎重に卵に一歩近づく。
膝が震えそうになったが、なんとかこらえ、もう一歩。
馬鹿にされているのではないかとアルファを盗み見たが、彼は意外にもカイルを気遣うような表情をしていた。
(黒竜公も同じように恐れている)
そう思うとさっきよりも安心できた。
カイルは時間をかけてようやく卵に触れられる位置まで近づくと、ほっと安堵の息をつく。
近づけば確かに竜の気配を感じた。
けれどそれはごくかすかなもので、竜と識別できる気配は規格外のエネルギーに埋もれている。
近くでしっかり観察してみると、卵はかすかに光を発しているように思えた。
室内に陽光がふりそそいでいるせいかもしれないと窓を振り返って、もう一度卵を見る。
「?」
卵の内側になにか影が見えた気がした。
揺れるカーテンの影だっただろうか。
カイルは確かめるようにおそるおそる指先で卵の表面に触れた、と、その瞬間、
ピシリ
「っ……!?」
かすかな破裂音とともにカイルが触れた場所に亀裂が走った。
「何をしている!」
アルファが血相をかえ、慌ててヒビの入った箇所を押さえると、今度は亀裂が水平方向に大きく広がった。
「黒竜公どの……」
「……だまれ」
「どうするつもりですか、これを」
「最初に割ったのはそなただ」
「私は割ったんじゃない、ちょっとひびが入ったところを黒竜公どのが……」
などと竜人にあるまじき焦りを含んだ言い争いを行っている間にも、卵の亀裂はみるみる広がっていく。
卵の上部、三分の一ほどの箇所を横に走った亀裂、今度はその内側から何かに叩かれたように縦にも亀裂が入る。
「……」
「黒竜公どの、これは……少々下がったほうがよくはないだろうか」
「そうしたいならそうしろ、止めはせぬ」
どうも黒衣の竜人は少々意地っ張りで子供っぽい面もあるようだった。
カイルはうるさいほど激しく脈打っている自分の胸を、手のひらで軍服の上着を掴むように押さえてむりやり沈めた。
声がわずかに震える。
「た、卵の中身に悪意は感じられないが、出てくるときの余波で影響を受けるかもしれない」
アルファは一瞬カイルを睨んだが、それ以上反論せずに数歩下がった。
入り口付近まで二人が下がったとき、卵の表面がパラリと落下し乾いた音を立てた。
一旦崩壊が始まると弾みがついたのか、薄い殻は次々とすべり落ちていく。
息を呑んで二人が見守る中、焦れたように内側から湿った白い腕が飛び出した。
それに伴い卵の上部がまとめて転がり落ちる。
恐れていたようなエネルギーの爆発は一切なかった。
カイルには室内に一瞬金色の光が満ちたようにも感じられたが、それも本当に一瞬だったので、気のせいかもしれないと頭を振った。
そんな些細な問題よりも重大な事件が発生していたからだ。
卵があった場所には、いま、一人の子供がまぶしそうに眉をしかめ、おとなしく座っていた。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
濡れた白金の髪は、五年間卵の中に留まっていた年月を物語ってか、細く、長く、華奢な幼子の体を守るように、あるいは飾るように、黄金の繊細な滝となって白い体にまとわりついている。
卵の年齢よりも若干大きく、七・八歳程度に見える子供は、むずかるように目をこすると、金色の長いまつげを震わせて、ゆっくり瞼を開けた。
――紫の瞳。
こぼれ落ちそうなほど大きなその瞳がジッとカイルを見つめ、それから隣に立つアルファを見た。
アルファは光の化身のような少年と視線が合うと、震える拳を握り締め感極まった声でささやいた。
「……我が君……」
カイルにはアルファのその声が聞こえなかった。
耳には届いていたのだが、唖然としていたカイルには音が意味を成して届かなかったせいだ。
アルファの声はごく小さなささやきであったけれど、たとえ彼が大声で叫んでいたとしてもカイルは何も反応しなかっただろう。
それほどショックを受けていた。
卵の成分であるとろりとした液体が子供のすべらかな頬を伝い、細いあごを通ってポタリと落ちる。
二人の竜人は呆然と突っ立ったまま動けずにいた。
