14・めまい
その日、シリウスは一日の日課を終え、信頼する護衛であるカイルとアルファを伴って中庭に出ていた。
日差しの強い午後の時間を過ぎたので、木陰をめぐる涼しい風が心地よい。
庭師がカエデの木に取り付けた小鳥用の巣箱に、シジュウカラが出入りしている様子を、怖がらせないよう離れた場所から飽きずに眺める。
そんなシリウスの足元を尻尾の大きなリスが駆け抜けた。
庭で一番大きな胡桃の木に駆け上り、はるかな樹上からシリウスたちを興味なさそうに見下ろしている。
「かわいいね!」
ニコニコしながら話しかけられて、竜人二人の相好が緩んだ。
シリウスはリスが登った胡桃の木の根元に立って、木の肌に手のひらを当てた。
登れたらと思ったのだが、まっすぐに伸びた胡桃には足をかける場所がない。
もう一度樹上を見上げたとき、シリウスは少しだけ目の回るような感覚を覚え、背後によろめいてたたらを踏んだ。
「シリウス様!」
すかさずカイルとアルファが背中を支えたが、二人の反応が大げさなのでシリウスは少々気恥ずかしい。
「ちょっとバランスを崩しただけだよ」
「我が君、そろそろ冷えてまいりますゆえ、城内におもどりになりませんか」
アルファは主人の顔色があまり良くないことに気づいた。
「……失礼を」
心配になって幼い主人の頬に触れてみると、案の定冷たくなっている。
「お風邪を召される前に、お部屋へ。暖かい飲み物を用意させましょう」
「うん……」
シリウスは少し名残惜しそうに胡桃の木を見上げたが、木の上にさっきのリスの姿はもうどこにもなかった。
夕食時、アルファもカイルも、庭で若干不調な様子だったシリウスを慎重に観察していたが、彼らの主はいつもどおりきちんと食事をし、デザートまで残さず食べたので心から安堵した。
やはり昼間の事は樹上を見上げたことでバランスを崩しただけだったのだ、と。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
その日の深夜、シリウスはひどい頭痛に襲われ、心地よいはずの眠りを妨げられた。
いつもなら、窓から朝日が差し込むまでシリウスはぐっすり眠る。
指をこめかみに当て、暗闇の中そぅっと目を開けてみた。
そのとたん、世界がぐるぐると回っているような感覚が襲ってきて、体を起こすことができなくなってしまった。
今、室内は真っ暗だったが、それでも薄ぼんやりと見える天井が、ゆらゆらぐるぐると歪んで動き続けているように見える。
「カイル、アルファ……っ」
心細くなって二人の名前を呼んでみたが、全力で振り絞った声はささやくような音量にしかなかった。
助けを呼ぶ声があまりに小さすぎたため、誰にも気づいてもらえず、応答もない。
胸に誰かがのしかかっているように呼吸が苦しかった。
寒気がひどくて体がふるえ、凍えるように感じているのと同時に、体の中は燃えるように熱い。
「誰か来て……」
もう一度呼ばわったが、やはり声が出ない。
シリウスはふらふらする体をなんとか強引に起こして、まろぶようにベッドからおりた。
床が波打つ錯覚の中で歩を進め、なんとか転ばず扉まで到着したが、手に力がはいらなくて重いオークの扉があけられない。
しかし扉の前まで近づいたとき、扉の外側にいた人物の方が中の気配に気づいて顔を覗かせてくれた。
「我が君、どうなさいました?」
今日、この時間の見張り番はアルファの担当だった。
扉の外で剣を抱きながら休み、主を守っていたのだ。
信頼する友人の黒曜石のように輝く落ち着いたまなざしを目にして、シリウスは安堵のあまり涙が出そうになった。
「アルファ……」
すがるように手を伸ばすと、すかさずその手を握られる。
「どうなさいました? 眠れないのでしたらお傍におりますよ」
この上なくやさしい笑みを浮かべ、アルファは主人に視線を合わせてその場に膝をつく。
過去にこの恐るべき人物に出会ったことのある人々が見たら、みな口をそろえて、これは別人ではないか、と疑うような、愛情にあふれた笑みだった。
「あのね……」
抱き上げて欲しくて、そう伝えようとしたが、声をあげようとした瞬間、急激に目の前が暗くなってアルファの顔が遠くなる。
「シリウス様!」
アルファの慌てた声がシリウスの耳に届いた。
一瞬飛んだ意識が戻ると、自分が今、床の上に倒れているのだと気づく。
大理石の床は痛いほどに冷たく、触れているだけでぞくぞくと体が震えてしまう。
「シリウス様!」
アルファがもう一度叫んだ。
普段のアルファは、シリウスの事を「我が君」と呼び、常に落ち着きはらった低い美声であったため、動揺しきった彼の声を聞いたシリウスは、大事な友人が自分のことをとても心配しているのだと気づいた。
普段からアルファが心配性なのは知っていたけれど、実際にこんなに動揺しているアルファを見るのは初めてだ。
安心してもらいたくて、体を起こそうとするが力が入らない。
「だい、じょぶ……」
すこしめがまわってるだけ。
そう伝えようと思ったが、息が苦しくてままならなかった。
覗きこむようにして支えてくれているアルファの顔は、今にも泣き出しそうなほど不安げに見えた。
「心配しないで、アルファ……」
もしかして、本当に泣いてしまっているのだろうかと、手を伸ばしてアルファの頬に触れる。
濡れてはいなかった。
これがカイルだったらきっともう泣いていたと思うと、少しだけおかしい気がして笑みを浮かべる。
けれどアルファの頬に触れるために手を上げる行為はシリウスの体力を大幅に削った。
たちまち視界が狭く、暗くなり、シリウスは再び意識を失ってしまった。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
(アルファside)
「心配しないで、アルファ……」
荒い呼吸の中でそう私に言ってくださったあと、俺の主はそっと手を伸ばし、ひどく冷たい指先で俺の頬に触れた。
かすかに微笑んで、そして。
「シリウス様!」
腕がパタリと力なく落ち、唐突に意識を失ってしまわれた。
混乱のあまり爆発しそうになる自分を落ち着けと必死で叱責し、意識のない細い体を抱き上げようとしてなんとか思いとどまった。
脳になにか異変があったのなら動かしては事態を悪化させるだけではないのか。
「誰か……」
胸が押しつぶされて呼吸ができない。
落ち着け、落ち着け、俺などよりも、我が君が苦しんでおられるのだ!
掴んだままだった小さな手のひらが氷のように冷たい。
昼に頬に触れたとき、なぜもっと危機感を抱かなかったのか。
なぜもっと早く異変に気づかなかった!
自分の至らなさに猛烈な怒りが湧く。
建物ごと吹き飛ばしてしまいそうな怒りの波動を身の内にむりやり押さえつけ、俺は命より大事な主人の額にそっと触れた。
腕と同じく冷え切っている。
無残に床に散る金髪がひどく痛々しかった。
「誰かいないか!」
深夜だろうとかまわない。
俺は全力で声をあげ助けを呼んだ。
倒れてしまったシリウスを見て、これ以上ないぐらい動揺し切っているアルファはわりと役に立っておりません。
ここにカイルが加わっても、同じく役にたたなさそうな気配。
そんな中、次回は役に立つ(?)竜人、白竜公が登場予定です。