155・最初の宿
シリウスは竜人三名とワグナーを連れて、自室へと当てはめられた部屋へ入った。
ごく普通の一人部屋で、アレスタの下宿以上に簡素な部屋だったが、それほど旅人も多くない辺境の宿屋だったので、そもそも特別な部屋など最初からない。
もちろんシリウスは簡素な部屋に不満を感じることなどまったくなかったので、今日限りの自分の部屋にすっかり満足していた。
「我が君、少々お待ちを」
ソファに座ろうとしたシリウスをとどめ、アルファは部屋の中央に立つ。
部屋の中の不審なものがないかをチェックするためだ。
些細な魔力の残滓や、前に部屋を使っていた人物の気配をさぐり、特に異常がないことを確認してから、次にフォウルに目線をやった。
フォウルが頷くと同時に、室内全体が青白く輝く。
部屋の中や家具、布類まですべてを浄化し、ソファやベッドの水分を抜いてフカフカにする。
すべてを終えてから、フォウルはシリウスをソファに座らせた。
準備が完了すると、カイルが自分の荷物を机の上に広げ、やさしい笑みを向ける。
「シリウス様、緑茶と紅茶、どちらがよろしいですか?」
「ワグナーは緑茶を飲んだことある?」
「い、いや」
「じゃあ、緑茶にしようか。最近カイルはおいしい緑茶を淹れる練習をしているんだって」
シリウスが座ると、それまで人の姿だったフォウルが狼に姿を変え、主の足元で寄り添うように寝そべった。
カイルは茶葉を真剣な様子で軽量し、続いてめずらしい形の丸いポットをフォウルの前に置いた。
狼が前足でポットに軽く触れると、中は見えないが、ポットの中からかすかに水流の音が聞こえてくる。
「緑茶に合わせて軟水にした。phは7」
ワグナーには謎の単語ばかりだったが、どうやらポットの中が水で満たされたらしい。
赤竜公は、これまた変わった形の、円筒形のカップを人数分ならべ、そこへポットの水を注いでいく。
いつのまにかポットの中身は湯になっていて、ふわりとした湯気があがっていた。
カップの湯の温度を確かめると、今度は丸い形のポットの中に茶葉を入れ、さきほどカップに注いだ湯をポットに戻していく。
「色々な手順があって見てると面白いよね、ワグナー。カイルは、お茶の葉っぱの重さとか、お湯の温度とか、きっちり守ったほうがおいしいっていうんだ。図書館で本を借りて、いっぱい研究してるんだよ」
赤竜公はポットの中の茶葉の様子を確かめてから、シリウスのカップに茶を注ぎ、丁寧な動作で差し出した。
長く優美な指がかすかに震えていて、赤竜公がわずかに緊張していることがワグナーにも伝わってきた。
「熱いのでお気をつけて」
「ありがとう、カイル」
シリウスは緑茶を受け取ると、両手でカップを持って一口飲んだ。
やわらかな湯気がシリウスの金の睫を揺らす。
お茶を飲んだシリウスは、ほぅ、と長く息をつき、もう一口。
「ああ、一日移動してた疲れが一気に取れるかんじ……。すごくおいしいよ、カイル」
自分が淹れたお茶をおいしいと言われた赤竜公は、本当に幸せそうに微笑んだ。
さっきまでの緊張した様子が消え去り、主人に愛しげな視線を送る。
「みんなにも飲ませてあげてね」
すっかり満足した表情になっていた赤竜公は、そこでハッとなり、今度は全員に茶を振舞ってくれた。
一見すると、なにげない、非常にほのぼのとしたその光景を見て、ワグナーは内心で戦慄していた。
こんなにも竜人たちに愛され、大事にされている少年に怪我をさせた自分は、なんという命知らずだったのだろう。
竜人たちが何よりもシリウスを優先していることは誰が見ても一目瞭然で明らかだ。
シリウスに怪我をさせ、狼に組み敷かれた瞬間、あのとき、シリウスが間に入って守ってくれなかったら、蒼竜の逆鱗に触れた自分は本当に殺されていたかもしれない。
「ワグナー、ほら、カイルのお茶、熱いうちに飲んでね」
「!」
声をかけられ、正気に戻ったワグナーは、ハッとして礼を言うと、熱いお茶を慎重に飲んだ。
正直言って味などまったくわからなかったのだが、おいしいです、となんとか答える。
「これ、変わった形のカップだよね。ユノミって言うんだって。こっちのポットは、キュウス。ジョウっていう騎士が兄上の部下にいて、その人の里で作っているんだ。極東の国で使われているんだって」