人類を超越する力を持ち、神とさえ崇め奉られている二人であったが、今、彼らは瞬きもせずにただ立ち尽くす以外に動けない、ただの無能者になっていた。
子供のほうも動かないので室内は数瞬静寂に満ちた。
「くしゅっ」
小さなくしゃみの音が、バカみたいに棒立ちになっていた二人を正気に戻す。
アルファはハッとした表情のあとすぐに動いた。
一般的な人々の年収よりもはるかに高価な黒絹のマントをすばやく脱ぐと、躊躇なく幼子の湿った体を覆った。
続けて内ポケットからシルクのハンカチを取り出し、やさしく、丁寧に、額に張り付いた金の髪を拭う。
カイルは子供に触れるアルファの長い指先がかすかに震えている事に気づいた。
アルファの緊張がカイルにも伝わり、鎮めた動悸がまた激しくなる。
カイル自身は、指先どころか膝も肩も小刻みに揺れ、ヘタをすると奥歯までもがカチカチと音を出しそうだった。
目の前にいる卵から生まれたばかりの子供に、今まで経験したことのない脅威を感じる。
同時に、初めて身の内を流れる不思議な想いは、この子供を守らねばという強い本能。
命よりも大切なものが目の前にあるという歓喜。
耐えていたが、ついに涙がこぼれ、力の抜けた膝が折れそうになる。
「このままではいけない」
アルファの焦りを含んだ声を聞いて、カイルはかろうじて膝をつかずにすんだ。
見れば、金の髪の子供は寒さに震え、辛そうに眉を寄せている。
カイルは思わず駆け寄って、アルファがしたように、自国の王から賜った赤いビロードのマントを子供の濡れた肩にかけた。
子供がすがるように細い腕を伸ばしてきたので、恐る恐る抱き上げる。
抱き上げてすぐに気づいた。
小さな軽い体は冷え切っていて、必要としている体温にまるで足りていない。
今までの人生で一度も経験した事のない焦燥を感じ、カイルは叫んだ。
「アルファ!」
アルファも動揺したように頷く。
彼もカイルと同じく、子供を守らなければという強い本能に動かされているようだった。
「救護の者が必要だ。その子をこちらへよこせ、カイルおぬし、近衛を呼んで来い」
しかしカイルはアルファの差し出した腕の中に子供を預けられなかった。
なりゆきでアルファより先に手にしてしまった宝玉を、もはや一時も放せなくなってしまっていた。
アルファはいらついたようにカイルを睨んだが、幼子の小さな手がカイルの上着をつかんでいるのを見て、あきらめたように身を翻す。
「お守りしていろ!」
言われなくても、と、心の中で毒づいて、カイルは子供をぎゅっと抱きしめる。
カイルは、まだ一度も主が使用していない、大きなベッドに子供を抱いたまま腰かけて、アルファのしていたように自分のハンカチを取り出すと、子供の体を覆う水分を拭ってやる。
なめらかなシルクが、そのシルクよりもすべすべの柔肌を傷つけたりはしないかと不安になったが、慎重に、慎重に事を進めた。
「もう大丈夫ですよ」
安心させるためにそう声をかけると、紫の瞳がじっとカイルを見つめ、小さな手が伸びてきて、カイルの頬に触れた。
「……かいる?」
「!」
名前を呼ばれた、と、認識した瞬間、またカイルの瞳から涙がこぼれた。
「……はい……」
まだ寒いのか、震えの収まらない子供を抱きしめて、カイルはこれ以上泣くまいと歯を食いしばっていた。
自分の存在している理由を知った気がした。
竜人たちが誰にも膝を屈することなく、かといって孤独に生きるでもなく、この世界や人々を慈しみ助けてきた理由。
「……あなたをお守りするために来ました」
竜人はそのために存在していたのだと思った。
竜人たちは孤高の生き物などではなく、最初からきちんと主が存在していた。
すでに主が決まっていたのだから、他の誰かに仕えられようはずがなかったのだ。
愛しくて、大切で、胸がいっぱいだった。
「これからはずっとおそばにおります。……我が君……」
子供は少し不思議そうにカイルを見つめた後、コクン、と頷いて、安心したようにカイルに体をすりよせた。
普段どんな無理難題も片手でこなし、決して失敗しない二人なので、卵を割ってしまって相当にあせってます。
卵の中でちゃんと会話を聞いていたお子様は、カイルの名前もわかったもよう。
次回は卵の子のお兄さん、ルークの一人称の話をUPします。