一通りの道具は結構な荷物だったが、シリウスのため、カイルにとってお茶の道具はかかせないものになっていた。
「ワグナー、会いにきてくれて、本当にありがとう……」
一息ついたシリウスは、隣に座ったワグナーの手を握り、改めてお礼を言った。
たくさん大事なことを黙っていたし、怖い思いもさせたのに、友人でい続けてくれたことや、異国の地にまで尋ねてきてくれたことも、全部、感謝していた。
「礼を言うなら俺のほうだ。命を助けてもらったんだから」
「そういえば、ワグナーは一人で来たわけじゃないよね? 他の人は?」
「ここまでは父上の部下たちに送ってもらった。でもシリウスたちが確実にここに到着するのを確認した後で帰ってもらった。やたら人数を増やすわけにはいかないし」
「ええっ?! そんなことしていいの?! お父上や護衛の人は許してくれないんじゃない?!」
シリウスは驚いて思わず大きな声を出してしまった。
自分を守ってくれる竜人たちや、兄や父は、絶対にシリウスが一人で隣国に行くなんて許してくれないだろう。
そもそも今回の隣国訪問だって、事の発端はシリウスが一人で旅に出ようとしたからだ。
驚愕しているシリウスを見て、ワグナーは笑った。
「ああ。ウェスタリアとグリードとの交渉に、無関係なアレスタの人間が大勢加わるのもマズイしな。父上はちゃんと許可してくださったよ。それにライオネル陛下とルーク殿下が、責任を持って俺を守ってくれると約束してくださったんだ。知らなかったのか」
「……うん。ぜんぜん知らなかった……」
どうやら父も兄も、シリウスを喜ばせる為、いろいろなことを秘密にしていたようだった。
嬉しいような、申し訳ないような、複雑な気分だ。
「カイル、アルファ、フォウル」
シリウスは三人の名前を呼んだ。
「ぼく、ちょっとワグナーと話したい。悪いんだけど、少しだけでいいから、二人だけにしてくれる?」
「!?」
竜人たちが驚愕の表情になったので、ワグナーは慌てた。
竜人たちが傍にいれば確かに緊張するけれど、追い出すなんてありえない。
赤竜公はあきらかにうろたえて口を挟んだ。
「シ、シリウス様、ここは見知らぬ土地ですし、彼はその……」
「大丈夫。アルファがさっき安全かどうか調べてくれたじゃない。ワグナーはぼくの友達だよ」
「我が君、ですがせめて、フォウルをお残しになられては」
普段冷静なアルファの声にも、懇願するような響きがあった。
狼の姿のフォウルは、立ち上がってシリウスを見つめている。
けれどシリウスはあっさり首を振った。
「学園にいる時みたいに話たいだけだよ。みんなだって、一日中ぼくを守っていて疲れたでしょ? 部屋で休んでいて」
部屋を追い出されてしまった竜人たちは、もちろん自分の部屋で休んだりはしなかった。
いち早くフォウルが扉の前を陣取ったので、カイルとアルファは顔を見合わせる。
「……俺は付近を見回ってくる。ここに到着した時に簡易な結界で覆ったが、その外側を見てくる」
「では私は建物の中を」
「カイル、油断するなよ。我らにはあの方をお守りすることがすべてだ。もう二度としくじるわけにはいかない」
もう二度と、と言われた瞬間、カイルの脳裏に、傷ついたシリウスの姿が再現され、思わず胸に下げた金の羽を握った。
「わかっている。絶対に、二度目はない。――我々のうちの誰かが常にお傍にいる事が理想だけれど、それではシリウス様の気が休まらない。友人といるときに保護者が見張っていては、私だって息が詰まるし、気安く会話などできない。だがすぐ隣にいることはできなくとも、お守りすることはできるはず」
「何かあったら魔力で合図を送る。その時は俺の方ではなく、我が君のお傍に戻れ」
「わかった。異変を感じたら私も信号を出す。アルファもシリウス様の下へ行ってくれ」
二人のやり取りを黙って聞いていたフォウルも頷いた。
「あの人が出てきたら知らせる」
確認しあい、三人は各々の役割のため解散した。
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お久しぶりです
久しぶりの更新なのに、ただお茶を飲むだけですみません
子どもたちにたくさん冒険して仲良くなってほしくて書いた遠征編なので公開していてたらと思います